三島淑臣『法思想史』ノート(03)(無許可転載厳禁)
第4章 近代法思想の形成
第2節 近代自然法論の確立--ホッブス
1伝統的=スコラ学的思考との対決
三島さんは、中世から近代の過渡期において、世界、国家、人間を捉える視点が根本的に変化するなかで、教会や国王制度を当然の前提としていた国家間・社会感・法律観が大きく揺さぶられたことを指摘しています。過渡期であるため、まだ完全には国家論も、また法思想・法制度も近代的なものとして完成していませんが、大きな飛躍を遂げたことを指摘しています。なかで、スペインのサラマンカ学派、オランダのグロチウスは、対外的には植民地主義的な覇権主義が始まった時代に、また国内的には宗教戦争が繰り広げられていた時代に、それに抗するために平和、協調、社交性などの理念を国家観や法律観のなかに取り入れました。
グロチウスが生きた時代と重なる時期に、イギリスではトーマス・ホッブス(1588-1679年)が同じ課題にむかって、異なる観点から「近代」を目指していました。
ホッブスの活躍した時代のイギリスは、中世まで優勢を誇った絶対王制が揺らぎ始め、市民革命が進展した時期です。絶対王制は大商人層と癒着し、それに特権を付与し、私腹を肥やしていました。中小の市民層がそれに不満を抱いていました。それに推されるようにして、イギリスの清教徒の指導者・クロムウェル(1599-1658年)が立ち上がります。絶対王制による支配から議会による統治への変化が始まります。1645年のピューリタン革命です。ホッブス57才のときです。その後、1660年に王政が復活しますが、これは第1のピューリタン革命の延長線上に展開された第2の革命である名誉革命へと進んでいきます。ホッブス72才のときです。
このようにでした絶対王制が崩壊し、近代への扉が開かれ始めたとき、ホッブスは身の危険をさっちして、何度もフランスに渡らざるを得なかったといいます。ホッブスは、絶対王制を維持しようとする王党派と市民革命派の対立・抗争が激しくなるなかで、王党派はもちろん、市民革命派からも快く思われていませんでした。だから、フランスに亡命せざるを得なかったのです。しかし、彼はフランスの地で、祖国イギリスの政変や動乱を冷静に見つめていました。イギリスの伝統的な経験論の思考方法を継承しながら、フランスの大陸型の合理主義的思考を取り入れ、近代社会=国家の基本問題に真正面から迫っていました。その迫り方は、グロチウスなどとは異なります。ホッブスは、イギリスにおける内乱・革命、政治的混乱・無秩序を目の当たりにして、それを根本的に克服して、政治社会の内部に平和と秩序を確立するための方法を模索しました。国家はいかにあるべきか、社会はいかにあるべきか、法はいかにあるべきか。そもそも人間はいかにあるべきか。
このようにして、彼のは伝統的=スコラ学的思考方法との対決・克服の方向を目指します。
1ノミナリズム(唯名論)と自然科学的方法
三島さんは、ホッブスの哲学的思惟がノミナリズムと自然科学的方法によって支えられているといいます。これが近世の自然法思想、またそれを引きずっていたグロチウスの近代的自然法思想とも異なる点であると思われます。
ノミナリズム(Nominalisum)
ノミナリズムとは、唯名論(ゆいめいろん)とも呼ばれ、ヨーロッパ中世期に起こった普遍論争の一方の立場です。普遍論争というのは、簡単に言えば次のような論争です。人間、犬、桜という言葉を聞いて思い浮かべるのは、鈴木一郎さん、ハチ公、平野神社にある樹齢150年の桜の木という個別具体的なものですが、人間には鈴木さんのほかにも田中次郎さんや青木三郎さんさんなどもいます。犬にはハチ公のほか、ジョンもいます。桜には、上賀茂神社の樹齢200年を超える桜の大木もあります。そうすると、人間、犬、桜という言葉を聞いて、個々の存在だけでなく、個々の存在の総称である集合概念・普遍概念(これが類である)を思い浮かべるでしょう。
ここでの問題は、鈴木一郎さん、田中次郎さん、青木三郎さんは実在しますが、その集合概念・普遍概念である「人間」という類は存在するのでしょうか。これが普遍論争の問いです。これに「イエス」と答えるのが伝統的なスコラ学であり、「ノー」と答えるのは唯名論です。伝統的なスコラ学は、個々の鈴木一郎さんを超えて「人間」という類概念が存在する、ハチ公を超えて「犬」という類概念が実在すると主張します。これを実在論です。しかし、鈴木一郎さんの存在を五感の作用を用いて確認することができても、類概念としての「人間」が実在するというのを、同じように五感の作用を用いて確認することができるのかというと、なんだかよく分かりません。これに対して、唯名論は、集合概念・普遍概念・類の概念というものは、「名前」として存在するだけであり、実在しない。実際に存在するのは、具体的な個物だけであり、個々の個物を総称する「名前」は実在しないといいます。つまり、実在するのは個々の具体的な鈴木一郎さん、ハチ公だけであり、「人間」や「犬」という名称はそれを総称する「名前」であって、実在しないと考えます。
三島さんは、伝統的=スコラ学的思考の中心には「普遍者・一般者の実在」という考えがあったが、中世末期以降、これに対して唯名論は「個体の優位性」を対置して、スコラ学を批判し解体を推し進めてきた。これはホッブスにとっては自明の真理であった。ホッブスから見れば、人間や犬といった名前や概念は、種々様々に存在する個物について人々が抱いている表象を反映したものであり、人間がそのように考えた結果なのである。三島さんは、このように解説します。私は、少し意地悪な解説を加えたいと思います。キリスト教は、「神」が存在することを前提に、その教義を信じることが理性的であることを教え、「信者」してて生きることによって救済されることを説きます。「個々の人々」はそれを信じ、キリスト教の「信者」として生きることを学びます。自分が「敬虔なキリスト教徒」であることを日々確証するために、祈り、捧げ、懺悔するわけです。教会はそのための制度であり、神父や牧師は神の教えの伝道者として、神と信者を結び合わせます。それによってキリスト教の世界が成立します。キリスト教の世界は普遍的世界であり、類概念が実在する世界です。実在するものを拒むことはできません。また実在(positv)する以上、否定することはできません(nicht negativ)。神の世界は絶対的な世界です。従って、信者の世界もまた絶対な世界です。しかし、キリスト教の世界のような普遍的な世界は存在しない、類概念としての神も実在しない、信者も実在しない、牧師も実在しない。実在するのは個々の人間だけであり、神は彼らが抱いている表象を反映したものでしかない。このように主張すると、どうなるでしょうか。ホッブスがいうところの「賢い者」を怒らせ、「愚人ども」は迫害されることになるでしょう。力で抑え込もうとするでしょう。しかし、それは中世末期までの話です。近代の訪れによって、伝統的なスコラ学の自然法論が終わり、近代の自然法論がそれにとって代わります。
自然科学的方法
このような意味で理解すると、ホッブスを始めとする伝統的なスコラ学に対する批判者は思想の世界における革命家であったといっても過言ではありません。しかも、その批判は自然科学的方法に基づいていました。ホッブスは、フランス滞在中に、ガリレオ・ガリレイ、デカルト、メルセンヌなどの近代自然科学の創始者たちと親交を結んでいました。また、40才を過ぎ頃にユークリッド幾何学を研究していました。
ユークリッド幾何学というのは、簡単に説明すると、直感的に納得できる空間のあり方に基づく幾何学のことです。例えば、「直線」は、「空間」が無限であれば、どこまでも伸ばせるはずである。「平面」もまた、「空間が」が無限であれば、どこまでも果てのないものが想像でき、どこまでも平らな面が延長する。また、平行線はどこまでも平行に伸びる。このように想定したうえで、現実世界の在り方を説明することができると考えます。それは、「世界がこうだったらいいのになあ」といった願望や「世界は絶対こうなる」といった信仰などで世界を捉えるのではなく、あくまでも経験的に認識できる事実、直感的に納得できる出来事に即して捉える立場です。そういう意味で自然科学的であるといえます。ホッブスは、このような自然科学を熱心に学びました。とりわけベーコンから学んだ「学問における経験からの出発」の重要性を強調し、それと対象(自然・外界)を支配するにはその法則性に従わなければならないという近代科学の方法的精神を結合させました。
ホッブスの目の前にあるのか、直感によって認識される個々の事物です。それは、誰もが一様に経験しているようなものです。この事物が今目の前にあるのはなぜか。また、昨日まで目の前にあった事物が今日なくなっているのはなぜか。このような事物の成立と消滅の成り立ちとメカニズムを明らかにするためには、事物と事物、事物と外界の関係、原因となっている事物とそこから結果として生じている事物の因果的な連関を探らなければなりません。それを総体的に把握するためには、たんなる経験や思いつきだけでは十分ではありません。事物の因果的連関の法則性を認識し、それを合理的・数学的に定式化することが必要です。このような対象を考察するためには、事物によって構成されている客観的な自然の世界は、何らかの超越者や絶対者の精神的力や教え、彼らが付与した目的に従って、その目的の実現を目指して動いているのではなく、精神を持たない単なる「延長するもの」であり、そのようなものとして「機械論的秩序」に服していることを前提にしなければなりません。世界はどのように動いているのか。それを明らかにするために、その対象をもっとも単純な要素にまで還元・分解・分析し、思惟の中で(思考して)、それを最初の原形にまで再生・再構成・総合することによって、はじめて対象に関する学問的認識が得られ、それが何であるのかが明らかになります。
自然科学的方法によって、伝統的なスコラ学はどのように批判されるのでしょうか。神も信者もいない。そのような類的概念は実在しない。実在しないのは、人間だけである。このような唯名論と自然科学的方法を結合させることで、伝統的なスコラ学をどのように批判することができるのでしょうか。三島さんは、この点について若干の留保をつけながら解説しています。ホッブスのような自然科学的方法を採用することによって、伝統的な神学・形而上学が解体され、機械的唯物論が樹立されるとしても、それが直ちに無神論の意味合いを含んでいるのかどうか、しばしばそのように理解されてきたが、疑問であると言います。確かに、そこにはカルヴィニズムに担われた「世界の没意味化」という特殊プロテスタンティズム的な(それゆえ宗教的な)動機が作用していたのであり、それは無神論とは言えないと述べています。つまり、普遍概念・類概念の実在を否定して、個物の実在のみを肯定するという態度をとることによって、世界は神が創造したのであることを否定し、また世界を内在的=目的論的に意味づけることを一切拒否し、世界をたんなる物体として非情かつ冷静に捉え、それを処理することは、特殊プロテスタンティズムの精神の表れであったと言います。
ただし、三島さんの指摘の当否はともかく、ホッブスの人間概念、実在する個々の人間は、唯名論的=唯物論的な背景を持っていることは明らかです。三島さんは、ホッブスの唯名論を肯定的に評価しながらも、それだけでは伝統的思惟を克服することはできなかった、それは消極的な拠点でしかなかったが、自然科学的方法の立場に立つことによって、伝統的なスコラ学を批判し、克服する積極的な拠点に立たせたと言います。
唯名論的・自然科学的人間観
こうなると、人間というものは、ホッブスにとって物体の一種でしかありません。人間は、中世キリスト教世界における「信者」ではなく、また神を頂点として秩序づけられている宇宙的コスモスの一員、有機的な世界に構造的に組み込まれた存在ではありません。人間がものごとを理解していること、それがどうあるべきかと評価していること、このような人間の悟性や理性は、伝統的なスコラ学では、キリスト教の教義に基づいて理解・評価してきたのかもしれません。しかし、人間が物体の一種であることから、人間の悟性や理性は、本質的に感覚的なものであり(悟るものではない)、人間と動物の相違は程度の問題でしかありません。人間の行動は、教えに基づいて、それを指針に行動するという自覚的な行為でも、自由な意思に基づいている行為でもなく、外界から及ぼされる感覚的刺激とそれに対する内的な反応という2つの力の複合作用なのです。外界から及ぼされる感覚的な知覚によって、人間は、それが自分にとって肯定的・必要なものであるとか(快楽)、あるいは否定的・不要なものであるとか(不快)を感じます。それは誰もが否定できない事実です。人間は、快楽であると知覚したものを「善」として肯定し、不快と知覚したものを「悪」として斥けます。それもまた誰もが否定できない事実です。
道徳哲学という学問分野がありますが、それは善と悪、正と邪のような意味の世界、価値の世界を問題にするというよりは、むしろ没意味・没価値の世界の善と悪・正と邪を問題にすることになります。道徳哲学の対象である人の行動は、一種の自然現象ということになります(自然主義。刑法学ではフランツ・フォン・リストの自然主義的な刑法学がその典型です)。学問の課題は、人間はいかなる外的な刺激によって、どのように反応するのか、その際、どのような行動をとるのか、またどのような行動を回避するのか、私たち自身の行動の外的要因、それがもたらす内的刺激、その結果として生ずる人間の行動を予測し、それによって私たちにとって利益になるよう(快楽に感じるよう)、生存の促進に役立つよう(これもまた快楽になるよう)にすること、これが学問の課題になります。学問的に検討するのは、善・悪の道徳的問題、正・邪の倫理的な問題ではなく、あくまでも個物として存在する人間の行動の予測になります。アリストテレスやトマス・アクィナスにおいては、人間とは、生きるとは、はたして何か、それにいかなる意味があるのかといった典型的な哲学的問いが問われ、真理が探究されるのが普通でしたが、もはやホッブスにおいては、功利的・実用的な問題が問われることになります。人間にとって快楽を増加させるのは何か、複数のうちいずれが大きな快楽なのか、快楽の量と質を測定する基準は何か、小さな快楽ではなく、大きな快楽を選ぶ方法・手段はどのようなものか、といったことが問題になるだけです。
唯名論と自然科学的方法に基づいて捉えられた人間像に基づいて、ホッブスは自然状態、人間の自然権、国家の自然法について論を展開していきます。いわゆる「万人の万人に対する闘争」という自然状態がそれです。
(221~225頁)
第4章 近代法思想の形成
第2節 近代自然法論の確立--ホッブス
1伝統的=スコラ学的思考との対決
三島さんは、中世から近代の過渡期において、世界、国家、人間を捉える視点が根本的に変化するなかで、教会や国王制度を当然の前提としていた国家間・社会感・法律観が大きく揺さぶられたことを指摘しています。過渡期であるため、まだ完全には国家論も、また法思想・法制度も近代的なものとして完成していませんが、大きな飛躍を遂げたことを指摘しています。なかで、スペインのサラマンカ学派、オランダのグロチウスは、対外的には植民地主義的な覇権主義が始まった時代に、また国内的には宗教戦争が繰り広げられていた時代に、それに抗するために平和、協調、社交性などの理念を国家観や法律観のなかに取り入れました。
グロチウスが生きた時代と重なる時期に、イギリスではトーマス・ホッブス(1588-1679年)が同じ課題にむかって、異なる観点から「近代」を目指していました。
ホッブスの活躍した時代のイギリスは、中世まで優勢を誇った絶対王制が揺らぎ始め、市民革命が進展した時期です。絶対王制は大商人層と癒着し、それに特権を付与し、私腹を肥やしていました。中小の市民層がそれに不満を抱いていました。それに推されるようにして、イギリスの清教徒の指導者・クロムウェル(1599-1658年)が立ち上がります。絶対王制による支配から議会による統治への変化が始まります。1645年のピューリタン革命です。ホッブス57才のときです。その後、1660年に王政が復活しますが、これは第1のピューリタン革命の延長線上に展開された第2の革命である名誉革命へと進んでいきます。ホッブス72才のときです。
このようにでした絶対王制が崩壊し、近代への扉が開かれ始めたとき、ホッブスは身の危険をさっちして、何度もフランスに渡らざるを得なかったといいます。ホッブスは、絶対王制を維持しようとする王党派と市民革命派の対立・抗争が激しくなるなかで、王党派はもちろん、市民革命派からも快く思われていませんでした。だから、フランスに亡命せざるを得なかったのです。しかし、彼はフランスの地で、祖国イギリスの政変や動乱を冷静に見つめていました。イギリスの伝統的な経験論の思考方法を継承しながら、フランスの大陸型の合理主義的思考を取り入れ、近代社会=国家の基本問題に真正面から迫っていました。その迫り方は、グロチウスなどとは異なります。ホッブスは、イギリスにおける内乱・革命、政治的混乱・無秩序を目の当たりにして、それを根本的に克服して、政治社会の内部に平和と秩序を確立するための方法を模索しました。国家はいかにあるべきか、社会はいかにあるべきか、法はいかにあるべきか。そもそも人間はいかにあるべきか。
このようにして、彼のは伝統的=スコラ学的思考方法との対決・克服の方向を目指します。
1ノミナリズム(唯名論)と自然科学的方法
三島さんは、ホッブスの哲学的思惟がノミナリズムと自然科学的方法によって支えられているといいます。これが近世の自然法思想、またそれを引きずっていたグロチウスの近代的自然法思想とも異なる点であると思われます。
ノミナリズム(Nominalisum)
ノミナリズムとは、唯名論(ゆいめいろん)とも呼ばれ、ヨーロッパ中世期に起こった普遍論争の一方の立場です。普遍論争というのは、簡単に言えば次のような論争です。人間、犬、桜という言葉を聞いて思い浮かべるのは、鈴木一郎さん、ハチ公、平野神社にある樹齢150年の桜の木という個別具体的なものですが、人間には鈴木さんのほかにも田中次郎さんや青木三郎さんさんなどもいます。犬にはハチ公のほか、ジョンもいます。桜には、上賀茂神社の樹齢200年を超える桜の大木もあります。そうすると、人間、犬、桜という言葉を聞いて、個々の存在だけでなく、個々の存在の総称である集合概念・普遍概念(これが類である)を思い浮かべるでしょう。
ここでの問題は、鈴木一郎さん、田中次郎さん、青木三郎さんは実在しますが、その集合概念・普遍概念である「人間」という類は存在するのでしょうか。これが普遍論争の問いです。これに「イエス」と答えるのが伝統的なスコラ学であり、「ノー」と答えるのは唯名論です。伝統的なスコラ学は、個々の鈴木一郎さんを超えて「人間」という類概念が存在する、ハチ公を超えて「犬」という類概念が実在すると主張します。これを実在論です。しかし、鈴木一郎さんの存在を五感の作用を用いて確認することができても、類概念としての「人間」が実在するというのを、同じように五感の作用を用いて確認することができるのかというと、なんだかよく分かりません。これに対して、唯名論は、集合概念・普遍概念・類の概念というものは、「名前」として存在するだけであり、実在しない。実際に存在するのは、具体的な個物だけであり、個々の個物を総称する「名前」は実在しないといいます。つまり、実在するのは個々の具体的な鈴木一郎さん、ハチ公だけであり、「人間」や「犬」という名称はそれを総称する「名前」であって、実在しないと考えます。
三島さんは、伝統的=スコラ学的思考の中心には「普遍者・一般者の実在」という考えがあったが、中世末期以降、これに対して唯名論は「個体の優位性」を対置して、スコラ学を批判し解体を推し進めてきた。これはホッブスにとっては自明の真理であった。ホッブスから見れば、人間や犬といった名前や概念は、種々様々に存在する個物について人々が抱いている表象を反映したものであり、人間がそのように考えた結果なのである。三島さんは、このように解説します。私は、少し意地悪な解説を加えたいと思います。キリスト教は、「神」が存在することを前提に、その教義を信じることが理性的であることを教え、「信者」してて生きることによって救済されることを説きます。「個々の人々」はそれを信じ、キリスト教の「信者」として生きることを学びます。自分が「敬虔なキリスト教徒」であることを日々確証するために、祈り、捧げ、懺悔するわけです。教会はそのための制度であり、神父や牧師は神の教えの伝道者として、神と信者を結び合わせます。それによってキリスト教の世界が成立します。キリスト教の世界は普遍的世界であり、類概念が実在する世界です。実在するものを拒むことはできません。また実在(positv)する以上、否定することはできません(nicht negativ)。神の世界は絶対的な世界です。従って、信者の世界もまた絶対な世界です。しかし、キリスト教の世界のような普遍的な世界は存在しない、類概念としての神も実在しない、信者も実在しない、牧師も実在しない。実在するのは個々の人間だけであり、神は彼らが抱いている表象を反映したものでしかない。このように主張すると、どうなるでしょうか。ホッブスがいうところの「賢い者」を怒らせ、「愚人ども」は迫害されることになるでしょう。力で抑え込もうとするでしょう。しかし、それは中世末期までの話です。近代の訪れによって、伝統的なスコラ学の自然法論が終わり、近代の自然法論がそれにとって代わります。
自然科学的方法
このような意味で理解すると、ホッブスを始めとする伝統的なスコラ学に対する批判者は思想の世界における革命家であったといっても過言ではありません。しかも、その批判は自然科学的方法に基づいていました。ホッブスは、フランス滞在中に、ガリレオ・ガリレイ、デカルト、メルセンヌなどの近代自然科学の創始者たちと親交を結んでいました。また、40才を過ぎ頃にユークリッド幾何学を研究していました。
ユークリッド幾何学というのは、簡単に説明すると、直感的に納得できる空間のあり方に基づく幾何学のことです。例えば、「直線」は、「空間」が無限であれば、どこまでも伸ばせるはずである。「平面」もまた、「空間が」が無限であれば、どこまでも果てのないものが想像でき、どこまでも平らな面が延長する。また、平行線はどこまでも平行に伸びる。このように想定したうえで、現実世界の在り方を説明することができると考えます。それは、「世界がこうだったらいいのになあ」といった願望や「世界は絶対こうなる」といった信仰などで世界を捉えるのではなく、あくまでも経験的に認識できる事実、直感的に納得できる出来事に即して捉える立場です。そういう意味で自然科学的であるといえます。ホッブスは、このような自然科学を熱心に学びました。とりわけベーコンから学んだ「学問における経験からの出発」の重要性を強調し、それと対象(自然・外界)を支配するにはその法則性に従わなければならないという近代科学の方法的精神を結合させました。
ホッブスの目の前にあるのか、直感によって認識される個々の事物です。それは、誰もが一様に経験しているようなものです。この事物が今目の前にあるのはなぜか。また、昨日まで目の前にあった事物が今日なくなっているのはなぜか。このような事物の成立と消滅の成り立ちとメカニズムを明らかにするためには、事物と事物、事物と外界の関係、原因となっている事物とそこから結果として生じている事物の因果的な連関を探らなければなりません。それを総体的に把握するためには、たんなる経験や思いつきだけでは十分ではありません。事物の因果的連関の法則性を認識し、それを合理的・数学的に定式化することが必要です。このような対象を考察するためには、事物によって構成されている客観的な自然の世界は、何らかの超越者や絶対者の精神的力や教え、彼らが付与した目的に従って、その目的の実現を目指して動いているのではなく、精神を持たない単なる「延長するもの」であり、そのようなものとして「機械論的秩序」に服していることを前提にしなければなりません。世界はどのように動いているのか。それを明らかにするために、その対象をもっとも単純な要素にまで還元・分解・分析し、思惟の中で(思考して)、それを最初の原形にまで再生・再構成・総合することによって、はじめて対象に関する学問的認識が得られ、それが何であるのかが明らかになります。
自然科学的方法によって、伝統的なスコラ学はどのように批判されるのでしょうか。神も信者もいない。そのような類的概念は実在しない。実在しないのは、人間だけである。このような唯名論と自然科学的方法を結合させることで、伝統的なスコラ学をどのように批判することができるのでしょうか。三島さんは、この点について若干の留保をつけながら解説しています。ホッブスのような自然科学的方法を採用することによって、伝統的な神学・形而上学が解体され、機械的唯物論が樹立されるとしても、それが直ちに無神論の意味合いを含んでいるのかどうか、しばしばそのように理解されてきたが、疑問であると言います。確かに、そこにはカルヴィニズムに担われた「世界の没意味化」という特殊プロテスタンティズム的な(それゆえ宗教的な)動機が作用していたのであり、それは無神論とは言えないと述べています。つまり、普遍概念・類概念の実在を否定して、個物の実在のみを肯定するという態度をとることによって、世界は神が創造したのであることを否定し、また世界を内在的=目的論的に意味づけることを一切拒否し、世界をたんなる物体として非情かつ冷静に捉え、それを処理することは、特殊プロテスタンティズムの精神の表れであったと言います。
ただし、三島さんの指摘の当否はともかく、ホッブスの人間概念、実在する個々の人間は、唯名論的=唯物論的な背景を持っていることは明らかです。三島さんは、ホッブスの唯名論を肯定的に評価しながらも、それだけでは伝統的思惟を克服することはできなかった、それは消極的な拠点でしかなかったが、自然科学的方法の立場に立つことによって、伝統的なスコラ学を批判し、克服する積極的な拠点に立たせたと言います。
唯名論的・自然科学的人間観
こうなると、人間というものは、ホッブスにとって物体の一種でしかありません。人間は、中世キリスト教世界における「信者」ではなく、また神を頂点として秩序づけられている宇宙的コスモスの一員、有機的な世界に構造的に組み込まれた存在ではありません。人間がものごとを理解していること、それがどうあるべきかと評価していること、このような人間の悟性や理性は、伝統的なスコラ学では、キリスト教の教義に基づいて理解・評価してきたのかもしれません。しかし、人間が物体の一種であることから、人間の悟性や理性は、本質的に感覚的なものであり(悟るものではない)、人間と動物の相違は程度の問題でしかありません。人間の行動は、教えに基づいて、それを指針に行動するという自覚的な行為でも、自由な意思に基づいている行為でもなく、外界から及ぼされる感覚的刺激とそれに対する内的な反応という2つの力の複合作用なのです。外界から及ぼされる感覚的な知覚によって、人間は、それが自分にとって肯定的・必要なものであるとか(快楽)、あるいは否定的・不要なものであるとか(不快)を感じます。それは誰もが否定できない事実です。人間は、快楽であると知覚したものを「善」として肯定し、不快と知覚したものを「悪」として斥けます。それもまた誰もが否定できない事実です。
道徳哲学という学問分野がありますが、それは善と悪、正と邪のような意味の世界、価値の世界を問題にするというよりは、むしろ没意味・没価値の世界の善と悪・正と邪を問題にすることになります。道徳哲学の対象である人の行動は、一種の自然現象ということになります(自然主義。刑法学ではフランツ・フォン・リストの自然主義的な刑法学がその典型です)。学問の課題は、人間はいかなる外的な刺激によって、どのように反応するのか、その際、どのような行動をとるのか、またどのような行動を回避するのか、私たち自身の行動の外的要因、それがもたらす内的刺激、その結果として生ずる人間の行動を予測し、それによって私たちにとって利益になるよう(快楽に感じるよう)、生存の促進に役立つよう(これもまた快楽になるよう)にすること、これが学問の課題になります。学問的に検討するのは、善・悪の道徳的問題、正・邪の倫理的な問題ではなく、あくまでも個物として存在する人間の行動の予測になります。アリストテレスやトマス・アクィナスにおいては、人間とは、生きるとは、はたして何か、それにいかなる意味があるのかといった典型的な哲学的問いが問われ、真理が探究されるのが普通でしたが、もはやホッブスにおいては、功利的・実用的な問題が問われることになります。人間にとって快楽を増加させるのは何か、複数のうちいずれが大きな快楽なのか、快楽の量と質を測定する基準は何か、小さな快楽ではなく、大きな快楽を選ぶ方法・手段はどのようなものか、といったことが問題になるだけです。
唯名論と自然科学的方法に基づいて捉えられた人間像に基づいて、ホッブスは自然状態、人間の自然権、国家の自然法について論を展開していきます。いわゆる「万人の万人に対する闘争」という自然状態がそれです。
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