ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

隅田川の桜3月30日

2016年03月30日 22時10分16秒 | 季節の花

リハビリ病院の帰りに、墨田区側の隅田川堤の桜を見てきました。桜橋の所から言問橋を見ています。

花は、まだ3-4分咲きというところですが花見客は結構出ていました。

この辺の大川(隅田川)は鬼平犯科帳に出てくる場所です。信号のところを入ったところに三囲神社があります。

外人さんが写真を撮っていました。

春のうららの隅田川上り下りの舟人が~という感じです。

スカイツリーも高速道路越しに見えます。

提灯は花祭りを演出します。

向かいの隅田公園の入り口にこんな花が咲いていました。

ハナモモと書いてありました。行きの道路際に植えてありましたが、何の花かわかりませんでしたがここで悩みが解決しました。

後ろにスカイツリーが墨田ではどこへ行ってもスカイツリーが見えます。

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雪柳につられて、木母寺

2016年03月30日 18時58分36秒 | 季節の花

二度目の退院後、初めて外来でのリハビリでした。自宅から病院までは、ほぼ5kmありますが電車やバスでは歩くのが大変なので、自転車で通いました。行はわき目も振らず、という感じでしたが、帰りはゆっくりと帰ってきました。まず目に着いたのが雪柳でした。団地のものは雪という感じがなかなか出ていませんが、これは雪を想像させると思いました。

近くには花壇には水仙が咲いていました。

これは水仙とヒヤシンスですね。

花壇に隣接して、いつも病院から見ていた、木母寺があります。

★ランドマーク木母寺木母寺は天台宗の寺院です。976(貞元元)年、忠円阿闍梨が梅若丸の墓石を築き、その側に柳の木を植え、念仏堂を建立したことに始まると伝わります。梅若丸は人買いの信夫藤太に連れられて、琵琶湖のほとりから奥州に向かっていましたが、長旅の疲れから重い病気にかかり、隅田川の東岸、関屋の里で動くことができなり、置き去りされました。

謡曲、浄瑠璃、長唄などでうたわれる梅若伝説発祥の地には、梅若丸を祀った梅若塚があり、毎年4月15日には梅若忌が開催されています。

三遊塚

天下之糸平の碑は伊藤博文の書いたもののようです。

身代わり地蔵です。

当時の貧しく苦しい庶民にとっては、苦しみを代わってくれるものが欲しかったと思います。

梅若塚

 

昔は大川(隅田川)に注ぐ内川と呼ばれる水路のところにあったようです。

墨田区では北斎館を建設するので、北斎が書いた「風景めぐり」の案内がありました。

墨田防災団地の中にある公園の桜が咲いていました。

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退院自主トレ・亀戸天神桜咲く

2016年03月27日 20時54分02秒 | 周辺散歩

リハビリ病院を3月25日に退院しました。これからのリハビリは自主トレ(自主リハ)が中心になります。毎日3000歩ほどは歩きたいので、出かける予定のない日は朝、亀戸天神まで歩くのを課題にしました。

3月26日に早速亀戸天神まで歩いてみました境内に炭のようなものがたくさん落ちていました。こんなものもありました。

調べてみると3月25日の夜、神忌祭があったようです。亀戸天神のHPによると神忌祭とは 

「天神様が亡くなられた忌日に行われますので「神忌祭」と呼ばれ、葬送の遺制をかたどったところから「葬式祭」ともいわれています。
また祭に列なる松明(たいまつ)が印象的なので、近隣の人たちは「松明祭」と呼んでいます。
 天神様にゆかり深い紅白の梅ヶ枝をご神霊にみたて、四方を白布で絹垣(きぬがき)を囲み奉り、
前後に執り物や松明がお供して奏楽の中を神苑を巡行します。」

翌日の27日も行ってみましたが鳥居のところにある桜は少し早かったようです。

晴れるとなかなかの風景です。

いつもは太鼓橋は渡らないのですが、二つ目の太鼓橋を杖をつきながら渡ってみました。橋の上からの拝殿です。

あまり花がないのでこんなものを撮ってみました。

帰りに団地の花壇に咲いていた木瓜を撮りました。

午後は錦糸公園に行ってみました。

古い桜の木は早めに咲いていました。

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最後の一時帰宅・法恩寺

2016年03月20日 18時24分31秒 | 周辺散歩

退院予定日が一週間延びて、今回が最後の一時帰宅になるかと思いますが、金曜日の夜から帰宅しています。昨日今日とリハビリを兼ねて周辺を自転車で移動してきました。昨日は鬼平犯科帳に関係する法恩寺に行ってみました。

★ランドマーク法恩寺開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。道灌公長禄2年(1458)江戸城築城にあたり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時この付近を平河村と称したものである。当山には秀吉家康共に小憩され又、朱印地も与えられた。家康江戸城に入り、城内拡大に当たって当山は神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄8年現在の地に移されたのである。当時塔中二十ヵ寺、末寺十一ヵ寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災、昭和20年3月の戦災に遭遇するも檀信徒並地元の外護により再建され昭和29年10月現在の本堂落成をみたのである。経石塔(三重塔)は昭和7年650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当時新様式鐘楼として名高いものである。

墨田区の鬼平情景という案内板がありました。

法恩寺は太田道灌が祈願所を設けたのが起源となっています。

★ランドマーク道灌公記念碑太田道灌道灌山吹伝説【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】

太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。

その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。

 

本堂の脇に平河清水稲荷がありました。

これは三重塔の鐘楼です。

団地周辺は雪柳がもう少しで満開というところです。

桃の花も咲き始めています。

夕方テニス仲間のところに顔を出してみました。コートから夕日が見えたので自宅に戻りました。

いつも見ている病棟の窓からの夕陽とは少し違い開放的に見ることができました。

これから病院に戻り22日~24日の3日間リハビリをして25日に退院となります。

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ハクモクレン・水仙(猿江恩賜公園)

2016年03月13日 17時34分38秒 | 公園散策

今週もまた二泊三日で一時帰宅中です。自宅に戻ってリハビリをするのは少し大変です。仕方なしに自転車で周辺の公園を散策しています。今週は近くの猿江公園と錦糸公園を散策しました。猿江公園では、こんな花を見つけました。

コブシの花と思いきや、木にハクモクレンと書いてありました。コブシとモクレンの違いは花の小さいものがコブシ、大きいのがモクレンと思っていましたが、コブシの花が大きくなっているので見分けがつきません。

公園にあまり花がなく、枯草の中に水仙が咲いていました。

回りが踏みつけられていたので、皆さんが近づいて写真を撮るようです。

京葉道路を渡って錦糸公園に向かいました。

ここでも花はなくコブシが野球場の網の近くに咲いていました。

錦糸公園に面しているオリナスの裏側にこんな花がありました。

あまりの寒さに、早々と自宅のある団地に戻ってきました。

リハビリにしては少し歩数が足りないので、号棟の周りを一回りしました。

花壇の水仙が満開でした。水仙に交じってスズランのような花が咲いていました。

金網にも水仙が

こちらは何という花でしょうか。ランの一種でしょうか。

黄色い花もありました。

水仙の花見も早めに切り上げて、

後は部屋でこんなものを読んでいました。

今、鬼平犯科帳のシリーズを読んでいるので、元気に歩けるようになったら犯科帳に出てくる土地を巡ってみたいと考えています。

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