ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

今日の写真(亀戸天神の梅・猿江恩賜公園の鳥)

2017年01月31日 21時31分18秒 | 今日の写真から

今日の写真からという新しいカテゴリーを作りました。リハビリの途中で見た花や鳥、猫や風景など思いのままにアップしようと思っています。

今日は亀戸天神の梅の咲き具合を見てから猿江恩賜公園のリハビリウォーキングに行ってきました。

天神さんの梅の花もすこしずつ咲いてきています。節分の豆まき台も用意されたようです。

呉服枝垂というピンクの花が咲いていました

「白加賀」は早いものと遅咲きがあるようです。

「青軸冬至」

「冬至梅」

緋の司「信州野梅」

猿江恩賜公園のミニ木蔵に集まっているキンクロハジロの雄です。

ミニ木蔵には、その他鴨やユリカモメが集まっています。池から見える東京スカイツリーです。

この日はユリカモメがたくさん集まっていました。

ピンクの椿に花が一輪咲いていました。

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麻布山善福寺(港区元麻布)江戸名所図会めぐり

2017年01月30日 23時36分09秒 | 江戸名所図会めぐり

港区三田にある三田共用会議所で、衛生管理の国際化HACCPの義務化についての説明会があったので参加してきました。早めに出かけ江戸名所図会に載っている善福寺を散策しました。江戸名所図会より

東京メトロ南北線の麻布十番駅を降りて向かいました。

★ランドマーク善福寺:善福寺は正式名称を「麻布山善福寺」といい、浄土真宗本願寺派に属する。その歴史は824年(天長元年)に遡り、東京都内では浅草寺に次ぐ古寺である。寺伝によれば、この地に空海が高野山を模して麻布山善福寺を開山したのが始まりであり、当初は真言宗の寺院であった。

鎌倉時代に入って、越後国に流されていた親鸞が罪を赦されて京へ帰還する途上に善福寺を訪ねた。親鸞を迎えたのは当時17歳の了海で、7歳で仏門に入った後に比叡山で顕密二法を修めた学識ある僧侶であった。了海は親鸞の高徳に傾倒し、善福寺全体を真言宗から浄土真宗へと改宗した。私の彩江戸名所図会大人の塗り絵より。

善福寺開山了海上人誕生図 中興開山了海上人は、鳥羽院(1103~56)の苗裔、 左大臣藤原信実公の息男なり。信実公ゆゑありて当国を放れ、品川の近邑にあり(略)。信実公一子なきを憂ひとし、 蔵王権現に祈請したまひければ、その室白布を呑むと夢見て懐妊し、建仁元年(1201)六月十五日に一男子を誕生す(了海上人これなり)。 そのとき、後園松樹の下に、忽然として清泉湧出せり(このゆゑに、了海上人の幼名を松君と号け、里の名を大井と唱へたり)。

親鸞は善福寺を去るにあたって持っていた杖を地へと挿し、「念仏の弘法、凡夫の往生もまたかくの如きか」との言葉を残した。やがて杖からは根が生え、芽吹き、枝葉を広げて大きなイチョウの木となった。この出来事があったのは、1229年(寛喜元年)のことと伝わっている。江戸名所図会にもイチョウの大木が描かれています。木のそばには、「祖師聖人御杖銀杏樹」という石標と親鸞の銅像が建てられている。その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展を遂げた。

安政5年(1859年)には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代アメリカ合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留していた。

★ランドマーク最初のアメリカ公使宿館跡:安政5年(1858年)6月に締結された日米修好通商条約により、下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政6年善福寺をアメリカ公使館として8月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や客殿の一部を使用していましたが、文久3年(1863年)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失した為、本堂、開山堂なども使用しました。明治8年(1875年)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。中には当時の寺僧の記録「亜墨利加ミニストル旅宿記」(区指定)が残されています。

また、福澤諭吉も出入りしており墓もここにあります。

中門

本堂

鐘楼

開山堂

手水場

柳の井戸

★ランドマーク柳の井戸:自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。

昭和四十九年1月 東京都港区教育委員会

 「楊柳水銘」の石碑:石碑は明和二(1765)年に建てられたようです。

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新宿御苑の寒桜・水仙・梅の花

2017年01月27日 23時28分14秒 | 季節の花

年が明けてから初めて鍼灸治療に行ってきました。鍼灸治療院は新宿の曙橋にあるので、治療院に行くと新宿御苑につい足が向いてしまいます。

★ランドマーク新宿御苑:新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。
 東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされています。
 内藤氏7代清枚は元禄4年(1691)に三万三千石の信州高遠城主となりました。内藤家の屋敷地はその石高に比べてあまりにも過分であったため、その後かなりの部分を幕府に返上しましたが、明治5年にはまだ十万坪以上が残されていました。  新宿御苑は、この内藤家の九万五千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、もとは内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた十七万八千坪(58.3ha)の土地に誕生することとなりました。

写真:当時の玉藻池(昭和9年当時の玉藻池)

 また、現在大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部です。
 このようなことから、新宿御苑のルーツは内藤家の江戸屋敷と言えます。(新宿御苑のHPより)

今回は新宿門から入りました。この花の咲いている木の名前がわからなかったのですが。そうですヤツデです。あちこちで見かけて名前が出てこなくていじいじしていたのですが、名札が付いていました。

すぐ近くに水仙が咲いていました。

これも後から出てきますが、ペーパーホワイトという種類だそうです。

脇には赤い梅の花が咲いていました。

治療院からバスと歩きだったので少し疲れたのと昼食を摂っていなかったので、レストランでハヤシライスを食べました。

レストランを出たところに梅園があるのですがほとんど咲いていませんでした。河津桜が少し咲き始めていました。

ここから日本庭園に向かうと白い梅が咲いていました。

日本庭園に出ると赤い花が見えました。寒桜です。

奥にもありました。

もう一本こちらカメラを向けてる人いました。

ここは日本庭園の中です。ドコモタワーが見えます。

中の池の方向に向かいます。氷が張っていました。

中の池と下の池の間に水仙がたくさん咲いています。10年前からこの水仙は見ていますがペーパーホワイトです。

中が黄色いのは日本水仙のようです。ホワイトペーパーに混ざっています。

ここから梅園に向かいました。

もっとも千駄ヶ谷駅寄りにある梅園です。ここのもまだほとんど咲いていませんでいた。

千駄ヶ谷門のところにある桜園に1本だけ十月桜があります。小さい花を付けています。

千駄ヶ谷門を入ったところからの風景です。奥の体かいビルは富久町のものでしょうか。千駄ヶ谷駅に向かいました。ずいぶん歩いたと思いましたが、ここまで7000歩ほどで、公園リハビリウォーキングには足りないくらいです。

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亀戸天神の鷽替え神事

2017年01月24日 21時59分46秒 | 自宅周辺探索

近くの弁当工場の衛生管理を手伝っているので合間を見て、時々亀戸天神を散策しています。今日・明日と鷽替え神事ですが、昨日天神さんに寄ってみました。準備は万端でした。

ランドマーク亀戸天満宮鷽替え神事鷽替え(うそかえ)とは、主に菅原道真を祭神とする神社(天満宮)において行われる神事である。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる。例年1月24日 - 25日。縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与される。「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによる。木彫りの鷽は、高さ5 - 22cmくらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされ、頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれる。彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒である。

梅の咲き具合を見て回りました。老木がけなげに花を付けています。八重寒紅が咲いていました。

こちらは未開紅です。マニュアルモードで撮ったものです。

こちらは八重唐梅です。

紅梅澱のところの梅も咲いていました。

青軸梅はまだ、咲きはじめたかどうかというところです。

蠟梅は3株ほどあります。

早咲きの梅は冬至とか寒とかが付いています。

神牛も平日、神事のない日はゆっくり見られます。

寒空で東京スカイツリーが、いつもより近くに見えます。

 

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龍巌寺(竜岩寺・渋谷区神宮前)江戸名所図会めぐり

2017年01月20日 23時17分37秒 | 江戸名所図会めぐり

龍巌寺には前にも行っていますが神宮前に行くことがあったので、再び散策してみました。今回は江戸名称図会めぐりとして再編集します。江戸名所図会より

残念ながら檀家さん以外は中には入れないと書かれていました。奥が本殿、手前にお地蔵さんがありました。

門前にイチョウの木がありました。前回来た時は青々としていました。

その昔は松の大木があったようです。

★ランドマーク龍巌寺(りゅうがんじ、竜岩寺):龍巌寺は勢揃坂の途中にあって古風な山門を持つ、臨済宗の寺である。山号を古碧山という。かつて龍厳寺には松の名木、『笠松』、またの名を『円座の松』があった。この松は江戸時代には葛飾北斎の浮世絵(「青山円座松」)や歌川広重(「竜巌寺円座の松」)に描かれ、『江戸名所図会』にも取り上げられる名所であった。

龍巌時の山門を入って右手の奥には、八幡太郎義家が腰を掛けたと伝えられる石「腰掛石」が残っている。義家はこの寺の天満宮で出陣の連句をやって社前に奉納したことがあって、この天満宮は俗に句寄(くよせ)の天神とも呼ばれた。とおうことのようです。

私の彩江戸名所図会大人の塗り絵より

葛飾北斎「青山円座の松」

この絵で、龍巌寺の前の坂道を旅人が歩いていますが、旧鎌倉街道で坂は勢揃坂というらしいです。

 

★ランドマーク勢揃坂:ここのゆるい勾配の坂を 勢揃坂 といい,渋谷区内に残っている 古道のひとつです。
 後三年の役 -- 永保三(1083)年に 八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき,ここで軍勢をそろえて出陣して行ったといわれ,この名が残されております。
 このとき従軍した武士のなかに 板東八平氏(平氏の一族)のひとり川崎重家(渋谷の領主)がおり,手柄をたてたという伝説があります。
 真偽についてはもちろんわかりませんが,区内に伝わる 源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
            渋谷区教育委員会

今回は東京メトロ外苑前で降りて古地図にも載っている通りを抜けて熊野神社の前を右折して坂を下りて龍巌寺に向かいました。川は今ありませんが上の新宿御苑になっているところ

玉川上水からの水になっています。外苑前の通りは青山通りに、川の所は外苑西通りになっています。国立競技場は2020年のオリンピックに向けて工事中です。

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