ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸天神梅まつり

2015年02月27日 23時16分20秒 | 訪問地周辺散策

亀戸天神では2月14日から梅まつりが開催されています。先週に引き続き梅を鑑賞しに天神様に行きました。満開ではありませんが、先週よりだいぶ咲いてきました。平日の午後ですが人がたくさん出ていました。梅の花も撮りがいがありました。

呉服枝垂というらしいです。それぞれ梅の木に種類が書いてありました。

鹿児島紅です。青軸です。

冬至梅

太鼓橋の手前の梅もだいぶ咲いてきました。

冬至梅は早咲きです。それでも8分?咲きです。

こちらの枝垂梅はほぼ満開です。白加賀はまだ5分咲き程度です。

亀が甲羅干し、冬眠していた亀がそろそろお目覚めですか?

こちらの看板も書き換えられたようです。

団地に戻ったらこんな花が目に付きました。こちらは水仙です。

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智泉院・摂社日枝神社

2015年02月26日 14時45分27秒 | 訪問地周辺散策

昨年とまったく同じように茅場町の施設を訪問しました。見るところも一緒でした。とにかく建物はこの神社の隣ですから。

最初に智泉院

 江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、茅場町のお薬師様は特に人々の信仰が厚く、有名でだったそうです。
江戸城を築いた太田道灌は、自分の領地(相模国大庭村)より薬師如来を江戸に移し、のち江戸城に入った家康が、天海に命じて江戸城の鎮守である日枝神社(千代田区の山王神社)の神輿が渡る所である山王御旅所を南茅場町に設置し、別当寺として薬師堂をつくったのが智泉院のはじまりだそうです。
延宝7年(1679)に刊行された『江戸方角安見図鑑』(江戸城下町の切絵図)には、山王御旅所が見え、その境内に智泉院が描かれています。前には幕府のお抱えの御船手組(海軍)の頭、向井将監の屋敷が、北側には運河がありました。そのころの地誌や名所案内にはかならず茅場町“お薬師様”の賑わいがでているということです。

『江戸名所図会』には「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。今回は狛犬を撮ってみました。

隣のお稲荷さん、明徳稲荷神社です。

明徳稲荷神社の創建年代は不詳ですが、元禄年間(1688-1704)には茅場町交差点に祀られていたといい、関東大震災後の区画整理により当地へ遷座したらしいです。

日枝神社の前の雨水受けは防火用水として使用されていまようです。昭和4年4月と書かれていました。いざというときはバケツリレーで消火したのでしょうか。

 
茅場町・摂社日枝神社
茅場町にある施設を訪問しました。20日に行ったノロウイルスのリスコミのあった場所の隣の施設でした。周辺を散策してみました。この神社は、千代田区永田町の旧官幣大社・日枝神社の摂社...
 

 

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大森貝塚

2015年02月24日 23時12分17秒 | 訪問地周辺散策

京浜東北線の大森駅の近くの施設を訪問しました。近くに大森貝塚があるというので寄ってみました。前回も行ったNTT脇の貝墟です。右手の石碑を拡大しました。ビルの間を降りた線路のところに碑があります。碑の手前の階段のところに

モース博士の説明がありました。沈丁花が2輪咲いていました。これは大田区内のものですが、

本当の貝塚は品川区のこちらの公園にあるらしいです。

品川区の説明

モース博士と大森貝塚の発見

エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。1877年(明治10)腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。これが大森貝塚です

大森貝塚の発掘

モース博士による発掘は1877(明治10)年9月から12月に行われました。1879年(明治12)には日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”を出版しました。この発掘は日本初の学術的発掘であり、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています
 その後、1984年と1993年の大森貝塚遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかりました。1984年、1993年の発掘資料のいくつかは、品川歴史館に展示しています。

こちらにはモース像がありました。

坂を下りていくとこちらには横書きの碑がありました。貝塚を探していると屋根のついたものがあり中に貝の地層が出ていました。こちらは貝層の剥離標本だそうで、実際に掘り出されたところより上に置いてあるようです。

掘ってあるので中にごみがたくさん落ちていましたが、これを見ていたご婦人が「貝塚もごみの捨て場だったから」と言っていたのが印象に残りました。こんな案内板もありました。

帰りのJR大森駅にはこんな碑もありました。

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義兄四十九日・いぬふぐり

2015年02月22日 20時08分54秒 | 身辺出来事

姉弟の長女の旦那さんが今年の1月7日に亡くなりました。その四十九日の法要が実家の近くのお寺さんで行われました。

四十九日の説明「仏教の場合、亡くなってから七日ごとに法事・法要があります。四十九日までの法要を「追善法要」と言い、その後一年ごとの法要を「年忌法要」と呼びます。
なかでも、亡くなってから49日間を「中陰」と呼びます。 この間七日ごとに閻魔大王による裁きが行なわれ、極楽浄土に行けるかどうかの判定が下されるのが四十九日目です。四十九日めは別名「満中陰」と呼ばれ、この日が忌明けとされます 。遺族は、この間、七日ごとの裁きの日に合わせて法要を行ない故人が成仏できるように祈ります。」ということだそうです。

今は列席者も椅子に座るようになったので、楽にお経を聞くことができます。最後に般若心経を全員で唱えました。

実家の周辺を一回りしました。「いぬふぐり」です。

いぬふぐり

【作詞】すずきみちこ
【作曲】すずきみちこ

1.丘はいまも柴山
  いぬふぐりも咲いている
  息をはずませのぼった
  くにさんと一緒にのぼった

2.お茶の子のむすびをもって
  二人呼びあい乍(なが)らのぼった
  ももひきの小さな足を
  乾草のにおいが乾した

3.くにさんは戦争に行った
  いぬふぐりを放りつけて行った
  手紙もとどかぬ遠くで
  口もきかずに死んだ

4.麦ののげを払い乍ら登る
  しぱしぱするなといってみる
  だけどくにさんは死んだ
  たくさんの人が死んだ

5.いぬふぐりを忘れない
  くにさんを忘れないずっと
  戦争の悲しさを忘れない
  戦争がおこらんようにする

ということで、うたごえ喫茶で歌われています。うたごえ喫茶に行くとかならずリクエストします。

1950年に朝鮮戦争が勃発したときに、「戦争反対を今こそ表明しなければ」と東大音感合唱団で創られた曲だそうです。

こちらの赤い花は何でしょうか。

この草花を見ていたら「野に咲く花のように」という歌詞がうかんできました。

こちらは、用水の土手に自然に生えた菜の花です。

実家は、深谷ねぎの産地の隣なので、自家用程度にネギを栽培しています。

こちらは専業にしている畑のようです。ネギは、いつもたくさんいただいてきます。

麦踏の終わった麦畑

麦踏というと、4月4日生まれの私は、おふくろから、臨月の3月11日、麦踏をしながら東京大空襲のあった東の空を見つめていたという話を聞かされていました。

いつもお世話になる姉の家のミーちゃんとパグちゃんです。

炬燵に入ると喪服にミーちゃんの毛がいっぱい付いてしまいました。

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亀戸天神・スカイツリー

2015年02月21日 11時04分11秒 | 近郊地散策

奈良から帰って腰の状態が最悪なので、リハビリやブロック注射など考えられる治療に取り組んでいます。近場の出かけなので、2日とも亀戸天神に梅を見に行きました。太宰府の飛び梅の盆栽もありました。まだ、あまり咲いていませんでした。

亀戸天神はHPによると「菅原道真公をお祀りする当社は下町の天神さまとして広く知れわたり、多くの方々に親しまれております。古くはご本社にあたります九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されておりましたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称いたしました。正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。」と書かれていました。冬至梅とかという種類のものが結構咲いていました。

鳥居から見たスカイツリー梅越しのスカイツリー太鼓橋と梅

なぜ天神様と梅なのか

こちらは神牛。

その他いろいろな梅がありました。こちらは蠟梅です。満開です。

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