ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

うたごえ ライブハウス ゴリ 新装祝い

2018年01月31日 23時46分57秒 | 日記・コラム・つぶやき

船橋にある「うたごえ ライブハウス ゴリ」が明日2月1日から新装開店するので、お祝いを兼ねて元気だったゴリさん写真とうたごえの仲間の写真をまとめてみました。

新しいゴリの店長さんは手前の山中秀子さんです。よく決心してお店を継いでくれました。これから大変でしょうがよろしくお願いします。

2015年5月のゴリさんです。

2016年7月

2016年8月

2016年12月

2016年12月22日クリスマス衣装のゴリさん

 

あとは一緒にお邪魔した歌の仲間たちです。

歌わないで踊るマダム喜美子です。

ともしびの修ちゃんです。

歌わないで踊るマダム喜美子です。

 

また皆さんと歌いましょう。

 

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冬の新宿御苑早歩き・寒桜・雪の台湾閣

2018年01月30日 23時57分59秒 | 公園散策

鍼灸治療に向かう途中、あまり時間がありませんでしたが中を散策してみました。いつもの千駄ヶ谷門から入り下の池の近くにある梅園(花はほとんど咲いていませんでした)を通って池に到着しました。

廻ったコースです。池には氷、雪も残っていました。中の池とドコモタワー

日本庭園の寒桜はまだほとんど咲いていませんでした。

旧御涼亭(台湾閣)の屋根は雪に覆われていました。氷のないところには雲が映っていました。

★ランドマーク旧御涼亭(台湾閣):昭和天皇の御成婚を記念して、当時の台湾在住邦人の有志の方々から寄贈された建物で、建築家、森山松之助の設計により、大正12年(1923年)に着工、昭和2年(1927年)に完成したものです。

この建物は中国南方地方(福建省)の建築(ビンナン建築)と同じ様式で造られており、本格的中国風建築の日本における数少ない建物として、貴重なものと評価されているそうです。

なんとなく、日本が台湾を占領していた時代を思い浮かべました。私の祖父の弟は、占領下の台湾の町役場に勤めていて敗戦後は地元に戻り本庄町役場に長く勤務していました。

ミツマタを見に向かいました。途中にピンクに咲いている寒桜を見つけました。

隣は

ソシンロウバイと書かれていました。

こちらがいわゆる蠟梅のようです。

ミツマタは残念ながら全く咲いていませんでした。

午後2時10分に入園して、午後3時からの治療時間まで時間がなかったので急いで、大木戸門に向かい、そこからタクシーで曙橋の治療院に向かいました。

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須賀神社(新宿区須賀町・牛頭天王社)江戸名所図会めぐり

2018年01月28日 12時17分33秒 | 江戸名所図会めぐり

新宿の曙橋の鍼灸治療院に行く途中で、念願だった須賀神社とその周辺を散策してみました。信濃町駅から外苑東通りを四谷三丁目方面に向かってあるいて右手に入って須賀神社に着きました。蔵のような建物は天白稲荷神社でした。

こちらからは入った左手に天白稲荷神社がありました。

社殿の脇に新宿区の文化財の案内板がありました。

★須賀神社の三十六歌仙絵:三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966-1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・小野小町ら33名が選ばれている。

 須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを、額装の上社殿内に掲げている。

 当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764-1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797-1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。

 四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つである。

拝殿です。左手に天白稲荷神社があります。

右手には火消のく組の碑と半鐘と梯子の碑、奥に祖霊社です。

手水舎

神楽殿です。

★ランドマーク須賀神社:東京都新宿区須賀町に鎮座する神社で、江戸時代には四谷鎮守の天王様として信仰を集めた。主祭神は須佐之男命(須賀大神)、宇迦能御魂命(稲荷大神)。主祭神の左右には五男神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、宗像三女神(多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命)が祀られている。

須賀神社の始まりは寛永11年(1634年)、赤坂一ツ木村(一ツ木)の清水谷にあった稲荷神社を江戸城外堀普請のため四谷に遷座したことであるとされる。寛永14年(1637年)、日本橋大伝馬町の鎮守として神田明神摂社に祀られていた牛頭天王(須佐之男命と習合)を合祀したことにより江戸時代には「稲荷天王」「四谷牛頭天王社」と称されていたが、明治元年(1868年)の神仏分離により社号を改めた。今も授与品の茅の輪守や近隣の地名(天王坂(東福院坂)、天王横丁)などから往時の信仰を偲ぶことができる。

 須賀神社には、新宿区指定有形文化財(絵画)に指定されている三十六歌仙絵がある。この絵は天保7年(1836年)に大岡雲峰の絵と千種有功の書により製作、奉納された。

江戸名所図会より

参道は下右手の階段のようです。今、この階段のところの風景が人気スポットになっています。それはアニメ映画「君の名は。」で描かれたためです。ちょっと曇っていて遠くが見えず残念でした。次に戒行寺に行ったのでこの階段は通りませんでした。鳥居の手前右側が階段になっています。

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梅園めぐり(小村井梅園・梅屋敷跡・亀戸天神)

2018年01月27日 22時31分17秒 | 季節の花

料理店の衛生講習会を終えてから梅園めぐりしてみました.

江戸時代の古地図です。自宅周辺には昔いろいろな梅園がありました。特に梅屋屋敷はかなり広いようでした。

最初は香取神社の小村井梅園に向かいました。まだ少ししか咲いていませんでした。

小村井梅園の由緒、絵は広重の小村井梅園です。

★ランドマーク小村井梅園:小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。

  香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有としごとおなりあり」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く大きな実も獲れました。

  園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に亙り松の大木が2列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣掘りもあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり、その傍かたわら梅園ありて満開の節は薫風馥郁くんぷうふくいくとして行人の鼻を穿うがつ、実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景・・・・・・ 」 と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。

 面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。

                      平成二年九月吉日 平成二年度 世話人  』

紅千鳥ピンク系の赤い梅の花が咲き始めていました。

白い梅も少し咲いていました。

次は北十間川と浅草通りの所にある梅屋敷跡、臥龍梅の跡地にいってみまいた。北十間川沿いのところにも紅の梅が咲いていました。

梅屋屋敷跡の碑を道路越しに見ています。

碑がある所に行ってみました。

★ランドマーク梅屋敷跡:江東区登録史跡 梅屋敷

 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。

ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年(1958)に建てられたものです。

  平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

吾嬬の森の方向をみています。

これが広重の臥龍梅です。

錦絵に多く描かれています。

亀戸天神は鷽替えの終わったあとでした。

蠟梅は相変わらずいい香りを振りまいていました。

夏至梅と太鼓橋八重唐梅と表示がありました。こちらも赤いですが寒衣というようです。

冬至梅にも2つの種類が、上の紅冬至こちらは冬至梅です。

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戒行寺・日宗寺・汐干観音(新宿区)江戸名所図会めぐり

2018年01月26日 23時41分53秒 | 江戸名所図会めぐり

須賀神社の周辺を散策していて江戸名所図会に描かれているお寺さんに出合いました。

江戸名所図会より

戒行寺(左)と日宗寺(右)と右下に汐干漢音が描かれています。

戒行寺の山門です。

入ったところにこんな碑がありました。

長谷川平蔵供養塔

『池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川安置に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。
 寛政7年、50歳で病没、当山に葬られた。
 なお、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬れている。
 安部式部信旨、桑島肥後守政恒、山岡豊前守景之
 長谷川備中守宣雄。菅沼主膳正虎常』

池波正太郎の鬼平犯科帳により、長谷川平蔵が注目され、今ではもてはやされているようですが、明治末期に、戒行寺内にあった墓は、杉並区堀の内の共同墓地に改葬移転され、この時に、遺族の立会がなかったので、墓は無縁のものとして処分されて無縁仏になってしまったようです。

本堂の面して墓石があったので撮ってきましたが、右手の墓石が長谷川家のもののようです。

★ランドマーク戒行寺:戒行寺は、玉泉院日養が麹町に戒行庵として文禄4年(1595)創建、隣家の宮重作兵衛重次(妙典院殿蓮經日珠居士、正保3年1646年歿)の助力により、一寺となし戒行寺となったということだそうです。江戸城外堀建造に伴い、寛永11年(1634)当地へ移転、江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していたといいます。

境内には漢音像や多宝塔などがありました。

山門前の通りは急坂ですが、戒行寺坂とありました。

坂を下りてから四谷三丁目に急いで向かいました。

高いところに四谷霊廟とありましたが、後で調べたら汐干漢音の所だったようです。

★ランドマーク真成院、四谷霊廟:慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、本堂と観音堂が失われてしまったものの、天保八年(1837)に再建。 その頃に描かれた『江戸名所図会』では、「四谷の四名所の一つ」に数えられています。当寺の観音像は、鹽踏観音は一に汐干観音とも称され、村上天皇の守護仏だったともいいます。

日宗寺の山門がありました。入った左手に

浄行菩薩がありました。日蓮像

★ランドマーク日宗寺:日宗寺は、弘法山浄蓮寺として麹町9丁目清水谷に元和5年(1619)創建、外濠拡張のため寛永11年に当地へ移転したといいます。三代目藤堂大学頭高次の室高見院殿心月日宗大姉(慶安2年1649年没)より高見山日宗寺と改めたといいます。

日宗寺からさらに四谷三丁目の駅に向かうと

法蔵寺がありました。

★法蔵寺は、兵庫頭松平親良(元和9年没)が三州法蔵寺の寺號を移して、大譽永蓮和尚を請して天正19年(1591)開山したといいます。

江戸時代の絵図古地図です。

この処は江戸時代には、元々鮫ヶ橋北町と云って、書上に北町一円を入といい、北の方の離地は日宗寺境内に付日宗寺前と相唱え候とある。法蔵寺の下辺り、向い側日宗寺前から元の谷町1丁目にかけて(今の若葉2~3丁目)、その名残のような曲折した道路が谷の低地を未だに形ち作っている。
江戸期切絵図を見ると法蔵寺横町よりは、この寺の前には出られず、天王横町より入り東福院坂を下って日宗寺に入ったように記してあり、明治中頃法蔵寺前より新道を切開いて、この寺の前から鮫ヶ橋谷町の通りへ出られるようになった。(四谷南寺町界隈より)

江戸名所図会には描かれていませんが、途中で戒行寺の前にあった崇福寺でも写真を撮りました。

山門

庚申塔

寺を覘いていたら不審に思われてなにかご用ですかと呼びとめらたので写真を撮らせてもらっていますと答えたら清麿の墓は奥ですよと教えられましたが、たどり着けませんでした。

★ランドマーク崇福寺:宗福寺は、勝興寺二世岳室存積大和尚が慶長8年(1603)麹町清水谷に創建、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)当地へ移転したといいます。

 

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