ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

多聞寺

2015年10月15日 20時51分57秒 | 訪問地周辺

リハビリの外来に自転車で行ってきました。病院の近くに多聞寺というお寺さんがあるので、行ってみました。前に一度散策していますが、病院の近くなので再訪しました。

山門です。

多聞寺は「天徳年間(957-960)には墨田千軒宿、今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。降って天正年間(1573-1591)には41代鑁海上人が、ある夜、夢に毘沙門天(多聞天)尊像を感得して以来、毘沙門天を本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改称したといいます。なお、明治維新までは隅田川神社の別当寺でした。
多門寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。
明治45年には、永信講として「地蔵尊密言流念仏」が発足しましたが、戦時中に中断したのち昭和26年に復活し、毎月24日に催されています。
また、境内の狸塚の前には弥陀三尊の板碑(年紀不明)があり、他に弥陀一尊(花瓶)のものが保管されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)」

六地蔵

映画人ノ墓碑

 「故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。
 その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。1992年4月29日」

榎本健一さんや片岡千恵蔵、音羽信子さんなどが入っているようです。

同じ、1992年今井正監督によって映画「戦争と青春」が作られ、そのロケ地に多聞寺の墓所が使われたことのようです。

平和観音像です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨もおいてありました。

ここに来ると、いつも平和な日本にと願わずにはいられません。

多聞寺は、隅田川七福神の毘沙門天となっています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館

2013年09月27日 23時31分05秒 | 訪問地周辺

函館は三年ぶり2回目の点検訪問ですが、35年くらい前に一度行っているので3回目となります。その度に函館山に行きます。前回はケーブルで登りましたが、今回はガイドさん付のバスで山頂まで行きました。これは26日の朝に函館湾から見た山です。海には海ネコ?が魚の死骸を食べていました。岸壁ではうるさく鳴いていました。前日着いたので、夕食は前回と同じ山の上のレストランで摂りました。窓際の良い席3人席を一人で独占して申し訳ない気分でしたが、夜景は素晴らしかったです。

食事の席からのものです。レストランからも綺麗にみえました。
前日の青森空港から青森市街地に向かうバスでも見えたのですが、函館の街中の木はナナカマド多いことに気づきました。
五稜郭タワーを見上げる場所にもありました。跡碑再建された本陣、箱館奉行所今朝NHKBSで土方歳三の特集をしており箱館戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))の話が出ていました。箱館戦争は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘でした。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれています。
そんな歴史に鈍い私は前回同様今回もタワーの二階で五島軒のカレーを食べていました。前回行けなかった煉瓦倉庫街なども見てきました。ゆうびん由来最後に夕暮れの函館駅前から空港行のバスにのりました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青函連絡船

2013年09月26日 23時18分38秒 | 訪問地周辺

3年ぶりに、青森の施設ひとつと、函館の施設2つを訪問してきました。台風が近づく中で、天候や飛行機が飛ぶのかどうか心配でしたが無事に行ってきました。羽田は結構激しい雨が降っていましたが仙台上空あたりでは晴れていました。青森は、少しだけ時間があったので、前回見られなかった青函連絡船の面影を探しに行きました。青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸です。可動橋と車両搬入口です。線路から船の中へ入る様子がうかがえるものでした。青函連絡船は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んで運行されていました。3月13日の青函トンネルの開通に伴い、同日をもって廃止されました。船の中を見学する時間がなかったので、船の全体を見て、どれくらいの列車が入るの想像してみました。
客は桟橋から乗った?

海辺の公園で、鳥がネコの鳴き声のような声をあげて飛んでいました。止まった所を撮ってみました。こんな像が立っていました。太宰治の「思ひ出」に出てくる「赤い糸の話」を記念するモニュメントだそうです。「思い出」の赤い糸に関する原文は以下のとおりです。
「秋のはじめの或る月のない夜に、
 私たちは港の桟橋へ出て、
 海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら
 赤い糸について話合った。
 それはいつか学校の国語の教師が
 授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、
 私たちの右足の小指に
 目に見えぬ赤い糸がむすばれていて、
 それがするすると長く伸びて
 一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指に
 むすびつけられているのである、
 ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、
 どんなに近づいても、
 たとい往来で逢っても、
 その糸はこんぐらかることはない、
 そうして私たちはその女の子を
 嫁にもらうことに決まっているのである。
 私はこの話をはじめて聞いたときには、
 かなり興奮して、
 うちへ帰ってからも
 すぐ弟に物語ってやったほどであった。
こちらは27日の朝に撮った、青函連絡船で、函館湾にある摩周丸です。桟橋摩周丸や八甲田丸は、1200名の旅客と48両の貨車を積載できる大型高速車載客船で青森函館間を3時間50分で渡ったそうです。次回訪問するときは両方の船の内部を見学しよう思います。

函館駅まで続いていた線路は埋めてしまってありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新松戸

2013年09月24日 21時30分45秒 | 訪問地周辺

新松戸にある施設を訪問しました。大手町から千代田線で新松戸に到着すると出口がわからず迷いましたが、武蔵野線を経由してどうやら外へ出ることができました。近くに赤城神社があるというので、松戸の方向に戻りましたがわからず、帰りがけに常磐線の下を抜けたところで見つけることができました。赤城神社は群馬の赤城山を神体山として祀る神社です。山頂にあるカルデラ湖の大沼・小沼や、火口丘の地蔵岳、そして赤城山そのものに対する山岳信仰に由来するそうです。全国には関東地方を中心にして約300社の赤城神社があるといわれ、その中でも特に山腹の三夜沢赤城神社または山頂の大洞赤城神社が総本宮とされています。
ここにも大木信仰ですか。彼岸花はここだけでしたが結構きれいにさいていました。本殿の脇に庚申塔が立っていました。庚申塔はなかなか理解できませんがこんな説明書きを見つけました。
 庚申信仰は、古くは中国の晋の時代、道教の思想から端を発し、奈良時代の日本に伝わった後、日本固有の信仰と結びついて発展していきました。人の身体の中には三尸(さんし)という虫がいて、60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の日に、人々が寝静まった夜、その虫が体内から出てきて天帝にその人の悪行を報告し、怒った天帝はその人を早死にさせてしまうのです。ですから庚申の日は寝ないで夜通し起きていて、三尸(さんし)が体内から抜け出さないようにします。これを「庚申待(守庚申)」といいます。このとき一緒に庚申待を過ごす人たちの集まりを「庚申講(講=信仰集団)」といいます。
 最初は多分、庚申待の夜は厳かに過ごすのが習いだったと思うのですが、平安時代から「2ヶ月に一度の楽しい夜通しの宴会の日」となってしまい、娯楽の乏しかった時代、全国の村々に一気に広がっていきました。そういえば源氏物語の中でも庚申待の様子が描かれているそうです。
 そしてこの信仰は、60年に一度の庚申の年に庚申塔を建立することを原則としました。我々が峠路などで見る庚申塔はこうして建てられたものだそうです。直近の庚申の年は1980年で、次回は2040年だそうです。庚申塔の奥にネコさんが寝ていました。近づいたらちょっとこちらを見てくれましたので、さらに近づきましたが離れられてしまいました。ネコ2


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂林寺

2013年09月18日 21時43分09秒 | 訪問地周辺

館林にある施設を3年ぶりに訪問しました。前回は真夏で施設に行く着くのが大変でしたが、今回は一つ手前の茂林寺前駅近くを散策しました。
 茂林寺は、小学生のころ漫画で、プロ野球の創生期、昭和10年に阪神と巨人の2チームが生まれますが阪神に敗れた巨人軍が、昭和11年9月秋季キャンプで茂林寺球場の特訓「暁の千本ノック」で徹底的に選手を鍛えた「球場」として記憶しています。また、ぶんぶく茶釜の童話でも有名なので、一度訪れて見たいと思っていたところです。道路側からの入り口、5-6件お店が出ていました。どこのお店も狸さんがいっぱい並んでいました。総門から山門までの参道には狸さんが並んでいました。境内には聖菩薩や大樹がありました。名勝地には必ずといっていいほど大樹がありますが、この信仰はなん何でしょうか長寿のシンボルでもあるのでしょうか。
茂林寺のHPから「曹洞宗の名刹、青龍山茂林寺は、その開山を大林正通としています。 正通は美濃国土岐氏の出目で、華叟派の祖、龍泰寺開山華叟正蕚の法嗣でした。寺伝によると、正通は諸国行脚の折、 上野国に立ち寄り、伊香保山麓で守鶴と出会います。この守鶴は、のちに茂林寺に分福茶釜を持ち込んだ老僧です。
 応永三十三年、正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結びます。応仁二年、青柳城主赤井正光(照光)は、 正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号しました。正光(照光)は、 自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務めました。大永二年には、後柏原天皇から勅願寺の綸旨を賜ります。 寛永十九年(1642)には、三代将軍徳川家光より二十三石四斗余の朱印を下賜されております。」と書かれてありました。
守鶴和尚は大林正通大和尚と共に当地に小庵を結んで以来、歴代の住職に役僧として仕え、分福茶釜を当山にもらたしたと伝えられています。小庵の守鶴堂です。当山鎮守大菩薩として祀られています。
境内の彼岸花が咲き始めていました。彼岸花蝶黄アゲハは彼岸花が好きなようで花から花へと忙しく飛び回っていました。
隣は湿原地でした。
施設に向かう途中にネコさんがいました。写真を撮ろうとしたら塀の向こうに逃げられてしまいました。腰を痛めているらしくよろけながら逃げていましたが、顔はなかなか精悍でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする