ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

小山駅周辺の寺、常光寺・妙建寺

2014年10月30日 14時20分54秒 | 訪問地周辺散策

須賀神社の前後に二つの寺を散策しました。常光寺と妙建寺です。

常光寺の六角形の二十三夜堂六地蔵

これは本堂。他にもいろいろとあるようですが、じっくり見る時間がありませんでした。

妙建寺です。本堂の前のしだれ桜はきれいに咲くようです。(お寺のHPより)当日は黄色く色づいていました。現在の本堂は、十八世幽遠院日沾聖人、十九世蓮華院日法聖人により 享保2年(1717)から16年かけて再建された。
格天井には百人一首が描かれている。寺院建築では珍しいといわれます。また、建立以来一度も火災に見舞われていないことも珍しいといわれる。

鐘楼 は昭和30年に再建。
除夜祭には、大勢の参詣者が、鐘をつくそうです。

少し歩きすぎたので、疲れてしまい、小山駅から上野駅まで970円払って、鈍行のグリーン車に乗って帰りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須賀神社

2014年10月29日 23時33分09秒 | 訪問地周辺散策

小山市の施設に3回目の訪問です。以前の会社でも施設があり訪問していたので通算6度目の小山市訪問です。これまでに駅と施設の往復のみだったので、今回は仕事を終えてから3カ所ほど散策しました。最も大きいのが須賀神社でした。駅からは少し離れていましたが、歩いてみました。長い参道です。祭りの時の盛り上がりを少し想像していました。訪問先の施設でもお祭りに参加している写真が貼ってありました。お祭りは、小山市のHPに

日本一の大神輿渡御を誇る須賀神社の例大祭「祇園祭」

天慶3年(940年)、藤原秀郷が京都八坂神社より分祠勧請したと伝えられる須賀神社のお祭り。昔から祇園祭の規模の大きさとにぎやかさは良く知られ、江戸時代の地誌「下野国誌」に「当国第一の祇園会(ぎおんえ)なり…」と記されています。大神輿の渡御が行われるほか市内中心部(県道粟宮喜沢線の一部)がおまつり広場(歩行者天国)になり、各町内のみこしや、おはやし・小山評定パレードなど様々な催しがおこなわれます。と書かれていました。

途中にある大銀杏の並木です。残念ながら少し早かったようです。

鳥居

須賀神社の優雅さは、栃木県では足利の織姫神社、栃木市の太平山神社に並ぶ見事な神社だそうです。

須賀神社は、「祇園さん」とも「天王さま」とも称され、創建は、天慶3年(940)4月、藤原秀郷公が京都の八坂神社より御分霊を迎えてまつったことによるそうです。
御祭神は、素盞鳴命・大己貴命(大国主神)・誉田別命(八幡神)の三神。
徳川家から奉納された社宝の朱神輿を始め、重量2トンを誇る大神輿、木曽檜造りの神門廻廊、伝説の七ツ石や石鳥居(承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立され、天下泰平・国土安全・荘内豊穣・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれているそうです。)居などがありました。

この御神木は樅(もみ)だそうです。
元々その位置に高く聳え立っておりましたが、御社殿の方へ傾いて危険だったため、やむを得ず 大正12年に高さ5メートルほどに切り落としたとありました。

お稲荷さんとか天神さんなどの分社もありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小杉山・常圓寺

2014年10月28日 21時40分07秒 | 訪問地周辺散策

都立大学駅前にある施設を訪問しました。少し早めに会社を出て、周辺を散策しました。先日は都立大学の跡地にある施設でセミナーに参加したので、ある程度土地勘がありました。その時に行けなかった常園寺から散策しました。山門です。

徳川家康が江戸入りした天正18年(1590)に創設された寺だそうです。
説明書き        
 寺伝によれば、小杉山常圓寺は天正18年(1590)日信上人を開山として開かれた日蓮宗の寺です。山号寺号は開基の小杉甚七(法号、本理常圓信士)の姓と法号に由来します。
 寺宝の「釈迦如来涅槃之図(大涅槃図)は縦107㎝、横220㎝の大きな掛け軸で、釈迦が涅槃(臨終)に入るときの場面が描かれています。これは碑文谷法華寺(現、円融寺)に納められていましたが、当時開山の際に移されたと伝えられています。毎年2月15日の釈迦涅槃会にて開帳され厚い信仰を集めています。
 他に、日蓮宗の開祖日蓮聖人が自ら彫ったと伝わる「剣難除祖師像(けんなんよけそしぞう)」や本堂手前左の妙見堂には妙見菩薩像及び七面天女像が安置されています。 
 境内の雌株の大銀杏は樹齢およそ300年の大木で、目黒区保存樹林第一号です。                            昭和21年3月 目黒区教育委員会

実は実家のお寺さんには釈迦如来涅槃之図掛け軸がありました。盆迎えの時お寺さんでよく見たものです。こんな絵だったように思います。いい加減な記憶ですが、雲の上の上人が巾着に入った薬?を落としたが木にかかってしまい(左手の月の下にある赤い巾着?)、それをネズミが取にいったところネコに食べられてしまって、お釈迦様は生き返らなっかた。十二支にネズミが最初でネコが入っていないのはこのことがあったからだと子供のころ聞かされたものです。

墓地の入り口右手の小さな祠がありました。広島と長崎の原爆物故者の供養がされていたので写真を撮ってみました。調べて見たら、

広島被爆 子育て地蔵尊のいわれ(地蔵堂の説明板より)

このお地蔵さまはかつて広島市細工町(現在中区大手町)の西蓮寺にお祀りされていた子育て地蔵尊です。そこは昭和二十年八月六日に投下された原爆の爆心地から、わずか百米たらずの場所でしたので爆風で倒れた塀の下敷きとなりましたが、奇跡的に美しいお顔だけが残りました。その後目黒区八雲に住む故・村山有氏が譲り受け、そのご縁で昭和二十年代後半から当山にお祀りされています。毎年八月六日には立正安国の教えにもとづいて世界の平和を祈り、お地蔵様と被爆物故者の方々の為に、ご供養の法要を営んでおります。

      維持   平成十七年八月六日    小杉山 

本堂

 大いちょう

保存樹 いちょう 第10号 この樹木は「都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律」に基づいて指定された保存樹であります。 東京都知事

「我、深く汝等を敬う」と記されています。ひたすら相手を敬い、一心に祈り、合掌する、「但行礼拝」の常不軽菩薩像とあります。

妙見堂
本堂の左手前に妙見堂があちます。妙見堂の脇には、妙見菩薩と七面大明神の説明が書かれた案内板が立っていました。

「犬も歩けば棒にあたる」ではありませんが、行ってみるといろいろな出会いがあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木下川薬師・浄光寺

2014年10月27日 20時48分58秒 | 近郊散策

応援の帰り道、どことなく自転車を漕いでいたら、ここに着きました。仁王門です。

常光寺にHPには「青龍山浄光寺は天台宗に属し、「木下川の薬師さま」として広く親しまれてきました。その創建は古く、葛飾区内で4番目に永い歴史を持っています。
  浄光寺はかつて、いまより西北約600mのところにありましたが、荒川放水路の開削工事のため、大正8年(1919)5月、現在地に移ってきました。その後、関東大震災や太平洋戦争によって諸堂宇や寺宝に被害を受けますが、そのたびに復興を遂げ、信仰を育んできました。毎年4月8日には植木市が開かれ、周辺から集まった多くの人びとでにぎわいます。
  また昭和58年(1983)には本格的な文化財調査が行われ、翌59年、文化財14件がいっきょに葛飾区指定文化財になりました。52年と53年の指定と合わせ、現在指定文化財16件を数え、区内で有数の文化財の宝庫となっています。」と書かれていました。

 
薬師堂・釈迦殿は高くそびえたっていました。庶民からも、薬師仏が病気直しに霊験あらたかだとして、たいへん多くの信仰を集めていました。とくに元禄期以降、庶民の生活が豊かになったことにともない、物見遊山を兼ねた寺社詣がふえてきて、浄光寺も薬師道をたどってやってくる江戸の庶民でにぎわったようです。当時の案内板?左薬師道とでも読むのでしょうか。左手の銀杏です。
鐘楼もそびえていました。こんなものもありました。加藤ひな子の碑・山田 顕義の歌碑まったく知らない人ですが、のHPには「加藤ひな子は、安政4年(1857)江戸に生まれました。ひな子は幼い頃から芸事に達者でしたが、待合茶屋(客のひりに山田顕義もいました)を経営するなど、実業家としての顔も持っていました。ひな子のあくなきバイタリティーは女優の養成にも向けられました。明治41年(1908)東京女優養成所が設立されると、ひな子は副所長として迎えられ(所長は女優川上貞奴)、のちの演劇界を代表する女優を育てました。明治42年7月、ひな子は欧米の演劇や音楽を学ぶため、ひとり旅立ちました。ところが、その年の11月26日、旅先のボストンで突然発作を起こし、志半ばで急死しました。浄光寺にあるひな子の歌碑は、明治44年(1911)川上貞奴らがひな子をしのんで建てたものです。 」とありました。手前の赤い石の碑のようです。銀杏が色付いていました。
この後墨田に戻りました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝蔵院

2014年10月26日 23時08分55秒 | 近郊散策

葛飾区細田にあるひまわりテニスクラブで墨田区役所のテニス部の女子の実業団に試合があると応援に向かいました。自宅からは8km以上離れていますが、自転車で行きました。途中にいろいろな社寺仏閣がありました。疲れて休みながら散策したのかが宝蔵院と八剣神社でした。八釼と名の通り屋根が立派でした。隣にお寺さんがあるようなので寄ってみました。入り口のようなところにこんな碑がありました。表に回ってみると、宝蔵院と書いてありました。本堂です。宝蔵院は、葛飾区観光協に案内によると「1395年創建。1758年の宝暦事件で京を追われた本堂良喜(ほんどうよしのぶ)がこの寺に落ち延びた時、後を追ってきた妙姫(たえひめ)が背負ってきたと云われる薬師如来立像が境内のお堂に安置されるなど、様々な逸話が残る。秋には1000本以上の彼岸花が咲き、石仏群を背景に神秘的な美しさをたたえる。」と書かれてありました。隣の八剱神社はもと別当だったようです。

こちらが薬師堂中には観光協会の写真にあったような像があるのでしょうか。

こちらも新たな発見です。わけもわからずに撮りましたが、この碑は白蓮の歌のようです。「衆生あり祈願成就のよろこびを代々に伝えし御仏ぞこれ」とかいてあるようです。

昭和38年には東方に中川放水路が完成し、その記念に堤上に、「和光の鐘」を吊った鐘楼だそうです。井上靖の碑があります。

宝暦の頃 国事に勤むる男女この寺へ逃れしが捕吏の襲うところとなりて 当寺の住職と共に討たれしという哀史傳われり 寺鐘の失われしはその頃のことにして 爾来堂宇荒廃のまま 時移り 世は変り 今日まで鐘楼建つことなし
昭和の住職関谷宣雄師 鐘楼再建を発願して多歳 浄財を得て 昭和三十八年春 和光の鐘楼の建立を見る往古迦膩式迦王悪龍の請に依って伽藍を建て 鐘を打ってその瞋心を息むという 諸々の悪龍の瞋心ここに息むべし時恰も新中川放水路開鑿に当たり 宝蔵院はその流れの岸に臨めり 晨夕の鐘声は水底に没せし農家 耕地のためにまた新しき供養の意味を持つと謂うべし 井上靖

境内にはザクロの実が熟れていました。

鐘楼の下には10月桜(?)が咲いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする