三島淑臣『法思想史』ノート(04)(無許可転載厳禁)
第4章 近代法思想の形成
第2節 近代自然法論の確立--ホッブス
人間という存在は、ホッブスにとって、「物体」の一種にほかならない。人間の悟性や理性は、本質的に感覚的なものであり、人間と動物の相違は程度問題にすぎない。人間行動は、自由な意思・意志に基づくものではなく、外界から与えられる感覚的刺激と内的な反応という2つの力の複合的作用である。人間の感覚にとって快楽的なものを「善」(価値的)として受け容れ、不快なものを「悪」(無価値的)として斥ける。それは道徳・倫理などとは無関係なものである。
三島さんは、ホッブスの人間観の前提をこのように説明します。それは非常のドライな人間観、乾いた人間観、無味乾燥な無機質な人間観のように響きます。(225頁)
2自然状態・自然権・自然法
ホッブスのいう「人間」が生きる社会とはどのような社会でしょうか。それをグロチウスの政治社会や自然法論と対比させながら考え、ホッブスの政治社会や自然法論の特徴を明らかにしたいと思います。
グロチウスの人間本性・社交的性向
グロチウスが自然法の問題に関心を寄せるようになったのは、彼が生きた時代が宗教戦争の時代であったこと、またそれが国教を超えた国際紛争にまで発展した時代でした。キリスト教世界が新旧二派に分裂し、相互に血を流し合って闘っていました。また、キリスト教世界が非キリスト教世界への非人道的な植民が繰り返されていました。このようななかで、確固たる平和と秩序を樹立するためには、信仰のいかんにかかわらず、普遍的に妥当する秩序、誰もがそれに従う秩序を確立することが必要であり、それなしに宗派間の、国家間の紛争を解決する道はない。グロチウスはこのように考えて模索したのが、自然法でした。この自然法の直接的な淵源は、人間本性としての「社交的性向」に根ざしたもので、その究極的な淵源には「社交的性向」を備えた人間本性を創造した「神」そのものであると考えました。グロチウスの自然法論は、近代的な人間像とその政治社会を創造するために神の存在に依拠した点で、中世から近代へと向かう過渡期に位置していますが、人間本性を直接的な淵源とする自然法論を展開したところに、グロチウスの自然法論の近代的な性格を確認することができます。
ホッブスの自然状態
これに対してホッブスの人間像は、グロチウスのような社交的性向を備えていません。それがまた政治社会のとらえ方に影響を及ぼします。ホッブスは、グロチウスが前提にした人間本性の「社交的性向」は、かりに人間がそれを備えているとしても、表層的・一時的なものでしかなく、人間本性のより深層的・恒常的な性向は、「他人への支配欲」であり、「権力への意志」(権力を志向する意志)であると言います。それは社交性とは対極的なものです。ホッブスにとって人間の悟性や理性は、本質的に感覚的なものであり、その行動は自由な意思・意志に基づくものではなく、外界から与えられる感覚的刺激と内的な反応という2つの力の複合的作用であると解されています。感覚にとって快楽的なものを「善」(価値的)として受け容れ、不快なものを「悪」(無価値的)として斥けるのが人間です。そうすると、自己にとって快楽を追求し、不快を斥けることを恒常的に行うのが人間ということになります。人間は、自己の個人的な活動範囲において、そのような快楽をもとめ、それをより多く求めるために、活動範囲を拡大し、絶え間なく新しい快楽を求め、そのなかに至福を見いだす存在であるとすると、他人も同じように自己の快楽を求めているので、同じ目標を実現するために活動している者同士が競争相手として目の前に立ちはだかり、自分の快楽を実現するために他人を押しのけようとします。他者の行動を支配・統制し、彼を自己の服従させる権力を求めます。それは人間が性悪な存在だからではありません。生来、ほぼ同じ能力を付与されている人間が自己の快楽を求めて、その過程において他者と相互に対立せざるをえないという人間の客観的な生存状況が人間をしてそのようにさせるのです。これが、ホッブスが説いた「万人の万人に対する闘争」です。
この「万人の万人に対する闘争」においては、人は他人を己に服従させようとし、そのために必要とあらば彼を殺害することもある「普遍的な総力戦」が闘われます。ホッブスは、このような戦争状態こそ、キリスト教宗派間の宗教戦争や非キリスト教国への植民であり、それに奔走していた当時のイギリスの支配者たちに「人間の本性」を見たのかもしれません。それは、ヨーロッパの一時期の不幸な出来事だったのかもしれません。ある地域の、ある一時期の不幸な出来事だったのかもしれません。しかし、ホッブスはそのようには考えなかった。彼は、国内的な無政府状態や内乱状態、対外的な戦争状態などの状態は、それを管理・統制する公的権力が存在しない場合には、常に生ずる状態であると捉えたのです。国内における内乱状態、対外的な戦争状態は、中世の時代、近代の初期の時代に現れた偶然の問題、歴史や時代に特有な問題ではなく、人間に固有の問題であると。いわば人間の本性や客観的生存状況に起因する長時間的・超歴史的な根源状態であると指摘しているのです。「万人の万人に対する闘争」を生み出すのが、人間の自然状態なのです。このような人間の本性を変えたり、抑えたり、それを静まらせることができるのでしょうか。難しい問題です。
ホッブスの自然権
「万人の万人に対する闘争」という間の自然状態は、一切の法的・道徳的拘束が欠如している状態です。一切の法的・道徳的な観念によって人間が拘束されていないということは、何を意味するかというと、それは人間は法や道徳から「完全に自由」であるということです。「万人の万人に対する闘争」においては、人は他人を己に服従させようとし、そのために必要とあらば彼を殺害することもある。人間はこのような「普遍的な総力戦」を毎日闘っています。そかも、その闘う方法には法的・道徳的規制はなく、何にも拘束されずに自由に闘っています。各人は、「自己保全」(自己の快楽の追求と不快の拒絶)のために、自らの判断に従っていかなることでもなしうる自由を有します。ホッブスは、このような自然状態における各人の「自己保全」への自由を「自然権」と呼びます。ホッブスは言います。
「著作家たちが〈ユス・ナトゥラーレ〉と一般に呼んでいる〈自然権〉とは、各人が自分自身の自然、すなわち自分の生命を保持するために、自分の力を自分が欲するように用いるよう各人が持っている自由である。しかがって、それは自分自身の判断と理性において、そのために最も最適な手段であると考えられるあらゆることを行う自由である」(『リヴァイアサン』)。
この「自分の生命を保持するために、自分の力を自分が欲するように用いるよう各人が持っている自由」のなかには、他者の生命すらも侵害する自由、ひいては他国の主権を侵害し、自己の欲するルールを押しつける自由も含まれます。それはホッブスの想像の話ではなく、彼が生きた時代のイギリスの国内外の状況のリアルな姿、その当時の人間のリアルな姿です。しかし、同時にもう一つのリアルな姿があります。それは、「万人の万人に対する闘争」の中で不安な毎日を送る人間の姿です。各人は、自然状態では、あらゆるものを斥けて、自己の快楽を追求する権利を持っていますが、その権利は快楽へと向かう権利でありながら、同時に不快へと追いやられていく「権利」、不安にさいなまれ、恐怖に怯える「自由」でもあります。「各人の万物に対するこの自然の権利が存続する限り、自然が通常人間に与えている生存期間を生き抜くための安全は、いかなる人間にも、(いかに彼が力強く賢明であろうとも)まったく保証されていない」のです。つまり、ホッブスのいう自然状態、つまり「万人の万人に対する闘争」は、一方で自己は快楽を追求・獲得して、自己を肯定する結果をもたらしながら、他方で他者は快楽を追求・獲得できず、不快へと追い込まれ、自己を否定する結果をもたらすのです。このように、自然状態における各人の自由を行使する力は「裸の力」であるため、つまり法的な規制や道徳的な抑制の働かない、何にも拘束されない力であるため、実力の支配と弱肉強食の悲惨へと必然的に行き着くのです。
ホッブスの自然法
このような自然状態、各人の自然権の衝突状況から脱出できるのでしょうか。それとも最終的に1人の強者による一極支配が確立し、その他の者はそれに従属するのでしょうか。三島さんは、「だが、人間には、このような窮状から脱出するための諸能力もまた与えられている。それは死の恐怖その他の情念、及び理性の計算である」。人間には、この窮状から脱出するための能力が備わっているというのです。それは。まずは素朴な「死の恐怖」です。自然権の究極の実現方法としての他者の殺害、その被害に会うことの恐怖です。次に、情念です。これは死を逃れるため
ト教世界への非人道的な植民が繰り返されていました。そして、最後に理性の計算。これこそ、キリスト教国間の宗教対立と非キリスト教国への植民という国内外の紛争を解決し、確固たる平和と秩序を樹立するための秩序を確立する糸口、信仰のいかんにかかわらず、普遍的に妥当する秩序、誰もがそれに従う秩序を確立する入口です。「人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望などがある。また人間は理性の示唆によって、たがいに同意えきるような都合のよい平和のための諸条項を考えだす。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる」。
ホッブスのよれば、自然法とは、人間が自然状態において自己保全の情念に突き動かされ、自己の快楽のためには他者への不快を強制することもいとわない「完全な自由」を行使しながら、同時にこの自然状態の矛盾と窮状を脱出して、平和を達成するために、「理性の計算」によって案出する一般的な規則・戒律のことです。自然法は、自然状態における人間の自然権を前提として、その自然権を実現するための、各人の自然権が両立しうるように実現するための規則・戒律です。法的義務は、ここから導き出されます。「裸の自然状態」から「裸の自然権」が導き出され、それに法的・道徳的な自然法の枠をはめ、権利を実現するための法的義務というものが出現するという考察方法がとられているように思います。
伝統的・古典的な自然法論においては、人間社会の状態、人間の権利、自然法の関係はどうだったでしょうか。トマス・アクィナスの自然法論は、三島さんのテキストの201頁ではどのように解説されていたかというと、自然法というものは、神の摂理の表現であり、人間以前にそのような神的秩序が成立しているところから始まります。人間は個として存在するのではなく、神の教えに導かれる信者として存在します。信者が神の教えを信じ、神の摂理としての自然法に参与し、それに従うのは「義務」です。神的秩序、宇宙的コスモスの法則としての自然法とそれに有機的に組み込まれている信者としての人間、自然法と自然権・義務は、このように説明されていました。神・宇宙・コスモス→その摂理・教えとしての自然法→人間・信者の義務・権利という順に語られていました。しかし、ホッブスの場合は異なります。自然状態において人間が行動する自由が自然権として確立し、そこから自然法が成立します。各個人の自然の権利が中心に置かれて、法が構成されるというのは、近代自然法の特徴であり、ホッブスはその意味で近代自然法の確立者であるといえるでしょう。この自然法は、「リヴァイアサン」としての国家において展開されます。
(226-228)
第4章 近代法思想の形成
第2節 近代自然法論の確立--ホッブス
人間という存在は、ホッブスにとって、「物体」の一種にほかならない。人間の悟性や理性は、本質的に感覚的なものであり、人間と動物の相違は程度問題にすぎない。人間行動は、自由な意思・意志に基づくものではなく、外界から与えられる感覚的刺激と内的な反応という2つの力の複合的作用である。人間の感覚にとって快楽的なものを「善」(価値的)として受け容れ、不快なものを「悪」(無価値的)として斥ける。それは道徳・倫理などとは無関係なものである。
三島さんは、ホッブスの人間観の前提をこのように説明します。それは非常のドライな人間観、乾いた人間観、無味乾燥な無機質な人間観のように響きます。(225頁)
2自然状態・自然権・自然法
ホッブスのいう「人間」が生きる社会とはどのような社会でしょうか。それをグロチウスの政治社会や自然法論と対比させながら考え、ホッブスの政治社会や自然法論の特徴を明らかにしたいと思います。
グロチウスの人間本性・社交的性向
グロチウスが自然法の問題に関心を寄せるようになったのは、彼が生きた時代が宗教戦争の時代であったこと、またそれが国教を超えた国際紛争にまで発展した時代でした。キリスト教世界が新旧二派に分裂し、相互に血を流し合って闘っていました。また、キリスト教世界が非キリスト教世界への非人道的な植民が繰り返されていました。このようななかで、確固たる平和と秩序を樹立するためには、信仰のいかんにかかわらず、普遍的に妥当する秩序、誰もがそれに従う秩序を確立することが必要であり、それなしに宗派間の、国家間の紛争を解決する道はない。グロチウスはこのように考えて模索したのが、自然法でした。この自然法の直接的な淵源は、人間本性としての「社交的性向」に根ざしたもので、その究極的な淵源には「社交的性向」を備えた人間本性を創造した「神」そのものであると考えました。グロチウスの自然法論は、近代的な人間像とその政治社会を創造するために神の存在に依拠した点で、中世から近代へと向かう過渡期に位置していますが、人間本性を直接的な淵源とする自然法論を展開したところに、グロチウスの自然法論の近代的な性格を確認することができます。
ホッブスの自然状態
これに対してホッブスの人間像は、グロチウスのような社交的性向を備えていません。それがまた政治社会のとらえ方に影響を及ぼします。ホッブスは、グロチウスが前提にした人間本性の「社交的性向」は、かりに人間がそれを備えているとしても、表層的・一時的なものでしかなく、人間本性のより深層的・恒常的な性向は、「他人への支配欲」であり、「権力への意志」(権力を志向する意志)であると言います。それは社交性とは対極的なものです。ホッブスにとって人間の悟性や理性は、本質的に感覚的なものであり、その行動は自由な意思・意志に基づくものではなく、外界から与えられる感覚的刺激と内的な反応という2つの力の複合的作用であると解されています。感覚にとって快楽的なものを「善」(価値的)として受け容れ、不快なものを「悪」(無価値的)として斥けるのが人間です。そうすると、自己にとって快楽を追求し、不快を斥けることを恒常的に行うのが人間ということになります。人間は、自己の個人的な活動範囲において、そのような快楽をもとめ、それをより多く求めるために、活動範囲を拡大し、絶え間なく新しい快楽を求め、そのなかに至福を見いだす存在であるとすると、他人も同じように自己の快楽を求めているので、同じ目標を実現するために活動している者同士が競争相手として目の前に立ちはだかり、自分の快楽を実現するために他人を押しのけようとします。他者の行動を支配・統制し、彼を自己の服従させる権力を求めます。それは人間が性悪な存在だからではありません。生来、ほぼ同じ能力を付与されている人間が自己の快楽を求めて、その過程において他者と相互に対立せざるをえないという人間の客観的な生存状況が人間をしてそのようにさせるのです。これが、ホッブスが説いた「万人の万人に対する闘争」です。
この「万人の万人に対する闘争」においては、人は他人を己に服従させようとし、そのために必要とあらば彼を殺害することもある「普遍的な総力戦」が闘われます。ホッブスは、このような戦争状態こそ、キリスト教宗派間の宗教戦争や非キリスト教国への植民であり、それに奔走していた当時のイギリスの支配者たちに「人間の本性」を見たのかもしれません。それは、ヨーロッパの一時期の不幸な出来事だったのかもしれません。ある地域の、ある一時期の不幸な出来事だったのかもしれません。しかし、ホッブスはそのようには考えなかった。彼は、国内的な無政府状態や内乱状態、対外的な戦争状態などの状態は、それを管理・統制する公的権力が存在しない場合には、常に生ずる状態であると捉えたのです。国内における内乱状態、対外的な戦争状態は、中世の時代、近代の初期の時代に現れた偶然の問題、歴史や時代に特有な問題ではなく、人間に固有の問題であると。いわば人間の本性や客観的生存状況に起因する長時間的・超歴史的な根源状態であると指摘しているのです。「万人の万人に対する闘争」を生み出すのが、人間の自然状態なのです。このような人間の本性を変えたり、抑えたり、それを静まらせることができるのでしょうか。難しい問題です。
ホッブスの自然権
「万人の万人に対する闘争」という間の自然状態は、一切の法的・道徳的拘束が欠如している状態です。一切の法的・道徳的な観念によって人間が拘束されていないということは、何を意味するかというと、それは人間は法や道徳から「完全に自由」であるということです。「万人の万人に対する闘争」においては、人は他人を己に服従させようとし、そのために必要とあらば彼を殺害することもある。人間はこのような「普遍的な総力戦」を毎日闘っています。そかも、その闘う方法には法的・道徳的規制はなく、何にも拘束されずに自由に闘っています。各人は、「自己保全」(自己の快楽の追求と不快の拒絶)のために、自らの判断に従っていかなることでもなしうる自由を有します。ホッブスは、このような自然状態における各人の「自己保全」への自由を「自然権」と呼びます。ホッブスは言います。
「著作家たちが〈ユス・ナトゥラーレ〉と一般に呼んでいる〈自然権〉とは、各人が自分自身の自然、すなわち自分の生命を保持するために、自分の力を自分が欲するように用いるよう各人が持っている自由である。しかがって、それは自分自身の判断と理性において、そのために最も最適な手段であると考えられるあらゆることを行う自由である」(『リヴァイアサン』)。
この「自分の生命を保持するために、自分の力を自分が欲するように用いるよう各人が持っている自由」のなかには、他者の生命すらも侵害する自由、ひいては他国の主権を侵害し、自己の欲するルールを押しつける自由も含まれます。それはホッブスの想像の話ではなく、彼が生きた時代のイギリスの国内外の状況のリアルな姿、その当時の人間のリアルな姿です。しかし、同時にもう一つのリアルな姿があります。それは、「万人の万人に対する闘争」の中で不安な毎日を送る人間の姿です。各人は、自然状態では、あらゆるものを斥けて、自己の快楽を追求する権利を持っていますが、その権利は快楽へと向かう権利でありながら、同時に不快へと追いやられていく「権利」、不安にさいなまれ、恐怖に怯える「自由」でもあります。「各人の万物に対するこの自然の権利が存続する限り、自然が通常人間に与えている生存期間を生き抜くための安全は、いかなる人間にも、(いかに彼が力強く賢明であろうとも)まったく保証されていない」のです。つまり、ホッブスのいう自然状態、つまり「万人の万人に対する闘争」は、一方で自己は快楽を追求・獲得して、自己を肯定する結果をもたらしながら、他方で他者は快楽を追求・獲得できず、不快へと追い込まれ、自己を否定する結果をもたらすのです。このように、自然状態における各人の自由を行使する力は「裸の力」であるため、つまり法的な規制や道徳的な抑制の働かない、何にも拘束されない力であるため、実力の支配と弱肉強食の悲惨へと必然的に行き着くのです。
ホッブスの自然法
このような自然状態、各人の自然権の衝突状況から脱出できるのでしょうか。それとも最終的に1人の強者による一極支配が確立し、その他の者はそれに従属するのでしょうか。三島さんは、「だが、人間には、このような窮状から脱出するための諸能力もまた与えられている。それは死の恐怖その他の情念、及び理性の計算である」。人間には、この窮状から脱出するための能力が備わっているというのです。それは。まずは素朴な「死の恐怖」です。自然権の究極の実現方法としての他者の殺害、その被害に会うことの恐怖です。次に、情念です。これは死を逃れるため
ト教世界への非人道的な植民が繰り返されていました。そして、最後に理性の計算。これこそ、キリスト教国間の宗教対立と非キリスト教国への植民という国内外の紛争を解決し、確固たる平和と秩序を樹立するための秩序を確立する糸口、信仰のいかんにかかわらず、普遍的に妥当する秩序、誰もがそれに従う秩序を確立する入口です。「人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望などがある。また人間は理性の示唆によって、たがいに同意えきるような都合のよい平和のための諸条項を考えだす。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる」。
ホッブスのよれば、自然法とは、人間が自然状態において自己保全の情念に突き動かされ、自己の快楽のためには他者への不快を強制することもいとわない「完全な自由」を行使しながら、同時にこの自然状態の矛盾と窮状を脱出して、平和を達成するために、「理性の計算」によって案出する一般的な規則・戒律のことです。自然法は、自然状態における人間の自然権を前提として、その自然権を実現するための、各人の自然権が両立しうるように実現するための規則・戒律です。法的義務は、ここから導き出されます。「裸の自然状態」から「裸の自然権」が導き出され、それに法的・道徳的な自然法の枠をはめ、権利を実現するための法的義務というものが出現するという考察方法がとられているように思います。
伝統的・古典的な自然法論においては、人間社会の状態、人間の権利、自然法の関係はどうだったでしょうか。トマス・アクィナスの自然法論は、三島さんのテキストの201頁ではどのように解説されていたかというと、自然法というものは、神の摂理の表現であり、人間以前にそのような神的秩序が成立しているところから始まります。人間は個として存在するのではなく、神の教えに導かれる信者として存在します。信者が神の教えを信じ、神の摂理としての自然法に参与し、それに従うのは「義務」です。神的秩序、宇宙的コスモスの法則としての自然法とそれに有機的に組み込まれている信者としての人間、自然法と自然権・義務は、このように説明されていました。神・宇宙・コスモス→その摂理・教えとしての自然法→人間・信者の義務・権利という順に語られていました。しかし、ホッブスの場合は異なります。自然状態において人間が行動する自由が自然権として確立し、そこから自然法が成立します。各個人の自然の権利が中心に置かれて、法が構成されるというのは、近代自然法の特徴であり、ホッブスはその意味で近代自然法の確立者であるといえるでしょう。この自然法は、「リヴァイアサン」としての国家において展開されます。
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