ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

虎ノ門ヒルズ

2013年04月30日 23時41分40秒 | 周辺散歩

今日は勤め先の周辺を散策しました。近くにある都心では珍しい歩道橋です。ここから霞が関ビルを見ています。新橋駅方面です。虎ノ門方面に歩くと東京タワーの見える交差点に出ます。タワーの右手に見えるのは建設中の虎ノ門ヒルズです。虎ノ門ヒルズとは、虎ノ門から新橋を結ぶ「幻のマッカーサー道路」と呼ばれる「環状2号線」の再開発計画の一つ。森ビルは東京都より「特定建築者」に認定され、森ビルのプロジェクトで建設されています。
「立体道路制度」の活用により建築物の中を環状2号線が貫通する計画で、特定建築者は、東京都建設局の委託により、地下トンネルの整備も行います。メインとなる超高層棟(虎ノ門ヒルズ)は、都内で2番目の高さを誇り、上層部から、ホテル、住宅、事務所、カンファレンス、商業施設を整備するものです。ちなみに一番高いビルは、東京ミッドタウン・タワービルだそうです。
交差点の北側は、これも最近できたイイノホールの入っているビルです。こちらは日比谷通りの西新橋交差点です。日比谷公園方面を見ると手前に日比谷シチーが見えます。これは日比谷通りです。箱根駅伝で増上寺からゴールに向かって走る所です。新橋と虎ノ門の地下は銀座線が通っています。銀座線の黄色い電車です。地下鉄1

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洲崎(江東区)

2013年04月27日 13時55分19秒 | 近郊地散策

洲崎橋跡や洲崎神社を撮ったので、少し洲崎について調べてみました。洲崎は、歌川広重「江戸名所百景」の「深川洲崎十万坪」の舞台です。
(写真はウイキベディアより)海岸がここまであって、海を望む景観がすばらしかったと言います。明治期から1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原と並ぶ都内の代表的な遊廓が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であったそうです。大門通りというのがありました。
洲崎大門(すさきおおもん)は、現在の永代通り「東陽三丁目」交差点から東陽1丁目方向へ入ったところにあった洲崎橋に設置されていた外門で洲崎遊郭への正面玄関。吉原の吉原大門と同じ類のもので、戦前は鉄の門柱であったが戦後の隆盛時は「洲崎パラダイス」の名が掲げられた大きなアーチ形の門が設置された。昭和33年の洲崎パラダイス廃止に伴い門は撤去された。とのことです。大門(おおもん)通りは、 洲崎遊廓の正面玄関だった洲崎大門から、吉原遊郭の吉原大門がある土手通りを繋ぐ一本道。遊郭の大門と大門を繋ぐ街道として発展し、現在もバス通りとしてその名が残っています。華やかなりし時代には、遊郭へ遊びにやってくる男たちで賑わった。そうです。
この道は、錦糸町から有明のテニスコートに行く時に、バスでいつも通っていたところです。
洲崎神社の近くにこんな橋もありました。新田橋です。橋の説明には「大正時代に、岐阜から上京し木場5丁目に医院を開いた新田清三郎は、町の相談役なども務め人望の厚い医師だった。しかし、昭和7年(1932年)、不慮の事故で夫人を亡くしてしまう。新田医師は、最愛の妻の慰霊のために橋を架けることを決める。そのとき、多くの町人たちが労を惜しまず建設に携わった。当初は『新船橋』と名づけられていたが、新田医師が亡くなったあと、地域の人々から慕われていた〝木場の赤ひげ〟を忍び、『新田橋』に改名された。初代の橋は今も、『八幡堀遊歩道』に保存されている。」とあります。下の川は大島川( 現在は名称が変わり大横川の一部)です。洲崎川ともつながっていました。かつての海岸線であったところに造成された川です。下流に平木橋がありました。平木橋から新田橋を見ています。
木場公園の方を見たらスカイツリーが遠くに見えました。


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洲崎神社

2013年04月27日 12時21分46秒 | 近郊地散策

中3孫娘の海外短期留学の公開抽選会が豊洲の教育センターであり、傍聴しました。曙橋に鍼灸治療に行く日ですが、江東区保健所にお邪魔しても、時間があったので付近を散策しました。東陽橋江東区は運河の町のようになっていますがここは汐浜運河です。木場まで歩こうと思って歩き出したら
川の跡(堤防や杭)を見つけました。ちょっとブラタモリの気分で歩いてみました。埋め立てた後は緑道公園になっています。ムクドリに会いましたが写真を撮る前に飛び立たれてしまいました。しばらく歩いたら洲崎橋跡に出合いました。今は川でなく自転車道路が下を走っています。公園は洲崎川を埋め立てたようです公園の突き当りにまた運河(大横川南支流)があり、橋は弁天橋となっていました。なぜ弁天なのかと思って橋を渡ると左手に神社がありました。洲崎神社です。洲崎神社は当初、元弁天社と称し、厳島神社の御分霊祭神・市杵島比売命を斎祀しています。生類憐れみの令で有名な江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が守り神としていた元弁天社を、1700年(元禄13年)に江戸城中の紅葉山から遷したことが起源で、海岸から離れた小島に祀られたために「浮弁天」と呼ばれたそうです。鳥居をくぐった左脇には「波除碑」と「津波警告の碑」があります。由緒によると「洲崎周辺は1791年(寛政3年)の台風による高潮で多くの死傷者を出し、洲崎弁天も大破した。このため、幕府は一帯の土地を買い上げて空き地とした。当時は松平定信による寛政の改革が行われていた。
 波除碑は3年後の1794年(寛政6年)に建てられた。この年は謎の浮世絵師・東洲斎写楽が活動した年であった。波除碑は江東区牡丹の平久橋にも建てられ、二基とも1976年6月4日に東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定された。」とのことです。


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普門院

2013年04月25日 23時10分11秒 | 自宅周辺探索

自宅周辺散策の4カ所目は普門院というお寺さんです。ここも40年近く脇を通っていたのに、一度も寄ったことがありませんでした。普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。 亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。と書かれています。
伊藤左千夫の墓があるようです。
持経観音の銅像これがそうでしょうか。
観音菩薩(かんのんぼさつ)の教えは、「いつどこからはいっても良く、身につけるのも自由、出るのも自由。浅いから無学ということもなく、深いから教養があるというものではない。ましてや身分や宗派の違いなどどうでもよい」という「普門の精神」にもとづいて説かれるものだそうです。
通りかかった近所のおばさん言っていましたが、歴史あるお寺さんなので、もっと手入れしたらよいのにと思いましたが、亀戸にこんなうっそうとした森があるのが良いという人もいたそうです。誰にも邪魔されないので、ネコものんびり寝ていました。ちょっと近寄ったらうるさそうに顔をこちらに向けてくれました。

亀戸七福神の毘沙門天が収められているところのようです。

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常光寺

2013年04月25日 21時39分36秒 | 自宅周辺探索

亀戸水神を見てから、常光寺に寄ってみました。 七福神にはあまり興味がないのですが亀戸七福神のひとつ寿老人が祀られているそうです。境内には六阿弥陀道道標がありました。江戸六阿弥陀詣の6番目霊場ということで、六阿弥陀詣は春と秋のお彼岸に行基作の6体の阿弥陀像を参詣することで、江戸時代の人にとっては行楽の一つであったそうです。他の5か所は、西福寺、無量寺、与楽寺(以上北区)、恵明寺(足立区)、常楽寺(調布市)となっています。
由緒書きには「本道標は、塔身・基礎より構成され、塔身の正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右六阿弥陀道」と陰刻があります。
 また、右側面の刻銘から、延宝7年(1769)2月15日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町1丁目)の「同行六十人」により建てられたものとわかります。
 本道標は、江戸六阿弥陀詣に関する最古の道標であるとともに、区内に現存する道標としても最古のものです。また、江戸で広まり亀戸にも札所のあった六阿弥陀信仰とその札所巡礼といった地域的特色を示すものとしても貴重な道標といえます。」とありました。


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