人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2020年 ホセ・クーラ、アーティストの存在理由と現代、パンデミックからの復帰について

2021-10-16 | 芸術・人生・社会について②

*写真は2020年ハンガリーでの報道より。

 

今回は、昨年2020年8月にアルゼンチンのネットメディアで公表された、ホセ・クーラのインタビューを抜粋して紹介したいと思います。

パンデミックの最中、クーラ自身も春以降のスケジュールがすべてキャンセルとなった年の夏、まだまだ先の見えない時のインタビューです。しかし当面するパンデミックにおける芸術とアーティストの問題ということだけでなく、パンデミックがあらわにした、クラシック芸術の業界に内在してきた問題点ということで掘り下げて語っています。劇場も動き出している現在とは状況が変わってきていますが、クーラが指摘していることは、引き続き意味を持つものと思います。

クーラの母語のスペイン語の記事ということもあってか、比喩表現も多く、なかなか難しい内容でした。訳が正確でなく誤解を与えることを恐れています。大意を伝えるということでご容赦いただき、興味をお持ちの方はぜひ原文をご覧いただきますようお願いします。

 

 

 


 

 

元に戻るのだろうか? ーー ホセ・クーラ インタビュー

 

私たちは凡庸さを恥じない世界に住んでいる。「中身のない容器」にますます悩まされている。あたかも商人がカラフルな空っぽの箱を売っているかのように。あるいは最悪の場合、廃棄された商品でいっぱいになっているかのように、生活は知的副産物であふれている。

 
才能のある人が、単に「その時代」の出来事にしか関心がなく、時代の状況が求めるニーズに専念している。その作品は時代に依存しているため、ショーペンハウワーの言葉を借りれば「交換可能」だ。水準の低下としてだけでなく、「近視眼的」な無関心によって、美、正義、平和などの理想をどのように活用するかを知っていた古典芸術は、容赦なく「ファストフード」の文化に置き換えられている。「便利な姿勢」の担い手たちが彼らのポケットをいっぱいにするための、偽りの「平等」という集団的な感覚の名の下に。マニュアル通りのマキャベリズム……。
 
昨日、トレドを訪れた際に、 構想と実行に何十年もかけた芸術作品に魅了されたが、最近のメディアTik-Tokでは、20秒以上は退屈とされている...。
 
 
 
 
 
 
 
 
Q、どこにつながる?

パンデミックは社会のすべての階層に影響を及ぼすが、例外を除いて、健康に関しては、ウイルスは特に弱い人、主に高齢者、または過去に病歴を持つ人々に影響が大きい。
爆弾というよりも起爆装置のように。この事実は、クラシック芸術に頼って生計を立てているショービジネスの部門の将来を分析できるだろう。クラシックのアーティストの仕事は、何世紀にもわたって存続してきた、芸術に内在する高い理想に対する社会の感受性と受容性に依存している。それらの理想が損なわれた時ーーそれが人々の娯楽のためだけでなく、政府当局の中心部分においてもーーその時、ほとんど希望は残されていない...。

技術を持つ古典芸術のアーティストの存在理由は、優れたものを実行に移すこと。文字、音楽、絵画、ダンスなどに命を与えることであり、実行するアーティストがいなければ、紙の上で眠ったままになってしまうものだ。傑作と呼ばれるもの。しかし、先ほど言及した「中身のないものの群れ」が社会に定着し、優れたものと平凡なものを見分けることができる人の割合が極端に低下した場合はどうなるだろうか?
 
システムを正当化することはできないだろう。Covid-19が芸術の死刑執行人に手を貸す前から、斧を研ぐだけでなく、完璧で検出不可能なようにカモフラージュされてきた。「私ではない。それはウイルスが原因だった…」と。
私たちはすぐに目を覚ますだろうか。起こっているのはパンデミックの副作用ではなく、パンデミックが我々の仕事に影響を与えるずっと前から、文化システムの健全性を無視して、無責任に許してきてしまった状況への決定的な一撃なのだということに。価値観の崩壊がまだ仕事の日常の現実に影響を与えていなかった間も、ごく一部の人々は、ある種の平凡な順応主義が、我々の生計手段を危険にさらしていると訴えていた。…
 
逆説的だが、現在の状況では、優れたアーティストであることは、ある意味で逆効果をもたらしかねない...。有名なアーティストの必須条件は、その本質的な品質(そのような評価が正当化される場合)に加えて、「客席を埋める」ことだ。したがって、キャパシティー制限を考慮すると、予想を裏切らない限り、有名であることはハンディキャップになる。予想どおり、多くの団体やプロデューサーが倒れている。あるものは誠実さの結果、あるものは道徳的基準の低さから。つまりいつものことではあるが、殺しのライセンスをもっている…。
 
そういう意味で、私たちは物事がどのように変わっていくかを見ることになるだろう。ひとつのシステムが終わりを迎えているのかもしれない。しかし私は、人間には人間らしさが必要だと信じている。結局は、魅力に立ち戻ることになるだろう。問題は、それがいつなのか?
 
このような因果関係は別として、個人的には、この時間を作曲のために活用している。テ・デウムと復活のための協奏曲(ギターと室内オーケストラ)を完成させた。さらにまた、芸術監督としてのプランの準備するのにも非常に忙しく、また多くの人と同様に、強制的な隔離生活を使用して、スケジュールの圧力から永遠に延期されてきた無数の事柄に追いつこうとしている。
 
 
 
 
 
 
 

最後に、これは非常に個人的な分析によるものだが、今日、非常に流行しているストリーミングについてふれたい。聴衆との接触を維持するこの「人工的な」方法は、一般的には興味深いと思われるが、実際のオーケストラさえも集めることを可能にするこのテクノ・アート・リソースーーそれぞれが自宅で演奏し、全体をまとめて多かれ少なかれ控えめなサウンドの結果をつくりだす。それは、危機を助長するとまでいかなくても、少なくとも危機からの脱出を阻んでいるといえるのではないか。通常の状況でも、すでに観客が少ないうえに、さらに多くの人々がこの甘くて苦い生演奏の代用品に慣れてしまうなら、ライブ芸術の碑文が書かれる。

我々アーティストは、活動を続けたいという当然の、必死さの中で、間違いを犯していると思う。神は間違いを知っているだろう。私たちは時間をかけて多額のツケを支払うことになる。レコードが売れなくなったのは、ストリーミングやダウンロードが、無料ではなくとも最低価格で提供され、レコード業界を破壊したからだ。今や、ステージを殺す時がきたのだろうか…?

(「musicaclasica.com」)

 


 

 

今回紹介したインタビューは、同じ昨年の記事「インタビュー ”パンデミックによる影響と危機、音楽産業の将来への警告"」と問題意識は共通しています。

音楽産業の危機、ストリーミングに置き換わることへの警鐘などを繰り返し語っています。また今回は、とりわけ現代社会における「才能ある」人々が、目前のことしか関心が持てず、近視眼的になることによる弊害などについても、率直に述べています。あらゆるもの、芸術までがファストフード化する傾向、さらにそれらが特定の層だけに富を集中させる手段になっているとの指摘は、いかにも、音楽産業と商業主義から距離を置いて、自立したアーティストとしての生き方を貫くクーラらしいと思いました。

クーラのスケジュールは、2021年の夏から本格的に再稼働しはじめ、この秋以降も、オペラやコンサート、指揮、マスタークラスと多彩な企画が準備されています。パンデミックは現瞬間には一見、おさまりつつあるように見えますが、そのもとであらわになった社会システムの様々な問題点、クーラが指摘するような構造的危機は、今後、解決の方向に向かうことができるのでしょうか。それとも再び元の日常に戻るのか、または再びパンデミックが巻き起こるのか……。まだまだ先を見通すことはできません。今年12月に59歳、来年には60歳の節目を迎えるクーラ。この円熟の時期、多面的な才能と長年積み重ねてきた努力を、さらに豊かに花開かせることが可能になることを願っています。

 

 

 

*写真は、2020年のハンガリーでの報道、動画などからお借りしました。


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