ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

新宿御苑・雪被害・寒桜・梅花

2014年02月28日 23時21分26秒 | 近郊散策

金曜日は鍼灸治療で曙橋に通う日です。暖かさにつられて、いつもの1時間前に出かけて新宿御苑に寄りました。入り口で雪で木が倒れたので3分の1くらいは入れませんと言われました。結構倒れていました。特にヒマラヤスギ?と桜の木が被害を受けていました。千駄ヶ谷口から入ると花が見えてきません。蠟梅の木も道路側に倒れていました。いつの御涼亭の所に出てみました。池の向こうに桜が見えました。近道は倒木で危険なので行けなく遠回りをして寒桜の前に出ました。少ない花を求めて人が集まっていました。日本庭園にも入れないので新宿口に向かったら梅の花に出合いました。

裏道みたいにひっそりしていました。前に10月桜が咲いていたところに出たところボリュームのある寒桜に出合いました。これはちょっとすごかったです。傍にはみつまた(三椏)の花が咲いていました。ちょうど今読んでいるはぶらり平蔵の風花の剣で九十九平の紙漉きで楮や三椏の話が出ていました。枝が三つに分かれているので三椏というと書いてあり、なるほどと思ったところです。いつもネコさんはいつもの場所で凛としていましたが、少しおどけてくれました。相棒はおじさんとおばさんのところで寝転んでいました。

 

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日暮里・舎人ライナー

2014年02月26日 23時22分53秒 | 訪問地周辺散策

舎人ライナーで日暮里から3駅目にある赤土小学校前の近くにある施設を訪問しました。3年ぶりに舎人ライナーに乗ってみました。ゆりかもめと同じ方式なのでしょうか。景色はゆりかもめ沿線とは全く違っていました。特に舎人公園は樹だけの公園のようでした。

高速道路の上を走っていました。

 

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茅場町・摂社日枝神社

2014年02月24日 23時15分11秒 | 訪問地周辺散策

茅場町にある施設を訪問しました。20日に行ったノロウイルスのリスコミのあった場所の隣の施設でした。周辺を散策してみました。

この神社は、千代田区永田町の旧官幣大社・日枝神社の摂社・御旅所だそうです。天正年間(1573~92)より、日枝神社の祭礼に八丁堀北嶋祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことを起源とする。寛永年間、現社地が御旅所に定められたとのことです。
大正4年(1945)、本社の日枝神社が官幣大社に昇格したのに伴い、本社の境外摂社とされ、関東大震災の後、昭和3年(1928)に社殿が造営された際、境内末社の北野神社・稲荷神社・浅間神社の祭神を本殿に合祀した。ということだそうです。

石柱には「官幣大社・日枝神社 摂社日枝神社」と書いてありますが、正式には「日枝神社日本橋摂社」というらしいです。「摂社」これも意味が分かりません。辞書では本社と末社の間に位し、本社の祭神にかかわりをもつ神などを祭った神社。とこれもよくわかりません。

ウイキペディアでは:現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社>摂社>末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。と書いてあります。

神社の裏には

智泉院がありました。こちらは、徳川家康が、 江戸城鎮守の山王日枝神社の神輿が渡る所である山王御旅所を南茅場町に設置した際に、 山王権現の本地佛としての薬師堂を寛永12年に建立、智泉院がその別当寺となり、山号を鎧島山から醫王山へ改めたといいます。 江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、 茅場町のお薬師様は特に人々の参詣も多く、他所の仏像開帳もしばしば行われていたということらしいです。

地蔵尊です。
青銅製で像高は235㎝。作者は日本橋本小田原町で生まれた彫刻家、戸張狐雁。関東大震災でなくなった人々の供養のために、日本橋魚河岸の“地蔵講”が製作発願し、昭和2年9月1日除幕式が行われた。 -中央区民文化財-

 興味がなかったので、ちゃんと撮れませんでしたが、半分写っている天水鉢は、天保12年(1841)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名や、町に住んでいた人々の名が刻まれています。鋳出した釜屋七右衛門は、通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師でした。この天水鉢は、当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されているものらしいです。

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ネコ駅長貴志駅

2014年02月20日 18時28分18秒 | 訪問地周辺散策

和歌山2日目は午前中で仕事を終えたので、ネコ駅長さんで有名な和歌山電鉄貴志川線に乗ってみました。イチゴとネコ駅長が売り物のようです。列車にも工夫があって途中ですれ違った列車はおもちゃ列車でした。貴志駅ではネコ駅長がお迎えです。でも今日は非番らしく昼寝の最中でした。スマホを向けたら起きだしてくれました。ご飯の時間になり歩き回っていました。駅舎もタマの顔をしています。タマの経歴が書いてありました。とうとう大明神になり社が立ちました。駅舎の右側は記念品のグッツとタマ駅長の部屋、左側はカフェになっています。コーヒーを飲んでネコのしっぽをいただきました。帰りの列車は絵手紙列車でした。

 

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和歌山城と梅

2014年02月19日 22時28分41秒 | 訪問地周辺散策

和歌山には3年連続での訪問となりました。訪問先が和歌山城の目の前にあるので、とりあえず和歌山城という感じになっています。

大手門と一の橋、バス停の公園前で降りるとここから入ります。

橋から濠をみていると鴨が2羽近づいてきました。橋の近くでゆったりしていました。一の橋から入るとすぐのところに

天然記念物の大樟樹があります。

和歌山城は、市のHPによると、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさわしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。
そして、元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に来たことを実感させてくれます。と書かれています。

これは御橋廊下です。江戸時代には藩主とお付の者だけが藩の政庁や藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた橋で、屋根を設け、外からは見えないつくりになっていました。斜めに架かる橋としては、全国的にも珍しい構造です。
約11度の角度で斜めになっているため、滑り止めのために段差がつけられています。渡りましたがすごく歩きにくかったです。左側の公園に数本の梅の木が植えてあり、少し咲いていました。黄色と白とピンクのうめの花と城です。天守の下の庭には梅干しの梅の木として有名な種類の梅の木が植えてありました。南高梅は、梅の品種のひとつで、主たる生産地が和歌山県の白梅で、その果実は最高級品だそうです。2006年10月27日には地域団体商制度の認定第一弾として、南高梅は地域ブランドとして認定されています。

江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれました。
これは、和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたためと言われています。
この像は、和歌山城の別名にちなんで、昭和三十四年に作られました。
(現在の像は二代目にあたり、初代の像は銅製であった為、第二次大戦中、供出させました。)。

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