ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

内房散策(富津岬から洲崎灯台)

2019年01月14日 09時52分34秒 | 観光地散策

内房のふらり旅に出かけました。最初は木更津市の太田山公園に寄ってみました。

★ランドマーク太田山公園(おおだやまこうえん):千葉県木更津市にある公園。太田山は標高44mで、山頂には剣の形をしたきみさらずタワーが立つ。また、山頂には古墳があったという伝承があるが、現存しない。公園面積は9.7万m2。

神代の頃東征の際に、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの山から海を見つめながら、波間に身を投じた妃の弟橘姫を(おとたちばなひめ)偲び、永くこの地を去りかねたという悲しい伝説から、太田山は別名「恋の森」とも呼ばれています。

公園内に、細井魚袋の歌碑がありました。

歌碑の短歌は、「秋風をまなこにためて坐りけりしろくかわける石の上に我は」です。

公園からの眺望です。

千葉県忠霊塔、1954年(昭和29年)竣工(2009年5月2日撮影)

忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴として表す塔である。

公園には猫兄さんがいて世話していました。

次は富津岬です。内房とは、千葉県南西部,房総丘陵の浦賀水道に面する海岸地方。一般に富津岬から館山市西端の洲崎(すのさき)にいたる海岸をいうそうです。風が強く海水が道路まで押し寄せていました。岬の展望台から陸地の方を見ています。海水の無い時の写真がありました。

富津岬展望台(明治百年記念展望台)

★ランドマーク富津岬:富津岬(ふっつみさき)は、千葉県富津市の小糸川河口付近から東京湾に面して南西方向に約5kmにわたって突き出した岬。

小糸川河口から岬の先端まで続く富津洲(ふっつす)と呼ばれる細長い砂州と、そこから磯根崎まで続く富津平野(ふっつへいや)と呼ばれる三角形の沖積平野から構成されるが、前者のみをもって「富津岬」と呼称する場合が多いそうです。

富津岬の空中写真。砂州の先端沖にある島は第一海堡。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。(ウイキペディアより)

突端まで行ってみました。

展望台からの景色です。

南に向かいました。

R127号線を南房方面へと下って行き、『JR内房線/佐貫町駅』に差し掛かろうかとするころに巨大な醤油樽が2つ並ぶ駐車場がありました。そこにちょっと寄ってみました。、その裏手には歴史を感じさせる宮醤油店がありました。

★玉サ醤油:有限会社宮醤油店:上総佐貫藩は譜代大名松平(能見)勝隆公の1万 5千石の城下町でした。富津市佐貫の城下町に天保五年(西暦1834年)の創業以来、170有余年。伝統の木桶と土蔵にすみついた無数の酵母が、鉄分の少ない良質の湧水とともに、味わい深い醤油を造り出してくれているそうです。

中尾見学させてくれるそうですが、寄らずに帰ってしまいました。こんな伝統的な絞り機を使っているようです。

我々の子どもの頃昭和30年くらいまでは、それぞでの農家で醤油を作っていました。冬場の農閑期には村で共同で持っている醤油絞り機で醤油を絞って、釜で煮詰めて樽詰めをしていました。

だいぶ夕暮れになってしまいましたが、内房の突端の洲崎灯台に到着しました。きみさらずタワーは登りませんでしたが、こちらは挑戦してみました。の登り道の社がありました。

庚申祈願の社です。

灯台の足元で撮りました。東京湾の眺めです。三浦半島でしょうか。富士山も見えます。

望遠で撮ってみました。

灯台の周りに菜の花やスイセンが咲いていました。

この後千倉に向かいました。

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京都散策

2012年05月27日 11時16分46秒 | 観光地散策

大阪出張の帰り京都を散策しました。5月26日最初は南禅寺内にある琵琶湖から京都へ水を引く水路閣へ。ここは、琵琶湖疏水の分線(蹴上以北)にある水路橋で1888年(明治21)完成しました。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、デザインしています。全長93.2メートル(幅4メートル、高14メートル)レンガ、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、静かな東山の風景にとけこんでいます。市指定史跡となっています。
そこから石川五右衛門が絶景なりと叫んだ三門へ。三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表します。空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられます。現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。また、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名です。
山門から見た新緑です。
さらに銀閣寺に向かいました。銀閣寺は、正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
相国寺は臨済宗相国寺派の禅寺です。初祖達磨大師が中国に伝えた、いわゆる禅宗を起源とする一派で、日本に伝わったものは臨済宗をはじめ曹洞宗、黄檗宗などがあります。臨済宗は、正法とされるお釈迦さまの正しい教えを受け継ぎ、宗祖臨済禅師をはじめ、禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師から今日にいたるまで、師から弟子へ連綿と伝法された一流の正法を教えとしています。そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派です。

ここからはタクシーで飛んで600年の歴史のある「かざりや」であぶり餅とお茶をいただきました。私たちの入った、かざりやは江戸時代創業、400年を迎えます。一方向かい、北側の一和(正式名 一文字屋和輔)の創業はなんと長保2年(1000)だそうです。平安中期一条天皇の子が疫病を患った時、疫除けの願いを込めてあぶり餅を供えたのがはじまりだとかいわれています。
これより今宮神社へ参拝した際は、無病息災を祈りあぶり餅を食べる風習となりましたが、それは今も続いています。

「そうだ京都へ行こう」の宣伝写真になった高桐院では額縁に見立てた庭園を見ました。高桐院(こうとういん)は京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院です。大本山大徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつです。開基(創立者)は細川忠興(三斎)、開山(初代住職)は玉甫紹(ぎょくほじょうそう)だそうです。

千本釈迦堂にある阿亀多福像の由来に感心して最後は北見天満宮でした。北野天満宮は、菅原道真公(菅公)をおまつりした神社の宗祀(最も中心になるものとして尊びまつる)で、親しみを込めて「北野の天神さま」と呼ばれています。
平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが、当所に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされます。江戸時代には教育施設として各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室には必ず天神さまがおまつりされ、あるいは神影(菅公のお姿を描いたもの)が掲げられ、学業成就や武芸上達が祈られてきています。

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