昨年の6月以来2度目の訪問です。昨年は「歴史の小道」として石浜神社などと一緒にアップしました。今回は「江戸名所図会めぐり」とまとめてみました。本堂です。
★ランドマーク長昌寺:「当山は御府内日蓮宗の古跡にして延山に属せり。開山日寂上人は、始め浅草寺の住職にて、上古は天台の法流を汲んで寂海法印と号せしが弘安2年この所に於いて、日蓮上人の弟子日常承認と宗議を討論す。後に日蓮の宗風に帰し、弟子の礼を執れり、名を日寂と改め、後浅草に帰り、金竜を辞して庵を結び、妙昌寺(長昌寺)と号けて、ここに隠る。
このおり浅草寺より一寸八分閻浮檀金正観世音菩薩を移し安置す」と書かれています。
江戸名所図会より「長昌寺宗論芝隅田川西岸」
前回は宗論芝を撮ることができませんでしたが、ここに碑がありました。観世音堂です。ここに1寸8分の正観世音菩薩があるようです。見られませんでしたがお寺さんのHPに載っていました。
山門にも紹介されています。
鐘楼の鐘は銅鐘で「御府内寺社備考による長昌寺の縁起」大鐘。享保五庚子六月再興、当寺二十世日津代。(台東区重要美術品)長昌寺は日蓮宗の古刹で、開創は弘安2年(1279)といわれる(一説に同5年)、開山の日寂は浅草寺座主を務めた天台宗の僧であったが、日蓮の直弟子日常と宗論におよび改宗、橋場に妙昌寺を開いた。その後、水害で堂宇を流失し、元享元年(1321)現在地に再興、長昌寺と改めた。
元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、日寂が浅草寺から移したといわれる観音像などが庶民の信仰を集めた。
橋場の数か寺にはいわゆる「鐘が淵」の沈鐘伝説があり、長昌寺の鐘もその一つである。現在の銅鐘は、堂宇流失の際に沈んだといわれる鐘の再鋳として、享保5年(1720)22世住持日津および橋場の檀信徒によりつくられた。鐘銘は、飯高檀林化主で身延山久遠寺住持にもなった日潮の作になる。また銘文中には、鋳造者の神田鍋物師小幡内匠の名が記されている。
昭和19年、重要美術品の認定を受けている。
石碑は「御府内寺社備考による長昌寺の縁起」に書かれている
「開山日寂聖人与中山日常聖人ト法議ヲ論シ候旧跡場所」のようです。
その他境内には錢洗弁天
恵の観音像
どうぶつのお墓
これらも意味のあるものなのだと思いますが調べきれていません。古地図切絵図です。ザクロの花が咲いていました。