Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第8回講義「現代と人権」(2013.11.15.)

2013-11-16 | 日記
 第8回 現代と人権   日本のプラグマティズム--生活綴り方運動(その2)

(6)『悲しき記録』のリアリズム
 豊田正子の『悲しき記録』は、子どもの目からみた家族関係の姿、日本社会のひずみと矛盾をリアルに表現しています。それを読むことによって、「生活綴り方運動」が芸術至上主義運動としての性格から社会矛盾の表現、批判、告発の運動という様相を持ち始めたことを理解できます。「教育勅語」にもとづく、文部省の上からの押し付け教育に対抗して、自分の生活を自分の言葉で、自由に生き生きと表現する自然主義と自由主義は、一方で自由で芸術的な創作活動という側面を持ちながら、他方で当時の社会問題に目を向ける活動としての側面をも持つようになったのです。正子の『悲しき記録』の内容を見てみましょう。
 『悲しき記録』は、正子の母親が父親以外の男性と浮気をしたことテーマにしています。正子の父親は、正直なブリキ職人ですが、母親は正直で仕事一筋の夫に不満であったため、他の男性と浮気をしてしまいます。父親は、その浮気現場に踏み込んで、怒りをぶちまけましたが、不倫をした母親の責任をといただしても、この種の問題の解決にはつながらず、また母親が深く謝罪したところで、不倫がなかったことにはなりません。正子の父親は、怒り嘆きますが、解決の方法がないため、正子に連れられて担任の先生のところに行き、相談の乗ってもらいます。父親は、正子の前で、母親が不倫をしたことを次のように訴えます。正子は、それを『悲しき悲劇』において自然のまま表現しています。
 それを読んで、まず気づくのは、正子は、父親と一緒に先生の家に行き、そこでのやりとりを録音したわけではありませんが、その模様を克明に記憶・記録し、それを正確に再現していることです。それは、父親が述べた言葉だけではありません。その話し方、その雰囲気、父親の一挙手一投足が見事に再現されています。例えば、「枕もとにゃ一升瓶がころがっていた。畜生酒くらって二人で寝てやがったんだ。あアあ、あんときの様子がむらむらと浮かんできて、あっしや、もう、どうしていいか分かんねえですよ。先生ッ、うふん、ふほーん」と、父親の言葉が直接引用のかたちで書かれています。このなかの、「枕もとにゃ」、「寝てやがったんだ」、「あっしや、どうしていいか分かんねえですよ」という言葉の使い方によって、父親がどのような社会階層に属し、またどの程度の教育を受けてきた人物なのかがリアルに描かれていると思います。また、「あアあ」、「先生ッ」、「うふん、うほーん」という表現には、妻の不倫に対する憤りとその激しい感情がにじみ出ています。このような場面は、子どもである正子にとっては当惑し、困惑する場面であるはずですが、それにもかかわらず父親の行動を細部にわたって観察する鋭い能力を身につけていることがよく分かります。「あっしやァ」、「俺ァ」という言葉の語尾を少し伸ばす父親の言葉づかいの特徴の表現方法には、高い文学性が感じられます。「先生ッ」、「おうおう、うんッ」という泣きながら、声を詰まらせるシーンは、涙をこらえながら、怒りを表現する人間の表現として見事としか言いようがありません。そして、これ以上のリアリズムの表現があるだろうかと思われるのは、久野さんと鶴見さんが指摘しているように、「父ちゃんは、お尻の方を高くして、頭を畳にすりつけながら、体を振って泣いた」という父親の泣き崩れる姿の描写です。おそらく、正子は、父親の少し後ろに正座して座り、父親の前には、先生とその奥さんが座っているのでしょう。父親は、正座しながら、妻の不倫の非情さを訴え、そのまま前のめりになって頭を畳にこすりつけるように泣き崩れています。その後ろに座っている正子の目には、父親のお尻が高く、自分の目線と同じ高さまで持ちあがって、左右に揺れ動いているのが見えます。先生も、正座をしている姿勢から、少し膝を立てて起き上がり、泣き崩れている父親の背中を支え、腫れものを触る感じで対応しているのが想像できます。久野さんと鶴見さんは、「田山花袋、徳田秋声などが自分の色慾についてのべて自己満足しているレヴェルを越えて、もっと冷静な自然主義にたっしている」と評価していますが、私は文学的表現を論評する立場にはありませんが、久野さんと鶴見さんは、正子が父親の泣き崩れるありさまを客観的に表現しているだけでなく、その内面にある怒り、憤り、悲しみ、情けなさ、不甲斐なさを表現し、しかも父親の社会的境遇や養育レベルなどを含めて具体的な人物像をも表現していることを高く評価しているのではないかと思います。「不倫をした妻に対して、夫は~~のようなことを言うものだ」という一般的な夫のイメージ、父親のイメージから出発せずに、現実の姿を直視することこそ、芸術的な表現を越えて、社会状況の客観的な分析とその本質を解明する基本であるといえます。

(7)豊田正子の綴り方の特質
 ここでもう一度、芦田さんや鈴木さんが「生活綴り方運動」を芸術至上主義の運動として進めながら、それが全国的な規模で普及されるなかで、当初の意図を越えて異なる傾向を持ち始めた点について振り返りたいと思います。その異なる傾向とは、久野さんと鶴見さんが正子の綴り方の特質として指摘した「冷酷な自然主義」です。「自然主義」には、自然や社会、人間の生活をありのままに描き、表現するという方法です。ありのままに描くということは、そこには表現者の主観は入らないことを意味します。現実の自然や社会が、こうだったらいいのになあとか、なんと素晴らしいことかというような表現者の希望や感動の視点から現実を眺めると、それは客観的な事実とは異なって描かれる可能性があり、客観と主観が混在した表現になりかねません。そのような意味で、自然や社会、人間をありのままに描く自然主義は、いわば中立的な性格を備えていると言えます。しかし、文学や芸術などの創作活動において、表現者の主観や感情を一切遮断できるかというと、そうはなりません。というのは、自然であれ、社会であれ、ありのままの現実は、人間の社会的な活動によって作り出されたものであるため、社会的な活動に対する評価が必然的に伴います。その活動の是非、経済に与える影響、人々の暮らしに与える影響、環境や気象条件に与える影響などの一定の社会的・政治的な価値判断が伴います。自然や社会の観察・表現を、このような一定の思想表現として行うことを、久野さんと鶴見さんは「冷酷な自然主義」と呼んでいるんだと思います。
 例えば、富士山を例に考えてみたいと思います。自然豊かな日本の風景のなかでも、その雄大さと美しさにおいて、富士山の右に出るものはないでしょう。しかも、それは日本の歴史、文化、伝統のシンボル、さらには信仰の対象にさえなっています。その意味で、富士山は自然遺産であると同時に文化遺産でもあります。しかし、富士山とその周辺地域は開発されてしまったために、ユネスコの世界自然遺産としては登録されませんでした。富士山は、どのように開発されてしまったのでしょうか。富士山の周辺にはゴルフ場などもあますが、その北側と東側には自衛隊の実弾演習場があります。アメリカ軍との合同軍事演習などもそこで行われています。このような事情もあって、藤さんがユネスコの世界自然遺産に登録されなかったのではないかと思います。
 しかし、富士山はユネスコの世界文化遺産に登録され、地元では観光客も増えて、経済効果が期待できるとにぎわっています。しかし、富士山の周辺では、戦争の訓練と準備が行われているという事実を冷酷に見るならば、浮かれてばかりはいられません。富士山の裏側、その周辺を詳しく調査するならば、富士山を遠くから眺めて、その雄大さと美しさだけを見て、喜んではいられないと思います。富士演習場では実弾演習が行われているので、富士山の山肌は弾丸や砲弾の跡があり、穴だらけ、傷だらけになっています。また、その付近に立ち入る人のために、不発弾があるかもしれないので、それを見つけた人は連絡してくださいと書かれた看板まであります。戦争に反対し、平和を求めるという思想的な立場から富士山を描写すれば、おのずと「冷酷な自然主義」にならざるをえないのではないでしょうか。また、日本が戦争するのはやむを得ない、自衛隊の演習場として使われるのも仕方ないという立場の人は、富士山から演習場の部分を切り離して、「そこは富士山ではない、別の地域だ」と割り切るのかもしれませんが、そのように割り切れたとしても、富士山を見て、「ああなんて美しい山なんだ」と実感できるとは思えません。
 正子の「冷酷な自然主義」とは、表現方法の批判性のことを意味しているのだろうと思います。正子は、父親の泣き崩れる頭とお尻を見ながら、自分の家が貧しい境遇に置かれていることを厳しい眼差しで捉えて描いています。正子の父親は、正直者で働き者だけれども、父親の稼ぎだけでは、母親と5人の子どもを養うことはできません。実際に5人の子どもを養っているのは、誰かと言うと、父親以外の男性と不倫をしている母親です。母親は、他の男性と「不倫」をして、いくらかのお金を得ているのです。正子は、小学校の先生から「倫理」や「道徳」を守り、生活することの大切さを教わっています。それは、「教育勅語」にもとづく道徳教育であったと思いますが、そのような生き方が是であると教育されてきました。しかし、世の現実を見れば、人間が道徳的に生きることは容易ではないことは明らかです。不倫をした母親に問題があり、父親に罪はありません。しかし、5人の子どもを養っているのは母親であるという事実を度外視して、母親の不倫を責めることができるでしょうか。「日本の唯物論」の第1回目のところで、『思想悪化の因』を取り上げ、世の女性の生のモラルが崩れていることが「思想悪化」の一傾向であると報じられていたことをお話ししましたが、正子の立場からは、それは「思想悪化」が原因ではなく、「政治・経済の悪化」こそに問題の本質があることになります。正子は、太平洋戦争が始まる1941年、貧しい労働者家族のリアルな実情を踏まえ、「正直であれ」と命ずる倫理のあり方を批判するほどまでになっていきます。共産主義や社会主義を目指す運動、労働者や農民の運動がほとんどつぶされた状況のなかで、国中が戦争へと突き進み、文学、芸術、科学、教育などすべてが戦争を支える方向に流れていったときに、正子は、「自己の体験の記述を通して、自分をとりまく社会環境について、福本イズムよりも高い唯物論的理解に達してい」きます。正子の視点は、自然主義的にリアルな現実を見つめるだけでなく、その根本にある問題、その背景事情や政治的・経済的な関係にまで「冷酷」も及んでいかざるをえない必然性があるように思います。

(8)昭和初期の時代と生活綴り方運動
 1920年代の終わりから1930年代の初頭にかけて、日本の政治は、どんどんと戦争を進める体制に入っていったために、それに反対する共産主義者・社会主義者に対して非常に厳しい弾圧を加えました。しかし、「生活綴り方運動」の同人雑誌は、この時期に相次いで出版され、東北地域の小学校教師、そして東京江東区の小学校教師によって作られました。地域も拡大し、北海道から九州まで全国におよんだようです。最初は、教師が中心になって編集していましたが、後には小学生が自ら編集作業に加わりました。それは、今でも見られない画期的なことです。
 前回まで見た白樺派の「新しき村」の運動や日本共産党の福本イズムの組織原則、その後の野呂栄太郎などの運動は、いずれも一定の規模の組織をつくって、結束をかためて目標に向かって運動を進めていくというものでした。しかし、「生活綴り方運動」は、そのような組織的な運動ではありません。久野さんと鶴見さんによれば、この運動のコミュニケーション・ネットワークは、運動家がたがいに会見する機会もないまま、担当する学級でつくった文集をたがいに送り合って、批評するということでなりたっていました。このため、1930年代の弾圧期に入って、進歩的な社会運動のうろしだてとして重大な役割を果たすことになったようです。1937年に日中戦争が本格化して以降も、たがいに信用できる三人、あるいは四人のメンバーと小さな集団を作って、異なる地区の小学校教師が文集を交換して運動を続けたそうです。「生活綴り方運動」の実践場所は、基本的に自分が担任を担当しているクラスであったというのは、白樺派の「新しき村」の運動や福本イズムの運動の場合とは大きく違います。白樺派は、同じ理想をもった者たちが集まり、一般の社会から離れて別の場所で自給自足の共同生活を行いました。そして、金銭問題や人間関係からその人間集団は衰退してしまいました。福本イズムは、共産主義運動を行うためには、その組織から共産主義理論とは無縁な要素を分離して、純粋に共産主義の理論で身を固めた者たちで共産党組織を作り、後に労働者大衆と結合すべきだとして、少数精鋭の組織を作りました。1930年代に天皇制政府による弾圧が激しさを増してきた時期に、有効な抵抗組織と運動を展開することができないまま、つぶされていきました。「生活綴り方運動」は、これらの運動とは違い、各地における小学校教育の職場において、作文指導上の問題を解決するために、実践的経験を比べあい、学にあうことを課題としていました。小学生に対する作文教育の方法、自発的な書き方、経験や体験に根差した生活実感のこもった作文の作成を目標にしていたことから、持続的・継続的に運動を進めることができたのだろうと思います。
 芦田さんや鈴木さんは、1930年代の半ばまでに「生活綴り方運動」の基本原則を明らかにし、1930年代の後半からも、その原則にもとづいて運動を進めました。1930年代前半までの運動は、どちらかというと都会の中産階級の小学生に対する教育を念頭において進められていましたが、1930年代の後半からは、その運動が地方の農村部の小学校にも拡大されていきました。地方の農村部は、農業を営む家庭が多く、まだまだ貧しさから抜け出せないでいました。そのような家庭の子どもに対する教育として「生活綴り方運動」を行った場合、やはり都会の子どもの場合とは違った効果が現われるのは予想できます。綴られる生活は、都会と農村では全く違いますし、またその実感も異なります。「生活綴り方運動」を担っていた教師のなかには、無政府主義やマルクス主義の思想に影響を受けた者もいたようですが、それが「生活綴り方運動」の指導原理になっていたわけではありません。無着成恭が山形県山本村の中学校で社会科の授業をすすめる努力のなかから、「やまびこ学級」という文集を作ったことは、農村部における「生活綴り方運動」が政治的イデオロギーとは別の次元で進められていたことを端的に示しています。それは、豊田正子が不倫をした母親が5人の子どもを養っているという冷酷な事実から目をそらさずに、それをありのままに描いたこととも共通します。「大前提」の思想やイデオロギーが先にあって、そのあとに実践がついてくるというのではないのです。まず、「小前提」の問題が目の前にあって、それを実践する過程において、「大前提」へと接近するということです。正子は、正直に働いても家族を養えない社会状況、「不倫」しなければ金を稼げない家庭の状況を解決する必要性を実感し、戦後、26才のころに日本共産党に入り、共産主義運動に関わっていきます。正子の成長過程は、先にあるのは思想や理論ではなく、行動です。まず「生活綴り方運動」という行動が先にあって、その運動を進める過程において出てきた課題を解決するために、次に理論が模索されます。福本イズムのように、マルクス主義の理論学習を強化するために、組織を「分離」して小さくしたのとは決定的に異なります。
 久野さんと鶴見さんは、「豊田正子や大関松三郎たちの生活綴り方作家の中に、日本のプロレタリア文学の発生があるのではないか。ここでは鈴木三重吉のつよく排除した概念的把握の痕跡さえもなく、実感を辛抱強くつみかさねることによって、階級社会の自覚に達し、この階級社会にどうして生きて行ったらいいのかの問題解決のいとぐちに達しているのである」と高く評価してます。小学生が、日常的な生活実感を積み重ねていく中で、日本の社会が貧富の差をもたらす階級社会であること、経済格差を広げていく不平等な社会であることを自覚するまでには時間がかかると思いますが、それにもかかわわらず子どもたちが書いた作文のなかには、階級的な自覚の萌芽が見てとれます。1930年代半ば、大関松三郎という小学6年生が書いた「虫けら」という作文には、貧農の子どもの生活実感、その素朴さ、力強さが、どんなプロレタリア文学よりも生き生きと表現されています。それは、純粋であるがゆえに、何もにもこびず、へつらわず、常に弱い者の側に立てる芯の強さを感じさせます。松三郎の「虫けら」という作文を読んでみたいと思います。

(9)「虫けら」に現われた生活実感のプロレタリア的階級性
 一くわ どしんとおろして ひっくりかえした土の中から もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる 土の中にかくれていて あんきにくらしていた虫けらが おれの一くわで たちまち大さわぎだ
 最初の6行のフレーズは、自然主義的な描写として興味深いものです。それは、くわをおろすときの「どしん」という響きが、農民の腕の力強さ、力のいる仕事に従事していることを迫力をもって伝えています。そして「もぞもぞと」という擬態語が、虫のなんともいえない動き、土の中で、体をにょろにょろと左右に動かしているありさまを伝えてくれます。「あんきに」といのは、安全の「安」と気持ちの「気」と書きますが、気楽に、のんびりという意味でしょう。

 おまえは くそ虫といわれ おまえは みみずといわれ おまえは へっこき虫といわれ おまえは げじげじといわれ おまえは ありごといわれ おまえは 虫けらといわれ
 6行のフレーズは、虫けらがいつも何と呼び捨てられているかを、子どものことば、土地の方言で表しています。「くそむし」とは、こがねむしのことです。動物のふんや死骸に集まってくるので、「くそむし」とさげすまれています。「みみず」は、土の中にいて、掘り返すともぞもぞと動き始めるあの「ミミズ」です。「へっこき虫」は、カメムシのことで、触ると、いやなにおいを発して、他の虫や人間、動物を寄せ付けない防禦的な習性を持っています。関西では「へこき虫」といいますが、東北地方では、「へっこき」と、つまった発音になるようです。「」げじげじ」は、「ムカデ」のことだろうと思います。「ありご」は、「あり」のことです。「ありんこ」と言うこともありますが、それが少しなまって「ありご」となったんかもしれません。ありは、土の中に巣を作って生きています。最後の「おまえは 虫けらといわれ」というフレーズは、名前があっても、その名の通り呼んでもらえない「名もなき虫けら」を指しているのではないかと思います。虫には、必ず固有の名前があります。しかし、どれも農作業をするうえでは「虫けら」です。しかも、その生命が顧みられない憐れな存在です。松三郎は、そんな憐れな「虫けら」を自分の日常生活の作文の主題にしているのです。

 おれは 人間といわれ おれは 百姓といわれ おれは くわをもって 土をたがやさねばならん おれは おまえたちのうちをこわさねばならん おれはおまえたちの 大将でもないし 敵でもないが おれは おまえたちを けちらかし ころしたりする おれは こまった おれは くわをたてて考える
 最初の2行は、その前の「おまえは 虫けられといわれ」に対応しています。「おれは 人間といわれ おれは 百姓といわれ」というのは、自分あるいは自分の家族のことです。ここで「人間」と書いているのは、自分が「虫けら」ではないということです。そして、固有名詞としては自分のことを「百姓」と言い表しています。百姓は、何をするのでしょうか。くわで土を掘り起こし、畑を耕して農作物を作って、生活の糧にするのです。そのためには、土の中で安気に暮らしていた虫けらの家をけ散らかさなければなりません。もし、百姓が虫けらの大将であるならば、それも許されることでしょう。また、百姓と虫けらが共存できない敵関係にあるならば、それもまたやむを得ないことでしょう。しかし、松三郎は虫けらの大将でも敵でもありません。それでも、虫けらの巣を壊し、畑を耕さなければなりません。松三郎は「こまった」と、手を休めて考え込んでいます。ここには虫けらに対する愛情が感じられます。皆さんの中にも、幼い頃、昆虫をとってきて、虫かごにいれて、飼った経験のある人もいると思います。私の子どもは、カマキリをとってきて、プラスティック製の大きな容器に入れて飼っていました。そして、カマキリのためにバッタをとってきて、餌として与えていました。バッタも好きなんでしょうが、カマキリの方が好きなために、バッタを犠牲にしていることに、なんとなく申し訳ないという表情をしていたのを覚えています。子どもの心は、そんなに深刻ではないと思いますが、やはり命あるものに愛情を感じます。松三郎もまた、虫けらへの愛情ゆえに、くわを立てて考えんだと思います。

 だが 虫けらよ やっぱりおれは土をたがやさねばならんでや おまえらを けちらかしていかねばならなんでや なあ 虫けらや 虫けらや
 最後の5行のフレーズで、大関松三郎少年の決断が表現されています。松三郎は、虫けらの大将でも敵でもないが、やっぱり土を耕し、巣を壊さざるをえないのです。しかし、その決断には愛情が感じられます。「ならんでや」という表現に、虫けらに同意というか、了解を求める感情がにじみ出ています。それは弱肉強食の考えでも、適者生存の考えでもありません。百姓が生きていくためには、どうしても土を耕さなければならない。そのためには、虫けらの家を破壊しなければならない。そのことを分かってほしいという気持ちが込められています。「なあ 虫けらや 虫けらや」という最後のフレーズは、土を耕しているつらさ、自分が生きていくために、憐れな存在を犠牲にしているの切なさを感じさせます。もし、松三郎が「虫けら」に貧農の家族に生まれた自分の姿を重ね合わせるなら、自分に通ずる生き物に対する愛情は、貧困にあえいでいる労働者・農民への愛情へとつながっていくでしょう。そして、貧困の原因である政治を変えるための不屈の精神へと変わっていくのではないかと思います。ここに小学6年生の少年のプロレタリア的階級性が感じられます。
 松三郎の生活実感は、事実に裏付けられた具体的な生活実感です。このような生活実感のうえに、マルクス主義が重ねられたならば、その思想はしっかりと根づき、揺るぎないものになるでしょう。白樺派の「新しき村」の運動に参加した人たちは、どうだったでしょうか。福本イズムの理論で共産主義の活動をしていた人たちは、どうだったでしょうか。具体的な日常生活に根差した揺るぎない生活実感はあったでしょうか。昭和初期の小ブルジョア的な学生は、大ブルジョア出身の白樺派の観念論者たちを、「ブルジョア的観念論にとらわれた早発性チホー症」と軽蔑し、「われこそは」と、マルクス主義の運動へと接近していきましたが、そんな彼らもまた自分自身を生活実感によってではなく、マルクス主義の観念構造によって支えることしかできませんでした。その理論は、確かにロシアなどで実践的に証明された価値を持ち、強固な理論体系なのですが、自分の生活経験に根差さない外国の理論であったために、脆弱性は免れませんでした。若者の正義感ゆえに、学生はマルクス主義に接近しましたが、その後はそこから離れていきました。何故でしょうか。治安維持法によって弾圧されたからでしょうか。それも大きな要因だったと思います。しかし、観念によって自分を支えるだけでは、時代の精神に抵抗できないことを知るべきではないかと思います。時代は、戦争へと突んで行きます。天皇中心とした国家体制が築かれ、言論の自由や表現の自由などが著しく制約されていきます。そんな時代の流れに抵抗し、自分を維持するためには、何が必要だったのでしょうか。理論的な確信でしょうか。それももちろん必要でしょうが、やはり客観的な事実に裏付けられた生活経験がなければならないでしょう。その生活実感こそが理論的確信を不動のものにするのだと思います。
 このように共産主義運動が壊滅的な打撃を受けた時代に、「生活綴り方運動」は、教師たちの職場という限られた場所で目立たない活動を続けていました。しかも、無意識のうちに多くの小学校の教師の教育のなかに浸透していきました。1945年8月の敗戦によって中断されることなく、戦後も引き続き進められました。これは、注目に値することです。明治以降の日本の近代思想や思想運動は、大都会のインテリゲンチャーを担い手としていたために、非常に弱でした。「生活綴り方運動」は、それとは対照的に、都会だけでなく、地方都市においても進められ、しかも師範学校出身の教師や貧農、工場労働者の子どもによって担われていました。とはいうものの、太平洋戦争という国家的な事態は、この運動の普及を妨げたようです。
 次回は、生活綴り方運動の組織、思想の発展方式、その理論、他の思想的潮流との結びつきの可能性について考えてみたいと思います。99頁から115頁までを読んでおいてください。