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Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法Ⅰ(11)演習

2021-06-22 | 日記
059 不能犯(1)
 甲および乙は暴力団の組員であるが、かねてから同組に属する一派の首領Aに対して不快の念を抱いていた。ある夜、乙はAに殴られて憤激したことから、Aに対して殺意を抱き、組事務所前の道路で、Aをめがけてけん銃を1発発砲した。甲は、組事務所玄関に荷物を運んでいたところ、屋外でけん銃音がしたことから、外に出ると、乙がAを殺そうとしてけん銃を発砲し命中させたことを知った。その直後、甲は、乙に加勢するために、組事務所玄関付近にあった日本刀を携えて急行し、倒れていたAに対して、Aがまだ生きていると信じて、殺意をもってAの腹部を日本刀で突き刺した。鑑定の結果、Aは乙の発砲行為によってすでに死亡していたことが判明した。(1)甲の罪責について論じなさい。
(0)殺人罪の実行に着手し、これを遂げなかった者は、殺人未遂罪として処罰されます(刑203、199)。
1既遂犯・未遂犯が成立する大前提
殺人の実行の着手とは、殺人罪の構成要件該当行為の一部を開始すること(形式的客観説)、または構成要件的結果を発生させる危険な行為を開始することです(実質的客観説)。目の前に「人」(刑199)が存在し、その人に対して「殺す行為」を開始すること、その人の生命を侵害する危険な行為を開始すれば、殺人罪の実行の着手を認め、殺人未遂が成立します。その大前提には、生きている人の存在が必要です。生きている人がいるので、その人を殺すと殺人罪が、その人を殺しかけると殺人未遂罪が成立するのです。生きている人がいなくて、死んだ人に対して殺人罪が行い得ないなら、殺人未遂も行えないといわなければなりません。「死者を殺した」、「死者を殺しそこねた」という奇妙な話を聞いたことはありません。
2死亡の判断時期(医学の場合)
 私たちは、「生きている」、「死んでいる」という言葉を使いますが、まずもって人の生死とは医学的な概念です。呼吸がなく心臓が停止している。心臓が停止しているので、全身に血液が循環しておらず、脈拍がない。また、脳の活動も停止しているので、瞳孔反応なども消失し、自然的・生理的な反応もない。このような徴候がそろった時点において医師は死亡を認定し、死亡診断書を作成します。事件の被害者や事故の当事者が「心肺停止の状態で搬送された」というニュースを耳にすることがありますが、それは心臓と肺の活動が停止しているだけでは「死亡」していると即断できないことを示しています。このように人間の生死の判断は、様々な徴候が確認された後に行われます。医学の判断は、正確な判断を期すために事後判断という方法を用いて行われます。
3このような医学的な判断を刑法にも応用すると、どのようになるでしょうか。甲が殺意をもってAの腹部を日本刀で突き刺した時点において、殺人罪の実行の着手を認定できるかというと、それはできません。なぜならば、日本刀で突き刺した時点において、Aが生きているのか、それともすでに死んでいたのかが明らかではないので、鑑定結果を待って判断することになります。つまり、検察官は、甲を起訴する前に専門医に依頼して、甲の行為の時点においてAが生きていたかどうかを鑑定してもらい、甲が生きていた、あるいは生きていた可能性が高いという結果を踏まえて、「殺人未遂罪」で起訴することになります。裁判官も同じく、公判廷において医学鑑定の結果を踏まえ、Aがすでに死んでいたというならば、無罪を言い渡すことになります(殺人罪の故意で死体損壊罪を行った抽象的事実の錯誤の問題)。
3死亡の判断時期(刑法の場合)
 しかし、責任能力の判断基準のところで話したように、刑法39条1項・2項の心神喪失・心神耗弱は、それに該当する場合は無罪・刑の必要的減軽という法律効果が生ずる刑法上の制度であって、責任能力の有無とその程度は、医学・心理学の鑑定を参考にしながらも、最終的には裁判官の法律判断に委ねられると説明しました。そうすると、殺人罪の行為客体である生きた人の存否もまた、同じように裁判官の法律判断に委ねられることになりそうです。そうであるなら、甲の行為の時点においてAが医学的に見てすでに「死んでいても」、その行為の時点においては「生きている」と判断して、それを踏まえて殺人未遂罪の成立を認めることもできそうです。
 犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった場合、未遂が成立しますが、Aがすでに死んでいたので、殺人の既遂結果を発生させることが不可能であっても、なおもその危険の発生を肯定することができなければ、殺人未遂罪の成立を根拠づけることはできません。それはどのようにして行われるのでしょうか。
4法益侵害の発生の危険の意義
 死んでいる人を殺すことはできないと割り切ると、甲に殺人未遂罪の成立を認めることはできません。生命侵害の発生の客観的危険性はないからです。甲はAを殺そうとしていたので、主観的危険性を認めることはできますが、それは主観的未遂論からの説明なので、通説の客観的未遂論からそのように主張することはできません。
 しかし、客観的未遂論の立場に立っても、結果発生の危険性の判断時期は、行為の時点、すなわち実行の着手時点において設定することができます。甲はAを殺害してはならないという刑法規範に直面したのは、日本刀で突き刺す時点です。この時点において、甲は「Aは生きている」と認識していましたし、一般人を基準にしても、Aを生きている人として扱うことができるでしょう。そうすると、行為の時点に立って、行為者が認識していた事情と一般人であれば認識していたであろう事情を踏まえて、実行の着手や生命侵害の危険性を「具体的」に認定することが刑法の見地からできるのではないでしょう。このような立場を「具体的危険説」といいます。これに対して、客観的未遂論の立場に立つ以上、実行の着手や生命侵害の危険性の有無は医学的に行うべきであるとして、科学的な判断方法を重視し、「死者に対する殺人未遂などありえない」と論じて、生命侵害の危険性を「客観的」に判断する学説を「客観的危険説」と言います。判例は「具体的危険説」の立場に立っています。
 行為客体が存在していなかったので、結果発生の危険はなかったとか、あるいはその行為の方法では結果を発生させる危険はそもそもなかったということが、事後的に明らかになった場合、それでも未遂が成立するのか、それとも不能犯(不可罰)として処理するのかという問題が生じます。客体の不能の事案と方法の不能の事案にわけて議論されています。行為による法益侵害の客観的危険性はありませんが(客観的危険説はこれを重視します)、行為者の規範違反性の非難可能性はありました(具体的危険説はこれを重視しているようです)。既遂犯のみならず、未遂犯の違法性の本質を法益侵害性において捉えるか、それとも規範違反性において捉えるか。法益不存在を理由に違法性を否定するのか、それとも社会的相当性の欠如を理由に違法性を肯定するのか。論争の深部には違法性の実質をめぐる対立があるようです。
(1)甲が殺意をもってAの腹部を突き刺した時点で、Aはすでに死んでいました。このような場合、殺人罪と死体損壊罪の抽象的事実の錯誤の事例として扱うならば、死体損壊罪につき故意を認めることができないので、無罪になります(018の具体的事実の錯誤(1)を要復習)。しかし、Aに対して殺意をもって日本刀を突き刺した行為について、殺人罪の実行の着手が認められるかという問題は改めて検討することができます。具体的危険説は、行為の時点にたって、Aが生きていたとの前提に立って、殺人罪の実行の着手を認めます。
060 不能犯(2)
 甲は、病気の予防のためであるとだまし、容量30ccの注射器を用いてAの静脈内に空気を注射し、空気栓塞(くうきせんそく)によってAを殺害することを計画し、計画どおりAに注射した。しかし、死に至らしめることはできなかった。Aは20歳代前半の男性で、健康状態は極めて良好であった。鑑定によれば、空気栓塞により死に至らしめるためには、少なくとも70cc以上の量の空気の注入が必要であった。なお、甲は続けて2度目以降の注射をするつもりはなく、また、それはそのときの事情から不可能であった。
(1)不能犯が問題になるのはどのような場合であり、不能犯とされた場合、条文上どの要件を欠くことにより不可罰となるのか。
(2)方法の不能のケースにおいて、判例は、「目的を達成するにつき絶対に不能である」とか、「結果発生の危険が絶対にないとはいえない」といった判断をしたものが多いが、これはどのような立場をとるものと理解できるか。そのような立場に問題はないか。問題があるとすれば、それはどのような点か。
(3)甲の罪責はどうなるか。
(0)前回の不能犯(1)の解説の最後で次のように説明しました。行為客体が存在していなかったので、結果発生の危険はなかったとか、あるいはその行為の方法では結果を発生させる危険はそもそもなかったということが、事後的に明らかになった場合、それでも未遂が成立するのか、それとも不能犯(不可罰)となるのか。
 このような問題は、客体の不能の事案と方法の不能の事案にわけて議論されています。不能犯(1)の事案は、甲が殺意を持ってAの腹部を日本刀で突き刺した行為が、行為客体の不存在=客体の不能にあたり、無罪になるのかという問題です。これを「具体的危険説」の立場から検討すると、行為の時点において、甲はAが生きていると認識していたこと、また一般人もまたAが生きていると認識していたであろうといえることを前提にして、そのように生きているAの腹部に殺意を持って日本刀を突き刺す行為は、殺人罪の実行の着手にあたり、生命侵害の危険性の発生を認定することができると判断されます。
 今回の不能犯(2)の事案は、方法の不能の事案です。同じように「具体的危険説」の立場から検討すると、行為の時点において、甲はAに行為を時点において、30ccの量の空気注射によって人を殺すことができると認識していました。では、一般人もまた30ccの空気注射で人を殺せると認識していたといえるでしょうか。静脈に空気注射をすると、血液の流れが弱まったり、止まったりするのではないか。そうすると、体内に酸素が運ばれなくなり、細胞が死滅するのではないか。その結果、人間は死んでしまうのではないか。一般人(医学の素人)の間ではこのような認識が共有されていると思います。そうすると、空気注射を行うことは、殺人罪の構成要件的行為にあたるといえます。その行為を開始することは、殺人罪の実行の着手にあたります。その空気の量が30ccであっても、決して少量ではないように思います。医学的・科学的に見れば、70cc以上の量の空気でなければ、死亡の危険性は生じないといいますが、一般人・医学の素人から見れば、30ccあれば足りると受け取るでしょう。そうすると、この事案では、行為者が行った行為は方法の不能の事案ではなく、殺人罪の実行の着手を認めることができます。
 このような結論で問題はなく、妥当であると思いますが、方法の「可罰的未遂」と「不可罰的不能」を区別する一般的な判断基準が必要です。この問題を考えるうえで興味深い大審院の判例があります。それは「硫黄の粉末」を用いて殺人を企てた事案です。硫黄の粉末を用いて人を殺せるか。それは不可能である。健康を害することがあっても、人を殺すことはできない。このような方法では殺人は不能である。したがって、殺人予備罪が成立することがあっても、殺人の実行の着手を認めることはできない。「そもそも」この方法では人を殺せないというのが理由です(方法の絶対的不能)。これに対して、毒物を混入した食物を食べさせて殺害しようとしたが、その苦味、臭気、外観の異様さから被害者が食べなかった事案では、殺人罪の実行の着手が認められ、殺人未遂罪の成立が肯定されました。この方法で人を殺すことは可能であるが、今回は「たまたま」被害者が警戒心があったとか、変な臭いがしたため、殺すことができなかっただけです(方法の相対的不能)。ただし、方法の絶対的不能と相対的不能の区別をすることは容易ではありません。
(1)不能犯が問題になるのはどのような場合かというと、方法の不法と客体の不能の場合があります。方法の不能犯とされた場合、犯罪の構成要件該当行為を開始しているとは言えないので、犯罪の実行に着手したとは認められず、未遂犯の成立が否定されます。これに対して、客体の不能犯とされた場合、犯罪の構成要件該当行為を開始していると言えても、客体のところにおいて結果が発生する危険性がないので、未遂犯の成立が否定されます。条文上の要件としては、実行行為と結果発生の危険性の部分を欠くことになります。
(2)方法の不能のケースにおいて、判例は、「目的を達成するにつき絶対に不能である」とか、「結果発生の危険が絶対にないとはいえない」といった判断をしたものがあります。「絶対に不能」とか、「絶対にないとはいえない」という言葉からも理解できるように、犯罪の結果を発生させるための方法としては絶対的に不能かどうかが判断基準にされています。方法が目的実現の機能や効果を持っていないなら、絶対不能であり、実行の着手は認められません。それに対して、方法は目的実現の一般的機能・効果を持っていても、今回の用い方(量や質)では不可能であったという場合が相対不能であるので、実行の着手を認めることができます。
 方法の絶対不能か、それとも相対不能かの区別は容易ではありません。甲がAを空気注射で殺害するために、Aの静脈に70ccの空気を入れた場合、30ccで十分だと思って入れた場合、10cc入れた時点で怖くなり止めた場合を比較して検討すると、70ccの空気を入れた場合は致死量に達しているので殺人の実行の着手を認めることができます。30ccで十分だと思って入れた場合、致死量の半分以下なので、「方法の絶対不能」を理由に着手は認められないと判断できそうです。しかし、客体のAの年齢、性別、健康状態のいかんによっては、致死量の半分以下でも生命侵害の危険性を排除できない場合もあるでしょう。そうすると、それは「方法の相対不能」となります。10ccの空気であれば、健康状態のいかんにかかわりなく、生命侵害の危険はないと思われるので、「方法の絶対不能」と判断することができます。
(3)以上を踏まえて、甲の罪責は検討するとどうなるでしょうか。唯一の正解というような答えはありません。殺人未遂を肯定するにせよ、否定するにせよ、その根拠づけ、論理構成が重要でしょう。30ccの量の空気注射では致死量の半分にも満たないので、殺人の方法としては不能であるという結論も間違いではありません。しかし、被害者の年齢、性別、健康状態によっては、致命傷にもなりかねません。本件の事案では、被害者Aは、20歳代前半の男性で、健康状態は極めて良好でした。このような事実は行為時に存在していました。行為の時点に立って、30ccの量の空気注射によって、若く健康なAを殺害することが可能であったかと問題にすると、その健康を害する危険性を認めることはできても、その生命侵害の危険をも発生させたといえるかは疑問が残ります。従って、殺人の実行の着手を認めることはできないという判断もありえます。
061 不能犯(3)
 詐欺グループの甲は、金銭をだまし取る目的でAの息子を装ってA宅に電話をかけた。Aは、最初から詐欺であることを疑ったが、甲の要求に従っているように対応し、電話を切った後すぐに警察に通報した。通報を受けた警察官は、Aに対して、そのままだまされた振りを続け、犯人検挙に協力してほしいと依頼した。これを承諾したAは、警察の指示のもと、現金代替物(現金が入っているように見せ掛けた物)を犯人の指定先に(宅配便で)送付した。Aに電話した後、甲は、乙に事情を打ち明けたたうえ、荷物を受領するのを手伝って欲しいと依頼した。乙は承諾し、指定場所で荷物を受け取ったが、その場で配達員を装っていた警察官により現行犯逮捕された。
(1)特殊詐欺の事案において説例のような「だまされた振り作戦」が実施された場合に、その作戦開始後に犯行に加わり、受領行為のみに関与した乙の行為について、不能犯の問題は生じないか。
(2)先行行為の「承継」を認めないという立場に立った場合、後行者・乙の罪責を判断する際に不能犯の問題は生じないか。
(3)先行行為の「承継」を認める場合にも、それを認める前提として、当該犯行が継続していること(失敗に終わっていないこと)が必要ではないか。必要だとすれば、それはどのように判断されるのか。
(0)人を欺いて、財物を交付させれば、詐欺罪が成立します(刑246①)。人を欺く行為とは、人に虚偽の事実を真実であると告知する行為です。それによって錯誤に陥れられた被害者が財物を交付した場合、詐欺罪は既遂に達します。人を欺く行為を開始した時点で、詐欺罪の実行の着手が認められますが、それは財物の交付に向けられた行為、財物の交付を誘発する行為に限られます。
 XがAに電話をかけて、「金融機関の者です。近ごろ、特殊詐欺が頻発しています。被害予防のためにキャッシュカードを一時預かります」と話したので、Aは「明日お渡しします」と述べました。AはXの話を信じて、カードを準備しました。Xはその後Yに電話して、「明日、A宅に行ってカードを受け取ってくれ」と依頼し、Yは「詐欺の受け子」の仕事であることを知ったが、指示されたとおり、翌日A宅に行き、Aからカードを受け取りました。X・Yには詐欺既遂罪の共同正犯が成立します。
 このような共同正犯を「承継的共同正犯」といいます。刑法60条は、2人以上の者が共同して犯罪を実行した場合には、その全員を正犯とすると定めています。共同して犯罪を実行するというのは、犯罪の構成要件的行為(実行行為)の全部を共同して実行し、または一部を分担して実行した場合、その結果の全部に対して正犯の責任を負うというものです。例えば、XとYが一緒になってAに暴行を加え、負傷させた場合、X・Yには傷害罪の共同正犯が成立します。XとYがコンビニに入り、Xが店員を脅している間にYが店内の商品を盗って出て行った場合、強盗罪の共同正犯が成立します。この共同正犯は、いずれも実行に着手する時点においてX・Yのところで共同実行する意思があります。その後、暴行という単一の行為を実行した場合はもちろん、脅迫と財物強取の2つの結合した行為(結合犯)を実行した場合も共同正犯が成立します。
 では、次の場合はどうでしょうか。XがAを欺いて財物を交付させるよう働き掛けた。後日、Aは財物を準備して待っていた。XはYに事情を話し、謝礼を払うので、Aのところに行き、財物を受け取るよう依頼した。Yは、Xの依頼を引き受け、Aから財物を受け取った。Yに詐欺罪の共同正犯が成立するでしょうか。Yは、次のように言いました。「詐欺罪とは、人を欺いて財物を交付させる行為である。欺く行為を行ったのは誰か。それはXであって、私ではない。私は何を行ったのか。Aから財物を受け取っただけである。それは詐欺罪にはあたらない。しかも、Aの財物に対する占有を侵害したわけではないので、窃盗罪にもあたらない」。これに対して、検察官は、「詐欺罪とは、人を欺いて財物を交付させる行為である。欺く行為を行ったのは誰か。それはXであって、Yではない。しかし、Yは、XがAに対して財物交付に向けた欺く行為を行ったことを知っていた。また、それによって錯誤に陥れられたAから財物を受け取った。つまり、YはXの欺く行為を承継し、それに乗じてAから財物を受け取ったのである。これは、いわゆる承継的共同正犯である。Yには詐欺罪の共同正犯が成立する」。
 承継的共同正犯とは、ある者が犯罪の実行に着手し、その結果が発生する前に、他の者がその事情を知りながら関与し、共同して結果を発生させた場合の共同正犯をいいます。先行行為者の行為を途中関与者が「承継」することができることを前提にしながら、1先行行為者が実行に着手したことを知っていること、2着手したことに乗じて、自らも犯罪の結果を発生させたことの2つの要件によって、承継的共同正犯が成立すると考えられています。ただし、途中関与者は先行行為者が行った行為をさかのぼって承継することは論理的にありえないとして、そもそも承継的共同正犯のような共同正犯の形態を否定する者もいます。
 設問の事例は、承継的共同正犯のような共同正犯の形態を認めるとしても、乙に共同正犯が成立するかが問題になります。甲はAに現金を送付するよう欺く行為を行った。この時点で詐欺罪の実行の着手が認められます。しかし、Aは詐欺であることを見抜き、警察に通報しました。警察は詐欺犯を検挙するためにAに協力を求め、現金のように見せた物を指定された住所に送らせました。警察官が配達員を装ってその住所に行き、乙がそれを受け取った直後に逮捕しました。Yは何罪で逮捕されたのでしょうか。現金を受け取った瞬間に逮捕されているので、詐欺既遂罪ではないと思います。では、詐欺未遂罪でしょうか。乙は、甲の欺く行為を承継しているので、詐欺未遂罪の共同正犯が成立しそうですが、このような「だまされた振り作戦」の場合、甲が行ったAを欺く行為は、すでに財物交付の効果を失っています。甲が行った時点では詐欺罪の実行の着手にあたると判断しえても、その後乙が関与した時点ではその効果を失っています。つまり、乙が承継した甲の行為は、財物の交付という結果を発生させることはできません(方法の不能)。そうすると、乙には詐欺未遂罪の共同正犯は成立しません。
 ただし、ここでも客観的危険説と具体的危険説の双方の立場から検討すべきでしょう。客観的危険説は、事後的に明らかになった全ての事情を踏まえ、結果発生の危険性を判断します。具体的客観説は、行為の時点において行為者が認識していた事情と一般人が認識しえた事情を踏まえて、結果発生の危険性を判断します。
(1)さしあたり、承継的共同正犯の形態があることを前提にした場合、通説・判例の具体的危険説の立場から、乙が現金代替物の交付を受ける危険性の有無を判断すると、乙は配達員から荷物を受け取るつもりでいました。一般人の認識としても、配達員の服装をした人が荷物を届けに来たら、そのまま受け取るであろうと認識するに違いありません。そうすると、乙には詐欺未遂罪の共同正犯が成立するといえます。
(2)乙が甲の行為を承継しない立場に立った場合、問題になるのは配達員から荷物を受け取る行為だけです。この行為だけでは犯罪の構成要件に該当していません。実行の着手さえ問題になりません。これは不能犯の問題ではありません。ただし、甲の詐欺未遂後、既遂に達するのを幇助した幇助犯にあたる可能性があります。
(3)先行行為の「承継」を認める場合にも、それを認める前提として、当該犯行が継続していること(失敗に終わっていないこと)が必要です。継続しているか否かも具体的危険説から判断されることになります。


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