ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

五百羅漢跡

2014年09月30日 22時36分06秒 | 訪問地周辺散策

昨日の平井に次いで今日は亀戸にある施設の訪問です。都営地下鉄で西大島で降りて亀戸に向かいました。西大島の駅を出たところでこんなものを見つけました。40年も江東区に住んでいるのに、初めて気が付きました。

ここには五百羅漢寺があり、その境内に寛保元(1741)年に建立された三匝堂(さんそうどう)があったということです。広重の絵もありました。三匝堂とは、3回巡る堂の意味で、内部が3層の螺旋状をしており、同じ通路を通らずに上り下りができる構造を持ち、その形状がサザエのようであることから「さざえ(さざゐ)堂」として知られていた。とのことです。通路の途中には観音札所があり、堂内を一巡すれば観音の霊場巡りができるとされており、その珍しさから江戸の人々の人気を集めたそうです。弘化年間(1844-48)の暴風雨や安政の大地震で荒廃。五百羅漢寺は明治になって目黒へ移転されました。歌川広重「名所江戸百景 五百羅漢さざゐ堂」

こちらは葛飾北斎「富嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう」です。

今あるのは、羅漢禅寺です。明治36年(1903)に羅漢寺跡地に祥安寺(曹洞宗)が信徒総代の手により多摩郡氷川村から移され、昭和11年(1936)に羅漢寺と改称したとのことです。

寺の西側に面している明治通りは亀戸までを羅漢(らかん)通りというらしいです。

目黒の天恩山五百羅漢寺の紹介です。

HPによると「目黒のらかんさん」として親しまれている当寺の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたものです。五百体以上の群像が完成してからもう三百年の星霜を重ね、現在は東京都重要文化財に指定されています。(現存三百五体) 天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。しかし、明治維新とともに寺は没落し、二度移転し、明治四十一年に目黒のこの地に移ってきました。大正から昭和にかけて非常に衰退し、雨露をやっとしのぐほどの無残な状態になり、羅漢像の将来が心配されていました。

 昭和五十四年になって、日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、多くの困難をのりこえて昭和五十六年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。と書かれていました。

「羅漢」の意味もよくわかりませんが

目黒のお寺さんのHPでは「人の心の迷い、悩み、苦しみをひきおこす原因となる心の垢や精神の汚れのことを、仏教では煩悩といいます。修行してこの煩悩を拭い去り、清らかな人格をつくりあげ、人間として本当に価値のある人生を生きぬいてゆくための真実の智慧を完成した聖者を、昔からインドでは「アラハン」とよびました。人びとからの供養をうけるにふさわしい聖者という意味です。中国の仏教者は「アラハン」の発音をそのまま活かして「阿羅漢」と表現しました。使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」というようになったのです。これが「らかんさん」の語源です。」ということだそうです。

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平井界隈

2014年09月29日 22時22分35秒 | 訪問地周辺散策

平井にある施設を訪問しました。住まいからそれほど遠くではありませんが、会社に出勤して午後から出張です。平井駅南口を少し行ったところに大雄山御直末の道了寺がありました。これもまた、全く知らないお寺さんです。中に入ってみると大きな鉄製の下駄がありました。天狗の下駄?と思いましたが、由緒書きも見つかりませんでした。家に帰って調べたらこんな記述がありました。

妙覚道了(みょうかくどうりょう)は、室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧。妙覚は字。出生地などについては不詳である。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称される。応永元年曹洞宗の僧了庵慧明が最乗寺を開創すると、慧明の弟子であった道了はその怪力により寺の創建に助力。師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って天狗となったと伝えられ、最乗寺の守護神として祀られた。庶民の間でも信仰を集めて講が結成された。

ちなみ大雄山最乗寺は神奈川県南足柄市大雄町にあります。境内にはお地蔵さんがありました。

平井は昭和45年に就職した際に住んでいたところです。4畳半のアパートでした。そこを少し訪ねてみました。元のアパートはなく駅前が開発されて巨大なマンションが建っていました。マンションンの裏手に豊川稲荷がありました。豊川に行ってみたので、懐かしく感じました。平井の駅はなんとなく田舎を感じされる風景でした。勤務終了とともに会社を出て急いでクリニックによってリハビリをしました。クリニックを出たら三日月とアサヒタワーです。東側にはスカイツリーです。雅色でした。

昨日は同じく墨田区内でテニスの応援でした。公園の周りにはキンモクセイやら萩が咲いていました。キンモクセイはいい香りを漂わせていました。植え込みの中にネコさんがいました。

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虎ノ門ヒルズ・日比谷公園

2014年09月27日 11時00分00秒 | 近郊地散策

旧芝離宮恩賜庭園へ行く途中の電車で虎ノ門ヒルズに下を通っているトンネルの出口が見えたので、それをみに行きました。浜松町の駅を抜けて、あるいて行くと汐留地区に入りました。三井ガーデンホテルやら馬券売り場を通って第一京浜に出ました。新しい環状2号線と交差しているところにこんな神社がありました。

日比谷神社です。神社のHPによる由緒書きでは「当日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅(さ)泊(ば)稲荷明神と称しておりました。慶長11(1606)年、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となりますが、町名は従来のまま、日比谷となっておりました。
 しかし、寛永7(1630)年、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになりましたが、神社の社号は変えることなく現在に到ります。(中略) 平成21年に、都市道路計画(環状2号線)の建設により、御社殿を東新橋二丁目に建造されました。現在では新橋四丁目町会・新橋五丁目町会・汐留町会・新橋二丁目町会・新橋駅前ビル自治会・東新橋一丁目町会及び汐留シオサイト地区の氏神様として変わらぬ崇敬を集めております。」と書かれてありました。本殿と第一京浜と環状2号線(新虎通りと名付けられたそうです)の交差点から見た虎ノ門ヒルズとトンネル出入口です。

もう少しトンネルに近づいてみました。

ヒルズに続く沿道は「日本のシャンゼリゼ通り」と形容される街づくりが進められているのだそうです。この日の目的地は曙橋だったので、内幸町駅に向かいました。さらに欲が出て日比谷公園の彼岸花はと探しに向かいました。日比谷公園は日韓文化交流おまつり 2014 in Tokyoの準備の最中でした。心字池にはと思って直接そこに向かいました。

心字池には守護鳥のようにいつものゴイサギがいました。また、地域猫さんたちも元気にしていました。こちらの虎ちゃんは一緒に歩いてくれました。途中で表情が変わったと思ったら、お世話のおばさんが寄ってきました。その先にいた虎ちゃんはもうごちそうになったらしく、満足そうに座っていました。

肝心の彼岸花は池の端に少しですがありました。

ゴイサギの手前にもありました。

9月26日は彼岸明けということで、彼岸花もこれで役割を終えたようです。

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旧芝離宮恩賜庭園

2014年09月26日 22時22分00秒 | 近郊地散策

近場での彼岸花探しで旧芝離宮恩賜公園に行ってみました。浜松町駅から1分のところにあります。都の公園案内によると、小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。
忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。

庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。
翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。とありました。

彼岸花は少ししかありませんでした。大山から見た全体像です。池は大泉水です。ちょっとした印象は栗林公園のようにも見えます。池の中央は浮島です。

こちらは西湖の堤、堤につながっている島は中島です。

最近小石川後楽園でも見てきました。こちらは少しさみしく見えたのでブログにアップしませんでした。石柱です。旧芝離宮恩賜庭園には、数々の名石が用いられた庭造りが行われています。根府川山や中島の石組は一見の価値があります。特に大久保家の藩地であった小田原 から、多くの根府川石が運ばれ、いくつかの石組と泉水周りの飛石に使われています。泉水の護岸は富士の黒朴石が用いられています。<小田原から運んだと思われる石郡>
鯛形の根府川石の橋を渡ると右手に豪壮で圧倒されるような築山があります。その山麓に根府川石の飛石が端正な形に敷かれています。

こちらは雪見燈籠です。海水を取り込んでいた跡です。

白鷺と緋鯉、白鷺が珍しく水の中に沈んでいたら緋鯉がからかいにきました。

浮島の周りには鴨が結構休んでいました。

花らしいものは、夏いっぱい咲いているムクゲありました。良い匂いがしたので寄ってみたら、キンモクセイでした。今年初の花です。奥の方に彼岸花が見えたので行ってみました。さらにその奥にキアゲハが止まっている彼岸花がありました。

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弘明寺

2014年09月22日 21時25分40秒 | 訪問地周辺散策

大岡山の施設を訪問しました。手前に弘明寺という大きなお寺さんがあるというので寄ってみました。京急の駅です。坂を降りて行きます。降り切らない途中から入ってしまいました。こちらは楓関門というらしいです。。最初に出合ったのが梵鐘です。弘明寺は横浜最古の寺だそうです。

お寺さんの案内によると「今から1300年近く前、元正天皇の養老5年(721年)にインドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来、それから17年を経て聖武天皇の天平9年(737年)、天下に悪病流行の際、河内和泉の国の僧行基が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫(じゅんしゃく)し、当山の浄域に草庵を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の御本尊十一面観世音菩薩様です。
嵯峨天皇の弘仁5年(814年)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願したと言われています。
そして寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により瓦葺き本堂が建立されました。御本尊様の彫刻予想年代とこの本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われています。
鎌倉時代には、「求明寺」と称されていたものを、観音経偈文(かんのんぎょうげもん)の中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の「弘」の字をとり、「求」を改めて現在の弘明寺となりました。」と書かれていました 。次は本殿です。寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により本堂が建立され、開山されました。現在の本堂は、明和3年(1766年)に智光上人により再建されたものだそうです。光慧上人が建立した時の古材である、チョーナ彫の床板などが使用されているそうです。昭和51年(1976年)に茅葺より銅板葺に改修された。間口6畳半、奥行き6間一尺ということだそうです。

結構お参りされている方が多くいらっしゃました。力石と思いましたが七ツ石です。善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来の際、当山の霊域を感得し、陀羅尼(だらに)を書写して結界を立てた霊石。尾りょ石と刻してある「尾閭石」や大黒天の袋に似ているので名付けられた「福石」があるそうです。

境内の風景

こちらは聖天堂です。弘仁9年(818年)、弘法大師が回国の際、この地に不思議な力を感じて、聖天(大聖歓喜天)を彫り安置し、一千座の護摩を焚いて庶民の幸福を祈願したとされています。 大師堂には閻魔様、閻魔様にはあちこちのお寺さんで会っているので、地獄で会ってもびっくりしないで済みそうです。弘法大もいました。大師堂は、真言宗の宗祖、弘法大師を奉安しています。弘法大師が弘仁5年(814年)に当山を訪れ、聖天(大聖歓喜天)を彫り、山上の奥の院に奉り、衆生救済のために一千座の護摩を修法したと伝えられ、弘法大師は今でも高野山奥の院に住み、人々の幸福を祈り続けている。ということです。

正面の階段の途中にある身代地蔵菩薩です。平成13年(2001年)6月、京浜急行電鉄会社設立100周年を記念して、全ての人々の病気平癒、身体健全を祈願するため奉納されたということです。身体の悪いところと同じ場所をタオルやハンカチでさすり祈願することで、自身や家族の身体を癒してくれるそうです。最後に入り口のところにある仁王門に出合いました。仁王門は、江戸時代に再建されたもので平成14年(2002年)に改修工事が行われたそうです。「瑞應山」の扁額は享保7年(1722年)に没し、徳川幕府に仕えた書家佐々木玄竜の書によるとのことです。

私の思っている、アーケードは神社仏閣にあるというのがここでは現実となりました。

最後に訪問施設の食堂は24階にあり天気の良い日は富士山も見えるそうですが、富士山は見えませんでした。横浜のランドマークタワーが近くに見えました。

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