ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

8月の花

2017年08月30日 19時55分34秒 | 季節の花

花枯れの8月に撮った花をまとめてみました。

夏の象徴ヒマワリの花です。

ヒルガオ

初めてみました。ヘビウリです。

シマヘビのようでした。

こちらはニシキヘビ?

こちらはジムグリ程度でしょうか。

花は可憐な花です。

花を追いかけていたら蝶が止まっていました。

夏の定番は

百日紅

ムクゲです。

ノウゼンカズラは6月?から咲いています。

ノボタンも結構長く咲いています。

酔芙蓉、午前中はしらふの白ですがだんだんと色がついて午後はピンクになり酔った色になります。

蔓バラもしつこく咲いています。

アメリカフヨウ

タイタンビスカです。タイタンビスカはアメリカフヨウとモミジアオイからできたそうです。

白のタイタンビカス

アベリア

アベリアのピンクのものはエドワードゴーチャーというらしいです。

これは珍しいハンカチの花です。

これも珍しいので撮ってみました。

ショウジョウソウです。女郎花は秋の七草

萩も

蓮も6月から咲いています。

ダリア

ハツユキソウ

パラガイオオオニバスの花、今年はあまり綺麗に咲きません。

水蓮もすくなくなりましたが8月も咲き続けています。

サルビアとムラサキサルビアと呼んでいましたが、ブルーサルビア「正式名は「サルビア・グァラニティカ」というようです。

アラゲハンゴンソウでしょうか。

キバナコスモスホウセンカハゲイトウ綺麗な花ですが名前がわかりません。

こちらはオシロイバナです。

 今年は天候不順で、花にもよくなかったようです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥山・音無川(北区)江戸名所図会めぐり

2017年08月25日 08時52分41秒 | 江戸名所図会めぐり

30年以上前に一度訪れたことがありましたが、今回は江戸名所図会めぐりの一つとして訪れました。音無橋のところから見ています。唯一残っている都電が走っています。飛鳥山の碑です。

★ランドマーク飛鳥山: 飛鳥山の地は武蔵野台地の縁辺部にあたり、上野・道灌山に続く台地の北東端に位置します。享保5年(1720)、八代将軍徳川吉宗による鷹狩復活にともない、将軍の御膳所となる王子・金輪寺の周囲に桜270本が植樹されました。続く同6年(1721)には、吉宗の意向により、江戸の人々の遊園とするため、飛鳥山全山に1000本の桜が植えられました。やがて、元文2年(1737)3月、土地も旗本領から王子権現の所領へと移され、飛鳥山は老若男女・貴賤を問わず訪れることができる桜の名所として広く開放されました。 

 そして同年閏11月、幕府の主導により、江戸城吹上にあった紀州の巨石を使った石碑が飛鳥山に建立されました。成島道筑(なるしまどうちく)による碑文には、紀州・熊野につながる飛鳥山の由緒や桜植樹と所領替えの事績について刻まれており、紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味をもっていました。

東京都指定有形文化財(古文書)大正9年3月指定

これを読み砕いた人がいますので、興味のある方はみてください。

http://ginjo.fc2web.com/018hanaminoadauti/asukayamahi_kai.htm

「飛鳥山の碑は難解とされ江戸の川柳の題材にもよく取り上げられている。現在までに正解とみられる活字文はなく、今回のように全文を平仮名でもって読みをつけたものもない。碑文は漢文をもって書かれ、使用される文字は日常に使用する辞典には見られないものもあり、その意味もわかりかねるものが多い。また漢文とはいえ作者は日本の人であるので、日本の漢文といったように文章を理解しないとわからない面もある。」として全文訳してあります。

広場になっています。

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」よりこれをひとつにして色を付けています。

キャプション:花をいでてまつへしみこむ霞かな 嵐雪

江戸切絵図

飛鳥山からは筑波山がよく見える名所でもあるようです。錦絵にもたくさん描かれています。

広重 名所江戸百景 飛鳥山北の眺望 広重 東都三十六景 飛鳥山 「桜と筑波山」

西の方角には富士山も見えた。

広重 冨士三十六景 東都飛鳥山

★文化財説明板桜の賦の碑:桜の賦(ふ)は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山(さくましょうざん)の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座(れんざ)松代に蟄居(ちっきょ)中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。
この賦は象山50歳(万延元年1860)の作と云われ2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞(しんしょう)を賜った。象山は蟄居赦免(ほうめん)となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが一徹な尊皇攘夷(そんのうじょうい)論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨(いぼく)をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠(まさなり)の文で書は日下部鳴鶴(くさかべめいかく)である。明治14年11月15日と刻まれている。この下に挿袋(そうたい)石室が埋蔵されている。

明治38年の戦争というのは日露戦争ですね。こちらは聖観音菩薩像、赤堀信平氏が昭和51年に飛鳥山公園に建立し北区へ寄贈したもののようです。

右下に飛鳥橋とかかれています。川は音無川です。上の絵の右側につながっているようです。

江戸高名会亭尽 王子

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」より 飛鳥山下

キャプション:飛鳥橋のあたりは、貨食舗(りょうりや)の亭造(やつくり)壮麗にして、後亭(さじき)のまへには皓潔(こうけつ)たる音無川の下流 (ながれ)をうけて、生洲(いけす)をかまふ。この地はるかに都下を離るるといへども、つねに王子の稲荷へ詣ずる人ここに憩ひ、終日 (ひねもす)流れに臨んで、宴を催し、沈酔すもも多し。夏日はことさら凛々たる河風に炎暑を避けて、帰路におもむかんことを忘るるの輩 (ともがら)もまた少なからず。

電車から王子駅の南側飛鳥山の下のところに萎びた飲食街が並んでいたのをおぼえています。このさくら新道は2012年1月21日の火事でほとんどなくなりました。どうしてこんなところに飲食街が並んでいるのか不思議に思っていましたが、江戸時代の名残だったのでしょうか。

音無川を少し遡ると今は親水公園になっています。川の本流は暗渠にして別ルートになっているようです。音無橋

橋から下を覘いてみました。

★音無親水公園は王子駅前に流れる石神井川(音無川)を整備しつくられた公園。木橋、東屋、行灯(あんどん)、水車などを配する純和風のつくりが特長。春は桜が咲き誇り、夏は水遊びが楽しめる。3つのアーチ型の優雅な曲線美を誇る音無橋が架かり、夜はライトアップされ昼とは違った趣を見せる。日本の都市公園百選にも選定されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王子稲荷神社、江戸名所図会めぐり

2017年08月22日 10時40分33秒 | 江戸名所図会めぐり

王子神社から王子稲荷神社に向かいました。途中子育地蔵尊があったので撮りました。

★ランドマーク王子子育地蔵尊:釈迦如来が没してから弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に衆生(しゅじょう)を救済する菩薩と信じられてきました。

ここの地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した像の高さ122.0センチメートルの石造地蔵菩薩立像(せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう)です。昭和20年4月14日の戦災によって火を浴び、像の表面が剥落(はくらく)しており、造立した年代や造立者はわかりません。

しかし、昭和3年(1928)12月に出版された『王子町誌』253頁の記事によれば、子育地蔵尊は、王子大坂にあって山本家の祖先が誓願して室町時代の末期に造立したと述べられています。また、当時の堂宇は元禄時代に改築したものだとも記されています。この記述は当時の執筆者が聞き取った伝承を、そのまま書いたものだろうと考えられ、これから俄かに現在の像の造立年代を判断するには裏付けの資料が不足しております。

しかし、その信仰については「古来、子育及商売繁盛の地蔵尊として信仰せられ、毎月、四の日の縁日には参拝する者、実に夥(おびただ)しく、縁日商人の露店を張るものも頗(すこぶ)る多いので、その賑ひ、真に筆紙の及ぶところでない」とあり、昔から子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。

王子稲荷に向かうので王子大阪を登ってしまいました。途中で右折れすれば稲荷に着いたのですが登り切ってから稲荷の坂を下りてようやく到着しました。こちらは稲荷坂口の鳥居です。ここから入ったのでよくわかりませんでしたが、江戸名所図会のように山の途中に立っているようです。江戸名所図会より

広重たちの錦絵もたくさんあります。広重 東都名所
江都名所 王子稲荷の祠より

昔の様子がしのばれます。

 広重 名所江戸百景
王子稲荷の社 です。遠くに見えるのは筑波山です。

歌川広重2代の東都三十六景
王子稲荷 です。

下にある表門です。錦絵と同じようになっています。

表門で紹介されています。2月の初午には開示されるようです。

入ると右手に幼稚園があるのでこちらからは登れないようになっています。鳥居のところまでは行かれました。右手に市杵島神社、弁天さんがありました。

拝殿です

★ランドマーク王子稲荷神社:関東稲荷総社の格式を持ち、江戸時代より庶民に親しまれてきました。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。

年末には地元の方々の催す「王子狐の行列」が新しい風物詩となっています。また、毎年2月の午の日に開かれる凧市は、たびたび大火にみまわれた江戸庶民たちが「凧は風を切る」として火事除けの縁起をかつぎ、今なお親しまれています。

国認定重要美術品の「額面著色鬼女図」、谷文晁の龍図を所蔵しています。境内にある「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。

水盤です。神楽殿

社務所のところに案内がありました。鳥居を通ります。石灯籠は宝暦10年(1760)と銘記されています。井戸がありますがこれは文政4年(1821)でしょうか。本宮社

鳥居を抜けると境内社が突き当りに、左手にお石様

お石さんの前の狐です。

この階段を昇ります。

左手の階段を昇ると狐の穴のお社があります。社のまえに石碑が建っています。

社の中は祠と

狐の穴跡がありました。

「狐の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなっています。

★ランドマーク王子の狐:王子の狐(おうじのきつね)は、落語の噺の一つ。初代三遊亭圓右が上方噺の高倉狐を東京に写したもの。人を化かすと言われる狐がかえって人に化かされる顛末を描く。結末は一種の考え落ちでもあろう。主な演者に8代目春風亭柳枝、10代目金原亭馬生、7代目立川談志などがいる。

あらすじ

王子稲荷(東京都北区王子)の狐は、昔から人を化かすことで有名だった。ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという腹らしい。そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。

かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人、油揚げならぬ天ぷらなどを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまう。しばらくして、店の者に起こされたお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。

狐を化かした男、友人に吹聴するが「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。

穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうなぼた餅。子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」

物語に出てくる扇屋は錦絵になっています。広重 江戸高名会亭尽 王子 扇屋

稲荷坂口には

石灯籠は明和6年(1769)の銘記です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王子神社(王子権現)江戸名所図会めぐり

2017年08月21日 21時37分58秒 | 江戸名所図会めぐり

王子は飛鳥山や水無川、王子稲荷神社などと多く江戸名所図会に描かれているので、一度行きたいと思っていました。リハビリのために自転車で行くことを考えていたのでなかなか実現しませんでしたが、JRで行くことで実行することができました。江戸名所図会より、右上の川の奥にあすか山が描かれています。

キャプション  咲きにほふはなのけしきを見るからに神の心ぞそらにしらるる 白河院御製

鳥居

詳しい由来が書かれていました。

★ランドマーク王子神社:創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。 戦国時代、当地の領主となった小田原北条氏も当社を篤く崇敬し、朱印状を寄せて社領を安堵しております。

 徳川時代に入ると初代家康公は天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。

 三代家光公は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。

 特に八代吉宗公は紀州徳川家の出自で、この地に紀州ゆかりの当社があることを大いに喜び、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る花の飛鳥山(現飛鳥山公園)の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。

 明治元年、明治天皇は新たに首都となった東京を守護し、万民の安寧を祈るため、准勅祭社を定めました。当社もこの東京十社に選ばれ、以来、東京の北方守護として鎮座しております。

 戦前は「太田道灌雨宿りの椎」と伝えられる巨木を始め、多くの樹木が茂り、勝海舟も修行したと伝えられますが、戦災で東京都指定天然記念物の大イチョウを残し、ほとんどを焼失したことは誠に残念なことです。

 戦後は氏子一同、復興に努め、昭和39年の第一期、昭和57年の第二期造営を経て、黒塗りと金箔をほどこした壮大な権現造りとして社殿を再建、境内を整えて現在の景観となっております。

★王子田楽:王子田楽は王子権現社(現在の王子神社)に伝承された民俗芸能で、始まりは、中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台(現在は滅失)で、花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが、当時の地誌などに記されています。戦争で長らく中断していた王子田楽でしたが、地域の人々の努力により昭和58年に復興を果たしました。現在は毎年8月、王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で、地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われています。

「関神社」は関蝉丸神社の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ(髪を結う時自分の髪に添え加える毛)業者」を中心として、江戸時代に王子神社境内に奉斎したことを創始としています。

「毛塚」は釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られた時、貧女が自らの髪の毛を切り、油にかえて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝いたという言い伝えから、毛髪を扱う業者によって毛髪報恩と供養のために昭和36年5月24日、建立されました。

 

★「髪の祖神」関神社由緒略記

御祭神
蝉丸公 神霊
逆髪姫 神霊
古屋美女 神霊

「これやこの 行くも帰るも 別れては
 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。

王子神社 宮司

毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助 とする。

関神社奉賛会
東京人毛商工組合
東京床山協会
東京かつら協会
関西かつら協会

関神社手水鉢関神社由緒

王子神社拝殿

江戸名所図会 王子権現祭礼

キャプション:毎歳(としごと)七月十三日神前の舞台に置いて十二番の拍板打(ぴんさらさ)興行あり。この日同じ舞台へ、赤得水のかける番付を掲ぐる、左のごとし

。第一番 中門口。第ニ番 道行き腰筰(こしさらさ)。第三番 行き違い腰筰。第四番 背摺り腰筰。 第五番 中居り腰筰。第六番 三拍子(みつびょうし)腰筰。第七番 目礼腰筰 第八番 捻(ひね)り腰筰 第九番 中立ち腰筰 第十番 搗き腰筰 第十一番 筰流し 第十二番 子魔帰り

東京都指定天然記念物

王子神社のイチョウ

★ランドマーク王子神社のイチョウ:荒川に落ちる支流、音無川の左岸崖線の肩の部分に一番高くそびえたつ大イチョウです。幹囲は5.2m、樹幹の先端部分は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にほぼ自然樹姿を保っています。王子神社の創建は元亨年間(1321-1324)といわれ、その頃に植えられたとすると600年近い樹齢と考えられます。

戦前は「太田道灌雨宿りの椎」と伝えられる巨木を始め、多くの樹木が茂り、勝海舟も修行したと伝えられますが、戦災で、この東京都指定天然記念物の大イチョウを残し、ほとんどを焼失してしまいました。

   八十三翁 大谷暁山句碑「暮際もなく 夜にうつる 桜かな」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今戸神社(今戸八幡宮)江戸名所図会めぐり

2017年08月17日 09時55分49秒 | 江戸名所図会めぐり

今戸神社は数回訪れていますが、今回「江戸名所図会」めぐりでまとめてみました。鳥居江戸名所図会より隅田川の西岸になってます。古地図切絵図では八幡宮となっています。

拝殿です。

★ランドマーク今戸神社(今戸八幡宮):後冷泉天皇康平6年(1063)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊阿部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。

  その後、白河天皇永保元年(1081)、謀反を起こした清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するにあたり戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ち戦をおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。

 江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の再建のために官材を下され、船越伊豫守と八木但馬守に命じて寛永13年(1636)に再建がなりました。

  大正12年(1923)9月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、まもなく復興したものの昭和20年(1945)3月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。

 こうした被災と再建の歴史をくり返しながら、昭和46年(1971)11月、現在の荘厳な社殿が氏子崇敬者の浄財によって造営されました。

  その間、昭和12年(1937)7月に今戸の隣地に鎮守されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。

狛犬が金網で保護されていました。

★ランドマーク今戸神社狛犬:台東区有形文化財(歴史資料)

この狛犬は今戸焼職人によって宝暦2年(1752年)に今戸町の鎮守であった今戸八幡神社(現在の今戸神社)に寄進され、文政5年(1822年)に再興されました。浅草新堀の石工・小松屋竹右衛門が制作したといわれています。

今戸焼は江戸時代から今戸周辺の地場産業。瓦、日常生活道具、土人形、工芸品などの焼き物を生産販売していました。

狛犬の台座に詳細な銘文があり、今戸焼職人と世話人の42人の名前があります。職人達が寄進したことが分かる貴重な資料です。職人は、火鉢屋、土器屋、焙烙(ほうろく)屋に所属し、食器や調理器具など日常生活道具を生産していました。残念なのは、いま、今戸焼を継承しているのはわずか1軒になってしまったことです。

今戸焼の発祥の地になっています。

★今戸焼:今戸焼とは、江戸時代から明治時代を中心に、今戸やその周辺で製造販売された焼き物です。今戸焼職人は、瓦・日常生活道具・土人形・工芸品などの焼き物を製造販売して、江戸東京住民の需要に応えました。

 幕末には、今戸焼を製造する家は50軒余りありました(『本朝陶器攷證』)。しかし次第に今戸焼の需要は減少していきます。さらに今戸周辺の都市化や、震災・戦災などにより、製造を続けた職人たちの多くも、隅田川の東岸、中川・荒川の流域などの周辺地域に移転していきました。現在は1軒だけ残り、「口入れ狐」や「招き猫」などの人形を今も製作しています。

★今戸焼招き猫(いまどやきまねきねこ)

”招き猫”は商売繁盛や招福への願いをこめて、よく店先や玄関などに飾られておりますが、猫は古代から神秘的な力をもつと考えられていました。いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれております。

伝わるところでは、江戸末期の話で、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。”自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる”と。そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。

江戸名所図会より

キャプション:この辺甄者(かわらし)・陶器匠(やきものし)ありて、これを産業(なりわい)とする家多し。世に今戸焼と称す。元禄二年(1687)七月三日『隅田河紀行』 土をこね瓦をつくりならべてほしければ、

やかぬまは露やいとはむ下瓦 杉風

江戸名所図会や錦絵にも今戸焼の風景が描かれています。広重 東都名所ノ内 隅田川八景今戸夕照

広重 名所江戸百景墨田河橋場の渡かわら竈

歌川 広重 2代江戸自慢三十六興 今戸焼物

などなどとなっています。

沖田総司終焉之地の碑があります。

★ランドマーク沖田総司終焉之地:永倉新八の”同志連名記”によると、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病はかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。

松本良順は今戸八幡に寓居して患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。

境内には成就絵馬があちこちにかけられています。

★縁結びの神:今戸神社の主祭神が応神(鷹神)天皇、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、日本において最初に男女の性をもって生まれた国生み夫婦神ということで、互い体の足りない部分を補おうとして交わり日本の国土や主要な神々を生み出したとされています。このことから夫婦円満・和合のご利益があるとされ、今戸神社では縁結びのご利益があると信仰されているようです。

ということで当日も若い女性が多く参拝していました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする