ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

うたごえ喫茶ともしび

2014年01月31日 23時02分33秒 | 身辺出来事

金曜日は鍼灸治療に新宿の曙橋まで通っています。治療を終えて新宿3丁目のともしびまで歩いてみました。

途中に花園神社があるので通り抜けていきました。午後5時30分ころでしたが、暗くなっていました。

脇を通り抜けると新宿ゴールデン街の看板がありました。

神社のすぐ裏です。

まだ早い時間なのか数件しか開いていませんでした。ゴールデン街を抜けると新宿区役所の前に出ます。区役所側からの入り口です。

うたごえ喫茶ともしびでは金指修平さんのミニコンサートでした。

店内はこんな感じです。

今は、喫茶というより、うたごえ酒場という感じです。

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浅草寺

2014年01月28日 23時13分41秒 | 訪問地周辺散策

浅草にある支店を訪問しました。少し早めに会社を出て田原町から歩いてみました。たまたま乗り合わせた地下鉄は銀座線の復刻版でした。

ビューホテルに向かっていくと左手にお寺さんがたくさんありました。特に大きなお寺さんがあったので近づいてみました。浄土真宗東本願寺派の本山東本願寺です。

1651年、東本願寺第12世教如が神田に江戸御坊光瑞寺を建立したのを始まりとし、その後、京都の東本願寺の掛所(別院)となった。1657年、明暦の大火により焼失し、浅草に移転。「浅草本願寺」・「浅草門跡」と称されるようになり、21の支院と35の塔頭を抱え、境内は1万5000坪に及んだ。その伽藍は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』に「東都浅草本願寺」として描かれている。そうです。表に回っていくと親鸞聖人像でした。親鸞(1173年 - 1262年)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされています。表からの拝殿ここから浅草寺に向かいました。

浅草寺(せんそうじ)とは、東京都内最古の寺です。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していましたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となりました。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれています。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)です。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもあります。

浅草寺の前は伝法院です。この通りには修学旅行生やら外国の観光客もたくさんいました。浅草寺の正面に行ってみました。

寺のHPによると

浅草寺縁起(由来)
  時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。

こちらは隣の浅草神社です。浅草神社(あさくさ じんじゃ)は、浅草寺本堂右隣にある神社です。通称に三社権現(さんじゃ ごんげん)、三社様(さんじゃ さま)。5月17日の例大祭は三社祭といいます。

三社とは、社伝によれば、628年、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。

当日は小学生が先生の説明を聞いていました。

二天門本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建っていて、増長天(左)・持国天(右)をまつってあります。重要文化財指定。

鐘楼がありました。

これは、

松尾芭蕉の句にある「j花の雲 鐘は上野か 浅草か」と読んだものだそうです。

訪問地の5-6軒隣にある神谷バーの前からスカイツリーを撮ってみました。

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スカイツリー「粋」と「雅」

2014年01月24日 00時16分32秒 | 自宅周辺探索

23日にリハビリに行った帰りにスカイツリーを見たら「粋」カラーでしたので急いで橋まで行って撮りました。これで前に撮った「雅」と2色になりました。

これが粋です。

こちらが雅です・。

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松山城・子規堂

2014年01月22日 22時48分23秒 | 訪問地周辺散策

松山に宿泊して午前・午後と2か所訪問しました。宿の朝食場からの風景です。松山城が見えます。

午前の仕事を終えて松山城に向かいました。途中こんなものがありました。

秋山兄弟の生誕地です。と載せたのですが、調べてみたら戦争を指揮した人とうことで、これ以上書けなくなりました。

 

 

城ももともと戦(いくさ)の時のために造られているものですが、昔からある建物として散策しています。散策しながらいつも、築城の労力になった平民は苦労したのではないかと思ってみています。松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。松山城の創設者は加藤嘉明です。嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、四半世紀の後にようやく完成します。

梅の木がたくさんありますが、全く咲いていませんでした。この紅梅のつぼみが少しふくらんでいました。

城を見てから午後の訪問地に向かいました。

大街道と銀天街を歩いて行くと途中にお寺さんがありました。圓光寺です。慶安2(1649)年建立の寺。境内に正岡子規の句碑が立つ。7代住職、明月上人は書家としても知られる。毎年12月、伝統の精進料理である風呂吹き大根のお接待を行うそうです。

境内にはネコさんがピンクの毛布上でくつろいでいましたが、有名らしく写真も飾ってありました。この日はおばさんがかわいがっていましたが、お願いして写真を撮りました。

午後の仕事を終えて、空港バス停に向かいましたが、少し時間があったので、さらに周辺を散策してみました。子規堂が近くにあったので寄ってみました。

中の様子です。私が小さかったころと同じようだと思いました。ランプと電気の違いがありますが。

脇の墓地には、

向かいには

狸さんは、」

ということでした。坊ちゃん列車のころはまだ野原を通っていたようです。

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今治城・道後温泉

2014年01月22日 22時06分30秒 | 訪問地周辺散策

21日ー22日で愛媛県の施設を訪問しました。

初日は、羽田から松山空港へ、右の青いジェットで松山空港へ

JR松山駅から今治まで移動し、施設を訪問しました。訪問の前後、周辺を散策しました。

施設について少し時間があったので周りを見回したところこんなお寺さんがありました。四国霊場という文字を見て、四国にいることを実感しました。四国は行く先々に俳句の碑がありました。この寺には芭蕉の句がありました。本殿

仕事を終えてから、あまり時間がなかったのですが、今治城まで行ってみました。3年前に来た時に寄ったことを忘れていました。

藤堂 高虎(とうどう たかとら)です。ウイキペディアによると、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。と書かれたありました。

松山に帰り駅前では、

松山は正岡子規ということであちこちに句碑がありました。昔からの市電に乗って宿に向かいました。

いつも宿は大風呂のあるところをお願いしていてのですが、さすがに道後温泉のある松山では契約している宿がありませんでした。市電の1日乗車券を買って宿から道後温泉本館に向かいました。

市電の終点の道後温泉には坊ちゃん電車がありました。

 

 

温泉のHPより:道後温泉のシンボル、道後温泉本館は、明治27年に建築された三層楼のどっしりしたもので、近代的なホテルや商店街の中にあってひときわ風格ある姿を誇っています。
 浴場は二種類あり、1階の大浴場を神の湯、小さい方を霊の湯といい、浴槽は花崗岩でできています。
 泉質は、アルカリ性単純泉で、日本人の肌に合うなめらかなお湯。湯治や美容に、多くの人々から親しまれ、明治以来の伝統として暖かい落ち着いた感じを保持しています。    

2階には、霊の湯のほかに、神の湯を利用する人のための広間(脱衣場)があります。湯玉印のゆかたを貸してくれ、湯上がりには、炭火で沸かしたお茶が、天目茶碗に入れられて出てきます。
 また、「又新殿」をはじめ、夏目漱石ゆかりの「坊っちゃんの間」、俳人・河東碧梧桐の書軸などをおさめた「展示資料室」があり、観光客の人気を集めています。ということですが、今回も1階の風呂に貸タオルを借りて入りました。次回機会があったら2階も行ってみようと思います。

3年前と同じように風呂上りが隣の地ビール(道後ビール)のあるお店で一杯飲んで宿に戻りました。

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