日本に帰ってから、とにかくお腹の調子が悪い。
きれいな空気ときれいな水に、身体が驚いているような雰囲気。
さっそく髪の毛と肌の手触りが変わり、私の話し声が小さくなったので、
人間は環境に影響される生き物だとつくづく実感した。
我が家は人の話し声や車の音よりも、
外から聞こえて来る野鳥や、散歩している犬の鳴き声のほうが大きく、
先日、家で中国の会社にスカイプを繋いで会議をしていたら、
「家の中にそんなにたくさんペットがいるのか」と中国人に言われた。
残念ながら、うちはそんなに広くはない。
日本に来たことがないけれど、日本に興味をもっている中国人は多いので、
中国のSNS微信で写真をアップするようにした。
元同僚が反応したのは、昨晩食べた大きな餃子の写真。
やっぱりあいつらは食べ物か。
チベット語の同級生の中国人たちが「すてき!」と反応したのは、神社の写真。
確かに、中国にはあまりない雰囲気だろう。
いまの中国の若い人たちは、一部の人たちを除いて、
神社の鳥居を見て「日本帝国主義反対!」などと叫びはしない。
さて、中国に行ってから、Kindleで本を読むようになったのだけど、
紙の本に比べて、集中力が続かないのはなぜだろうか。
ようやく昨日読み終わったのは、『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―』(片山杜秀著)
先の戦争は、日本では過去のものとなり、
中国では共産党のプロパガンダのなかで、形を変えて生き続けている。
あの時代の戦争、支那事変と太平洋戦争では、
切り出し方によって、全然違うように見えて来るし、
世界から狂信的と呼ばれてしまった日本の戦争哲学で、
私たち日本人がイメージするのは、主に対アメリカ戦のものだろう。
だから、一言で連合国に対して降伏したと言うと、なんだかしっくり来ないのだけど、
満洲国の建国とアメリカとの戦争は、鏡の裏と表のような関係で、
もっと言うと、ずっと仮想敵国だったソ連との関係、コミンテルンとの関係なくしては、
結局は、何も見えてこないのだと思う。
そして、日露戦争こそが、日本を大きく変えた戦争なのだと思う。
ソ連とアメリカ、そして中国。
いまもパワーバランスを変化させつつも、やはり大国として日本が意識せざるをえない国だ。
いまでも、日本が「持たざる国」であることには違いがなく、
「持っている国」であるウイグルやチベットは、そうそうに中共に取り込まれてしまった。
ある意味で「持たざる国」だったからこそ、これまでは日本に中共が攻めても来なかった。
実際に、海底資源が見つかったと同時に国境紛争が始まっている。
人の精神は、環境が育むものだと思うので、
日本的なファシズムは、何かを強制したり「改造」して変化するものではなくて、
生来のものとして日本人の中に潜んでいる感情であり、
その発現形態は、ゆるやかに変化して行くものだろう。
でももし、日本が「持たざる国」でなくなったら、
もしくは、他国が日本を「持っている国」だと認識したならば、
私たちの立ち位置は、私たちが意識しているのとは大きく違うところで、揺さぶられるだろう。
いまは、ちょうどその過渡期にあるように思うけれど、
日本の右傾化を論じるときには、その背景に必ず資源問題があるのだということを理解し、
もし資源を持っていたら、それをどのように守り、活かすのかを、
世界的な視野で見なければならないのだとう思う。
その視野の広がりこそが、イデオロギーや軍備以前に重要だと思う。
きれいな空気ときれいな水に、身体が驚いているような雰囲気。
さっそく髪の毛と肌の手触りが変わり、私の話し声が小さくなったので、
人間は環境に影響される生き物だとつくづく実感した。
我が家は人の話し声や車の音よりも、
外から聞こえて来る野鳥や、散歩している犬の鳴き声のほうが大きく、
先日、家で中国の会社にスカイプを繋いで会議をしていたら、
「家の中にそんなにたくさんペットがいるのか」と中国人に言われた。
残念ながら、うちはそんなに広くはない。
日本に来たことがないけれど、日本に興味をもっている中国人は多いので、
中国のSNS微信で写真をアップするようにした。
元同僚が反応したのは、昨晩食べた大きな餃子の写真。
やっぱりあいつらは食べ物か。
チベット語の同級生の中国人たちが「すてき!」と反応したのは、神社の写真。
確かに、中国にはあまりない雰囲気だろう。
いまの中国の若い人たちは、一部の人たちを除いて、
神社の鳥居を見て「日本帝国主義反対!」などと叫びはしない。
さて、中国に行ってから、Kindleで本を読むようになったのだけど、
紙の本に比べて、集中力が続かないのはなぜだろうか。
ようやく昨日読み終わったのは、『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―』(片山杜秀著)
先の戦争は、日本では過去のものとなり、
中国では共産党のプロパガンダのなかで、形を変えて生き続けている。
あの時代の戦争、支那事変と太平洋戦争では、
切り出し方によって、全然違うように見えて来るし、
世界から狂信的と呼ばれてしまった日本の戦争哲学で、
私たち日本人がイメージするのは、主に対アメリカ戦のものだろう。
だから、一言で連合国に対して降伏したと言うと、なんだかしっくり来ないのだけど、
満洲国の建国とアメリカとの戦争は、鏡の裏と表のような関係で、
もっと言うと、ずっと仮想敵国だったソ連との関係、コミンテルンとの関係なくしては、
結局は、何も見えてこないのだと思う。
そして、日露戦争こそが、日本を大きく変えた戦争なのだと思う。
ソ連とアメリカ、そして中国。
いまもパワーバランスを変化させつつも、やはり大国として日本が意識せざるをえない国だ。
いまでも、日本が「持たざる国」であることには違いがなく、
「持っている国」であるウイグルやチベットは、そうそうに中共に取り込まれてしまった。
ある意味で「持たざる国」だったからこそ、これまでは日本に中共が攻めても来なかった。
実際に、海底資源が見つかったと同時に国境紛争が始まっている。
人の精神は、環境が育むものだと思うので、
日本的なファシズムは、何かを強制したり「改造」して変化するものではなくて、
生来のものとして日本人の中に潜んでいる感情であり、
その発現形態は、ゆるやかに変化して行くものだろう。
でももし、日本が「持たざる国」でなくなったら、
もしくは、他国が日本を「持っている国」だと認識したならば、
私たちの立ち位置は、私たちが意識しているのとは大きく違うところで、揺さぶられるだろう。
いまは、ちょうどその過渡期にあるように思うけれど、
日本の右傾化を論じるときには、その背景に必ず資源問題があるのだということを理解し、
もし資源を持っていたら、それをどのように守り、活かすのかを、
世界的な視野で見なければならないのだとう思う。
その視野の広がりこそが、イデオロギーや軍備以前に重要だと思う。