ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

長昌寺(台東区今戸)江戸名所図会めぐり

2017年05月31日 21時14分25秒 | 江戸名所図会めぐり

昨年の6月以来2度目の訪問です。昨年は「歴史の小道」として石浜神社などと一緒にアップしました。今回は「江戸名所図会めぐり」とまとめてみました。本堂です。

★ランドマーク長昌寺:「当山は御府内日蓮宗の古跡にして延山に属せり。開山日寂上人は、始め浅草寺の住職にて、上古は天台の法流を汲んで寂海法印と号せしが弘安2年この所に於いて、日蓮上人の弟子日常承認と宗議を討論す。後に日蓮の宗風に帰し、弟子の礼を執れり、名を日寂と改め、後浅草に帰り、金竜を辞して庵を結び、妙昌寺(長昌寺)と号けて、ここに隠る。
このおり浅草寺より一寸八分閻浮檀金正観世音菩薩を移し安置す」と書かれています。

江戸名所図会より「長昌寺宗論芝隅田川西岸」

前回は宗論芝を撮ることができませんでしたが、ここに碑がありました。観世音堂です。ここに1寸8分の正観世音菩薩があるようです。見られませんでしたがお寺さんのHPに載っていました。

山門にも紹介されています。

鐘楼の鐘は銅鐘で「御府内寺社備考による長昌寺の縁起」大鐘。享保五庚子六月再興、当寺二十世日津代。(台東区重要美術品)長昌寺は日蓮宗の古刹で、開創は弘安2年(1279)といわれる(一説に同5年)、開山の日寂は浅草寺座主を務めた天台宗の僧であったが、日蓮の直弟子日常と宗論におよび改宗、橋場に妙昌寺を開いた。その後、水害で堂宇を流失し、元享元年(1321)現在地に再興、長昌寺と改めた。
元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、日寂が浅草寺から移したといわれる観音像などが庶民の信仰を集めた。
橋場の数か寺にはいわゆる「鐘が淵」の沈鐘伝説があり、長昌寺の鐘もその一つである。現在の銅鐘は、堂宇流失の際に沈んだといわれる鐘の再鋳として、享保5年(1720)22世住持日津および橋場の檀信徒によりつくられた。鐘銘は、飯高檀林化主で身延山久遠寺住持にもなった日潮の作になる。また銘文中には、鋳造者の神田鍋物師小幡内匠の名が記されている。
昭和19年、重要美術品の認定を受けている。

石碑は「御府内寺社備考による長昌寺の縁起」に書かれている

「開山日寂聖人与中山日常聖人ト法議ヲ論シ候旧跡場所」のようです。

その他境内には錢洗弁天

恵の観音像

どうぶつのお墓

これらも意味のあるものなのだと思いますが調べきれていません。古地図切絵図です。ザクロの花が咲いていました。

 

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季節の花(5月30日)

2017年05月30日 09時09分00秒 | 季節の花

五月の下旬に撮った花々をまとめてみました。6月の花ですがお手付き気味にアジサイを撮りました。アジサイの第一弾です。昨年おぼえたカシワバアジサイ単にカシワバと思っていましたが種類があるようです。台東区側の隅田公園にありました。スノーフレークということで通常のカシワバアジサイより白の透明度が高いようです。

こちらは通常のものですか?

ガクアジサイはヤマアジサイに属する?

ガクアジサイでも少し違うようです

青が鮮やかです。このピンクはあまり見たことがありません。

こちらは西洋アジサイの仲間?

アジサイ色はこの色ですか?旧中川のアジサイ園からは東京スカイツリーが見えます。赤い花が先に咲き始めています。こんな種類もありました。

赤といえば深紅のタチアオイを見かけました。ピンクの花もタチアオイはだいぶ上まで、花がきてしまいました。

ピンクで派手なナデシコこちらは清楚にかわらなでしこです。

ピンクのシモツケソウ

ちょっと種類が違うようです。

皐月は盛りを過ぎました。

バラは頑張ってさいています。

これからは何と言ってもキンシバイです。あちこちを黄色一色に染めます。

蘭は私には合わないのであまり撮っていませんが、平井聖天のものは引き付けられました。

以上季節の花々5月30日版です。

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蔵前神社(石清水八幡宮)江戸名所図会めぐり

2017年05月29日 23時21分34秒 | 江戸名所図会めぐり

リハビリサイクリングで周辺を15KMほど周りながらアジサイやタチアオイなどを撮ったりして、目的の江戸名所図会に載っている蔵前神社に到着しました。

途中東京スカイツリービューポイント吾妻橋から撮りました。左側から墨田区役所、東京スカイツリー、アサヒビール本社、フラムドール、その後ろはURの集合住宅です。

千代の山やら相撲協会の石柱(石玉垣)が見えます。細かい由緒書きがありました。

★ランドマーク蔵前神社:御由緒:1693(元禄6)年8月、五代将軍徳川綱吉が山城国石清水八幡宮を当地に勧請し奉斎し、江戸城鬼門除の守護神ならびに将軍家祈願所の一社として御朱印社領二百石を寄進した。
江戸時代には蔵前八幡あるいは東石清水宮と称され、庶民からも崇敬を集め、関東地方における名社の一つに数えられた。
当社の創建当時は境内地も2270余坪を有し、勧進大相撲の開催も23回におよび、この間大関谷風・大関雷電・関脇小野川などの名力士も当社境内を舞台に活躍し、賑わいを呈した。
明治以降神仏分離令により別当寺は廃止され、1873(明治6)年8月、郷社に列格する。1878(明治11)年11月石清水神社と改称、(明治19)年4月石清水八幡宮と改称する。
1923(大正12)年9月の関東大震災により社殿焼失、その後再建された社殿も1945(昭和20)年3月の戦災により焼失した。
その後1947(昭和22)年に隣接の福徳稲荷と北野天満宮を合祀し、1951(昭和26)年に「蔵前神社」と改称した。
平成7年10月、創建当初から境内社として鎮座していた「鹽竈神社」(陸前国宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至る。(神社のHPより)江戸名所図会より

正覚寺 一に榧寺(かやでら)ともいふ。

古地図では八幡宮と正覚寺が隣り合わせになっています。隅田川に渡しとなっていますが、ここに厩橋が架かっています。大川橋は現在の吾妻橋でその下流にワタシとなているところに駒形橋が架かっています。

八幡宮と正覚寺のところの隅田川(大川)は御厩河岸と言われ錦絵になっています。

榧寺(正覚寺)についてはこちらのブログでアップしています。http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/610e4140bc9347b1e13380fa577ed948

★ランドマーク御厨河岸 (おんまいがし) :河岸の名称。幕府の馬小屋があったことに由来する。「御厩の渡し」という渡しが元禄3(1690)年に定められた。浅草寺界隈への入口にあたり、本所からも船で多くの人々が訪れた。明治7(1874)年、少し下流に厩橋(うまやばし)が架けられて、渡しは廃止された。

広重 名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸 より広重 名所江戸百景  御厩河岸 より

手水舎です。

境内には古典落語のゆかりの地として元犬が設置されています。

回向院が定場所になる前の勧進相撲は回向院や深川(富岡)八幡宮、御蔵前八幡宮(蔵前神社)の三カ所で行われていたようです。

回向院や富岡八幡宮にも訪れてブログにアップしていますので、興味のある方はこちらをご覧ください。

富岡八幡宮 http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/a53b21843485dd0d4807e4ed57c9650c

回向院 http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/36f5c221412fe36d79dadfc6f9fccd41

狛犬です。狛犬の奥に猫さんが眠っていました。恐る恐る遠くから撮りました。近くに寄っても撮らせてくれました。

福徳稲荷神社です。

アジサイは少し早いようです。

裏門です。6月3日、4日が祭礼のようです。

 

 

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平井聖天(燈明寺)・平井の渡し跡 江戸名所図会めぐり

2017年05月25日 23時48分23秒 | 江戸名所図会めぐり

アジサイやタチアオイなど求めて周辺をリハビリサイクリングしました。

アジサイ園のある旧中川を上流にさかのぼって平井の渡し跡や平井聖天・燈明寺を散策してみました。

 

アジサイ園は江東区側にありますが、江戸川区側でも植えてありました。

本題の平井聖天には2014年6月15日にも来ており、その様子はこちらに、隣の諏訪神社とともに訪れて

http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/559fd202150ace0d7a6765a247de9f03

アップしています。

山門です。

★ランドマーク平井聖天(燈明寺):妻沼聖天、浅草待乳山聖天とならぶ関東三聖天のひとつとして知られています。草創は平安時代と伝えられるますが、江戸時代中期には荒廃し 享保年間(1716~35)に京都から赴任した恵祐法印によって再興されました。歴代将軍が鷹狩りの時に御膳所に使用したほか「江戸名所図会」にも描かれ、文人墨客も多く参詣しています。

安政地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊の災禍にみまわれましたが、当時の関澄道貫主によって、平等院風の優雅な本堂が建立されました。澄道貫主は文人としても知られ、歌人の正岡子規、伊藤左千夫らと親交が深く、境内の茶室も左千夫の設計によるものです。

  その後、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあったが、当時の関澄道貫主(二十六世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅な本堂が建立されました。 澄道貫主は文人としても知られ、正岡子規や伊藤左千夫らと親交が深く、境内の茶室は左千夫の設計によるものです。(江戸川区指定史跡)江戸名所図会より仁王石像阿像 仁王石像吽像聖天堂こちらは14年6月のものです。

階段の下に手水舎

 本堂は17年5月では修理中でした。写真は14年6月のものです。鐘楼です。左の茶室が伊藤左千夫が設計したもののようです。

山門を入ったところに瑜祇供養塔百度石 境内にはランの花が咲いていました。

塀の植え込みには皐月が咲いていました。

旧中川に向かいます。古地図右下に平井聖天とあります。川に「舟渡」と書いてあります。

アジサイの咲いているところから左手の北十間川をさかのぼると、現在の東京スカイツリーの立っているところに行きます。

江戸名所図会では左下のところに舟が描かれています。

墨田区側から見ています。舟は花の先にある感じです。

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青松寺(港区愛宕)江戸名所図会めぐり

2017年05月22日 23時02分55秒 | 江戸名所図会めぐり

東京タワーの下の事業所を訪れたので、途中江戸名所図会に掲載されている青松寺を散策してみました.

古地図です。メトロの神谷町駅で降りて向かいました。山門です。山門に飾られています。本堂です。

江戸名所図会より

万年山上青松を荷ふ/盤結高く分けて坐して竜に似たり/知りんぬこれ珠を抱きて眠りさらに穏やかなるを/ 彩雲飛び送る下堂の鐘 南郭

★ランドマーク青松寺:宗派 曹洞宗 宗祖道元禅師  本山 永平寺(福井県) 総持寺(神奈川県)

山号 萬年山(ばんねんざん)寺号 青松寺(せいしょうじ)   ご本尊 釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)

青松寺は、太田道灌公の命により、雲岡が文明8年(1476)麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所の辺り)に開創したといいます。当時は「江戸貝塚青松寺」と呼ばれていたようです。その後、慶長五年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在の地へと移っています。

江戸時代には、曹洞宗江戸三ヶ寺(青松寺、泉岳寺、総泉寺)の一つとして触頭を勤めていたとのことです。大正十二年(1923年)の関東大震災では堂塔は烏有に帰してしましました。歴代住職と檀信徒の青松寺復興に寄せる思いはあつく、今日の時節到来を迎えて再開発を行い、往時の伽藍を再建し、願いが叶えられたとのことです。(青松寺HP等より)

中雀門

観音聖堂

禅堂

鐘楼堂

建物は関東大震災ですべて失われたそうなので、この燈籠は昔からのもののようです。地蔵尊も古そうですが

お寺とビルが一緒になって、もともとの地盤はもうないようですが、こんなものもありました。

裏口から入ったのでビルに面しているところに庭や稲荷が祀ってあります。

禅堂の横には

山の上には法輪大観音があるようです。

山の登り口には

消災地蔵尊

 

墓の中には入りませんでしたが、奴地蔵(槍持勘助墓)(港区登録文化財)があるようです。山門の右下に観音像がありました。

東京タワーに行く坂道の道端にアジサイが咲いていました。

ガクアジサイ

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