ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

7月の終わり隅田川花火と公園の花

2017年07月30日 17時53分47秒 | 身辺出来事

7月最終の土曜日は隅田川花火大会です。今年は40年目でした。40年前は地元墨田区で食品衛生監視員の仕事をしていたので、花火大会に出店する屋台の監視をどうするのか苦労しました。屋台は縁日、祭礼に限って出店できるので、花火大会は祭礼に入るのかどうかから検討し、都などとも相談して祭礼として出店を認めることになりました。ただし出店場所が広範になる、どこに出店するかわからいこともあり事前の調査やら当日朝からの調査で確認するというような体制を整えました。道路は道路交通法で警察の管轄になりますが、警察は道路上にはいっさい出店を認めないことにしていましたので、出店できるのは道路に面した私有地に限定されました。

午前中から出勤して、道路が通行止めになる前に全ての屋台を回って許可書の有無、取扱い状況を確認したことを思い出します。通行止めになり花火が終了するまでは保健所での待機となりました。幸い保健所が第二会場の近くだったので花火を見ながらの待機となりました。わたしは30年弱でしたが特に大きな事故もなく過ごすことができました。

退職後は自転車であちこち花火の見えるところをうろついて見ていましたが、今年は雨だったので、自宅の窓を開け音を聞きながらTVを見ていました。最後の花火はさすがにすごかったですね。

昼はリハビリウォーキングで猿江公園の花を撮りました。

昨年おぼえたパラガイオオオニバスの花が咲き始めました。

宵闇が迫る頃良い香りを出して開花します。ミニ木倉にいくと漂ってきます。

夜の写真も撮りたいと思います。

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中川口から富賀岡八幡宮(元八幡、江東区南砂)江戸名所図会めぐり

2017年07月25日 17時42分24秒 | 江戸名所図会めぐり

料理店の点検結果報告と講習を終えてからいつものように亀戸中央公園から旧中川に出て南下(下流)しました。中川は江戸時代風光明媚なところとして有名でした。旧中川の逆井の渡しだった近くにコサギがいました。歌川広重 名所江戸百景 逆井のわたしより当日のコースを古地図に落としてみました。

緑の所が中川と北十間川の交差するところに亀戸中央公園があります。しこから河川敷に出て下流に向かいます。ワタシと書いたところは逆井の渡しです。上下にある川は堅川です。

その先の小名木川となk側が合流するところに中川船番所があります。下流を見ています。こちらが小名木川です。中川船番所跡
★ランドマーク中川船番所跡:中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
 また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。
 明治2年(1869)、全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止されました。
 平成7年に行なわれた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。
 平成14年10月 江東区教育委員会

江戸名所図会より中川口です。左手が小名木川小名木川は千葉方面からの物資を江戸に届ける重要な水路だったようです。番所跡から小名木川に架かる最初に橋は番所橋でした。

橋から番所跡を見ています。突き当りの森になっているところは新川と言って行徳に行く水路だったようです。

ここから今日目指した冨賀岡八幡宮に向かいました。古地図では水神と書かれている場所のようです。もう海岸に面しています。

★ランドマーク富賀岡八幡宮:元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624-1643)の初めに今の深川へ移し、そのため、寛文5年(1665)に旧地を元八幡と称したといわれています。
この付近は松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また「江戸名所図会」や、安藤広重の「名所江戸百景」などにも当時の様子が描かれています。広重 江戸名所百景 砂むら元八まん

手前が元八幡宮で水草が茂っているのが海のようです。ここを埋め立てて田んぼにしたのが砂村新左衛門だったのでしょうか。境内の由緒書きには丁寧に説明が書いてあります。江戸名所図会より

キャプション:洲崎弁天より十八丁あまり東の海浜にあり。深川八幡宮の旧地なりといへり。

鳥居の前の道の先(手前)は海になっているようです。鳥居です。

拝殿拝殿に後ろに浅間神社と富士塚がありました。南東方向から見た砂町の富士塚〔昭和30年(1955)頃 江東区教育委員会所蔵〕

★ランドマーク砂町の富士塚:富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
塚に附随している数多くの富士講碑により、現在まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。(江東区教育委員会)

 

江戸祭ばやし(江東区登録文化財):

凡そ270余年の伝統を継承し、江戸祭囃子を代表する一つとして砂村林派時代の変転とともに幾盛衰を経て今日迄伝えられ、此の間多数の名人上手を輩出して来た。昭和55年(1980)10月東京都江東区初の文化財保護条例の規定により区教育委員会より無形民俗文化財の認定を受け、翌昭和56年(1981)3月其の保持暖帯として砂村囃子睦会を指定されたことは郷土の爲欣幸の至れるよう此の伝統芸能を末永く伝承し地域社会に貢献すべきである。
本年は指定10周年に当り此処に記念碑を建つ。
 平成2年(1990)4月吉日
 江東区指定無形民俗文化財 砂村囃子睦会

こちらは出羽三山

出羽三山の碑ほとんど読めませんが:「出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の大和して主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政2年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復350余里(1000キロメートル以上)を数え略1か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは3年に1度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ37センチ(糎)巾81センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。
 平成11年(1999)8月 宮司 荒井八雲」と書いてあったようです。

力石 鳳卵石

 

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上野東照宮

2017年07月24日 12時20分12秒 | 社寺仏閣

上野の山を散策して上野東照宮に着きました。

水舎門

中に入る前に左手にお化け燈籠を見に行きました。名古屋の熱田神社にもお化け燈籠がありました。

★ランドマークお化け燈籠:上野公園内にある灯籠(とうろう)で、佐久間勝之(さくまかつゆき)が奉納したもの。銅灯籠や石灯籠と離れたところにある。おばけというのは、おばけのように大きく、高さが6.06mもあるからそのような名前がついた。また、笹石の周囲は3.36mで非常に大きい。

門に行く前に普通?の燈籠がありました。

大石鳥居です。

★ランドマーク上野東照宮:寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。

現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したもので、関東大震災や第二次世界大戦でも消失を免れている。社殿は平成21年(2009年)1月から平成25年(2013年)まで修復工事が行われ、平成26年(2014年)から公開されている。

参道の両側にもたくさん石灯籠が並んでいます。

向かって右側に五重の塔があります。張り紙がありました。

こちら側が五重塔の参道だったということでこれが正面だそうです。

★ランドマーク旧寛永寺五重塔:1631年(寛永8年)に、江戸幕府の老中で、後に大老となる土井利勝(どいとしかつ)の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。しかし 1639年(寛永16年)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建された時のものです。

その後、明治時代に施行された明治政府が発令した「神仏分離令」により、寛永寺の管理下に置かれています。現在はすでに前述した寛永寺の存在はなく、東京都の管理下に置かれており、名称には「旧寛永寺」と付されています。

手前に神楽殿です。

塔との柵ののところに広島・長崎の火があります。

反対側に銅灯籠です。

銅灯籠は唐門の前にもたくさんありました。銅灯籠はそれぞれ献じ者の名前が刻んであります。手水舎

水盤のところ鈴がありました。狛犬です。

門の前につきました。この日は杖は自転車につけたままで歩いたので、中には入りませんでした。外国の観光客が多くいました。この門の外に自転車を置いての散策でした。

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猿江公園7月の花、スカイツリーと雲

2017年07月23日 23時23分21秒 | 花の散策

いつもリハビリウォーキングしている猿江公園の7月の花々です。こちらは木槿猿江公園のタイタンビカスは咲いている時間い会えませんがこちらは別の所で撮ったタイタンビカスです。

バラがまた咲き始めました。六月は満開だったノウゼンカズラが実をつけています。

これから100日間は百日紅でしょうか。公園に続いている清水橋のところに咲いています。その脇に白い木槿が咲いています。清水橋は横十間川に架かっていますが、天神近くの河川敷きにも百日紅が咲いています。

公園の夜の風景です。カエルがたくさん出没します。カエルもあまりの暑さに側溝に入りたがっているようです。ミニ木倉から東京スカイツリーを眺めています。途中の光はテニスコートの照明です。

こちらは夕暮れ時です。

まだ日がある時は、

あまり元気のないハスでも花を付けています。

公園からスカイツリーのところに行ってみました。雲がツリーに近づいてきました。

上の部分は雲に隠れてしまいます。

遠ざかってツリーから離れました。今度は靄とした雲が

雲とツリーの競演でした。

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開山堂(両大師・慈眼寺)江戸名所図会めぐり

2017年07月21日 14時01分13秒 | 江戸名所図会めぐり

不忍池の蓮花を見て上野の山に登り奥までやってきました。最後にたどり着いたのが開山堂(両大師)です。

両大師の小史が書かれています。

★ランドマーク開山堂(両大師):開山堂(両大師)上野公園十四番は、正保元年(一六四四)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立されました。天海僧正は慶安元年(一六四八)朝廷より慈眼大師の諡号(没後に贈られる号)を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称していました。

その後、天海がもっとも尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源の像を寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から移し、安置したため、慈眼大師天海とともに一般には“両大師(りょうだいし)”と呼ばれるようになった。

天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの一つで都指定有形文化財となっています。

良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作で、優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきたもので台東区指定有形文化財となっています。また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存しており、いずれも、国の旧重要美術品となっています。

切絵図では慈眼堂となっています。

江戸名所図会にも描かれています。左奥が慈眼寺になっています。

厄除け角大師

慈恵大師良源大僧正(912~985)は、天海大僧正が尊崇した僧侶です。良源大僧正は正月3日に亡くなられたことから「元三(がんざん)大師」とも呼ばれています。
良源大僧正の当時、比叡山は度重なる火災で荒廃し、また山内の規律も乱れていました。そこで良源大僧正は堂宇の復興と教学の振興に尽力され、僧風の刷新をはかりました。こうしたことから「比叡山中興の祖」と称賛されています。
また大変に霊力に優れた僧侶であったことから、良源大僧正のお姿を護符にした「角大師(つのだいし)」「豆大師(まめだいし)」という魔除けの大師が広く信仰されました。さらに良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られています。良源大僧正の幅広い活躍に対し、朝廷より「慈恵大師」の大師号が下賜されました。

両大師の詳細については開山堂のHPに詳しく載っていますので、興味のある方は訪問してみてください。

山門を入った右側には阿弥陀堂があります。阿弥陀さんはきれいに磨かれていました。

右:南無虚空蔵菩薩  中:南無阿弥陀如来   左:南無地蔵大菩薩 というような説明書きを見つけました。碑の下側に「昭和十七年」と記されているので、戦争に勝つことでも祈願しているのでしょうか。

山門の左手には地蔵尊があります。法華塔があります。

江戸時代初期の銅灯籠

水盤

拝殿

拝殿に近づいてみると感じる幟がありました。ぼけ封じ祈願です。

手水舎

参道を振り返ってみると

左手に行ったところに井戸と奥が鐘楼になっています。この銅鐘も江戸時代初期のもののようです。

井戸に近くに桜の木が御車返しの桜というようです。寝釈迦石です。

輪王殿とお間の門は幸田露伴旧宅の門だそうです。

寛永寺輪王殿:一般の方も利用できる寺院斎場

輪王殿の所には輪王寺門跡と

旧本坊表門があります。

★ランドマーク寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財): 江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.15ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。
 これはその焼け残った表門である。明治11年(1878)、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。
 門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門である。薬医門とは、本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の先頭の激しさがうかがえる。
 平成8年7月 台東区教育委員会

切絵図の御本坊の前にあったものを慈眼堂のところに移転したようです。

御玄関、御本坊と書かれている手前の門が本坊表門です。

 

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