Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法Ⅰ(03)基礎編(責任論)

2020-04-23 | 日記
 刑法Ⅰ(第03回) 責任論
(1)前回までの復習
1犯罪の定義
 犯罪は、一般に「構成要件に該当する違法で、かつ有責な行為」であると定義されています。ある人の行為を処罰しようとするなら、その行為が犯罪にあたることを論証しなければなりません。その行為が、犯罪の構成要件に該当する違法で、かつ有責な行為であることを論証できれば、その行為を行った人を処罰することができます。

2刑法の意義
 他人や社会の利益を侵害する行為が行われていることは、実社会において見られます。それを放置しまたまだと、社会それ自体を維持することができなくなります。そうならないために、国民は政府を作り(普通選挙制度を通じて代表を選出して、議会・国会を作り)、刑法という法律を制定しました。いかなる行為が犯罪にあたるのか、それにはどのような刑罰が科されるのか、それは刑法によって決められます。

 刑法によって決められるとはいっても、議会・国会が自由自在に刑法を制定し、国民の行為を無制限に犯罪として処罰できるわけではありません。刑法にも超えてはならない一線があります。犯罪と刑罰の内容を明確にして、刑罰権の行使の範囲を限界づけるための基本原則があります。これは刑罰権力という国家権力を刑法によって制限する考え(立憲主義)は、刑法の基本原則として、罪刑法定主義、行為主義、責任主義の3つを求めています。

3刑法の基本原則
 では、どのような行為が犯罪として処罰されるのか、その基本原則とはどのようなものでしょうか。まずは罪刑法定主義とは、どのような原則なのでしょうか。

 罪刑法定主義
 罪刑法定主義は、「法律なければ、犯罪はなく、刑罰もなし」という標語によって表されています。どのような悪い行為であっても、あらかじめ刑法で犯罪として処罰されることが明記されていなければならないという考えです。あとから制定した法律を過去の行為に適用して処罰することができるなら、刑法という法律は権力者の刑罰権の猛威に歯止めをかけることができないだけでなく、それに不法な威力を与えることになってしまいます。

 行為主義
 行為主義とは、「犯罪は行為である」という考えを前提にして、「侵害なければ、犯罪はなく、刑罰もなし」という標語によって表されます。中世のヨーロッパでは、キリスト教の教えを信じないというだけで、「宗教裁判」にかけられ、処罰された歴史があります。日本においても、キリシタンの踏み絵によって同じことが行われていましたし。戦時中は、天皇を敬わない態度をとった者を「不敬」として、その人の内心を処罰した歴史があります。このような歴史を踏まえれば、かつての処罰は「犯罪は思想である」という考えに基づいていたと言わざるを得ません。そして、かつての処罰の仕方を改めるなら、「犯罪は行為である」という考えに転換しなければなりません。しかも、誰にも迷惑をかけていない無害な行為をも「行為」であることを理由に処罰しないように、他者た社会にとって侵害性のある、有害な行為だけを犯罪として処罰できるという考えに立たなければ、刑罰権の濫用を防止することはできません。

 責任主義
 ある行為を犯罪として処罰するのは、その行為を止めさせるためです。刑罰権を行使する目的には、予防という考え、効果があります。刑法で、侵害性のある行為を行わないように犯罪として列挙して刑罰を科すのは、その行為を予防してほしいから、予防できるからです。わざと行った場合はもちろん、不注意でしてしまった場合でも、それは避けることのできた行為、行為者のところで予防できた行為です。そのような行為を行った場合、故意に行った場合には故意の責任(非難)が過失によって行ってしまった場合には過失の責任(非難)を問うことができます。そもそも予防できない行為に「責任」を問うというのはナンセンスですし(発生させた結果に対して民事賠償などの責任は成立することはあります)、刑罰を科すようなことをしたら、刑法や刑事裁判に対する信頼は失墜するでしょう。責任主義は、「責任なければ犯罪はなく、刑罰もなし」という標語で表されています。

 さらに、これらの刑法の基本原則を修正・拡張して、有害な結果に至っていない場合でも、それを未遂として処罰し、または結果を1人で発生させたのではないが、複数人が共同して行ったり、あるいは指示・援助して行ったりした場合に共同正犯や共犯(指示は教唆、援助は幇助)として処罰することが認められています。

(2)今回の課題に入る前に
 責任論の内容に入る前に、皆さんが利用しているテキストの目次を見てください。ちなみに、私の手元には2冊の総論教科書がります。1つは、山口厚先生が最高裁判事に就任する前に執筆した『刑法』(有斐閣)、もう1つは、最近法学部生に人気のある大塚裕史先生たちが執筆した『基本刑法Ⅰ総論』(日本評論社)です。

1刑法の基本原則と犯罪体系論
 この2冊の教科書に共通しているのは、犯罪の概念、その認定の手順を構成要件論、違法論、責任論、そして未遂論、共犯論の流れに沿って解説していることです。これは、他の教科書でも基本的に同じです。

 しかし、2つの教科書には大きな違いがあります。それは、山口教科書では故意・過失は「責任論」のところで扱われていますが、大塚裕史教科書では故意・過失は「構成要件」のところで扱われています。何が違いが、このような違いに現れているのでしょうか。
 犯罪は行為である。この行為主義を踏まえると、刑法に定められた(罪刑法定主義)、他者や社会に侵害的な行為(行為主義)について責任が問われることになります(責任主義)。

 この3つの基本原則を踏まえると、まずは刑法に定められた犯罪とはどのような行為なのか、条文を解釈して、その特徴・要件を明らかにし、ある人の行為がその特徴・要件を備えているかどうかを精査することから始まります。これが構成要件該当性判断です。次に、その行為が同時に違法性阻却事由を満たしていないかどうか、つまり他者や社会に対する有害性はなかった、あるいは有害であっても、それを上回る利益を保全していたかどうかを検討することになります。これが違法性阻却の判断です。そして最後に、構成要件に該当する違法な行為に対して、責任を問えるかどうかを判断します。これが責任判断または有責性判断です。

 このように罪刑法定主義、行為主義、責任主義の刑法の基本原則は、刑法の解釈・適用を行う人の恣意的な判断を避けるために、構成要件論、違法論、責任論において具体化されます。それは刑罰権の濫用を防止するために重要なことです。しかし、上記の説明だけだと、故意・過失が構成要件論、違法論、責任論のどこに位置づけられるのかが明らかではありません。「責任なければ犯罪はなく、刑罰はなし」という責任主義の原則は、刑罰権の恣意的発動に制限をかける重要な役割があるのですが、それは刑法解釈・適用のどの段階において具体化されているのでしょうか。

2故意・過失の犯罪体系上の位置づけ
 故意・過失=責任要素
 山口教科書は、故意・過失は責任論のところに位置づけています。故意・過失を責任の問題として位置づけると、行為者の主観的・内心的な事情は構成要件該当性判断において問題にしないことになります。また、構成要件該当行為について違法性阻却の判断をする段階においても、行為者の主観的・内心的な事情(防衛の意思に基づいていたのかどうか)もまた問題にはなりません。故意・過失は、構成要件該当の違法行為を、行為者が故意に行ったのか、過失によって行ったのかという問題を検討するところで問題になります。故意に行ったのであれば故意責任が推定され、過失によって行ったのであれば過失責任が推定され、責任能力なしなどの責任を阻却する事由(刑39条)に該当していない場合には故意責任や過失責任が確定することになります。

 このような犯罪の体系論を図式で表すと、
 ある行為→殺人罪の構成要件に該当→違法性の推定→違法性阻却事由なし→違法性の確定
 行為者の認識→故意責任類型に該当→故意責任の推定→責任阻却事由なし→故意責任の確定

 つまり、構成要件は違法性を推定させるだけで、責任を推定しません。従って、構成要件は違法類型だと言われます。責任を推定させるのは、故意類型や過失類型です。

 故意・過失=構成要件要素
 これに対して大塚裕史教科書では、故意・過失は構成要件論のところで位置づけられています。故意・過失を構成要件の問題として位置づけると、行為者の主観的・内心的な事情は、責任の問題以前に、構成要件該当性判断において問題になります。例えば、生命侵害を処罰する行為には、殺人罪と過失致死罪があります。殺人罪の規定は故意の生命侵害に、過失致死罪の規定は過失の生命侵害に適用されます。故意・過失が構成要件該当性の判断において問題になるということは、ある生命侵害の行為が殺人罪の構成要件に該当していると判断するときに、行為者に故意は不可欠の要素です。それがなければ、過失致死罪の構成要件該当性しか認められません。また、殺人罪の構成要件該当行為について違法性阻却の判断をする段階においても、行為者の主観的・内心的な事情(防衛の意思に基づいていたのかどうか)は不可欠の要素です。故意に人を殺害したが、自己や第三者の生命を保全したので客観的に正当化されるだけでなく、防衛の意思に基づいて行ったので主観的にも正当化されるのです。従って、責任は、故意またか過失の構成要件に該当する違法(性阻却事由に該当しない)行為に対する問題になります。責任能力がないと判断された場合、(故意の)殺人罪または過失致死罪の構成要件に該当する違法な行為に対する責任が阻却されるという判断になります。

 このような犯罪の体系論を図式で表すと、
 ある行為→故意の殺人罪の構成要件に該当→違法性の推定→違法性阻却事由なし→違法性確定
 ある行為→故意の殺人罪の構成要件に該当→責任の推定→責任阻却事由なし→責任確定

 つまり、構成要件は違法性を推定させるだけでなく、責任も推定させます。従って、構成要件は違法・有責類型だと言われます。

(3)今回の課題
 責任論のテーマに入る前に長い説明をしましたが、様々な教科書の目次を見るだけで、実はこのような基本的な理解の違いがあることが分かります。ここでは、故意・過失を責任類型として捉え、構成要件該当性と違法性の判断に続く第3の犯罪成立要素として理解したいと思います。また、故意・過失を構成要件要素として位置づけた場合に生ずる矛盾についても可能な限り言及したいと思います。

1故意
 刑法38条1項
 刑法は、故意・過失の内容について明確に規定をしていませんが、38条が重要な手がかりを与えています。刑法38条1項は、「罪を犯す意思のない行為は、罰しない」と定めています。この「罪を犯す意思」のことを故意といい、故意がなれければ、犯罪の構成要件に該当する違法な行為を行っても、処罰されないということです。逆にいうと、犯罪として責任が問われるのは原則として故意に行った行為だけだということです。

 ただし、故意がなくても、例外的に処罰される場合があります。刑法38条1項の但し書きが「ただし、法律に特別の定めがある場合は、この限りでない」と定め、罪を犯す意思のない行為であっても、処罰できることを定めています。これが過失を処罰する根拠規定になっています。もちろん、何でもかんでも処罰できるのではなく、過失を処罰する特別の規定がある場合に限られています。過失処罰の特別の規定がなければ、それは故意の場合しか処罰されないということです。例えば、過失致傷、過失致死、業務上過失致死傷・重過失致死傷、失火罪なでです。

 以上の説明はさほど難しくないと思いますが、問題なのは「罪を犯す意思」とはどのような意味かという問題です。例えば、Xが食堂の傘立てからAの傘をとって持ち帰った。XはAの傘を自分の支配領域に移して、自分の物のように使用していますので、客観的に見れば窃盗罪の構成要件に該当する違法な行為であると判断できます。しかし、間違ってAの傘を持ち帰った場合、XはAの傘を盗んでいる意思はありません。つまり、窃盗罪を犯す意思、窃盗罪の故意はありません。A傘の窃盗は過失によるものであり、過失窃盗の処罰規定がないので無罪です。

 しかし、XはBの傘を盗むつもりで、Aの傘を持ち帰ったとか、Bの傘を盗ったつもりが、隣にあったAの傘を持ち帰ったような場合、それでもA傘の窃盗は過失によるものだといえるでしょうか。窃盗罪を犯す意思のない行為であったといえるでしょうか。

 Xが主観的に予見した窃盗罪と客観的に実行した窃盗罪との間に食い違いがあります。このような食い違いを「錯誤」といいます。Aに対する窃盗罪を犯すつもりが、Bに対して窃盗罪を犯したような、錯誤が同一の構成要件の範囲内において生じている場合の錯誤を「具体的事実の錯誤」といいます。このような錯誤については、Xが主観的に予見した犯罪の事実と客観的に実行した犯罪の事実との間に食い違いがあっても、窃盗罪という構成要件的評価の点では符合・一致していますので、A傘の窃盗の故意の成立を認める見解が主流になっています。このような考えを法的的符合説(構成要件的符合説)といいます。

 刑法38条2項
 客観的に見れば重大な犯罪を行ったにもかかわらず、それを行った時には、そのような重大犯罪を行ったとは認識していなかった場合、重大な犯罪に対する故意は認められるでしょうか。刑法38条2項は、「その重い罪によって処断することはできない」と規定しています。その重い罪の故意がないのから、処断できないという意味です。例えば、カメラマンXは、航空機・飛行機を中心に撮影する仕事をしていたところ、様々な戦闘機が停められいる場所があるのを知り、そこに入って撮影していたところ、関係者に身柄を拘束された。そこは在日米軍の施設であった。Xは、そこが米軍基地であるとは知らなかったので、刑事特別法3条「施設又は区域を犯す罪」(1年以下の懲役又は2千円以下の罰金もしくは科料)の意思はなかったが、少なくとも無断で立ち入ることが禁止されている場所であることは知っていたので、軽犯罪法1条32号「無断立ち入り場所への立ち入り」(拘留または科料)の認識はあった。このような場合、Xは刑事特別法上の犯罪(施設又は区域を犯す罪)を行ったにもかかわらず、それを行った時には、そのような重大犯罪を行ったとは認識していませんでした。従って、重大な犯罪(施設又は区域を犯す罪)の故意を認められることはできません。重大な犯罪については、無罪です。しかし、軽い犯罪(軽犯罪法の無断立ち入り場所への立ち入り)については、故意は認められるでしょうか。このように錯誤が異なる構成要件に跨っている場合の錯誤を「抽象的事実の錯誤」といいます。この点について、刑法38条2項には明確な規定はありません。従って、「解釈」によって補う必要があ
 このような場合も、法的的符合説(構成要件的符合説)を適用して、Xが主観的に予見した犯罪の事実と客観的に実行した犯罪の事実との間に食い違いがあっても、この2つの事実の構成要件的評価が重なり合う範囲において、故意の成立を認める見解が主流になっています。

 刑法38条3項
 日本には様々な法律があります。それらの内容を全て知っている少ないと思います。そうすると、ある法律の存在を知らなかったため、自分が行っている行為がその法律に違反していることを知らなかったという場合が出てきます。そのような場合、罪を犯す意思がなかった、故意はなかったということになるのでしょうか。

 刑法38条3項は、「法律を知らなかったとしても、そのことによって罪を犯す意思がなかったとすることはできない」と定めています。つまり、自分が行っている行為を禁止している法律の存在を知らなかったとしても、それを理由にして罪を犯す意思がなかったとすることはできない。自分の行為が法律に違反していること、違法な行為をしていることを知らなかったとしても、それを理由にして罪を犯す意思がなかったとすることはできない。刑法38条3項は、このように解釈できます。行為者の主観的に認識していた内容が、罪を犯す意思(故意)にあたるか否かを判断するあたり、行為者に違法性の認識があったことは必要ではないということです。

2過失
 故意を「罪を犯す意思」=犯罪を実行する意思、犯罪の発生の認識・予見と定義すると、過失は、犯罪の発生の認識・予見の可能性となります。この「可能性」とは、自分の行為から犯罪の結果が発生するとは認識・予見していなかったが、注意すればそれを認識・予見することができた心理状態のことです。

 行為者は、他者の生命や健康に対する危険な行為を行っているにもかかわらず、それを認識・予見していませんす。従って、そこから死の結果や負傷の結果が生じた場合、たとえ殺人罪や傷害罪の構成要件に該当する違法な行為を行ったと認定できても、それを犯す意思=故意を認めることはできません。しかし、注意をすれば、自分の行為が非常に危険な行為であり、その行為から結果が発生することを認識し、また予見することができるのであれば、その行為を止めるべきであった。不注意からその結果発生を認識・予見しないまま、その行為を行い、結果を発生させたことに対しては、過失責任を問うことができます。過

 このように過失を結果発生の予見可能性を中心に考え、結果発生が予見可能なものである場合には、それを予見する義務を行為者に課し、行為者が不注意からその予見義務に違反して、行為の危険性を認識・予見することなく、行為を行った場合に過失の責任を問うという考えがあります。つまり、結果の発生が予見可能なものであり、予見義務を全うしたことで、その行為の危険性と結果発生の可能性を予見したならば、その行為を行うのを止めて欲しいというメッセージがここにはあります。

 しかし、結果の発生が予見可能なものであり、予見義務を全うしたことで、その行為の危険性と結果発生の可能性を予見した場合であっても、その行為を止めることができない場合もあります。自動車の運転、鉄道・バスの運行、発電所の稼働など、いすれも人命や健康に有害な結果が発生する危険性がありますが、だからといって、その危険を認識・予見した以上、止めてくれと言われても、止めるわけにはいきません。このような場合には、その危険が現実化しないよう措置をとりながら、行為を行うことが求められます。つまり、結果発生が認識・予見される場合には、その結果発生を回避する義務を行為者に課し、行為者が不注意からその義務を怠って結果を発生させた場合に過失責任を問うのです。ここには、結果の発生が予見されていても、それを止めるわけにはいかない場合、結果回避義務を全うすることで、その行為の危険が現実化しないよう回避措置を講じて欲しいというメッセージがあります。

 このように過失は、結果の予見可能性と結果の回避可能性がある場合に成立し、それがない場合には成立しません。しかし、問題なのは、その「結果」の内容です。過失の成否が問題になる場合、行為者は、自分の行為から結果が発生すること、その行為が危険であることを認識していない場合があり、そのような認識しかない行為者が、どのような結果を予見すべきなのか、またどのような結果を回避すべきなのか、その結果の内容が問題になります。例えば、自動車運転をしている場合を例にとると、あるドライバーXが交差点を右折しようとハンドルをきろうとしたときに、直進する対向車と衝突して、対向車のドライバーA者にケガを負わせたとします。そのような人身事故は予見可能かというと、可能です。だから、直進車両が走行し終えてから、右折するという衝突の回避義務が課されるのです。それを不注意にも怠って、直進車両が走行し終える前に右折し衝突し、対向車のドライバーAにケガを負わせた場合、過失の成立が肯定されます。このような人身事故は予見可能なので、結果回避の義務が課されるのです。その義務を怠った場合には過失が成立します。

 もし、Aの自動車のトランクに人Bが押し込められていて、衝突の衝撃でBを死亡させた場合はどうでしょうか。XにはBの死亡に対しても過失が認められるでしょうか。Aのケガは予見可能であったが、Bの死亡は予見可能であったとはいえないなら、Bの死亡に対する過失は否定されます。

3責任阻却事由
 構成要件該当の違法行為を行った行為者に故意または過失が認められれば、故意責任または過失責任が推定されます。さらに、責任を阻却する事由がなければ、故意責任または過失責任が確定します。反対に責任を阻却する事由がなあれば、故意責任または過失責任は阻却されます。

 刑法は、責任阻却事由として心神喪失(責任能力なし。責任無能力)を定めています(刑39①)。さらに責任減少事由として心神耗弱(責任能力が限定的。限定責任能力)を定めています(刑39②)。構成要件に該当する違法な行為を故意に行った(あるいは過失によって行った)場合、その人に故意の責任非難ができるのかなぜかというと、その行為の是非・善悪を識別し、その識別に従って行動を制御することができた(責任能力があった)にもかかわらず、そのような行為を行った人には規範違反性が認められるからです。逆にいうと、薬物などの影響によって、行為の是非・善悪を識別する能力がなかった、あるいはあったとしてもその識別に従って行動を制御する能力がなかった場合には、その人を非難することはできません。つまり、推定された責任が阻却されます。

 このような責任能力は、行為を行う前や行為を行う時点において、行為者に備わっていることが必要です。行為の時点において責任能力が備わっていれば、その能力に基づいて違法な行為を思いとどまることが可能になるからです。これを「実行行為と刑事精勤能力の同時存在の原則」(行為と責任能力の同時存在の原則ともいいます)といいます。

4「原因において自由な行為」の理論
 問題なのは、この行為と責任能力の同時存在の原則を貫くと、不合理な結論(刑法39条1項を適用して不処罰という結論)が出てくる場合があります。行為者に責任を問えないのであれば処罰すべきではないというのが責任主義の原則からの要請であり、そうすることで国家の刑罰権の濫用・恣意的発動を防止することができるのですが、原則を貫くと不合理な結論がでるというのは避けなければなりません。

 どのような場合が問題になるかというと、次のような場合です。Xは飲酒すると乱暴になることがあり、かつて人にケガを負わせた、医者や家族からも飲酒を控えるよう言われていた。本人もそれを自覚していた。ある日、Xは会社で仕事上ミスを犯し、上司Aに厳しく叱責されたため、やけになり、居酒屋で酒を飲んでいた。大量の酒を飲んだために、徐々にAに対する恨みと怒りが出てきて、「今から抗議に行こう」と決意し、A宅に向かい、玄関ドアをたたいて、Aを呼び出した。すると、Aは「お前なんかに用はない。帰れ」と言った。Xは激怒して、素手でAの顔面を殴打し、加療4週間のケガを負わせた。Xは居酒屋ではAに危害を加えるつもりはなかった。しかし、A宅に到着したときは、アルコールによる重度の酩酊状態にあり、心神喪失の状態に陥っていた。

 このような事案に対して、行為と責任能力の同時存在の原則を貫くと、どうなるでしょうか。XがAを殴打した行為は傷害罪の構成要件に該当する行為です。違法性を阻却できる事情はありません。Xは激怒してAを殴打したのですが、その認識はあったといえます。従って、傷害罪の故意があるといえます。従って、Xの行為は、傷害罪の構成要件に該当する違法で有責(故意の責任がある)な行為です。しかし、その行為当時、心神喪失の状態にあったので、刑法39条1項を適用して、不処罰(無罪)という結論が出されます。このような結論で妥当であると考えるなら、それでいいのですが、それは妥当ではない、非合理です。しかも、Xは飲酒すると乱暴になることがあり、かつて人にケガを負わせた、医者や家族からも飲酒を控えるよう言われていた。本人もそれを自覚していたというのですから、無罪というのは問題であり、なんとか「有罪」にすべきではないか、傷害罪でなくても、例えば過失致傷罪であっても有罪にできないかという意見が出て来そうです。

 このような問題を解決するのが、「原因において自由な行為」の理論です。XがAを殴打した行為を「結果行為」として捉え、それと負傷との関係だけを見ていると、心神喪失状態で行ったので(自由な意思に基づいていなかったので)、刑法39条1項を適用して、無罪になります。なぜならば、責任能力は結果行為の時点においては同時存在していなかったからです。しかし、心神喪失状態での結果行為を引き起こしたのは、飲酒が原因だったのです。この飲酒(原因行為)の時点では、Xは心神喪失状態ではありませんでした(自由な意思に基づいていた)。責任能力は飲酒という原因行為の時点において同時存在していたので、刑法39条1項の適用を否定することができます。

 飲酒(原因行為)のときに責任能力があったので、行為と責任能力の同時存在の原則に基づいて、Xの行為を処罰することができます。ここで注意して欲しいのは、責任能力と同時存在していなければならないのは、行為=実行行為(構成要件的行為)です。傷害罪の実行行為というのは、負傷という結果を発生させる現実的な危険性のある行為です。飲酒をしただけでは、被害者はケガを負いませんので、飲酒それ自体が傷害罪の実行行為であるとはいえません。飲酒が殴打(結果行為)を引き起こした危険な行為でなければなりません。Xは飲酒すると乱暴になることがあり、かつて人にケガを負わせた、医者や家族からも飲酒を控えるよう言われていた、本人もそれを自覚していたというのですから、大量に飲酒する行為から他人に危害を与える行為へろ至る危険性があり、今回の飲酒は殴打を引き起こしたといえます。従って、責任能力と同時存在すべきなのは、原因行為それ自体ではなく、原因行為とその危険性が現実化した結果行為の全体的な行為であると考えることができます。

5刑事未成年
 刑法41条は、「14歳に満たない者の行為は、罰しない」と定めています。窃盗罪などの構成要件に該当する行為を、故意に行い、その責任が推定されても、刑事責任年齢に達していないことを理由に責任を阻却します。
 これは刑事未成年者に対して刑法の適用・刑罰権の行使を控える重要な制度です。14歳以上の者には刑法が適用されることになりますが、20歳未満の未成年者には成人と同じように刑事訴訟法が適用されるのではなく、少年法が適用されます。少年は「犯罪」ではなく「非行」を行ったことを理由に家庭裁判所(非公開)で審判を受け、刑務所収容などの「刑罰」ではなく。少年院収容などの「保護処分」を受けることになります。

6適法行為の期待可能性の欠如
 犯罪の構成要件に該当する違法な行為を、故意または過失によって行い、しかも行為の時点において責任能力があれば、犯罪が成立します。ただし、適法行為の期待可能性が欠如している場合には、責任が阻却されます。これは刑法には定められていないので、超法規的責任阻却事由と呼ばれています。

 犯罪の構成要件該当の違法な行為を故意または過失によって行った刑事責任能力のある行為者を責任非難ができるのは、そのような行為を行わずに、他の適法な行為を選択することができた(本人は結果的に適法行為を選択できなかったのですが)からです。少なくとも法の見地、国家の見地からは行為者にそのような適法行為を選択することを期待することができた(期待することは無理なことではなかった)からです。だから、違法な行為を実行したことを非難できるわけです。かりに、行為者が行為の時点において適法行為を選択することができなかった、国家の見地からもそれを期待するができなかったならば、違法な行為を実行したことを非難することはできません。

 飲食店の経営者Xは、新型コロナウィルスの感染拡大の影響を受け、客足が少なくなったので、退職しようとする従業員を引き留めるため、やむなく給与を捻出した。しかし、それは月末までに納めるべき消費税であった。Xは国庫に納めるために消費税を保管していたが、それを給与として従業に渡した。この行為は形式的には業務上横領罪の構成要件に該当する可能性があります。違法性を阻却する事由もありません。Xはその故意もあります。責任能力もあります。Xは刑事未成年でもありません。しかし、Xに他の適法行為を選択することを期待することができたでしょうか。期待できなかったなら、Xに対して業務上横領罪の責任非難をすることはできません。