ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

総泉寺・浅茅が原跡(平賀源内墓、お化け地蔵、妙亀塚)

2016年06月30日 22時42分07秒 | 歴史の小道

リハビリ病院の帰りに古地図にある総泉寺・浅茅が原跡を追ってみました。

総泉寺の上の道はそのまま明治通りになっているようです。

江戸名所図会大人の塗り絵より、手前が砂尾不動奥が総泉寺です。

明治通りを上野方面に向かっていたら平賀源内の墓石が建っていました。

平賀源内は、エレキテルの製作という程度は知っていたのでで寄ってみようと思いました。地図も持たずに自転車に乗っているので、実際の墓がどこにあるのかわからず周辺をぐるぐると散策していたらようやく見つかりました。

標札が建っています。この壁は築地塀ということらしいです。。

★ランドマーク平賀源内の墓平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
安永八年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和十八年に国指定史跡となった。

塀の中に入ると入り口の石碑が建っていました。広い総泉寺のあった時はこの石碑が必要だったのでしょうか。

すぐ隣に小さい社が建っています。社の中に墓石が建っています。

墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻んであり、後方に従僕福助の墓があるということです。

これが従僕福助の墓でしょうか。

奥には裏には杉田玄白の造った碑銘があります。

一番奥にはこんな墓石がありました。

 

手水鉢

これは家紋でしょうか。

これは総泉寺の入口に建っていたお化け地蔵

源内墓から100m弱の所あります。古地図でみると総泉寺の前に浅茅が原が広がっている様子がうかがわれます。。

江戸時代の総泉寺は28,000坪あったそうです。

供養塔が建っていますが、総泉寺墓地境内諸佛為供養と書かれています。

常夜灯は寛政2年(1790年)10月と書かれています。

こちらは浅茅が原があった象徴、妙亀塚公園です。

★ランドマーク妙亀塚この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田小将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
 塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には、梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。

江戸名所図会大人の塗り絵より

妙亀塚、奥が玉姫稲荷神社です。

人めさへかれて淋しき夕まぐれ浅茅が原の霜をわけつつ 道興准后

浅茅が原にて あだし野や焼きもろこしのかはばかり 其角

                                     この辺別荘多し

こちらが墨田区側の

木母寺の梅若塚です。

江戸名所図会より、梅若丸七歳のとし比叡(ひえ)の月林寺をのがれ出て、花洛(みやこ)北白川の家に帰らんと吟(さまよ)ふて大津の浦に至りけるに、 奥陸(みちのく)の信夫の藤太といへる人あきびとのためにすかしあざむかれて、はるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり。 ちなみにいふ、人買ひ藤太は陸奥南部の産なりとて、いまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること、 矢口の新田明神へ江戸氏の人しじかりて詣でざるがごとし。

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長昌寺(浅草)

2016年06月29日 18時04分04秒 | 歴史の小道

リハビリ病院の帰りに荒川区側に回り台東区を散策してきました。

古地図の隅田村から水神大橋を渡り明神・真崎稲荷(石浜神社)に寄って、

大祓の茅の輪が飾ってありました。6月30日に夏の大祓を行うそうです。

総泉寺跡の平賀源内の墓

お化け地蔵

に寄って浅茅ヶ原跡を辿って

長昌寺に出合いました。ここからら山谷掘今川(今は暗渠で隅田川の出口は白いコンクリートの所です)、に出てエックス橋の桜橋を渡って(三囲神社)墨田区側に戻りました。古地図にあるように今戸川の隅田側は三囲神社になっています。川と神社は高速道路で遮断されていますが。

こちらがこの日のメイン長昌寺です。

山門です。

★ランドマーク正漢音長昌寺当山は御府内日蓮宗の古跡にして延山に属せり。開山日寂上人は、始め浅草寺の住職にて、上古は天台の法流を汲んで寂海法印と号せしが弘安2年この所に於いて、日蓮上人の弟子日常承認と宗議を討論す。後に日蓮の宗風に帰し、弟子の礼を執れり、名を日寂と改め、後浅草に帰り、金竜を辞して庵を結び、妙昌寺(長昌寺)と号けて、ここに隠る。
このおり浅草寺より一寸八分閻浮檀金正観世音菩薩を移し安置す。

山門の脇に由緒書きがありました。

一寸八分の観音菩薩と書かれています。

本堂です。

日蓮宗寺院の長昌寺は、深栄山と号するそうです。元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、江戸時代には正観世音像が庶民の信仰を集めていたということだそうです。こちらが正観世音堂です。

毎月18日、一寸八分観音様のご縁日(ご開帳・ご祈祷・法話)があるようです。

この一寸八分の観音様お寺さんのHPより

銅鐘

★ランドマーク長昌寺銅鐘:台東区のHPより、長昌寺の銅鐘は、総高147センチメートル。享保5年(1720)に小幡内匠(たくみ)勝行という鋳物師が制作しました。小幡内匠(たくみ)勝行は、他に39点の金工製品にもその名を遺しており、中には旧増上寺徳川家霊廟の6代将軍家宣廟・7代家継廟・9代家重廟に造立された銅灯籠などもあります。しかし、長昌寺銅鐘を含め40点の制作年代は正徳2年(1712)から明和6年(1769)にかかる57年間にも及び、同一人物の遺品と断定することはできません。あるいは、親子2代など、複数の人物の制作とも考えられます。いずれにしても、小幡内匠勝行の名は、将軍家霊廟の灯籠を制作するほどに、当時を代表する鋳物師の一人として知られていたことは間違いありません。
また、銅鐘には長昌寺の歴史を刻んでいますが、その中には次のような伝説もあります。
 鎌倉時代後期頃、この寺にはすでに銅鐘がありましたが、隅田川の洪水によってこの銅鐘は河中に沈んでしまい、以来銅鐘が水没したあたりを「鐘が淵」と呼んだというものです。こうした伝説を「沈鐘(ちんしょう)伝説」といい、全国各地に語り伝えられています。現在、墨田区に遺る「鐘が淵」との関係はともかく、この銅鐘の銘文は、江戸時代にはこの付近にも「沈鐘伝説」が存在したことを教えてくれます。
長昌寺銅鐘は、江戸時代中期の代表的鋳物師の遺品であるとともに、長昌寺の歴史や沈鐘伝説を刻んでおり、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財です。平成9年度登載

境内にある錢洗辨財天

長昌寺の銭洗弁財天は、白龍弁財天といわれています白蛇のご尊像です。観世音菩薩が衆生を救済するために白蛇のお姿であらわれたのです。
御利益は、長寿と財福・蓄財であり、当山の弁財天で紙幣や硬貨をお洗いになり、合掌礼拝をし、願いごとをしてください。」とお寺さんの案内に書いてあります。

恵みの観音様 製造年 文化年間。青銅製。

墓地

動物のお墓もありました。

木槿が咲いていました。

江戸名所図会大人の塗り絵より

長昌寺 宗輪芝と書いてあります。

境内に宗輪芝の書いてありましたが、写真を撮りませんでした。

下の所に煙が上がっているのは今戸焼の窯の煙です。

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津軽稲荷神社(錦糸町)

2016年06月27日 22時36分57秒 | 社寺仏閣

リハビリに出かけいつも気になっていたお稲荷さんを散策しました。

津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神としたとい鵜ことらしいです。

津軽稲荷神社です。

★ランドマーク津軽稲荷神社津軽稲荷神社由来
津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治四十三年の大水害と共に拂下られ太平町一丁目町会の所有となる。
昭和七年町名変更の際錦糸一丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正十二年関東大震災及昭和二十年戦災の為焼失昭和三十五年拝殿及社務所会館再建落成致しました。又弁財天は江ノ島弁財天の分身で鳥居は明治百年を記念して昭和四十四年再建されました。町民一同之信仰の的とされて居ります。尚津軽華子様常陸宮様との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたので神社内に保存してあります。
昭和五十八年明友会(境内掲示より)

江戸切絵図では津軽藩上屋敷は少し離れたところにありました。

上屋敷は緑町公園になっています。イナリの前の掘割は錦糸町北口の再開発前は残っていました。上屋敷に向かう堀は掘割通りとなっています。

 

拝殿

奥には弁財天がありました。

 

 

 

 

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天祖神社(江東区亀戸)

2016年06月25日 18時14分10秒 | 社寺仏閣

リハビリで自宅の周辺を自転車で移動し、社寺仏閣などで歩いて散策しています。今日は香取神社から始まり、常光寺、梅屋敷跡、天祖神社と回ってみました。天祖神社は5月にも訪れているので、まとめてみました。

これは5月の写真です。

御神木のクスノキが新緑に映えています。

これは6月25日の写真です。

本殿です。

★ランドマーク天祖神社(亀戸):江東天祖神社は応永2年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられます。
柳島(現在の江東区亀戸及び墨田区錦糸・泰平・横川・業平のそれぞれ一部)の総鎮守であり、往古は砂原神明宮、柳島総鎮守神明宮と称しました。社伝によると、聖徳太子作の御神像の神体がまつられていたと言われています。

境内には人望福徳も祀られており、亀戸七福神の福禄寿としても有名です。 龍眼寺の縁起によれば、比叡山での修行を終えた良博大和尚が郷里に帰る途中、柳島で一夜を過ごした時に夢に観世音菩薩が現れ、「この堂の下に、汝の守るべき御本尊と村の守護神となる御神体がある」とお告げがありました。翌朝、夢告通りに観世音菩薩像と御神体を授かった良博大和尚が一心に祈願すると村を襲っていた流行病が治まりました。そこで、一宇を建立して観世音菩薩を奉安し、柳源寺と称するとともに、御神体を祀って神明宮としたと言われています。
そして天正年間(1573~1593)疫病が大流行した際、織田信長が使いを参向させ、神前に奉納したところたちまち疫病が治まりました。以来、病気を治す神社として有名になりました。そして現在も毎年9月16日の祭事として、子供による流鏑馬式が行われています。

狛犬です。

太郎稲荷神社:境内に有る稲荷神社で樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛けに行く場面があります。
宇迦之御魂大神(伏見五祭神)が祀られています。 和銅4年に伏見稲荷の大神をいただいて徳川時代、筑後柳川11万9600石の大名、立花家下屋敷にあった代々の守護神を、江戸末期天祖神社境内に移しました。

こんな説明のものもありました。

境内に有る稲荷神社。宇迦之御魂大神(伏見五祭神)が祀られています。
 和銅4年に伏見稲荷の大神をいただいて徳川時代、筑後柳川11万9,600石の大名、立花家下屋敷(今の千束2丁目と入谷2丁目)にあった代々の守護神であったものを、江戸末期天祖神社境内に移したもの。当時評判が良かったので、一般に開放したら享和、文化から慶応にかけてなぜか、はやったりさびれたりを繰り返したようです。
 樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛けに行く場面があります。
宇迦之御魂命
伏見稲荷大神の御分霊にて、太郎稲荷様は特に技芸上達、商売繁盛の神として崇拝され、歌舞伎役者や寄席芸人等水商売の人々の参拝が多く、天祖神社境内の守護神福禄寿(七福遊び)として親しまれ「人望福徳の神」正月七草の日に参拝者が多い、最近は信仰に関係なく一年を通じて、御朱印集めの為の来訪者が多い。
【立花家】 
立花家の先祖が太郎稲荷の夢のお告げにより切腹を免れることが出来たということで邸内社とした。

力石があります。

こちらは福禄寿

亀戸七福神:福禄寿

幸福、高給、長寿の神、人望福徳

5月はオレンジの旗でした。

入り口の左側を入ったところに招魂碑がありました。

招魂碑

招魂碑について 昭和30年3月10日建立

東京御大空襲(昭和20年3月10日)の折、東京は大火災に見舞われ、氏子いったいも火の海と化しました。その際、焼失を免れた現社殿にて数百の命が助かり、街中ではその何倍もの命が失われました。

亡くなられた方々の亡骸は普門院に安置され、御魂はこの地に祀られました。十年の時を経て前一の鳥居の柱(片方)を用いて建てられたのが、この石碑です。もう一本は復興記念の碑(手水舎北脇)として平和の祈りと共に再び建立されました。

現代の豊かさも、過去のこうした犠牲の上に成り立っています。我々もこのような史実を忘れずに後世に伝え、未来の為に感謝の心と平和の祈りを絶やさずにいたいものです。

宮司

復興記念碑(手水舎脇)

その脇に百度石が建っています。

道祖神

石像がたくさんありました。

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弥勒寺(墨田区立川)

2016年06月24日 22時45分31秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸名所図会や鬼平犯科帳にに出てくるお寺ということで、散策してみました。杉山検校の墓があるところらしです。

★ランドマーク弥勒寺元和元年(1615)江戸小石川鷹匠町に宥鑁上人が開山創設する。真言宗江戸四ヶ寺触頭寺院として東北、関八洲の真言宗新義派の末派寺院を統括、いわゆる本寺として明治6年迄継続する。
元禄年間現所に移転、縁日なども盛大に催された、芥川龍之介やその他文学作品(鬼平犯科帳)にも登場する古刹で、薬師仏を本尊としている。(明治18年に豊山派となる)

江戸七薬師、本所三山の一つでもあり、五代将軍綱吉の病に侍し、治療して厚く賞された鍼医杉山検校の墓所(都指定旧跡)や書家の相沢春洋を偲ぶ筆塚があります。
また先の戦災犠牲者等を慰霊する「観音聖像」もあり、毎年3月10日に追善法要が営まれている。
御府内八十八ヶ所霊場 第四十六番礼所で本堂は昭和50年に改築されています。

江戸名所図会ではこのように書かれています。

こちらはわたしの彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵より

右手の大通りが二つ目(清澄通り)上の川は現在は埋め立てられています。

古地図(江戸切絵図)では二つ目通り(清澄通り)に面しています。

本堂

杉山和一 すぎやま-わいち

1610-1694 江戸時代前期の鍼医(はりい)。
慶長15年生まれ。幼少のころ失明。江戸,京都でまなぶ。管鍼(くだばり)を考案,鍼治(しんじ)講習所をひらき,杉山流鍼術をひろめる。将軍徳川綱吉の病気を治療し,元禄(げんろく)5年関東総検校となった。元禄7年6月26日死去。85歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。初名は養慶。著作に「選鍼三要集」「節要集」「療治之大概」。

 

観音聖像
 父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄さまじい火炎と爆撃の中で、1945年(昭和20年)3月10日の朝を迎へました。町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がって居りました。
 戦争は恐ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。1時間に十萬の屍体と言ふ、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛と安らぎを求めるには、大慈悲心にすがり佛の叡智を借りること以外にありません。
 この聖像のもとに三千五百体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは生き永らへた人間の務めでもあり仕事でもありましょう。
 多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿でもありましょう。
 茲に戦災殉難の御魂をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります。
 昭和52年(1977)3月10日丗回忌
 弥勒寺五十六世 岩堀至道 敬白
 弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
 平成24年(2012)3月10日  
 株式会社ペルストーン工房 寄贈

筆塚:書家の相沢春洋を偲ぶ筆塚

 

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