星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

travel

2008-08-09 21:49:52 | 読みきり
 「行ってくるよ。」
 夫が出て行った。

 夫が食べた朝食の皿を洗ってしまうと、リビングに掃除機を掛ける。それからお風呂とトイレと洗面所の掃除をする。今日は丁寧にしなくてもよいだろう。掃除なんかしなくてよいくらいだ。けれども体が、毎日の繰り返しの作業に馴染んでいて、頭で考えていなくても勝手に動く。

 一通り終わると、寝室に行き、また掃除機を掛ける。ベッドカバーを直し、クッションを整えると、夫が脱いで無造作に置いてある、カーディガンをハンガーに掛けた。その度に、なぜ自分でやらないのかと思うのだが、最近はそういう気さえ起きない。ただ、体が、自動的にそういう動作をしているだけだ。

 寝室の窓ガラスが、少し曇って汚れているのが目に付いた。乾いた雑巾を持ってこようと、反射的に体が動きそうになるが、止めた。今日はそんなこと、しないでいよう。

 リビングの時計の、音楽が鳴った。まだ9時だった。焦って掃除をしたけれど、考えてみたら急ぐ理由がなかった。今日は遅く出かけたほうがいいのかもしれない。いつもの出かけるときの癖で、気が焦ってしまう。早く出かけて早く帰ってくるという、習慣が身に付いているのだ。

 クローゼットを開けて、肩掛けのトートバッグを取り出す。これで充分だろう。下着1セット、Tシャツ、化粧道具をぽんぽんと入れた。本棚の前に行き、小説を2冊加える。それから何が、必要なんだろうと考える。思いつかない。

 車のキーを差し込む。
 エンジンを掛けずに、シートに座ってしばらく考えた。車で出掛けようと思っていたが、今日は止めておこうと思った。電車で出掛けたほうが、旅気分を味わえる。きっとそうだろう。駅まで歩いていって、そこからのんびりと電車で行こう。車が置いてあったほうが、夫が帰ってきた時不審に思われないだろう。すぐに帰ってくると、思うだろう。

 車から降りる。そのまま駅に向かった。ふと足元を見ると、いつものドライビングシューズを履いてきてしまっているのに気が付いた。でもきちんと磨いてあるし、歩きやすいからいいだろう。カバンからマフラーを取り出して、首に巻く。手袋も出してはめた。

 なぜか早歩きになってしまい、あっという間に駅に着いた。電車に乗るのが、随分と久し振りのような気がした。路線図を見て、目的地までの切符を買う。一度乗り換えるだけでいいようだ。ちょっと考えてから、特急の、指定席の切符を買い足した。なるべく静かな席に座りたいと思った。一人になることに、没頭したいのだ。

駅のホームは、風が吹きさらしになって、余計に冷たかった。マフラーを顔まで引っ張って覆う。もう家を出たのだから、家のことは考えずに、一人の世界を楽しもうと思った。電車が入ってくると、空いているボックス席を探して座り、持ってきた本を取り出す。家にいて読もうと思っていたのに、なかなか読む暇がなかった。家事をきちんとしようとすると、きりがないということに気がついた。結婚して子供もいない私たち夫婦を、金銭的にも時間的にも余裕があって、何の気兼ねもなく悠々自適に暮らしていると思っている知人がほとんどだが、それは夫の性格を知らないからだ。 病的に潔癖症である夫は、私のする家事の、何もかもが気に入らないようになってしまった。子供がいるわけではないのだから、辞める必要がないのに、精神的にも肉体的にも苦しくなった私は、仕事を辞めた。でも、それが、もっと事態を悪化させる原因となった。仕事を辞めて家にいる私は、さらに完璧な家事を求められた。終わったそばから、これみよがしに掃除をやり直しされたことが、何度あるのだろう。それだったら夫がすべての掃除や炊事をすればいいのだが、働かないで家にいるならお前がやるべきだと主張して聞かないのだった。家にいるのが苦痛になった私は、短時間のパートに行くようになった。けれども、家事は、毎日完璧にやらなければ許されない。嫌ならパートを辞めろと言う。

 本を読みたいはずが、知らないうちにそんなことを考えていた。夫の考えはおかしいと、パート先の主婦仲間は言う。フルタイム社員であろうがパート社員であろうが、働いているのには変わりが無い。いまどきの専業主婦 だって、それほどまできちんと家事なんかしていない。夫のハウスキーパーになるために結婚した訳ではないのだ。それなのに、なぜ、うちの夫は私にそこまでの完璧さを、要求するのだろう。

 出会った頃は、そんな人だとは思わなかった。きちんとした人だとは思っていたが、病的と呼べるほどの潔癖さは、感じられなかった。それは確かに、デートの待ち合わせの時間に遅れたことは無かったし、独り暮らしをしているアパートへ行っても、男の部屋の割にはきちんと整頓されていた。靴はいつも磨かれていたし、髭はきちんと剃られていた。結婚してすぐの頃は、私に完璧さなど要求していなかった。よくいる子供のいない共働きカップルのように、夕食を作るのが面倒なときは外食し、休日の朝は遅くまで布団に潜り込み睡眠を貪り、一緒に休暇が取れる日はちょっとした旅行に行ったり映画を見に行ったりした。いつの頃から、こんなにきりきりとし始めたのだろう。体調がすぐれなくてソファに横になっている私を、怠け者のように言ったり、疲れて帰ってきたときに作った有り合わせの夕食を見て、手抜きだ、と言うようになったのは。たった今ガス廻りの掃除を終えたばかりなのに、仕事から帰ってくるなり、もう一度やり直し始めたりするようになったのは。

 パートの仲間に、そんなことをぽつりぽつりと話すようになると、皆が、あなたのご主人は少しおかしいと、言うようになった。仕事が大変で、何かストレスがあるのではないの、とか、浮気をしているのではないの、等と言われた。いっそのこと浮気でもしてくれていたら、どれほどいいかと思う。そうして別れてくれたほうが、お互いのためだろうと思うのだ。それなのに、私が、あなたの希望にそった妻にはなれそうもないから別れてくれと、いくら懇願しても、決して首を縦には振らないのだ。それが不可解だと思う。パートの仲間は、そこに触れてはいけないと思って口にはしないが、子供が出来ないのが原因の一端を担っているのだとも思う。私はひと通りの検査をして、どこにも体の異常がないのが分かった。でも夫は、検査をしようとしない。子供をそれほど欲しくない私は、それでもいいと思っている。けれども夫は、本当は子供がほしいのかもしれない。でも私は悪くないのだから、仕方が無い。離婚を拒む原因も、その辺にあるのかもしれないと思った。

 パートの仲間のひとりが、しばらく実家に帰ったら?と言った。私の両親は、歳をとってから離婚しそれぞれ再婚しているので、両方の家に顔を出しにくかった。どちらの家に行っても、私の居場所はなかった。それぞれの新しい配偶者は、悪い人ではないし、むしろ私に気を使ってくれ、親切に、本当の親のように接してくれるが、それが却って私に気を使わせた。そう答えると、別のパート仲間が、家出しちゃいなさいよ、と言った。家出?!とぎょっとして答えると、そんな大袈裟な家出ではなくて、プチ家出よ、と答えた。何も言わずに、ちょっとした近場に出かけてそのまま連絡せずに遅く帰る、のだそうだ。それくらいのことをしたら、あなたのご主人も、あなたがいないとどれほど寂しいとか心配かとかがわかるはずよ、と笑って言った。

 その話を聞いてから、私は密かに家出のことを想像し、その自由な感じに酔いしれた。自分のおこづかいから、残ったわずかな額を貯金にまわし、パートで得た夫に気付かれない臨時収入は、すべて貯金にまわした。最近ちっとも夫婦で旅行などにも行かなくなってしまったので、頭の中で想像する家出のことは、余計に楽しいことに思えた。パートの仲間が回してくれる雑誌に載った、都会の居心地のよさそうなホテルや、一人旅の女性に優しい宿、等の特集を見ると、密かにチェックをして、こんなところもいいなと、思い描いた。そうしていると、完璧さを求められる家事も、それほど苦ではなくなった。家出を敢行した暁には、それが元で離婚を言い渡されても、それはそれでいいとさえ思っている。家を追い出されても構わない。そうしたら私はフルタイムで働く職をなんとか探し、ひっそりと慎ましく、独りで生きていくだけのことだ。

 気が付くと、特急に乗り換えるターミナル駅に到着していた。ここからは指定席に座って、余計なことが頭をもたげないよう、持ってきた本を読もう、と思った。電車を降りると、特急の改札に向かった。

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コメント (4)
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