ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

明治神宮外苑のいちょう並木

2016年12月01日 23時42分05秒 | 近郊地散策

鍼灸治療に行く途中、外苑のいちょう並木を見に行きました。毎年のように来ていますが今年は少し遅れてだいぶ葉が散っていました。錦糸町から半蔵門線で青山一丁目まで行き、エレベーターを使って地上に出ました。出たところは青山通りと外苑東の交差点の東宮御所側の所でした。そこから青山通りを渋谷に向かって片手杖でとぼとぼと歩いてきました。

聖徳記念絵画館に続く道路を渡りました。

立ち止まって撮りたいところですが横断歩道で止まるのは難しいので渡りきったところで撮りました。

青山通り口から樹高の高い順に植えられたいるので、いちょうは遠近感が強調されるということらしです。

★ランドマーク明神宮外苑前いちょう並木青山通り口から外苑中央広場円周道路に至る四並列の街路樹として植栽されたいちょう並木は、春の芽生え、夏の青葉、秋の黄葉、冬の裸木と、その人工自然美の素晴らしさから、四季を通じて都民に親しまれ、白亜の絵画館を望むいちょうの大木が作り出す景観の美しさは、世界的に知られているところです。

渋谷よりから撮りました。

青山通りに一番近いイチョウが2本だけがまだ青くなっていました。

途中のテニスコートに入る横道の所まで歩いてきました。

ここから先の並木、左側はほとんど葉が落ちていました。

反対側のイチョウはまだ見頃というところです。

青山通りの方向を振り返ってみました。

こちらはテニスコートに行く横道のイチョウです。

向のイチョウの木先の曲がったものがありました。

ここまでで引き返しました。帰りがけに歩道の所でこれはカメラで撮りました。今まで写真はスマホで撮ったものです。

反対側のイチョウの下に行ってみました。落ち葉が踏み固められて黄色の絨毯でした。草の上におちているイチョウの葉です。

多くの外国の方が見に来ていました。中国の人が多かったようです。

並木の裏側です。

明神宮外苑について書かれていました。石碑に書かれているとこの大意が記してあるようです。

★ランドマーク明治神宮外苑之記明治神宮(内苑)が国費によって造営されたのに対し、外苑は、民間有志で結成された「明治神宮奉賛会」により、国民より寄付金を募り造営され大正15年10月22日明治神宮に奉献されたなど、外苑造営の由来について記した石碑が、この「明治神宮外苑之記」です。
昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設。

こちらはイチョウ並木ついて書かれています。

見納めの写真を撮って帰途に着きました。

地下鉄乗り場のところから東宮御所からはみ出している楓の紅葉が見えたので撮りに行きました。何という門かわかりませんでしたが、入り口には警察官が建っていたので断って入り口の写真を撮りました。家で調べたら西門でした。東宮御所はこの赤坂御用地の中にあるというのが正式な表現らしいです。

★ランドマーク赤坂御用地東宮御所は赤坂御用地の中にあり、皇太子同妃両殿下,愛子内親王殿下が住んでいるということです。なお,赤坂御用地には,東宮御所のほか,秋篠宮邸・三笠宮邸・三笠宮東邸(旧寬仁(ともひと)親王邸)・高円宮邸があり,その一角で園遊会が催されます。と宮内庁のHPに書かれていました。

もう少し先まで行ってみました。

帰りがけにもう一枚。

エレベーターで降りて、地下鉄半蔵門線に乗り九段下へいき都営新宿線に乗り換えて曙橋に行きました。

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旧中川と亀戸中央公園の紅葉

2015年12月05日 23時47分12秒 | 近郊地散策

リハビリを兼ねて自転車で周辺の紅葉を散策しました。いつもの猿江公園から出発して堅川の埋め立て公園を旧中川まで行き、中川を上流に向かい、荒川との分岐点まで行ってみました。旧中川に間珍しくアオサギがいました。コサギは名所江戸百景にも出ています。

ウイキペディアによると「旧中川は、1924年荒川放水路に注水を開始したことによって分断された中川の下流部分である。江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」(燈明寺)、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで、情緒豊かな川であったことが知られており、川沿いに史跡が残っている。

1945年3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3000人以上が犠牲となった。その犠牲者の慰霊のために、1999年に「旧中川灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日に行われている。平常時は、両端の水門を締め切って両端とも荒川へ排水しているため水は流れていないが、灯篭流しの時だけは木下川水門より取水し、荒川ロックゲート側から排水することにより水流を発生させ、灯篭が流れるように工夫している。」と書かれています。

旧中川からのスカイツリーです。手前のあじさいは季節になればしっかり花を咲かせています。

途中の亀戸中央公園の紅葉が見えたので寄ってみました。直接行けば近いのですが、旧中川から遠回りして到着しました。

東京都公園協会のPHによると「この公園は、日立製作所の亀戸工場のあったところを買収し、整備したもので、A・B・Cの3地区に分かれています。A地区には、中央広場に時計塔やアスレチック風の木製遊具が設置され、子供たちの格好の遊び場になっています。

到着したB地区には、人工池、流れがあり周囲は芝生の憩いの広場となっています。C地区は、運動広場として整備され、多目的球技広場、テニスコートのほか児童コーナーがあり、ターザンロープ等の木製遊具は子供たちの人気を集めています。またこの公園は「サザンカの名所」として親しまれています。」と書かれていました。

40年前にこの近くのアパートに住んでいましたが、その頃はまだ工場が稼働していました。

人工池は水が流れていませんしたが、ベンチで一休みして庭園と広場の欅を撮りました。広場ではくつろいでいる人が多く居ました。ここのイチョウはちょうど見ごろになっています。

人工池の下流に向かっていくと、欅の中に楓も見えました。

少し進むと楓が数本紅葉していました。

こちらA地区からB地区に入ったところの欅ですがしっかり黄色に染まっています。

欅の下にさざんかが咲いています。さざんかはテニスコートなどのあるC地区にたくさん咲いているのですが、こちらにも数株ありました。赤やピンクのもがありました。

旧中川に戻ってもう少し上流に向かいました。

ここは北十間川(スカイツリーの前の流れている川)が先の旧中川と合流する地点です。

北十間川は、総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河です。隅田川と旧中川を結んでいます。左は墨田区、右は江東区で、区界となっています。

旧中川には野鳥がたくさんいました。アオサギは大きいので絶対撮ろうと狙います。

帰りは行とはちがう道を戻ってきました。これは墨田区の清掃工場です。

手前は野球場になっていますがもともと野球場のところに清掃工場は建てられました。すっかり様変わりしましたがここのところで40年ほど前に野球をしていました。全体で2時間ほどのツーリングでした。

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猿江公園紅葉・皇帝ダリア

2015年11月21日 17時09分01秒 | 近郊地散策

理学療法士さんに少し休むように言われましたが、動かないと足が固まってしまいそうなので、自転車で近くの猿江公園に紅葉を見に行きました。イチョウの葉もだいぶ落ちてしまっていました。スカイツリーが見えるので、イチョウとツリーを撮ってみました。右側の楓は少し赤くなってきました。

この近くに19日見た花が咲いていました。

足元に花の名前が書いてありました。皇帝ダリアだそうです。秋の羊雲?に合っています。

猿江公園のあるところは、江戸時代から続く徳川幕府による貯木場でした。その後、明治政府御用達の貯木場になり、その後一般の人々に開かれた公園へと、用途が変更されました。公園の北側の地区(写真を撮ったところ)は、戦後しばらく横十間川と繋がっていて貯木場として使用されていました。貯木場が江東区潮見に移転され、1981年に公園として開園しています。わたしが江東区に移住したのが1974年ですので、その頃は大木が大横川やここの貯木場にたくさん浮かんでいました。

イチョウの絨毯です。広場ではこどもが遊んでいました。桜とイチョウの落ち葉です。

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外来日和(東京スカイツリーの真下)

2015年11月19日 20時40分02秒 | 近郊地散策

5km弱離れた病院に自転車で通っています。11月19日は秋晴れで、病院から解放された後に通院経路を散策してみました。

公園に咲いている珍しい花を見つけました。

三囲神社のイチョウも見頃になりました。

抜けるような青空に向かっているスカイツリーです。

真下から撮ってみました。

スカイツリーの立っているところは、東京都墨田区にある京成電鉄の押上駅と東武の業平橋駅の間に挟まれれた東武鉄道の本社隣接地で所有地でもある貨物駅跡地(貨物廃止後業平橋駅3、4、5番線ホームの敷地として使用されたが、廃止)に建設されました。京成駅側にはコンクリート工場もあり北十間川に沿った通りはコンクリートミキサー車が盛んに出入りしていました。

スカイツリー建設中、この地域は塀で囲われており、塀が取り外されたら別世界が現れたという感じでした。

スカイツリーの前にある今の北十間川です。

隅田川と旧中川とをつなぐ延長約3 キロメートルの掘割。途中、大横川、横十間川を分岐し、北西から南東へと斜めに流れています。一部江東区と墨田区の区境になっています。本所の北部かつ横十間川の北に位置し、川幅が十間(約18m)あることから北十間川と呼ばれました。万治2年(1659) に本所の開発に伴い開削された掘割の一つです。輸送路や農業用水など多目的に使われてきました。現在の川筋は隅田川に接続していますが、明治18 年(1885) までは業平橋の東側に土手があり、隅田川・大横川とは連絡していませんでした。

ちなみに隅田川から業平橋までは、寛文3 年(1663) に材木輸送の目的で開削され、源森川と呼ばれていて、隅田川寄りに架かっている橋は源森橋として残っています。水運の衰退とともに現在はその役割をおえ、スカイツリーの開業に合わせ改修され、遊歩道ができたり、中川よりのところは釣り場などになっています。(この写真は9月に撮ったものです)

夏場緑で覆われていた団地の中にある欅の木も色付いています。

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入谷鬼子母神・45年前

2015年10月10日 09時52分27秒 | 近郊地散策

入谷鬼子母神の周辺を散策してみました。45年前の昭和45年4月に東京都庁に入り、下谷保健所の配属になりました。4月時点では保健所は仮庁舎で坂本小学校の空き教室を使用していました。

隣の鬼子母神は朝顔市としての記憶しかありませんでした。

7月6・7・8日の3日間、入谷鬼子母神(真源寺)と、その周辺は、朝顔市に訪れる人で大賑わいとなります。
 朝顔は、奈良時代に薬用植物として中国からもたらされ、当初の花は青色だけだったのだそうです。やがて花の愛らしさが注目されるようになり、文化年間の初め頃から、下谷御徒町あたりで植木職人が栽培を始め、変種や珍種が育てられるようになりました。
 そして、文政年間(1818~30)、嘉永・安政年間(1848~60)、明治15年(1882)~大正の初めにかけて、3度の朝顔ブームが湧き起こりました。朝顔は、浮世絵などにもしばしば登場する、江戸・東京の夏の風物詩となったのです。
 なかでも明治中期の入谷に出た植木師・成田屋留次郎の朝顔は、変化咲で一世を風靡。さらに成田屋は京都や大阪から珍品を集めて図説を作るなど、朝顔紹介のプロデューサーとして活躍し、入谷の朝顔を世に喧伝しました。
 ところが、入谷あたりの市街化が進んだため、植木屋の多くが移転。さらに第二次世界大戦の戦火によって、朝顔は一時、東京から姿を消してしまいます。地元の有志が復活を考え、かつて朝顔を栽培していた職人たちに依頼して入谷の朝顔が復活したのは、昭和22年のことでした。

浮世絵と朝顔が飾ってありました。

朝顔市では浮世絵も売っているようです。

★ランドマーク真源寺:真源寺は万治2年(1659年)光長寺20世・日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山したということです。鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名な寺院である。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名である。また、7月の七夕の前後に当寺院の境内で、朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られている。下谷七福神のひとつ福禄寿が祀られています。雑司ヶ谷鬼子母神堂中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めています。

お寺さんは眞源寺で下谷七福神の福禄寿となっています。

坂本小学校は鬼子母神と隣り合わせになっています。表に回ってみました。

昭和45年4月に入庁し、1ケ月の研修期間を経て5月に下谷保健所の配属になりました。上野駅から所在を知らせる茶封筒を頼りにたどり着いたのはこの小学校でした。当時は保健所が建て替えでここの空き教室が事務所になっていました。クーラーもなく、夏場は水の入ったバケツに足を入れて事務をしていたことを思い出します。

9月には新しい庁舎に移転しました。

美濃部革新都政の住宅政策で、複合事務所になっており事務所の上は都営住宅です。各所で都の事務所を建て替えるときに都営住宅を併設させていました。福祉を大切にする革新都政だと感心しました。

当時、台東区には東京都下谷保健所と東京都浅草保健所の2か所がありました。私が昭和49年に墨田区に異動になった後、統合されて別の場所に移ったため、今はこのような団体の事務所になっていました。

青春のど真ん中の25歳から29歳までここで働かせていただきました。

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