goo blog サービス終了のお知らせ 

Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

ドイツにおける売春規制法と人身保護(1)

2014-06-20 | 旅行
              ドイツにおける売春規制法と人身保護
                                    本田 稔
 Ⅰ 売春の合法化?
 Ⅱ 売春の法理論的様相
 Ⅲ 売春法の成立過程
 Ⅳ 売春法の今後と人身保護のあり方

 Ⅰ 売春の合法化?
 ドイツのフェミニズム専門誌『エマ』のホームページに、2005年5・6月合併号のトップ項目として、次のような記事が掲載されている1)。

 職業安定所が売春婦をあっせん!
 法律が改正されて以降、連邦労働省は、「女性の性労働者」を売春宿にあっせんしている。さらに「サンデー・テレグラフ」 によれば、ベルリンの労働局は、ウェイトレスに職業として売春を仲介し、失業給付金の削減をちらつかせているという。
 このことを報じたのは、よりによってイギリスの女性ジャーナリストであった。3年前の売春法の改正がもたらした結果が、いかに議論を呼ぶテーマであったことかについて、ドイツのメディアはまだ注目していないようである。2002年1月1日、売春婦が「女性の性労働者」になったことによって、労働局は今や「性労働」の業界をも管轄するに至ったのである。2000年10月に売春が合法化されて以降の状況は、職業安定所が売春婦をあっせんしているオランダと全く同じである。
 (2005年)1月20日付け「サンデー・テレグラフ」にクレア・チャンプマンの記事が掲載されている。それによると、ドイツの女性特派員がベルリンのウェイトレス事件を次のように解説している。25才の女性プログラマーは、すでに長期に渡って失業していた。そのため、いわゆる第二号失業保険給付金を請求するためには、「無理せずにできる」仕事を受け容れねばならなかった。その女性は、自分がかつて喫茶店でウェイトレスとして働き、その仕事であれば、また働くことができると、ベルリンの所轄の労働局に伝えた。その後、彼女は求人のあることを手紙で知らされ、そこに電話をした。すると、雇用者と思われる人物によってそこが売春宿であることがすぐに分かった。だから、彼女は名前を名乗ることを拒んだ。「サンデー・テレグラフ」によると、売春する意思のない女性は、結果として失業保険給付金を減らされ、また完全に打ち切られるなどの措置で脅されているという。

 ドイツの職業安定所が、職を求めて訪れた女性に対して、売春宿で売春婦として働くことをあっせんしているという『エマ』が報じている事実をにわかには信じがたい。しかし、この記事が掲載される3年前の2002年1月1日に施行された「売春婦の法的関係を規制するための法律」(いわゆる売春法)を見る限り、売春婦と顧客との間で結ばれた売春ないし類似行為の契約は、もはや民法上無効と評価されるような良俗違反の行為ではなくなった。売春婦には、客に対して性行為の対価を支払うよう求める権利が認められ、また逆に売春婦が取り決められた性行為を全く行わないか、また部分的にしか行わなかった場合には、顧客は対価の支払い請求を拒み、異議を申し立てることができる。さらに売春婦が働く売春宿の経営者には、売春婦のために社会保険に加入することが義務づけられている。
 ハンブルクで「売春職場」という売春婦自立自助プロジェクトに携わっているエミリア・ミトロヴィッツ2)によれば、このような売春法の制定によって、売春婦はその職業に従事している間は社会保険料を支払い、それ相当の給付(年金保険、健康保険、失業保険)を受ける権利を獲得したという。また、売春婦は、雇用者(売春宿、バー、クラブの経営者)と労働契約を締結し、有給休暇や疾病の際の賃金保障など一般の労働者に保障されている権利を獲得することができた。売春を業としている者には健康保険が適用され、不況や年齢などの事情から解雇された場合には失業保険が適用されるようになった。退職後は年金を受給できるようになった。つまり、売春は法的に一般の職業と同じように扱われ、それに従事する売春婦も一般の労働者と同じように労働基本権を保障されるに至ったのである。従って、法的に承認された職業としての売春を助長または支援しても、もはや犯罪として処罰されることはなくなった。それゆえ、それまで売春助長罪(刑法180a条1項)に該当する行為、たとえば売春宿の経営者が売春婦のために避妊具を用意したり、また売春を容易にするために衛生面で改善措置を講じたり、労働環境を整備しても、刑事訴追されるリスクを負わなくてもすむようになった。反対に、売春婦の性的奉仕に対して取り決められた料金を顧客が支払わない場合には、詐欺罪などで刑事訴追されるようになった。ミトロヴィッツは、売春婦が法的にも社会的にも差別され迫害されてきた歴史を顧みれば、売春法が売春婦の権利の保障に資するものであるとして、その歴史的意義を高く評価している。
 「サンデー・テレグラフ」が報じているベルリン・ウェイトレス事件は、このような「売春の合法化」とも呼べる経緯のもとで生じたものであろう。連邦労働省は、売春法の制定を受けて、それまで公序良俗違反であったがゆえに禁止されてきた「売春のあっせん」を解禁し、職を求めて職業安定所を訪れた女性失業者に対して、売春宿からの求人を紹介し、就職の仲介を行ったのである。ただし、売春のあっせんを受けながら、「重大な理由」なくそれを拒んだ場合、失業給付金を削減し、場合によっては打ち切ることもできるという法の運用は、あまりにも杓子定規的であり、立法者の想定外のことだったのかもしれない。また、職業安定所の職員も女性にあっせんした求人が売春宿からのものであることを知らなかったのかもしれない。
 売春がもはや良俗違反ではなく、職業の一つとして法的に承認された以上、それをあっせんし、仲介することには法的な問題はない。ただし、その形式的な法理は、失業女性に売春を強いる論理に転化するおそれがあり、失業給付金の削減と不本意な売春との狭間で悩む女性が増えることが予想される。『エマ』も報道は、このような女性の苦悩を代弁し、「売春の合法化」によって女性の心身を引き裂こうとしているドイツ社会の現状を暴露することを目的としており、その意図は十分に理解することができる3)。
 小論の目的は、ドイツにおいて売春法が制定されるに至った経過をたどりながら、売春やそれに付随するいくつかの問題を考察することにある。

 Ⅱ 売春の法理論的様相
 「売春」という言葉を聞いて、吾々は何を想像するだろうか。男性が激しい興奮の中で退廃的な享楽に耽っている一方で、魂が抜け去った死んだ眼差しで女性が天井の模様を眺めている情景であろうか。それとも一人の女性が見知らぬ男性から金銭を受け取り、その見返りとして淡々とセックスをしているという商取引にも似た光景であろうか。あるいは、社会的差別にさらされ、家族愛を知らずに生きてきた女性が、かりそめの優しさと暖かさを得るために男性客を誘う寂しい眼差しであろうか。偏見、伝聞、実証によるものであれ、また興味や関心からのものであれ、「売春」という言葉から思い描かれるイメージは様々であろう。
 売春という人間の行為を性文化論の視点から考察することは、本稿の直接的な課題ではない。むしろリロ・ワンダースが疑問視した白黒を着けたがる法の論理の視点から、売春をめぐる様相を素描することに主眼が置かれている4)。ただし、ワンダースが論じたように、人間の行為は決して単色ではなく、ましてや性文化の領域における人間の感情や行動を単一の規範的規格で割り切って論ずることができないは、一応は承知しているつもりである。しかし、売春が道徳や社会衛生など様々な脈絡において忌避され、法それを根絶する手段として強力に用いられてきた経緯を踏まえるならば、売春の様相を法の論理において論じ始めることは、あながち見当はずれではないであろう。

 1売春に関する三つの法的規準
 売春を捉える法理論的規準には、3種あるといわれている。全面禁止論(Prohibitionismus)、規制廃止論(Abolitionismus)、そして統制政策論(Regulatorische Politik)である5)。
 全面禁止論は、売春の根絶を目的とする。その根拠は、売春の反道徳性あるいは社会的不衛生性にある。1人の女性が不特定かつ多数の男性と性行為を行い、その対価として金銭を受け取る道徳的悪習を社会から根絶し、蔓延するおそれのある性病から国民の健康を保護し、ひいては社会衛生的な環境を維持するためには、国家はこのような社会悪を法的強制力を担保にして禁止しなければならない。法に反して行われた売春の厳罰化は、このような論理によって正当化される。このような規制は、売春婦だけでなく、顧客、売春幇助者(いわゆる「ヒモ」)、売春宿等の経営者、部屋の賃貸人など、売春から生活の糧を得ている全ての売春関与者に向けられる。
 規制廃止論は、売春を規制の対象とする法律の廃止を求める立場である。この脈絡において2つの規制廃止論が主張されている。1つは、開放主義的規制廃止論(liberaler Abolitionismus)であり、もう1つは女権拡張的規制廃止論(feministischer Abolitionismus)である。開放主義的規制廃止論は、諸個人は自由な意思決定に基づき、かつ第三者を侵害していない限り、性の領域において正しいと見なすことを行う自由がある。それゆえ、売春が個人の自由な意思に基づいて決定され、他害性がない限り、売春を規制対象とする法律は全廃されるべきであると主張する。議論の中心に位置づけられているのは、個人の自己決定権である。従って、法的に規制されるべきは、個人の自己決定権の侵害の上に成り立つ売春、すなわち強制売春のみである。女権拡張的規制廃止論もまた、同じ様に売春を規制する法から女性を解放することを訴える。しかし、売春の規制を改廃する権限が「男性」の手に掌握されている状況がある限り、女性にとって不利益な売春はなくならないと指摘する。個人には、私事に関する問題に関して自由に意思決定する権利があるが、国家の現実態が「男性国家」であり、女性がそれに従属させられている限り、女性の自己決定は虚構でしかなく、それは常に男性本位に作用することになると批判する。女権拡張的規制廃止論は、一方で開放主義的規制廃止論のなかにある男性本位の国家像の問題を暴きながら、他方で全面禁止論が主張する強制的な刑罰威嚇方法を斥けようとする。そして、女性を売春から解放するための非刑罰的な措置を社会、経済、教育などのあらゆる領域において講ずることによって、売春のない世界の創造を求める。
 規制廃止論に基づいて政策を進めているのがポーランドである6)。ポーランドでは、売春は屋内であれ屋外であれ、法的な意味で職業として承認されていないが、完全に自由化されている。しかし、他人に売春させ、そこから収益を得る売春幇助や売春斡旋(いわゆる「ポン引き」)は処罰の対象とされている。暴行・脅迫を用い、または従属的な立場を利用して、他人に売春を強制した場合、1年以上10年以下の自由刑が科され(刑法203条)、金銭的利益を得る目的で売春を奨励した場合、3年以下の自由刑が科される(204条1項・2項)。ポーランド国内で売春に従事させるために他人を誘拐した場合は、1年以上10年以下の自由刑が科される(204条4項)。15歳以下の未成年者に性行為を行わせた者には、1年以上10年以下の自由刑が科され、売春させて収益を得た者も同様に処罰される(200条)。人間を隷属状態に置く人身売買に対しては、3年以上15年以下の自由刑が科される(253条1項)。
 1999年に施行されたスウェーデンの女性平穏法(Kvinnofrid)もまた、規制廃止論に分類される7)。この法によって処罰されるのは、売春婦ではなく、顧客である。売春婦に金銭を支払って性的奉仕を受けた顧客には、6月以下の自由刑もしくは罰金刑が科される。売春それ自体は犯罪ではないが、自由化されていないが、買春のみが処罰の対象にされたことから、スウェーデン型「買春禁止法」と呼ばれている。性市場における取引を禁止するために、買春の処罰が売春の減少をもたらすことが予想されている。しかもスウェーデンでは、この売春対策は、国際的にも取り組まれている人身売買対策と並行して進めら、2003年上半期には約500名の男性が逮捕され、そのうち3分の2に有罪判決が言い渡された。売春婦の性的奉仕を求める男性の数は年々減少し、スウェーデンに不法に入国する少女や女性の数も相当減少しているという。
 統制政策論は、売春を法的に管理・統制することを目的としている。従って、全面禁止論や女権拡張的規制廃止論のように売春を消滅させることが終局的な目標ではなく、ただ売春という所与の社会現象を一定の枠内に収めるために法的な管理・統制を行い、売春婦、顧客、社会に「重大な事態」がもたらされることを回避することに主眼が置かれる。この政策によって、例えば抑制困難になった男性の性欲を売春婦の手を借りて沈静化することによって、それが一般の女性に衝動的に向けられることが回避されると説明されている。また、売春が行われる場所を限定し、売春婦の健康管理を雇用者に義務づけるなどの遵守事項を法定することによって、「安全な性交」を保障し、性病が社会に蔓延するのを防ぎ、総じて国民の健康を維持できるとも言われている。従って、これら法的要件が満たされていない場合にだけ、法は売春を規制の対象として位置づける。つまり、法はもはや売春そのものには関心はなく、売春に付随する危険の顕在化を抑止することだけに関心を寄せる。
 このような統制政策論に基づいて売春法制を確立したのがオランダであり8)、その実践例は売春統制の分野において「先駆的な役割」を果たしたと評価されている。オランダでは、19世紀までは売春は法律で禁止されていなかったが、19世紀末以降に広がったフェミニズムの影響を受けて、1911年に「売春宿」が規制されるようになった。しかし、売春そのものはなくならなかった。1960年代に政権がキリスト教政党から労働党に移行したのをきっかけに、売春婦が自らの権利と要求を掲げて運動を展開し始め、1988年に売春が法的に職業として承認された。その後、1999年に売春宿を規制する法律が廃止されたのを受けて、2000年に売春関連の性産業を地方自治体が管轄する法制度が実施された。政府の見解においても、「全ての自立した成人男女が享受している自己決定権には、それが違法な影響にさらされていない限り、自らが売春に従事する権利が含まれている」ことが明らかにされた。これによって売春は一つの職業となり、そこから収益を得ることが一つの産業として確立するに至った。売春の営業は届出制になり、その場所と方法が詳細に規定され、売春を通じて性病やHIVに感染するのを防ぐため、届出をした売春婦には健康診断が義務づけられている。また、禁止される売春、すなわち成人女性への売春の強制や子ども売春、人身売買の処罰が厳格に定められている。私塾ではあるが、1995年に設立された「売春奉仕短期大学」では、売春をはじめ性的奉仕業への従事を希望する者のために、教科科目として感染予防の講義が行われている。「赤い糸」(De Rode Draad)という名の売春婦労働組合の活動も活発に行われ9)、障害者に対して性的介助サービスを提供する「SAR(選択的な人間関係財団)」(Stichting Alternatieve Relatiebemiddeling)の活動も広く知られている10)。オランダにおけるこのような実践が、2年後のドイツの売春法の制定に大きな影響を及ぼしたといわれている。

 2統制政策論のパラドクス
 売春を捉える3種の法理論的規準の内容は、おおよそ以上のようなものである。全面禁止論は、既存の国家や社会の道徳規範の安定化を目指し、衛生管理や防疫策の効果を高める必要から売春を否定的に捉える。開放主義的規制廃止論は、個人の自己決定権の全面的な保障を実現する視点から売春の完全な自由化を唱える。女権拡張的規制廃止論は、売春を根絶するために「男性国家」の変革を求める。それらは売春を単一の規範的規格で割り切る要求であり、また革命の彼岸において実現されうる課題であるため、政策的な妥協の可能性を模索し、今目の前にある問題の解決を図ろうとする社会には受け容れられない。それに対して統制政策論は、社会の「無菌状態」の実現がそもそも非現実的であると考える社会的風潮に沿い、また国家的モラリズムの介入を忌避しながら、「無制約の自由」をも斥け、適度な規律と拘束の上に性的自己決定権の保障を求める社会的世論に応えようとする。そのために、全面禁止論や規制廃止論よりも「寛容」で「合理的」かつ「現実的」な政策を担保しうる理論として受容され易い傾向を持っている。
 ただし、統制政策論が開放主義的ないし女権拡張的規制廃止論の急進的な要求を牽制しながら、「合理的」な方向を追求しているように見えるが、地方自治体が売春業を管理・統制し、売春婦の健康管理を徹底することで性病の感染から公衆を保護することを目的としている限り、実のところ全面禁止論の醜悪な部分を受け継いでいるのではないかと疑われる。統制政策論が、全面禁止論に比べて、売春に従事する女性に対して寛容な態度をとっていることは確かであるが、それは売春婦が予防主義的防疫策を効果的かつ安定的に推進する合目的的な措置に従う限りにおいてである。統制政策論の論理は、売春婦を性的自己決定権の主体として尊重しながら、同時に予防主義的防疫策のメカニズムのなかにつなぎとめる。その論理の中に、かつてアウグスト・ベーベルが批判したような問題が内在しているように思われるのである。すなわち、売春婦が卑しめられて道具化され、もはや人格として扱われない状況を作り出す危険性である11)。売春を含む性的自己決定権の尊重と公衆衛生を維持するための義務の履行は、論理的にはバランスを維持できても、公衆衛生の秩序がひとたび揺らぎ始めた途端、売春婦の人間の尊厳は脆弱な状況に追い込まれるおそれがある。ポピュリズムの社会風潮のなかでは、とくにその危険が高い。統制政策論が、売春婦の人間の尊厳に抵触することなく、その目的を達成するためには、まずは売春婦の真の姿に向き合うことが必要であろう。
 国家や社会が、全面禁止論、規制廃止論、統制政策論のいずれを選択するかは、最終的に立法者の任意に委ねられるが、それを規定する要因は、歴史や伝統、宗教的ないし文化的規範、政治風土や社会運動など様々なものが考えられる。2002年のドイツの売春法の成立過程において、それを促進した要因が何であったのか、またそれを抑制した要因が何であったのか。売春婦の「人間の尊厳」が、そこにおいてどのように論ぜられたのかを見なければならない。

1)Vgl. http://www.emma.de/05_3_arbeitsamt_prostitution.html.『エマ』(EMMA)は、1997年1月26日に創刊され、それまでタブー視されてきた女性問題を取り上げ、批判と政策提言のための活発な言論活動を展開しているドイツのフェミニズム専門誌である。具体的には「陰核の切除」に対する抗議(1977年)、全社会階層に対する虐待の告発(1978年)、ポルノグラフィー反対運動(1978年)、イランにおけるホメイニの権力掌握後のイスラム原理主義の危険性に関する告発(1979年)、全日制学校を求める運動(1980年代)、摂食障害者対策(1984年)、4月第4木曜日の少女日宣伝(1999年以降)などに関する論陣を張ってきたという。そのような言論活動を展開するようになって以降、もはや単なる雑誌にとどまらない影響力を持つに至ったという。
2)Emilija Mitrovic, Die Spitze der Doppelmoral - Der gesellschaftliche Umgang mit Prostitution in Deutschland und die aktuelle Situation in Europa, in: Emilija Mitrovic (Hrsg.), Prostitution und Frauenhandel - Die Rechte von Sexarbeietrinnen starken! Ausbeutung und Gewalt in Europa bekampfen!, 2006, S. 14f.
3)ベルリンのウェイトレス事件について、フランクフルト大学刑法教授のヴォルフガング・ナウケ氏にその内容について問い合わせたところ、「任意の売春は民法上の契約法のもとに置かれ、一定の条件があれば社会法上の権利が付与される。このような規定からいえるのは、任意の売春はもはや違法ではないということである。……報道されている事件は、誤解に基づいている。どうやら、一部の職業安定所の職員は、失業中の女性は違法ではない職業に従事しなければならないという馬鹿げた結論を、任意の売春婦の地位を向上しようとしている売春法から導き出したようである。しかし、今ではそのようなことはなくなっている」との回答を得た(2006年10月23日付け書簡)。売春が一つの職業として承認されたことは、売春がドイツ基本法12条(職業選択の自由と強制労働の禁止)の適用を受けることを意味する。従って、職業安定所で売春をあっせんされた女性には、それに従事することを拒否できる権利がある。
4)売春法が制定された時期に「愛という商品(真の愛)」(Wa(h)re Liebe)というテレビ番組がドイツで放映されていた。その司会を努めたのがリロ・ワンダース(Lilo Wanders)である。ワンダースは、ドイツの若手写真家パトリック・フォードの写真集『女性の部屋――ドイツの売春宿』(Patric Foud, Frauenzimmer - Bordelle in Deutschland, 2004)に序文を寄せているが、その内容が興味深い。ワンダースはいう。「性的奉仕業に従事する女性のイメージは依然として悪い。売春宿はもっぱら犯罪活動の温床であるというステレオタイプの考え方が常に支配してきた。しかし、このような印象が常に持たれていたわけではないことは、今日的な視点から見れば少し驚きである。例えば、古代ギリシャでは、売春婦は社会的に尊敬に値する女性であった。彼女たちは、性の相手の代わりを務めただけでなく、政治問題に関して助言なども行った。乱暴なイメージもなければ、いかがわしい売春宿の痕跡などまったくない。売春宿、その経営者、とりわけそこで働く女性の真の姿が見えるようにするために、すでに多くのことが試みられてきた。『愛という商品(真の愛)』のような番組は、白と黒しか見分けられない眼鏡で物を見ると、二つの色が一体となった物事をありのままに見ることができないことを証明するために、部分的にではあれ貢献することができた」。職業としての売春の当事者ないしその理解者であるワンダースが番組を通じて世の人々に知らせようとしたのは、売春婦の真の姿であった。
 パトリック・フォードもまた、売春婦の「職場」である売春宿の小部屋を写し出すことで、その真の姿を伝えようとした。その写真の一枚一枚から浮かび上がるのは、犯罪の温床のような陰湿なイメージでもなければ、退廃的な性の悲壮感でもない。写真からは、けなげな女性が大切にしている自分だけの世界が伝わってくる。それは神聖な感じさえ受ける。
5)Norbert Campagna, Prostitution - Eine philosophische Untersuchung, Erste Auflage, 2005, S. 279ff., 304ff.
6)Stana Buchowska, Polen: Abolitionismus, in: Emilija Mitrovic (Hrsg.), a.a.O., S. 98.
7)Emilija Mitrovic, Modell Schweden: Strafe fur Freier, in: Emilija Mitrovic (Hrsg.), a.a.O., S. 99ff.
8)Petra Timmermann, Die Niederlande - Regielung der Sexindustrie: Wer will uns da an die Wasche?, in: Emilija Mitrovic (Hrsg.), a.a.O., S. 102ff.
9)太田和敬・見原礼子『オランダ 寛容の国の改革と模索』(寺子屋親書、2006年)44頁以下参照。
10)河合香織『セックスボランティア』(新潮文庫、2006年)159頁以下によれば、「SAR」とは「ひとりでは自分の性欲を処理できない障害者に、セックスや、場合によっては添い寝などの相手を有料で派遣している団体」であると紹介されている。
11)アウグスト・べーベル(伊藤努・土屋保男共訳)『婦人論(上巻)』(大月書店、1969年)206頁以下(August Bebel, Die Frau und der Sozialismus, Zwolftes Kapitel Die Prostitution - eine notwendige soziale Institution der burgerlichen Welt, S. 5f., in: http://www/mlwerke.de/beb/beaa/beaa_207.htm)は、国家による売春の管理・統制には、売春婦の羞恥心を根こそぎ傷つけ、再び彼女が生業に戻れなくなる状況を作り出す危険が内在していることを次のように強く批判している。「売春が国家によって統制され管理される結果、男子たちのあいだには、国家が売春を庇護しているという信念のみならず、国家的管理が自分たちを羅病から守っているという信念も生じてくる。そしてこの信念は、売春の利用と男子の無分別をば助長する。娼家は性病を減少させるどころか、かえって増加させる。男子はますます無分別になり、ますます不注意になる」。「ところで、病菌を次から次へと婦人にうつしていく男子がなんのお構いもなしに放りぱなしになっていることが、これらの措置の効果を無に終わらせてしまう。たった今、検診を受けて無病であると認められた売春婦が、その一時間以内に、性病にかかっている男子に病気をうつされ、その次の検診日まで、あるいは彼女じしんが罹病に気づくまでは、一連の他の客にその病菌をうつすのである。こうした管理は空想的であるばかりではない。さらに、命令しておこなわれるこうした検診が、女医によってではなく男医によっておこなわれるばあいには、羞恥心をこのうえなく深く傷つけ、ついには羞恥心の絶無にいたらせることもある。……売春婦のほうでもまた、この管理をのがれようとして全力をつくす。こうした警察的措置から生ずるもう一つの結果は、売春婦がふたたび生業に立ちもどることを困難にし、むしろ不可能にさえするということである。警察の管理を受けることになった婦人は社会にとってはいなくなったも同然である。彼女はたいてい、数年ならずしてみじめに身を滅ぼしてしまう」。そして、売春の警察的取締り反対・風俗壊乱撲滅ジュネーヴ第5回大会がこの問題を適切かつあますところなく指摘しているとして、その声明文の次の文章を引用している。「売春婦に対する義務的な医師の検診は、極悪人にもなお存在しうる羞恥心の名ごりをも破壊することにより、強制的に検診を受けさせられる不幸な婦人たちを完全に破滅におとしいれるがゆえに、それだけに婦人にとっては残酷な刑罰である。売春を警察によって取締まろうとする国家は、国家が両性を平等に保護する責あることをわすれて、婦人を道徳的に堕落させ、はずかしめるものである。売春の公的取締りの組織はすべて、警察の専横を招来し、かつ、各人を、いなもっとも重大な犯罪さえもみだりな逮捕拘禁から守る法律的保証の侵害を招来するものである。このような権利の侵害は、もっぱら婦人の不利益をもたらすものであるがゆえに、婦人と男子のあいだに不自然な不平等が生ずる結果となる。婦人はいやしめられてたんなる道具になりはて、もはや人格として扱われないことになる。婦人は、法の保護の外におかれる」。統制政策論の現代的課題は、ベーベルの批判を踏まえたうえで、売春法制の理論的基礎を提供することにあると思われる。