ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

六本木ヒルズ

2013年08月28日 22時17分53秒 | 訪問地周辺

六本木にある施設を訪問しました。会社と同じ区内ですが地下鉄は乗り換え、バスで行けば乗り換えなしですが少し時間がかかります。訪問先で仕事を終え上を見上げたらヒルズの元祖六本木ヒルズでした。ヒルズ下のトンネルあまり高いので写すのが大変でした。地下道を渡って高速の反対側から撮ってみました。元祖と最初に書きましたが、六本木ヒルズは、高層オフィスビル 「六本木ヒルズ森タワー」を中心に、集合住宅 「六本木ヒルズレジデンス」、ホテル 「グランドハイアット東京」、テレビ朝日本社社屋、映画館「TOHOシネマズ」などの文化施設、その他の商業施設などで構成されており、2003年(平成15年)4月に開業した。ということで、帰りのバスから見た赤坂アークヒルズはと調べてみたら、高層のオフィスビル、ホテル、集合住宅や、コンサートホール、放送局などから構成される複合施設として、1986年(昭和61年)に完成した。開発・運営は森ビルによるもので、当時の民間による都市再開発事業としては最大級の規模であった。とあり同じ森ビルの開発ですが17年も前にできていました。写真は森ビルのHPより

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隅田川から向島百花園

2013年08月28日 21時54分04秒 | 近郊地散策

昨日の続きです。隅田川の河畔を離れ、少年野球場に行きましたが、球場の前にはお菓子屋さんが二件あります。言問団子と桜餅の長命寺です。長命寺正岡子規もたしなんだようです。
堤通りを北上すると白髭神社がありました。由緒神社には当地のなす、寺島なすや雨水を溜めて活用するための水槽天水尊が設置してありました。
次に向島百花園に向かいました。江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江 戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。  
開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。と案内に書いてありました。
百花とは言えませんがいくつか花が咲いていました。オイランソウキキョウひがんそうと書いてあります。梅洞水(井戸)と百日紅ガマの穂私の好きなガマの穂です。小さいころ因幡の白ウサギの話を聞いて、赤裸のウサギをガマの穂で包んだということで興味を持っていました。名物のハギのトンネルは1-2輪咲いていました。

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墨田区役所・勝海舟像・隅田公園周辺

2013年08月27日 23時46分45秒 | 近郊地散策

会社に代休をいただいて、墨田区教育委員会の学校給食従事者の講習会講師をしてきました。秋を忍ばせるさわやかな日和でした。区役所に行く途中で見たスカイツリーです。公園の花もきれいに咲いていました。少し時間があったので、隅田公園に寄ってみました。池の端の木にゴイサギが雨上がりのあとだったので鳩が泥遊びをしていました。これは牛島神社から出てきたネコさんです。
講習会終了後はリハビリに行きました。リハビリの整形外科のあるところは区役所の前のこのビルの隣です。
区役所テラスから隅田川をみると観光船が区役所の敷地内には勝海舟の像が立っています。高知で坂本竜馬の像をみましたが、その迫力には及びませんが凛々しく立っていました。
区役所から隅田川を北に向かうとこんなものがありました。現役の時は見向きもしませんでしたが、改めて見てみると、隅田川で行われていたレガッタを明治天皇が見に来ていてことが記されている碑でした。進んでいくとX橋です。(人道橋)これは河畔に立っていた常夜灯です。
河畔の見聞はここまでです。
昔レガッタが盛んだったころに漕艇庫のところにできた少年野球場は王貞治選手が育ったところです。

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グランドハイツ

2013年08月25日 21時09分06秒 | 近郊地散策

光が丘のホールで行われたともしび合唱団の定期演奏会に行ってきました。光が丘は昔グランドハイツがあった場所です。公園の案内にもそのことが書いてありました。公園1
60年以上も前、小学校の頃東武練馬住んでいた叔母のところに泊りに来た時に、グランドハイツ行きというバスによく出会いました。叔母からは米軍の施設が近くにあると聞かされていました。そんなことで光が丘には興味を持っていたのですが、今日初めて訪れました。開発されたころはバスしかなかったのですが、今は都営地下鉄大江戸線の終点となっています。公園に続く道路には立派なイチョウ並木がありました。このイチョウ並木は、元は有楽町の旧都庁前にあったものを、JR京葉線建設工事の際に光が丘公園に移設したもので、樹齢100年を越す大イチョウが40本もあるそうです。それらしい大木がありました。紅葉のころにまた来たいものです。
清掃工場や運営が問題になっている病院などもありました。ウイキペディアにはグランドハイツについて「1942年(昭和17年)、日本陸軍は帝都防空を目的に成増飛行場をこの地に建設した。戦後になって同飛行場を接収した連合国軍は、この地にアメリカ陸軍家族宿舎を建設した。その後、1958年(昭和32年)にはアメリカ空軍第5空軍が管理を引き継ぎ、後に、アメリカ空軍第34空軍の家族宿舎 (Grant Heights 34th Air Base Housing Area) となった。
正式名は、時期により「グラントハイツ (Grant Heights)」、「グランド・ハイツ住宅地区」、「グラント・ハイツ住宅地区 (Grant Heights Housing Area)」と推移する。名称の由来は、第18代アメリカ大統領のグラント将軍にちなむ。
敷地面積約1.81km²、建物数約730、入居家族世帯は1,284で、各種施設があり、多くの日本人も、メイド、ボーイ、運転手として働いた。
現在は、東京都練馬区光が丘の全域およびその周辺地域である。」と書いてありました。

ところで、ワシントンハイツというものあったような気がして調べてみたら、5月に訪れた代々木公園・NHKのところでした。
ワシントンハイツ:連合国軍占領下の日本において作られた、アメリカ空軍およびその家族のための団地でした。代々木の92.4万平米に及ぶ敷地に兵舎のほか、駐留軍人とその家族が暮らすための827戸の住宅、さらに学校、教会、劇場、商店、将校クラブなどが設けられていたそうです。

アメリカ軍による東京大空襲などによって廃墟と化していた東京都心にあって近代的なアメリカの町を実現したワシントンハイツでしたが、周囲は塀で囲われ、日本人の立ち入りは禁じられており、ここに居住していたのは、駐留アメリカ軍のうち、主に中位の軍人とその家族であったということです。

もともと、この地は敗戦前まで大日本帝国陸軍の練兵場で、「代々木の原」と呼ばれていたところでした。ワシントンハイツの建設は、占領アメリカ軍の要求によって、日本政府の責任と負担に基づいて行われたそうです。



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雑司ヶ谷周辺

2013年08月20日 23時09分41秒 | 訪問地周辺

19日は目白の施設と雑司ヶ谷の施設の訪問でしたので、目白通りを歩いてみました。学習院大学のあるところは木々が高く陽を遮っていたのですが、中等学校のところは気が低く日陰になりませんでした。そこを通り過ぎると橋に出合いました。千歳世橋でした。橋というので下は川かと思いきや明治通りと都電が走っていました。
千登世橋(ちとせばし)は、橋上に目白通りを通し、明治通りとの立体交差になっており、東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨ぐ。目白駅・学習院大学方向の西詰めに明治通りへの斜路も構築されている。
周辺は目白台地と関口台地の境目になり、都電の軌道付近には湧水の流路があった。また高台のため付近にはのぞき坂などの急坂も多く、これらの高低差ある地形を活かした設計となっている。
戦前の完成で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初期のものであり、今なお現役であるため土木技術的価値も高く「東京都の著名橋」の一つでもある。 平成2年(1990年)には町の美観と調和させるため親柱や高欄の意匠が改修された。と、ウイキペディアに書いてありました。
こちらは大鳥神社です。「元は雑司ヶ谷鬼子母神(威光山法明寺の境外仏堂・鬼子母神堂)の境内に鷺明神として祀られていた。
『新編武蔵風土記稿』などによると、正徳2年(1712)松江藩主松平公の嫡男が天然痘にかかった。託宣によって鷺明神に祈願したところ、霊験を得て快癒したため、雑司ヶ谷鬼子母神の境内に祀ったのが始まりであるという。鷺様とも呼ばれ、疱瘡除けの守り神として信仰を集めたという。
もともと雑司ヶ谷の鎮守は鬼子母神であった。しかし、明治の神仏分離により、鬼子母神を氏神とすることはできなくなったので、鷺明神を大鳥神社と改称して分離し、氏神とすることになった。とはいえ、鎮座地を確保することも難しく、40坪の借地に祠がある程度であった。
明治20年(1887)これを見かねた旧幕臣の矢嶋昌郁は、200坪の自宅を寄進するとともに、自ら祠主となって神社の復興に努めた。その後、近隣の発展とともに社運も興隆し、氏子崇敬者の協力を得て境内を拡張整備し、現在に至る。
境内社の三杉稲荷神社は大鳥神社の兼務社であったが、首都高速五号線開設のため、大鳥神社境内に移転鎮座した。
11月の酉の市は多くの参拝者が参拝し、東京を代表する酉の市の一つとなっている。」とお寺のPHに書いてありました。
西宮神社の恵比寿さんが祀ってありました。
近くに毘沙門天を祀ったところがありました。雨乞いの松です。
その昔清龍院は、今をさかのぼること780年ほど前より、御嶽山清龍院と呼ばれ、境内に雨乞いの松があり、日照りのたびに人々が集まり、緑を潤す雨を願い雑司ヶ谷に雨を恵むと言われていました。
 また、門前にある「かさもり、薬王菩薩安置」という石碑は皮膚病に霊験あらたかであるとして、当時参拝人で大いに賑わったことの名残です。と紹介されていました。
 これはペット霊廟です。
お寺さんは清龍院というようですが、看板には清立院と書いてありました。なんだかよく分からないですね。

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