ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

児玉神社と義民兵内供養塔

2017年08月16日 10時03分51秒 | 歴史の小道

お盆で実家を訪れたついでに、自転車を借りて周辺を散策します。今回は八幡様と10月15日に村祭りが行われる児玉神社と近くの義民兵内の供養塔を散策してみました。鳥居です。65年前になりますが、10月15日の村祭りにはここのところに屋台がいっぱい出ました。正面が拝殿、右手に神楽殿となっています。

★ランドマーク児玉神社児玉神社の創建年代は不詳ですが、鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したと伝えられます。明治40年(1907)に合社により児玉神社と改称しました。江戸時代には関村の鎮守社となっていました。

また、境内には明和元年(江戸時代)に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和345才の若さで獄門の刑に処せられた当地の名主遠藤兵内を祀った義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)があります。遠藤兵内は、児玉神社近くの関観音堂境内にあります。神楽殿

お祭りでは、神楽殿で川輪に人たちが神楽を演じていました。

拝殿

じいちゃんばあちゃんは八幡様と呼んでいました。私もそのように思っていたので、鳥居に児玉神社と書かれていたので違和感を持ちました。明治40年に若宮八幡宮から名称が変わった云うことで納得しました。明治20年前後の生まれの人に八幡様ですね。手水舎

戦略兵器奉納記念碑と書いてあります。ここの後ろで焚き火を炊いていました。

拝殿の前では獅子舞が舞われます。

兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられています。 現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しています。(美里町の文化財から引用)御神木の欅もだいぶ年期が入ってきました。

社殿の奥にある合祀社

明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したということで、合祀した社が立っていました。

角にあるのは

義民遠藤兵内お宮と改築記念碑です。

★ランドマーク義民遠藤兵内お宮改築記念碑:義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。(美里町史より)

ここの背景にあるところの近くの観音堂に義民遠藤兵内に墓があります。

義民兵内供養塔の概要:関観音堂にある、義民兵内の供養塔です。義民兵内は、関村の名主の家に享保10(1725)年生まれ、明和元(1764)年伝馬騒動の主導者となりました。伝馬騒動は、中山道の保守を負担する費用を巡って、使役の負担を嫌った中山道一円の村々による嘆願で、二十万人もの農民による騒動です。嘆願は受け入れられたものの、一部の農民が先鋭化し、村役人や高利貸の家を打ち壊したことから、主導者が処刑され兵内は獄門(さらし首)、首は3日間さらされたといいます。騒動の落ち着いた2年後の明和5年、関村で管理していた関観音堂に供養塔が建立されました。関観音堂境内石碑に由来が書き込まれています。

義民兵内供養塔の由来

この宝筐印塔は十八世紀のなかば関の名主であった兵内の供養塔です。兵内は享保10(1725)年関に生れ家は代々名主を勤めていました。徳川十代将軍家冶の時代である明和元(1764)年に武蔵上野下野信濃四カ国の中山道を中心とした一帯に伝馬騒動という百姓一揆が起りました。騒動の起りは中山道を通行する人馬がふえて宝暦年間(1750)になるとそれ迄奉仕していた伝馬を勤める人を出す助郷の村数が不足するようになりこのため中山道宿々の問屋では裕福な村役人層を資金元にして助郷の範囲を拡げるよう幕府に運動すすめていました。幕府は折柄明和2年の春日光において東照宮家康の百五十回忌の法要が行われるのを理由に中山道日光道中筋の村々の調査を始め街道から十里四方の村々に助郷の指名をおこない高百石につき人足六人馬三疋、遠路の村々は金六両を負担するよう村々に命令しました。しかし宝暦のはじめ頃から水害が多く収穫が減って農民達は生活は困っており、又その頃新しい将軍にお祝いを述べに来た朝鮮人の接待費用として高百石につき、金3両1分2朱という従来に較べると非常に高い税金をやっと払ったすぐ後でしたのでいくら幕府の命でもひどすぎるという不満の声が高まりました。そして本庄宿の助郷である今の秩父児玉大里多野佐波新田の各郡の村々の農民一万八千余人が年の暮に十条河原に集まり相談の結果、幕府に助郷を拡げることを取止めて貰うよう一同で江戸迄押掛けて願い出ることにきまり、数日後出発して本庄から上野信濃方面の農民と一緒になって江戸に向って進んでゆきました。この知らせを受けた幕府は非常に驚き関東郡代伊奈半左衛門に取鎮めを命令し、伊奈は農民の願いを無条件で聞き届け、助郷を拡げることを中止しました。農民達は要求がとおると日頃自分達を苦しめ、この事件の資金元となっていた村役人や高利貸の家を方端から打ちこわしに赴き二十数軒を打ちこわして漸く治まりました。この騒動に参加した農民や約二十萬人といわれる多勢の人々でしたが、兵内はこの人達の信頼の下に先頭に立って活動しました。豊かな生活、明るい日々を送るために起ち上った農民達でしたが幕府がこの人々に下したのは兵内の獄門(さらし首)をはじめとして三百六十名余におよぶ重い刑でした。兵内はこの地で獄門の刑に処せられたのは明和3年2月13日42才の時です。兵内の死後2年目の明和5年には早くも騒動に参加した人々の手によってこの供養塔が建てられて今日までもまもられてきました。この標札をみて観音堂ということがわかりました。観音堂です。

近くには庚申塚がありました。遠藤兵内の碑もありました。

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埼玉(さきたま)古墳群

2016年11月01日 21時35分45秒 | 歴史の小道

行田の姉の家にお邪魔して、付近を散策させてもらいました。忍城址から埼玉古墳群に向かいました。さきたま史跡の博物館のHPより

駐車場のトイレの近くに車を止めて、案内表示に従って、最初に丸墓古墳に向かいました。

途中にこんな石碑がありましたが、調べましたがよくわかりません。

石田堤の右側に文部省の史跡の碑が立っています。

石田堤

左の藪みたいになっているところは水連池だそうです。こちちらは古墳側から見たものです。

埼玉県の古墳群の史跡の碑です。

丸墓山古墳の前で撮りました。

私は登らずに下で写真を撮っていました。丸墓山古墳の案内です。

★ランドマーク丸墓山古墳丸墓山古墳は、直径105m、日本最大の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。また、近年では昔地元の方が植えたソメイヨシノが成長し、桜の名所として親しまれています。 振り返って北西には、行田の市街地が遠望(えんぼう)されます。下から見上げても、上に上ってもその大きさ、高さが実感されます。 

「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。埋葬施設(まいそうしせつ)は発掘されていないため詳しいことはわかりませんが、出土した埴輪から6世紀前半ころに造られたと推定されています。とすれば、稲荷山古墳のあと、二子山古墳と同じころに造られたことになります。

二子山古墳は埼玉古墳群中最大の前方後円墳ですが、相前後して日本最大の円墳が造られたわけです。丸墓山古墳に盛り上げられた土の量は二子山古墳より多いという試算(しさん)もあります。このように、最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、そして二子山古墳との関係は。謎のむこうに歴史のドラマが秘められているかもしれません。

その後、丸墓山古墳は思わぬ形で歴史の舞台となります。豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。さきたま史跡の博物館のHPより。

丸墓山古墳下の石碑。指定地の村有化のための保存運動を記念して建てられた(1940年建立)ものだそうです。

遠くに見えるのが稲荷山古墳です。

稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の中で最初に出現(しゅつげん)した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社(いなりしゃ)があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。前方部は1937(昭12)年に土取(つちとり)で壊(こわ)されてしまいましたが、1997(平9)年からの復原整備(ふくげんせいび)で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。墳丘(ふんきゅう)の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には2重の堀が巡っています。

堀の整備などはこれからも続けていきますが、墳丘の頂上(ちょうじょう)には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感して下さい。さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭43)年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査(はっくつちょうさ)したところ、頂上から2基の主体部(しゅたいぶ)(人を埋葬(まいそう)した施設)が発見されました。 

ここからは、表面に57・裏面に58の文字が刻(きざ)まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や甲冑(かっちゅう)・馬具(ばぐ)などの副葬品(ふくそうひん)が出土しました。115の文字には、ワカタケル大王(雄略天皇 ゆうりゃくてんのう)に仕えたヲワケの功績(こうせき)などが記(しる)されており、我国の古代史を考える上で貴重な資料となっています。これらの遺物(いぶつ)は1983(昭58)年に国宝に指定され、さきたま史跡の博物館の国宝展示室に常時展示されています。さきたま史跡の博物館のHPより

脚が悪いのでそちらへ行くのはあきらめて二子山古墳に向かいました。

二子山古墳です。

★ランドマーク二子山古墳二子山古墳は、稲荷山古墳の南側、埼玉古墳群のほぼ中央にあたります。長さ138m、埼玉古墳群の中で、そしてかつての武蔵国の中でも最大の前方後円墳です。名前は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山(かんのんじやま)」とも呼ばれていました。「二(双)子山」という名の古墳は全国各地にみられます。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になります。 

墳丘に登ることはできませんが、堀に挟まれた中堤は遊歩道になっており、ぐるり四方から墳丘を間近に見ることができます。側面から見ると、古墳は大きな船が港にいるように見え、その大きさが実感されます。でも気分は、史跡の中にいるというより、のどかな散歩道を歩いているようです。春にはその周囲でポピー、花菖蒲などの花が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれます。

南側の県道からは、前方部の前面を直接見渡せます。この道路は古墳群の中央を横切っていますが、沿道の建物に視界をさえぎられて、自分が古墳群の中にいるとはほとんどわかりません。例外は二子山古墳で、家並みがとぎれたかと思うと緑の大きな墳丘が突然目の前にあらわれ、何か不思議な世界の入り口に来たように思えます。思わず引き込まれてしまいます。

埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明ですが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、6世紀初頭前後に造られたと推定されています。稲荷山古墳に続く時期にあたりますが、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点があります。位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれます。さきたま史跡の博物館のHPより

手前の道路と歩いて、さきたま史跡の博物館に向かいました。右に折れて天祥寺の前を通って左に行くと右側にも小さな古墳がありました。愛宕山古墳です。現在8つある古墳のなかでは最も小さいもののようです。さきたま史跡の博物館に向かうケヤキ並木です。

途中に埼玉県名発祥の碑がありました。

さきたま史跡の博物館の埴輪です。馬形埴輪は中学校などの教科書に載っていたように思います。

白鳥型や犬型の埴輪です。

こちらは国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)です。埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳第1主体(礫槨)の出土品。剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が刻まれている。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最長である。冒頭の「辛亥年(しんがいのとし)」は西暦471年と考えられ、作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜、「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」(雄略天皇か?)の政治の補佐役を務めたことが書かれている。

埴輪です。人物埴輪(右から2番目は捧げ物をする女性埴輪です)。

楯型埴輪や家形埴輪です。

古民家が移転されて飾ってありました。

古民家は昔の実家がそうだったのであまり興味がなく、庭に咲いているコスモスや菊、鶏頭を撮ってきました。

帰りがけに天祥寺にも寄ってみました。

由来にあるようにかなり荒れていました。

旧藩主松平家の墓です。

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吉良邸跡・両国橋・両国国技館

2016年10月15日 10時25分03秒 | 歴史の小道

1年前に訪れた吉良邸跡と両国橋を古地図や錦絵を挿入して再編集しました。両国国技館についても少し付け加えました。

知りませんでしたが、下の由来にも書かれていますが、この白い壁は「なまこ壁」というらしいです。盛り上がった丸さがナマコに似ているからということでした。私にはあまりピンときませんが。今はその一角に小さな公園が作られています。

これは国立国会図書館のデジタルコレクションの分間江戸大絵図 完より撮ったものです。享和3(1803)刊、金丸彦五郎影直//図となっています。ペイントソフトで書きこんでみました。

★ランドマーク吉良邸跡地旧本所松坂町(両国3丁目)吉良家上屋敷は広大で、東西73間(134m)、南北は34間(63m)であって、坪数2,550坪と記録されています。
吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが、元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。
屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側に位置し、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北の方だけ本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。建坪は母屋が381坪、長屋は426坪です。
現在、吉良邸跡として残る本所松坂町公園は、当時の76分の1にすぎませんが、地元両国3丁目町会有志会が発起人となって、邸内のいわゆる「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年3月東京市に寄附し、これによって貴重な旧跡が維持されました。なお、区移管は昭和25年9月です。公園の周囲にある高家を表すなまこ壁の、長屋門を模した高さ2mのコンクリート壁と門とが、わずかに当時の模様を偲ばせます。」

現役当時は首洗いの井戸となっていましたが、今はみしるし洗いの井戸となっていました。

中には吉良上野介義央公座像などがあります。

吉良の屋敷は回向院と接するくらいあったようです。

江戸名所図会より回向院

参道の脇に説明書きがありました。

回向院の境内の中に建てられた旧の両国国技館、日大講堂があったところです。跡地はマンションになっています。日大講堂は、私の学生時代の43年日大当局の経理不正問題をきっかけにおきた大学闘争で日大全学共闘会議議長だった秋田明大の指導で3万人参加の大衆団交が行われたところです。保健所現役の時は、すでに日大講堂は使われなくなり建物だけが残っていました。

回向院を後にして、両国橋に向かいました。

★ランドマーク両国橋明暦の大火(振袖火事)明暦3(1657)年)をきっかけに、万治2(1659)年に架けられた。正式の名はただの”大橋”と呼んだが、武蔵、下総両国に架かること新大橋などができてから、両国橋が正式名になった。橋の両側に火除地として広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わった。そうです。

江戸名所絵図に見る両国橋です。江戸名所図会より

広重の浮世絵両国花火です。国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所より同じく広重の大川端の絵です。国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所より

こちらは今の両国橋です。

橋の真ん中から上下流を見渡しました。

上流には東京スカイツリーが見えます。

下流は新大橋を望みますが、その手前は高速道路の橋が架かっています。

江戸切絵図

真ん中から墨田区側に戻りました。橋の袂には「ももんじゃ」があります。

20年ほど前に、一度食べに行ったことがあります。

この周辺にある相撲部屋は春日野部屋です。

若乃花と栃錦の相撲をTVで見ていたものにとっては春日野部屋は懐かしいです。

★ランドマーク春日野部屋春日野部屋は横綱・栃錦が現役力士のまま二枚鑑札で9代春日野を襲名して継承したところです。栃錦は、師匠として横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌などといった多くの関取を育てています。春日野理事長時代に今の両国国技館を建設しました。

写真は日本相撲協会のHPより

国技館の思い出回向院内にあった両国国技館は終戦でGHQに接収され、メモリアルホールとして改称・改装されプロレスリングなどに使われ、その後日大講堂として使用されていました相撲は昭和29年9月からは蔵前国技館で行われていました。

現在の両国国技館は旧両国貨物駅跡地に建設され、1985年(昭和60年)1月場所より使用されています。。新国技館は、総工費150億円の地上2階・地下1階で、全てを借金なしでまかなったと言われています。国技館は雨水利用しています。建設当時担当していた保健所の環境衛生監視員の村瀬誠さんが区長と相撲協会を説得して作らせたものです。

国技館に降った雨が周辺に流れ出すのを一時的に防ぐとともに、管内のトイレなどの水は雨水で補うようにしたものです。雨水利用が広まるきっかけになりました。この後建設された都庁舎も同じように雨水利用しています。

個人的には国技館地区担当の食品衛生監視員をしていたので、建設当時から国技館につくる飲食店や売店、地下にある調理場の相談にあたっていました。国技館名物の焼き鳥は自動焼き鳥機で焼かれています。前身の蔵前国技館では炭火で焼いていましたが、興行場では防火のため火が使えないため電気で焼けるように工夫されています。オープン後は毎年1月5月9月の場所開催時には、従業員に対する事前衛生講習と出来上がった食品の細菌検査を実施して安全を図っていました。

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柳橋・薬研掘

2016年10月10日 10時58分52秒 | 歴史の小道

両国橋を渡って浅草橋方面に向かいました。両国橋の左側(下流側)を渡るとすぐに左手にのぼりの立っている道路がありました。薬研掘不動尊と書いてあるので誘われて入ってみました。通り抜けてしまいもどって隅田川方面に向かったところに不動院がありました。なかなか急な階段での登る気力がわきませんでした。

★ランドマーク薬研掘不動院:川崎大師の東京別院・薬研堀不動院は、古くから目黒、目白と並び江戸三大不動として知られ『江戸名所図会』をはじめ多くの文献に紹介されています。

鬼平犯科帳と江戸名所図会より真ん中にあるのが不動のようです。

本尊は紀伊国根来山大伝法院開山興教大師の作と伝え、天正十三年秀吉の根来攻めのとき、釈大印という僧が、葛籠に納めて逃れ、家康入国前に薬研堀に来て草庵を結んだにはじまるという。霊験ありとし人々の参詣が多かったが、天保年中、本所弥勒寺中へ移され、維新後、有縁の旧地に移り咲いて仏殿を造営し、毎月二十八日の縁日に門前賑わいを呈した。今は昔日繁盛の悌も残していない。とのことです。

古地図切絵図では不動院は書かれていませんhが薬研掘りはまだ埋め立ててありません。薬研掘りが埋め立てられるのは明治36年だそうです。薬研掘りが隅田川に注ぐところに元柳橋があったとのことです。地蔵尊と並んで聖徳太子碑がありました。

広小路に戻って柳橋に向かいました。

中央区側の案内です。関東大震災(大正12年)からの復興事業で昭和4年に作られた橋ということで、復興記念碑がありました。

★ランドマーク柳橋:神田川にかかる橋で、特別区道(愛称:柳橋通り)を通す中央区管理の橋で、南岸は中央区東日本橋2丁目、北岸は台東区柳橋1丁目となっています。

「橋は元禄11年(1698)架けられ、神田川が隅田川に合流する所で、「川口出口の橋」と呼ばれていた。江戸期は浅草橋と柳橋との間の河岸が吉原通いの猪牙舟(ちょきぶね)や様様な舟遊びの船、それらを利用.する人々と船宿や料理屋で大いに賑わった。花街化したのは辰巳芸者で有名な深川花街が寛政・天保の改革で弾圧を受け、芸者達が次第にこちらへ移ってきてからである。」とのことです。

柳橋が芸者で賑わっていたころの面影がこの橋の欄干にカンザシということで残っています。

隅田川と交わるところ

高速道路の下を通っているのが両国橋です。

神田川の浅草橋方面を見ています。

台東区側にも案内板がありました。

歌川広重の両国柳はし 錦絵で楽しむ江戸名所より

こちらは料亭でしょうか。

歌川広重 両国柳橋 錦絵で楽しむ江戸名所より

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田舎のお盆:65年前の思い出探し

2016年08月19日 20時10分12秒 | 歴史の小道

田舎のお盆で生まれた家の近くのお寺さんを散策してみました。

真言宗豊山派田中山長勝院です。広々とした田園の中にあります。お地蔵さんは子供のころからここにあります。私より80歳上の近所のおばあさんは毎日お祈りにきていました。

参道と山門の本堂です。昔は左側がお墓で右側は田んぼでしたが、お墓の開発?で分譲されています。

この宝篋印塔はお墓の中心にあり、手前の砂利のところは堀があり草むらでした。

生家の墓はこの裏にあります。

いまの墓石にする前は左側の墓石が並んでいました。実家を継いでいる弟がそれを解析して墓碑を作りました。

笹井家のルーツは享保18年(1733年)に亡くなった弥七郎さんたっだようです。

本殿の前の庭は、小学生のころの通学の集合場所でした。

野球をして時間をつぶしていました。松の木に鞄を下げて仏像のあたりがホームベースでした。小学校1-2年生のころは野球が苦手で早く学校に行きたいと思っていました。

この百日紅は昔からこれくらい大きかったような気がします。

凸凹した表面をなでるとくすぐったいと揺れるといわれていました。中が割れたりしていますが、まだ花をたくさんつけています。

学校が始まる10分くらい前になると、この木の元から一斉に1km先の学校に向かって走りました。私はこれが嫌いでした。早く学校に行きたいのに、嫌な野球をやらされ、その田んぼの中を走らされていたので。冬は麦が植えられるので、麦の中を走りました。

上級生になったら絶対にこんなことはしないと誓ったものです。ということで、上級生になったら皆で早く学校に行き、校庭でサッカーやらソフトボールをして時間を過ごすようにしました。

ソフトボールしていても、校長先生が通ったら挨拶したと、朝礼でほめられました。次の2枚の写真は14年8月に撮ったものですが、校舎とクスノキのところでソフトボールをしていました。

以前は校舎の小学校と中学校が隣り合わせにありましたが、中学校が統合されたので、写真手前の中学校のところに小学校が移転し、小学校の跡地(写真の奥)は野球などできる運動場になっています。

今も残っているクスノキです。

今は田んぼが見えていますが、お寺さんは堀と木々に囲まれていました。

堀はすっかり埋め立てられて、面影もありませんが、堀には赤いお腹をしたイモリ(アカハライモリ)がいました。

お寺の裏にある杉の木です。

65年前は、植林で植えた小さい苗木でしたが見事な杉の木なっています。

松の木の所にある、お寺の蓮池です。冬は池が凍るのでスケートの真似事をしていました。

夏はハスの実を食べるのが楽しみでした。

この日も取ってきました。

食べてみましたが、昔ほどおいしくはありませんでした。

六地蔵さんは何度も壊されて、TVでも報道されていました。

胴体の部分はお寺さんの庭に集められていました。

新しく分譲されてお墓は先祖代々というものでなく、

平和とか

和とか

愛というのがありました。

あとで聞いたところ、愛の墓には、私も入れそうです。上の姉が買ったお墓で、旦那さんが昨年なくなった時に作ったものだそうです。

長姉は嫁に行って金子さんというのですが、金子家とは書かかないで、誰でも入れるようにしたと言われました。

お墓に続くこの道の左手はも少し高さがあって桑の木が植えてありました。

時々通学の時の風景が思い起こされます。

こちらの道路と床屋さんの間は、暗渠になっていますが昔は川になっていて、自転車で川に落ちたことがありました。

小さい田んぼや畑があった場所は、区画整理で大きな田んぼになっていて、ようやく穂が出始めたところです。

右手が田んぼ、左手が畑になっています。このイメージは昔と一緒ですが大きな区画になっていて、昔の区分がわかりません。

毎回お世話になる三女の姉の家のあるところは昔畑だったところです。

隣の空き地でネコさんがくつろいでいました。この空地も昔は畑や田んぼでした。昭和51年1月に65歳で亡くなった母が55歳くらいの時、桑畑で脳梗塞で倒れたところはこの辺りです。

ちなみに父は昭和53年7月に亡くなっていますが、この年は隅田川花火大会が始まった年です。花火大会に向けて保健所で、いろいろと準備していましたが、ぜんそくの父がしばらく具合が良いということで、伊豆熱川に1泊で海水浴に行った帰り、東京の我が家でぜんそく発作を起こし亡くなりました。花火大会当日は実家で通夜をしていたと思います。

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