ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸天神・菊まつり23日、31日、亀戸中央公園さざんか

2016年10月31日 19時18分27秒 | 季節の花

2016年の亀戸天神菊まつりに23日と31日に行ってきましたので掲載します。内容は23日のものを更新しています。23日の風景です。

亀戸天神は江戸時代から観光の名所になっており、江戸名所絵図にも描かれています。江戸名所図会より 亀戸宰府天満宮と書かれています。

手前の橋が天神橋です。下の川が横十間川です。

★ランドマーク亀戸天神正保年間、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされています。

当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662年(寛文2年)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営された。

古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。(ウイキベディアより)

菊まつりの会場はまだほとんど菊の花は咲いていませんでした。23日

31日は

21日はスカイツリーに見立てた菊柱はまだ青々していました

31日は少し黄色くなりました。23日は日曜日だったので七五三の祝いの方々と菊まつりとで少し賑わっていました。

23日の花31日はほぼ満開になりました。

江東菊花会のものは先週から少し咲いていましたが、31日はほぼ見頃になりました。

 

こちは23日から咲いているものです。

赤い花が咲きはじめました。

太鼓場にの飾りの周りの花も23日31日とだいぶ咲いてきました。

全くつぼみだったものもだいぶ咲いてきて見応えが出てきました。

境内には菅公の5歳児の像や、

一月に行われる鷽替えのうその像

御神牛撫でられて鼻が光っています。

石碑もたくさんありましたが、いくつか撮ってみました。

筆塚です。

こちらは洋傘骨の発明家?製造者?河野寅吉の碑です。下の碑には外務大臣であとで首相にもなった三木武夫書となっています。

こちらの碑は全く読めませんが立札に説明が書いてありました。

前にも撮りましたが歌川豊国の碑です。

歌川豊国は錦絵の「江戸自慢三十六興 亀戸初卯詣」 などを描いています。錦絵で楽しむ江戸名所より

スカイツリーが出来て、太鼓橋とツリーのビューポイントです。

天神の鳥居の所からも見えます。

31日は、この後で亀戸中央公園のさざんかを見に行きました。

まだ、二種類の花だけでした。昭和の栄目立っていました。

白いさざんか

もう一つ目立ったのは初光です。幾つかの株に一輪だけ咲いていました。

これも一輪だけ咲いていました。

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行田市の史跡散策(のぼうの城・忍城址)

2016年10月30日 23時31分29秒 | 城址散策

昨年旦那さんと死別した私の姉(長女)が住んでいる行田の家にお邪魔しました。家ではかわいいランちゃんが迎えて?くれました。?マークは最初はおびえて震えていました。

こちらは、少し慣れてリラックスしたところです。

家で昼食を御馳走になった後で、付近を散策することになりました。孫娘は宿題があるということで姉と一緒に留守番になりました。最初は近くの忍城址に向かいました。

★ランドマーク忍城址:「のぼうの城」で一躍有名になった城址です。関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられました。忍城は文明年間(1469~86年)の初め頃に築城され、上杉、北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐え、戦国の世を生き抜いた名城です。

忍城は明治維新の際に壊されましたが、忍城本丸の跡地に往時の面影を再現した忍城址(おしじょうし)が整備されています。この事業に対し、「'93さいたま景観大賞」や「都市景観大賞」が授与されています。また、忍城址内には郷土博物館が併設されています。(行田市のHPより)

石田三成の水攻めとは天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部がのこっています。

昭和63年に復元された 忍城 御三階櫓です。

東門から出たところの橋の上から撮りました。東門です。お堀」

 

 

鐘楼です。

★ランドマーク忍城の鐘江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。
現在忍城址の鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年大晦日の夜には、この鐘の音が除夜の鐘として、市内に響きわたります。

手前の石が城の石垣に使われていたものです。松が由来ものと思って撮りましたが手前の石の説明がありました。城内と白壁

本丸は現在の駐車場のところにあったようです。

城内では菊花展が開催されていました。階段の上では忍城おもてなし甲冑隊がパフォーマンスをしていました。

亀戸天神の菊まつりうより咲いて今咲いた。

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弘福禅寺(墨田区向島)江戸名所図会めぐり

2016年10月28日 10時16分08秒 | 江戸名所図会めぐり

墨田区向島は隅田川東岸の名所として江戸時代から有名で江戸名所図会にも多く登場しています。三囲神社、秋葉社(秋葉神社)、白髭神社、蓮花寺、長命寺などとともに弘福寺(弘福禅寺)があります。古地図(江戸切絵図より)です。

1年前に書いた弘福寺(弘福禅寺)を新しい写真や図会も加え、江戸名所図会めぐりとしてリニューアルしてみました。

★ランドマーク弘福禅寺牛御前宮の東に隣る。この辺りを須崎といふ(旧、洲崎に作る)。黄檗派の禅室にして洛陽万福寺を摸す。本尊は唐仏の釈迦如来、左右は迦葉・阿難なり。開山鉄牛和尚〔鉄牛道機、一六二八-一七〇〇〕、延宝紀元発丑〔一六七三〕創造す。毎歳七月十五目大施餓鬼修行あり。(江戸名所図会より)

弘福禅寺は1673(延宝元)年に、黄檗宗の僧鉄牛道機によって創建されたと言われています。松雲の作と伝わる釈迦如来像を本尊とし、山門や本堂の屋根は唐風の建築様式となっています。江戸時代には、鳥取藩池田家の菩提寺でした。勝海舟が青年時代に修行をつみ、関東大震災までは森鴎外の墓が敷地内にあったそうです。風邪除けの神様ともいわれる「咳の爺婆尊」や隅田川七福神の「布袋尊」を祀ってあります。

 

 

江戸名所図会ではこのように描かれています。

キャプションでは  木犀や六尺四人唐めかす 其角 

元禄ニ年仲秋初の『隅田川記行』牛頭山にまいる仏前に拝して斎堂にまゐりければ、机の瓶に朝顔をいけて眼前のあはれに 
斎堂にあさがほいけてあはれかな 杉風 

牛頭寺に遊ぶ 南郭 門外の長堤隅水の流/江東の宝樹牛頭に倚る/金竜閣を開く誰が家の宴ぞ/玉女波を凌ぎていづれのところに遊ぶ/ 壑に蔵す舟は潮岸を揺らして繫ぎ/機を忘る鳥は晩洲に下りて浮かぶ/到来心地まさに空闊なるべきに/なんぞ更に風烟客愁を起こすや

と書かれているようです。

本堂です。

隅田川七福神

案内板には「黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。
布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、隅田川七福神としても敬われたのである。」と書かれてあります。

布袋尊碑

七福神の祀ってあるお寺に行っても仏像になかかな会えませんがここではいつでも見られます。

布袋さんをしらべてみました。「布袋尊(ほていそん)は、中国の唐の時代の禅僧で、その名を契此(けいし)といい、七福神の中ではただ一人の実在した方であります。額が広くてお腹は大きく、いつも杖と大きな布袋を持ち歩き、物を貰えばそれをこの袋に入れて貯え、因る人があると、その中から取り出して施し、しかもなくなることがなかったといわれています。そのため後には発財菩薩(ぼさつ)といわれ、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再来ともいわれ、世の人々からうやまわれ信仰されました。」と書かれていました。

こちらが咳の爺婆尊です。風邪のはやる時期です。お参りして風除け祈願はいかがでしょうか。

★ランドマーク爺婆尊境内右手の小祠には咳(せき)の爺婆尊(じじばばそん)の石像を祀ってあります。この像は寛永年問(1624~44)に、風外(ふうがい)和尚が静岡県の真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられます。後に、ここ弘福寺に移されました。風外の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めている、ということだそうです。

地蔵尊

池田冠山の墓

池田冠山は知りませんでしたが墓がありました。

鐘楼です。

淡島寒月も知りませんが、弘福禅寺内に居住していたようです。

後日、長命寺を散策した時に長命寺の墓から屋根が見えました。また裏口(隅田川から)を見る機会がありました。開かずの扉は錆びついていました。古地図や江戸名所図会に見られるように、弘福寺はもともと隅田川とは繋がっていなかったようですが、川沿いの牛頭社王子権現(現牛島神社)が移転したため、一時は隅田川沿いから入れてようです。しかし、隅田川堤に高速道路ができこの入口は開かずの扉になってしまったと思われます。

 

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熱田神社、鷲神社(江戸名所図会めぐり)

2016年10月27日 21時48分37秒 | 江戸名所図会めぐり

秋晴れに誘われてリハビリサイクリングで、待望の江戸名所図会めぐりに出かけました。台東区の熱田神社から小野照崎神社なども巡りましたが、ここでは熱田神社と鷲神社を掲載します。最初は熱田神社に向かいました。熱田神社に奉納されている大太刀は台東区の有形文化財になっています。

★ランドマーク熱田神社と大太刀本社は江戸時代初期以来、当地の鎮守であった。かつて元鳥越町にあったが(現在の鳥越二丁目あたり)、正保二年)(当地に浅草新鳥越町が成立したことにともない移転して、当地の鎮守となった。新鳥越町は山谷堀の北側、千住街道(現在の吉野通り)に沿った町である。(後の浅草吉野町)。本社は町の北端に位置していたが(現在の清川一丁目七番・八番付近))、関東大震災後の区画整理のため、昭和二年(1927)十一月」現在地に移転した。本社が所蔵する大太刀「陰陽丸」は全長三六八・五センチの長大なものである。弘化四年(1847)江戸小石川に住居する刀工、川井久幸が制作し、熱田神社に奉納した。宝刀として保存されるだけでなく、安政五年(1858)コレラ流行の時には疫病を祓うため、本大太刀が町内を巡行している。当時江戸町々では、鎮守の神輿や獅子頭が町内を巡行するなど、それぞれに疫病除け行事を行っていた。当地では、鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしかったのであろう。故老は「オンヨウマル」と発音していたという。平成二十二年、台東区有形民俗文化財に登載された。

  平成二十二年三月  台東区教育委員会

台東区有形文化財「大太刀(陰陽丸)」

熱田神社 平成22年3月登載
 本大太刀「陰陽丸」は弘化4年(1847)、刀工川井久幸(かわいひさゆき)(1786~1868)が制作し、熱田神社に奉納したものです。以来、当社の宝刀として伝来してきました。刀身長280センチ、茎(なかご)88.5センチ。全長368.5センチの大太刀です。
 川井久幸は幕臣川井久尊の長男で、江戸小石川に住居しました。剣術・槍術に長じており、30代半ばから作刀に励み、刀工として活躍した人物です。
 熱田神社は浅草新鳥越(しんとりごえ)町(後の浅草吉野町)の鎮守であり、安政5年(1858)コレラ流行の時には、臨時の疫病除(えきびょうよけ)行事を行いました。疫病を祓(はら)うため、本大太刀が町内を巡行したのです。当時江戸の町々では、鎮守の神輿(みこし)や獅子頭(ししがしら)が町内を巡行するなど、それぞれに疫病除行事を行っていました。当地では、鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしいと考えられたのでしょう。
 のち明治22年(1889)の憲法発布式祝祭においても、大太刀は山車(だし)に仕立てられており、鎮守熱田神社の宝刀として、当地を象徴するものでした。

 

拝殿

古地図(江戸切絵図)では真中に囲ったところが熱田明神(熱田神社)です。ここから新吉原を通り過ぎて鷲明神(鷲神社)に向かいました、

江戸名所図会より

今の風景とだいぶ違うようです。

豊川出世稲荷神社

厳島神社

少し移動して鷲神社に向かいました。

★ランドマーク鷲神社鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の桐に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。
 酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑わいをみせた。一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。
 酉の市は当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ッ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。

江戸名所図会ではわたしの彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵より

鷲大明神社祭毎年十一月酉の日に修行す。世に酉のまちといへり。この日近郷の農民家鶏(にわとり)を献ず。祭り終はるの後、 ことごとく浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。塗り絵にしていただくとわかりやすですね。

引用させてもらったのは正確には【私の彩(いろ)の「江戸名所図会」大人の塗り絵】からです。ということで今年は11月11日が一の酉、23日が二の酉になるようです。

境内は熊手を吊るす鉄パイプの準備ができていました。

御社殿です。

開運のおかめが飾ってあります。神社のHPをみたら「なでおかめ」というようです。

【鷲神社「なでおかめ」の云われ】

おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う

渡殿と神楽殿

句碑などは覆われていて見えませんでした。

 

 古地図(江戸切絵図)でも前に川が流れていますが、今は埋め立てられて広い国際通りとなっています。切絵図では斜め向かいになっていますが、今は国際通りの反対側になっている大きな西徳寺に寄ってみました。山門

★ランドマーク西徳寺寛永5年(1628年)、佛光寺門徒の聞法道場の一つとして江戸の金助町(現在の東京都文京区本郷付近)に建立されたと伝えられています。建立後50年の間に天和の大火など、江戸を襲った火災で焼け出されること三度、当時の住職・檀家の協議により竜泉(現在の東京都台東区)に移転したのは天和3年(1683年)だそうです

徳川幕府時代、明治維新後も西徳寺は発展を続けたが、大正12年(1923年)の関東地震により本堂が全壊した。地震後に再建にとりかかり、昭和5年(1930年)に鉄筋コンクリート造という、寺院建築としては画期的な形で寺院を再建し、現在に至っています。

第17代中村勘三郎の墓があるようです。山門のことば(寺のHPより)「国境なき 南無阿弥陀仏」なかなか良いと思いました。

本堂

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隅田川神社(水神)江戸名所図会めぐり

2016年10月26日 12時59分17秒 | 江戸名所図会めぐり

隅田川神社はリハビリ病院に行く途中にあるので時々寄ってみました。

今回は江戸名所図会と合わせて散策してみます。

江戸名所図会手前が水神、奥が本堂、木母寺となっています。

江戸古地図によると隅田川のほとりカネガフチのところに水神の文字が見えます。古いスミ田川をはいると木母寺があります。

★ランドマーク隅田川神社源頼朝が平家打倒の兵を挙げ下総から武蔵に入るために、隅田川に仮設の船橋をかけた際に水神の霊を感じ、社殿を造営したことにはじまると伝えられています。隅田川流域一帯の総鎮守となり、水神社と呼ばれていました。水の神様らしく境内には、石亀や「船の錨」など、水や川、舟に関するものを数多く祀っています。

水神の森路:荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。墨田区教育委員会

神社の外の公園のところには隅田宿跡の由緒書きがありました。

隅田川神社の参道は防災団地のところにありました。

こちらが境内の鳥居です。

水神宮の石碑です。こちらの石碑には隅田川八景が書かれています。

拝殿です。

お百度石の奥に狛犬ならぬ石亀が控えています。

隅田川沿い(高速道路下)にも鳥居がありました。関東大震災で壊れたものを再建したようです。

「鶴力」と書いてあります。力石は知っていましたが鶴力とは、手前の石は「さし石」と書いてあります。

境内には石でいろいろな神社がまつってあります。

石亀も社に祀ってありました。

天満宮

錨も祀ってあります。

木母寺は200mほど離れたところにあります。

 

 

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