第09週(2015年06月09日・11日) 責任能力と責任阻却事由
刑法39条は、行為者が犯罪の構成要件に該当する違法な行為を、故意または過失によって行なっても、心神喪失の状態にあった場合には処罰しない、また心神耗弱にあった場合にはその刑を減軽することを定めています。犯罪の構成要件該当の違法行為が不処罰にされたり、その刑が減軽されるのは、行為者の責任能力が欠如・減退しているからです。
(1)責任能力の意義
1道義的責任と社会的責任
それでは、責任能力とは何でしょうか。それは、責任の本質に関わる問題です。
行為者が、故意にまたは過失によって違法な行為を行なった場合、その行為者を非難できるのは、なぜでしょうか。それは、行為者が自らの知的・身体的な能力に基づいて、適法な行為を選択できたにもかかわらず、違法行為を選択する意思を決定したからです。このように責任とは、行為者が違法行為を選択したことに対する非難であると解することができます。このような立場を「道義的責任論」といいます。責任は、行為者が違法・適法の意味を理解し、適法行為を選択することができる「意思の自由」を備えている場合に、その意思に基づいて違法行為を選択したこと、自らの責任において違法行為を行なう意思決定をしたことに対する非難です。
このように自らの責任において行為を選択し、実行する能力(有責行為能力)を「責任能力」といいます。行為者に意思の自由があるということは、行為を行うか否かは自ら決定することができるのであって、何か・誰かの決定を受けて行為を行うのではありません。それゆえ、刑罰は、自由な意思に基づいて違法行為を行なったことに対する「回顧的な刑罰」であり、行なわれた行為に対応する「応報刑」であると理解されます。
これに対して、人間は自由な意思に基づいて行為を決定しているのではなく、生まれながらの素質(疾病などを含む)と外的な環境(人間関係・家庭環境など)によって決定されて、行動へと向かうと考えることもできます。行為者は自分の意思によって違法行為を選択・実行しているのであるが、その選択は素質と環境によって決定されているということです。道義的責任論のように、違法行為の背景に行為者の自由な意思があるというならば、違法行為を選択した人を非難することができますが、行為者には意思の自由はなく、違法行為へと駆り立てる要因があるために行為者は違法行為を行なうというならば、その人を非難しても、あまり意味のあることではありません。その要因を取り除くことこそが、社会や法の課題だということになるでしょう。重要なことは、行為者が再び違法行為を繰り返さないようにするには、どうすればよいかということだけです。
社会は、違法行為を行なった者が再犯しないことを求めています。違法行為を行なった者は、自由意思があろうがなかろうが、その社会の要求に応える「責任」があるというならば、責任とは、再犯の予防という社会的要請に応える責任と理解されることになります。このような立場を「社会的責任論」といいます。この立場からは、「責任能力」とは意思の自由に基づく有責行為能力ではなく、再犯予防のために刑罰が科される行為者の法的地位と解されることになります。従って、刑罰を科しても再犯の予防効果があがらない行為者には「責任能力」がないことになります。その意味において、責任能力とは、刑罰の再犯予防効果が発揮されるのに相応しい能力(刑罰適応能力)となります。行為者には道義的責任論が主張するような意思の自由はなく、違法行為は素質と環境によって決定されます。従って、刑法の課題は、そのような素質と環境によって違法行為が決定される危険性のある行為者からその要因を除去し、将来の違法行為を予防することです。それゆえ、刑罰は危険な行為者から危険性を取り除く「展望的な刑罰」であり、違法行為を行わないようにするための「予防刑・目的刑」です。
社会的責任論の主張は興味深いところもあります。しかし、人間の意思決定と行動は、外的な要因によって決定されている部分もありながらも、それでも違法行為を行うか否かの最終的決断は、その個人に残された意思の自由に基づいていると考えられます。その限りにおいて、責任の本質は非難可能性であり、責任能力は有責行為能力であると理解すべきでしょう。
2責任能力の体系的地位
責任能力は、犯罪体系論上、構成要件・違法が確定した後の「責任」に属します。従って、責任能力は、責任の要素であると解されます。責任の要素には、故意・過失または違法性の認識の可能性、適法行為の期待可能性がありますが、それらと責任能力とはどのような関係にあるのでしょうか。
責任能力は、故意・過失などの責任要素の「前提」であるのでしょうか。「前提」というのは、故意・過失そのものの一部ではなく、それとは異なる前提という意味です。それとも、故意・過失などの責任を構成する一つの「要素」なのでしょうか。「要素」というのは、故意・過失と同じように、有責性を判断する際の一要素という意味です。
後に見るように、責任能力は、個人の生物学的な側面(精神障害の有無や是非・善悪を区別・判断する知能の水準)に関連しているために、故意や過失(結果発生の予見や予見可能性)といった個別の行為の認識またはその可能性などの問題とは無関係に、責任能力の有無や程度を検討することができます。例えば、「この3才の子どもに刑事責任はあるか」と聞かれれば、「ない」と答えることができるでしょう。その子が、何かの行為を行なったかどうか、その認識があったかどうかという問題とはまったく無関係に答えることができるでしょう。その限りでいえば、責任能力は、責任の「前提」として位置付けることができます。
しかし、個別の行為についての故意・過失を問題にする前に、それとまったく無関係に責任能力の有無を検討することができると解すると、行為者が個別の行為を行なうまえに、責任能力の有無に基づく処遇内容を決定できるかのような誤解が生まれてきそうです。その処遇としては、例えば精神病院への措置入院などがあります。このような処遇内容は、構成要件に該当する違法な行為を故意または過失に基づいて行なった行為者に対して決定されるのですから、責任能力は責任の「前提」ではなく、その「要素」であると位置づけるのが妥当でしょう。
刑法39条は、38条の故意・過失(1項)、事実の錯誤(2項)や違法性の錯誤(3項)に関する規定を踏まえたうえで、心神喪失・心神耗弱について定めています。従って、責任能力は、故意・過失、事実の錯誤、違法性の錯誤を理論的に検討し、故意責任・過失責任があることが推定されたあとで、それを阻却する事由として位置付けられています。従って、責任能力は、「責任能力があるから、故意責任・過失責任が成立する」という文脈で理解するのではなく、「責任能力がないから、故意責任・過失責任が阻却される」という文脈で理解すべきです。
(2)責任能力の内容
行為者が構成要件に該当する違法な行為を故意・過失によって行なっても、責任能力がなければ責任または責任が阻却され、処罰されません(39条1項:心神喪失)。また、責任能力が限定されている場合には、責任が減少するので、その刑が減軽されます(39条2項:心神耗弱)。
1心神喪失と心神耗弱
心神喪失とは、精神の障害により、行為の是非を弁識する能力がないか(弁識能力の欠如)、または弁識する能力があっても、その弁識に従って行動する能力のない(制御能力の欠如)状態をいいます。心神耗弱とは、弁識能力や制御能力が著しく減退している状態をいいます(弁識能力または制御能力の減退)。
心神喪失は責任無能力、心神耗弱は限定責任能力とも呼ばれている。この定義を踏まえると、責任能力とは、行為の是非・善悪、違法・適法を弁識し、それに従って行動を制御する能力を意味します。それが欠如・減退しているならば、行為者に犯罪事実の認識(故意)やその可能性(過失)があっても、それを行ない意思を決定したことを非難することができないので、責任が阻却され、また軽くしか非難できないので、責任が減少します。
このように責任能力は、「精神の障害」という生物学的要素と「弁識能力・制御能力」という心理学的要素の2つの要素から成り立っています(混合的方法)。
2生物学的要素としての「精神の障害」
「精神の障害」とは、精神保健福祉法に定められています。その定義によると、精神病、知的障害および精神病質とされています。
精神病には、内因性のもの(統合失調症、そううつ病など)と外因性のもの(アルコール中毒、麻薬中毒など)に分けられます。ただし、それらの全てが無条件で弁識能力・制御能力の欠如をもたらすわけではありません。
そのなかでも弁識能力や制御能力の有無が争われるのは、幻覚や妄想を伴う「統合失調症」です。同様の症状は「酩酊」によっても生ずることがありますが、自分で招いた結果であるため、裁判では心神喪失にあたるとは認められず、心神耗弱にとどまることが多いと言われています。覚せい剤中毒の場合も同じです。
知的障害とは、先天的・後天的な知能の発達の遅れであり、責任能力の程度に影響を与え、心神耗弱と認められる場合が多いといわれています。
精神病質は、著しい性格のかたより(異常性格)と解されています。それを精神病や知的障害と同じように扱うべきかについては議論があり、責任能力が完全に肯定される傾向が強いと言われています。
3心理学的要素としての弁識能力・制御能力
弁識能力とは、行為の是非・善悪を識別する知的作用に関する能力です。制御能力とは、その弁識に従って行動を統制する身体的作用に関する能力です。精神の障害があるために、これらの能力が欠如すれば心神喪失であり、それが著しく減退すれば心神耗弱です。
(3)責任能力の判断方法
責任能力の有無とその程度の判断は、裁判においては専門家による精神鑑定に委ねられます。ただし、医学・心理学の専門家の鑑定であっても、裁判官はそれを踏まえなければならないわけではなく、また専門家のあいだでも鑑定結果が分かれることもあるので、裁判では、鑑定意見を参考にしながら、裁判官が法的な立場から責任能力の有無を判断します。
1法的概念としての責任能力
判例では、一般に精神の障害があるからといって、直ちに心神喪失とは判断されません。精神の障害は、医学・生物学などの自然科学的な立場から、その有無と程度を考察することができる概念ですが、「責任能力」は、そのような自然科学的な概念とは相対的に異なる法律な制度です。そのために、精神障害があっても、それによって責任能力の欠如が推定されるわけではないと考えられています。従って、刑事裁判において責任能力が争点となる場合、精神鑑定の結果によって責任能力の有無が決定されるのではなく、裁判官が精神鑑定の結果を踏まえて、責任能力の有無と程度を判断することになります。裁判官の判断は、精神鑑定に拘束されないと言われています(最判昭和59・7・3刑集38巻・8号2783頁)。
2科学鑑定と裁判官判断の関係
責任能力の有無と程度は、判例によれば、病歴、犯行当時の病状、犯行前の生活態度、犯行の動機・態様、犯行後の動向、犯行以後の病状などを総合的に考察することによって行われます(最判昭53・3・24刑集32巻2号408頁)。その意味では、自然科学的な考察の歯範囲を超えています。従って、このような責任能力に関する精神鑑定の結果は、一律的に出されてくるものではなく、また専門家によって異なる場合もあるのは自然なことでしょう。そのために、責任能力の判断は、最終的に裁判官の法律的判断に委ねられることになるのも理解できます(最判昭58・9・13判時1100号156頁)。しかし、専門家の鑑定がいずれも共通して一定の方向を示している(責任能力があることをを疑わせる方向)場合、その鑑定結果と責任能力の法律的判断との間には「推定関係」があると解すべきでしょう。「法則的関係」のような実証的な裏づけがなくても、専門家に精神鑑定を委ねる制度の趣旨から考えても、推定関係を認めるべきです。
3刑罰以外の犯罪の抑止力
精神障害を持つ被告人の責任能力の有無を判断するというのは、その人の生活や将来の人生に直接的な影響を与えます。周囲の人々がその人を支え、生活支援するという条件が整っていれば、あえて刑事責任を問わなくてもよい場合もあります。しかし、そのような条件がない場合、再犯の危険性などを理由に実刑が言い渡される可能性も少なくありません。責任能力が裁判官の法律的判断であるとしても、そこにおいて犯罪予防の観点を過度に持ち込むのは問題があるといえるでしょう。
(4)刑事未成年
1刑事未成年
刑法41条は、14歳未満の者の行為は罰しないと規定している。これを刑事未成年といい、年齢によって一律的に規定されています。そこでは、自然年齢が絶対的な規準となっており、個々の未成年者の弁識能力や制御能力の有無は一切考慮されません。従って、14歳以上の者が犯罪にあたる行為を行なった場合、個別的に責任能力の有無を判断して、処罰されるかどうかが決まってきます。
2少年法の理念
しかし、14歳以上20歳未満の者には少年法が適用されるので、責任能力がある場合でも、成人の行為者と同じようには扱われません。少年の犯罪は、家庭裁判所が審理し、収容する場所も少年院という特別の施設になります。これは、少年法の教育的理念によるものです。さらに、14歳未満の者に対しても、少年法や児童福祉法による一定の対応がなされる場合があります。少年法では「触法少年」に対する保護観察が行われ、児童福祉法では14歳未満の者が入所する児童自立支援施設が設けられています。
3少年犯罪対策と刑罰
少年法は、少年が罪を犯しても、それは未熟さゆえの行為であって、処罰するのではなく、その立ち直りの支援を教育的に行うことによって、再犯を防止することを理念としています。従って、刑罰による矯正・改善といった成人に対する対応とは質的に異なります。とはいえ「少年犯罪が激増している」、「悪質化している」などといった世論が高まるなかで、少年法の理念が軽視され、厳罰化を求める風潮が強まっています。かりに少年の犯罪が増加・悪化しているとしても、それを理由に教育的な支援を弱めることを正当化することはできません。むしろ、それを強化することこそが、少年犯罪の問題を解決する道であると思われます。
(5)原因において自由な行為
責任能力は、行為の是非・善悪、適法・違法を弁識し、それに従って行動を制御する能力であり、故意・過失とならぶ責任の要素です。従って、責任主義の原則からは、責任能力の有無は、行為者が故意または過失によって個別の行為を行う際に備わっていなければなりません。行為者が故意・過失によって一定の法益侵害結果を発生させたことにつき、その非難が問題になる時点において、責任能力は、行為者に備わっていなければなりません。これを「実行行為と責任能力の同時存在の原則」といいます。それは、責任主義からの重要な要請です。
飲酒や薬物の使用によって、自らを責任無能力または限定責任能力の状態におとしいれ、その状態で傷害や殺人などにあたる行為を行なった場合、どのように扱われるのでしょうか。例えば、過去に飲酒した際に暴力的になり、隣人に暴行を加えた経歴のある者が、「今回もまた暴れるかもしれないが、そうなっても仕方がない」と思いながら、同じ様に飲酒して責任無能力状態になり、他人に傷害を負わせたような場合です。暴行や傷害にあたる行為(「結果行為」といいます)が行われた時点で責任能力はありませんでした(意思の自由はない)。しかし、責任能力を欠如させた過度の飲酒(「原因行為」といいます)をしたときには、責任能力はありました(意思の自由はあった)。
このような行為(結果行為)に対して、「実行行為と責任能力の同時存在の原則」を機械的に適用すると、行為者は無罪になってしまいます。行為者が原因行為によって責任無能力状態をあえて作り出し、それに起因する結果行為から傷害が生じているにもかかわらず責任が阻却されるというのは、納得がいきません。このような問題を解決するのが「原因において自由な行為」の理論です。原因行為の時点において、責任能力(意思の自由)はあったので、「原因において自由な行為」(actio libera in causa)と呼ばれます。
1事案の類型
・過失犯と故意犯の事例
被告人Aは、飲食店で食事中に女性店員Bにからかわれたため、Bを殴打したところ、居合わせた客Cから制止されたため、憤慨し、とっさに傍らにあった包丁でCを刺殺しました。この事案では被告人の行為が「過失致死罪」にあたるかどうかが問われました(殺人罪ではありません)。
原審は、被告人が「回帰性精神病の症状」を有し、犯行当時(結果行為時)に甚だしく飲酒していたために、「病的酩酊状態」に陥り、「心神喪失」にあったとして、過失致死罪は成立しないと判断しました。結果行為時に責任能力が欠如していたので、「同時存在の原則」によって、無罪を言い渡したということです。
これに対して、検察官が上告しました。最高裁では、被告人に過失致死罪の成立が認められました。原審は、結果行為時に心神喪失であった以上、行為と責任の同時存在の原則を踏まえると、結果行為を行なったことを非難できないと判断しましたが、最高裁はそれをくつがえしたわけです。それは、どのような理由によるのでしょうか。被告人のように、多量に飲酒すれば病的酩酊状態に陥り、心神喪失状態において他人に危害を及ぼすおそれのある素質を有する者であれば、飲酒を抑制・制限して、危険の発生を未然に防止すべき注意義務があります。被告人は自己の素質を自覚しており、飲酒について注意すべき義務を怠って(過失によって)結果行為を行ないました。従って、原因行為の時点において責任能力が備わっており、その時点において結果行為を惹起することが予見可能であったので、原因行為時の責任能力とその時点の過失を結果行為に対応させて、過失致死罪の成立を認めました(最判昭和26・1・17刑集5巻1号20頁)。
また、複雑酩酊下において住居侵入や強盗未遂などを行なった前科のある被告人が、飲酒し酩酊状態に陥り、凶器を携帯して、強盗目的でタクシーに乗り、運転手に暴行・脅迫を加えたが、金品の強取にはいたりませんでした。この行為が強盗未遂に問われました。大阪地裁は、結果行為時に「心神喪失」にあったことを認め、また結果行為時には強盗の故意はなかったとして、強盗未遂の成立を否定しました。結果行為時に責任能力が欠如していたので、「同時存在の原則」によって、強盗未遂罪の成立を否定し、無罪を言い渡しました。また、かりに責任能力があったとしても、強盗の故意がないので、強盗未遂にはあたらないと判断しました。
これに対して、最高裁は、被告人は原因行為である飲酒の際に、強盗の認識はなかったが、他人に暴行脅迫を加えるかもしれないことを認識・予見しながら飲酒を続けたのであるから、「暴力行為等処罰法」にいう「示凶器暴行脅迫罪」の故意を認め、示凶器暴行脅迫罪の成立を認めました。この判断の特徴は、まず結果行為時には心神喪失にあったと認め、その際の強盗の故意を否定していること、原因行為時に責任能力と示凶器暴行脅迫罪の故意を肯定していることです。そして、原因行為時の責任能力と示凶器暴行脅迫罪の故意を結果行為に対応させているのが特徴です。
また、この事案は抽象的事実の錯誤の問題でもあります。つまり、主観的には示凶器暴行脅迫罪罪の故意に基づいて、客観的には強盗未遂罪を行なった抽象的事実の錯誤の事案です。通説・判例の法定的符合説からは、両罪の構成要件が重なる示凶器暴行脅迫罪罪について故意が成立します。
以上は、いずれも原因行為時には責任能力と犯罪の故意または過失があり、結果行為時にはそれが「喪失」している場合に「原因において自由な行為の理論」を適用して、処罰を可能にした事案です。
・限定責任能力に陥った事例
では、次のような事案はどのように理解すればよいのでしょうか。飲酒後に心神耗弱状態に陥り、他人の自動車を運転した酒酔い運転の事案です。この事案に関して、地裁は、酒酔い運転を行なった時点において、行為者は心神耗弱であったことを理由に、刑の減軽を認めました。これに対して、控訴審では、酒酔い運転時に飲酒により心神耗弱の状態にあったとしても、飲酒を開始する時点において、自動車運転の意思があった場合には心神耗弱を理由に刑を減軽することはできないと判断し、上告審でもこの判断が維持されました(最決昭和43・2・27刑集22巻2号67頁)。
地裁の判断の特徴は、実行行為と責任能力の同時存在の原則から考えると、この事案では酒酔い運転の実行行為と責任能力(限定責任能力・心神耗弱)は同時存在しているので、39条2項を適用して刑の減軽を認めましたが。しかし、このような心神耗弱状態での酒酔い運転に「原因において自由な行為の理論」を適用しないならば、軽い酒酔い運転は常に刑が減軽され、重くなると「原因において自由な行為の理論」の適用を受けて、重い刑が言い渡されることになります。
「原因において自由な行為の理論」は、結果行為時に責任能力が「喪失」している場合にしか適用できないというのであれば、地裁の判断でもやむを得ないのですが、この事案では、そのような理解は斥けられ、結果行為時に心神耗弱・限定責任能力であり、「同時存在の原則」を満たしうる状態にあっても、「原因において自由な行為の理論」を適用したところに特徴があります。
・実行行為開始後に途中から責任能力が減退した事例
被告人が、飲酒を続けた過程において、被害者に殴打し、その後も飲酒を続け、数度にわたって被害者の頭部や背部を殴打し、踏みつけるなどの暴行を加え、よって死亡させました。この傷害致死の事案では、被告人は当初は単純酩酊(責任能力は完全にある)であったが、その後、致死にいたる本格的な行為を行なった段階で複雑酩酊に陥り、心神耗弱の状態になったと認定されましたが、刑を減軽すべきではないと判断されています(長崎地判平成4・1・14判時1415号142頁)。
この事案もまた、「原因において自由な行為の理論」を適用したものです。飲酒という原因行為のときには、責任能力と暴行の故意があり、結果行為のときには、責任能力が減退していましたが、責任能力を認め、刑の減軽を否定しています。
2学説
実行行為と責任能力の同時存在の原則をそのまま適用すると、結果行為時に責任能力に問題があった場合には、無罪または刑を減軽することになります。しかし、、原因行為によって責任無能力または限定責任能力の状態を作り出し、原因行為の時点において結果行為を行う故意や過失がある場合にまで、無罪や刑の減軽をみとめるべきではないでしょう。
しかしながら、妥当な判断を導くためには、同時存在の原則を維持することはできません。妥当な結論を導くために、同時存在の原則をめぐって厳しい対立があります。
・同時存在の原則を維持する立場――間接正犯類似の構成(構成要件モデル)
この理論は、実行行為と責任能力の同時存在の原則の「実行行為」を原因行為と解することによって、同時存在の原則を維持します。
行為者は、飲酒などの原因行為を行なう時点において責任能力と傷害などの故意・過失がありますそして、飲酒によって心神喪失・心神耗弱の状態になり、自己を道具のように利用して傷害などを実行します。このように間接正犯の理論を準用して、「原因において自由な行為」の処罰の可能性を導き出すことができると主張しています(厳密に言えば、間接正犯の理論では結果行為を行なう者(自己)が責任無能力の状態になっていることを前提としているので、「原因において自由な行為」は間接正犯「類似」の構成と呼ばれています)。
間接正犯類似の構成によって、責任主義の要請である同時存在の原則を堅持することができます。しかし、この理論では、飲酒などの原因行為を犯罪の実行行為の一部と捉えざるをえなくなるため、実行行為や構成要件の概念を抽象化させてしまうという問題があります。飲酒が暴行や殺人の実行行為の一部というのは、法益侵害の危険があまりにも希薄すぎます。従って、原因行為は、せいぜい予備行為でしかないと思われます。また、飲酒時に責任能力と傷害などの故意があったが、飲酒の影響のために寝てしまった場合でも、原因行為(実行行為)を開始している以上、傷害や殺人の実行に着手していることになります。原因行為時に殺人の故意があった場合には、殺人未遂が成立してしまうことになります。
・同時存在の原則を緩和する立場(例外モデル)
この立場は、同時存在の原則を修正して、責任能力が結果行為の時点において欠如・減退していていても、その状態を作り出した原因行為の時点において責任能力と犯罪の故意・過失があれば、それで足りると解します。そして、実行行為はあくまでも犯罪結果を直接発生させた結果行為であると解し、結果行為の開始をもって実行の着手と解します。このように理解することによって、飲酒後の就寝を殺人未遂で処罰するという不都合を回避することができます。結果行為の時点において責任能力がなくても、その状態を作り出した原因行為の時点において責任能力が備わっていれば、結果行為を行なったことについて非難できるのである。
「原因において自由な行為」は、傷害や殺人を実現する1個の意思(故意・過失)を実現するプロセスとして捉え、責任能力と意思はそのプロセスが開始されるとき、すなわち原因行為時に備わっていればよいと理解することができます。
・「原因行為と結果行為の因果連関」と「原因行為時の故意・過失による結果行為の制御」
「原因において自由な行為」をめぐる論争は複雑ですが、この問題を考える基本的な要点は、2つにしぼられると思います。
第1は、「原因行為と結果行為の因果連関」の問題です。事案では、原因行為と結果行為に、原因と結果という客観的な関係があり、それらが客観的に連続的に行なわれていると認定されています。しかし、一般には飲酒・薬物使用などの原因行為と酒酔い運転や殺人などの結果行為との客観的な因果連関、原因行為から結果行為への連続的展開は、自動的には進行しないように思われます。飲酒をすれば、犯罪を行うという客観的な因果連関は、過去の経験や習癖などにもとづいて認定されていますが、慎重に判断しなければならないと思います。例えば、飲酒と酒酔い運転の場合は、一定の時間的・場所的な接着性の範囲内において「連続性」を認めることができますが、飲酒と暴行などは、その行為者の習癖などに基づいて慎重に判断すべきでしょう。
第2に、「原因行為時の故意・過失による結果行為のコントロール」の問題である。すなわち、原因行為時の行為者の故意・過失によって、それを内容とする結果行為がコントロールされているかどうかという主観的な関係です。裁判では、原因行為時の「故意」によって結果行為が統制されたことを肯定した事案は多くはありません。飲酒している時に、「殺してやろう」とか、「痛めつけてやろう」と思っていても、その故意を実現する行為として結果行為が行なわれているとは認定されていません。むしろ、問題の多くは、原因行為時において結果行為を行なうことの予見可能性があったかどうか(つまり結果行為についての過失の有無))です。
一般に過失犯の構成要件は、故意犯の構成要件に比べて、幅広く認定される傾向があります。例えば、母親が赤ちゃんと添い寝をして、覆いかぶさって窒息死させたとします。この場合の過失致死罪の構成要件該当行為は「添い寝をする」ことから開始されていますが、赤ちゃんの口と鼻を押さえつけて窒息死させた場合の故意の殺人罪の構成要件的行為は「口と鼻を押さえる」ことから開始される言わなければなりません。故意犯の場合に比べて、過失犯の構成要件の行為が類型的に幅広いと理解されています。さらに、過失を構成要件要素として位置付けると、注意義務違反が認められ、過失が認定されれば、それによって原因行為について構成要件該当性が認められます。そうすると、「原因において自由な行為」の理論を用いなくても、過失犯の場合では、構成要件該当行為が幅広く認定されるので、原因時に予見可能性・過失があれば、それによって過失行為の開始を認定できます。実際にも、飲酒運転などで自動車事故を引き起こしても、「原因において自由な行為」の理論は適用されていません。
(6)適法行為の期待可能性
責任能力がないことは、責任阻却事由の一つですが、さらに適法行為の期待可能性がなかったために責任が超法規的に阻却される場合があります。犯罪構成要件に該当する違法な行為を故意・過失によって行い、その時点において責任能力も備わっていましたが、違法行為以外の適法行為を行うことが不可能であったという場合は、超法規的に責任が阻却されます。
例えば、「カルネアディスの板」の事例を「二分説」に基づいて理解する場合に「適法行為の期待可能性の不存在」を理由にして超法規的に責任を阻却することが主張されています。漂流中のAは板を引き寄せるときに、Bの手を振り払った。そのためBは溺死した。Aには、殺人罪の構成要件に該当する違法(が減少するだけの)行為について、故意がありますが、それ以外の適法な行為を期待することができなかった以上、Aの殺人の意思を非難することはできないので、条文には根拠はありませんが、責任は阻却されます。
ただし、「適法行為を行うことを期待できなかった」かどうかは、何を基準に考えればよいのでしょうか。行為者自身の能力を標準にすると、他の人であれば可能であったのに、免責されてしまうのは問題があります(個人標準説)。逆に、一般人の能力を基準にすると、それより劣った能力しかない行為者に、一般人の能力を求めるのは、不可能を強いてしまうことになり、これも問題です(一般人標準説)。
法は、我々に一定の行為を禁止・命令します。それは、その禁止・命令に従った行動が可能であるので、それを期待できるからです。そのような行動が不可能な状況の場合、禁止・命令に同じような拘束力はありません。もはや状況が、法(国家)が適法行為を行なうことを要請する前提条件とは異なる場合には、それに反する意思決定をしても、責任は阻却されるべきです。従って、適法行為の期待可能性の有無は、法と国家の見地を基準とすべきでしょう(国家標準説)。ただし、自己犠牲を強いる現実の国家ではなく、人間の弱さを熟知している理念としての法治国家です。
刑法39条は、行為者が犯罪の構成要件に該当する違法な行為を、故意または過失によって行なっても、心神喪失の状態にあった場合には処罰しない、また心神耗弱にあった場合にはその刑を減軽することを定めています。犯罪の構成要件該当の違法行為が不処罰にされたり、その刑が減軽されるのは、行為者の責任能力が欠如・減退しているからです。
(1)責任能力の意義
1道義的責任と社会的責任
それでは、責任能力とは何でしょうか。それは、責任の本質に関わる問題です。
行為者が、故意にまたは過失によって違法な行為を行なった場合、その行為者を非難できるのは、なぜでしょうか。それは、行為者が自らの知的・身体的な能力に基づいて、適法な行為を選択できたにもかかわらず、違法行為を選択する意思を決定したからです。このように責任とは、行為者が違法行為を選択したことに対する非難であると解することができます。このような立場を「道義的責任論」といいます。責任は、行為者が違法・適法の意味を理解し、適法行為を選択することができる「意思の自由」を備えている場合に、その意思に基づいて違法行為を選択したこと、自らの責任において違法行為を行なう意思決定をしたことに対する非難です。
このように自らの責任において行為を選択し、実行する能力(有責行為能力)を「責任能力」といいます。行為者に意思の自由があるということは、行為を行うか否かは自ら決定することができるのであって、何か・誰かの決定を受けて行為を行うのではありません。それゆえ、刑罰は、自由な意思に基づいて違法行為を行なったことに対する「回顧的な刑罰」であり、行なわれた行為に対応する「応報刑」であると理解されます。
これに対して、人間は自由な意思に基づいて行為を決定しているのではなく、生まれながらの素質(疾病などを含む)と外的な環境(人間関係・家庭環境など)によって決定されて、行動へと向かうと考えることもできます。行為者は自分の意思によって違法行為を選択・実行しているのであるが、その選択は素質と環境によって決定されているということです。道義的責任論のように、違法行為の背景に行為者の自由な意思があるというならば、違法行為を選択した人を非難することができますが、行為者には意思の自由はなく、違法行為へと駆り立てる要因があるために行為者は違法行為を行なうというならば、その人を非難しても、あまり意味のあることではありません。その要因を取り除くことこそが、社会や法の課題だということになるでしょう。重要なことは、行為者が再び違法行為を繰り返さないようにするには、どうすればよいかということだけです。
社会は、違法行為を行なった者が再犯しないことを求めています。違法行為を行なった者は、自由意思があろうがなかろうが、その社会の要求に応える「責任」があるというならば、責任とは、再犯の予防という社会的要請に応える責任と理解されることになります。このような立場を「社会的責任論」といいます。この立場からは、「責任能力」とは意思の自由に基づく有責行為能力ではなく、再犯予防のために刑罰が科される行為者の法的地位と解されることになります。従って、刑罰を科しても再犯の予防効果があがらない行為者には「責任能力」がないことになります。その意味において、責任能力とは、刑罰の再犯予防効果が発揮されるのに相応しい能力(刑罰適応能力)となります。行為者には道義的責任論が主張するような意思の自由はなく、違法行為は素質と環境によって決定されます。従って、刑法の課題は、そのような素質と環境によって違法行為が決定される危険性のある行為者からその要因を除去し、将来の違法行為を予防することです。それゆえ、刑罰は危険な行為者から危険性を取り除く「展望的な刑罰」であり、違法行為を行わないようにするための「予防刑・目的刑」です。
社会的責任論の主張は興味深いところもあります。しかし、人間の意思決定と行動は、外的な要因によって決定されている部分もありながらも、それでも違法行為を行うか否かの最終的決断は、その個人に残された意思の自由に基づいていると考えられます。その限りにおいて、責任の本質は非難可能性であり、責任能力は有責行為能力であると理解すべきでしょう。
2責任能力の体系的地位
責任能力は、犯罪体系論上、構成要件・違法が確定した後の「責任」に属します。従って、責任能力は、責任の要素であると解されます。責任の要素には、故意・過失または違法性の認識の可能性、適法行為の期待可能性がありますが、それらと責任能力とはどのような関係にあるのでしょうか。
責任能力は、故意・過失などの責任要素の「前提」であるのでしょうか。「前提」というのは、故意・過失そのものの一部ではなく、それとは異なる前提という意味です。それとも、故意・過失などの責任を構成する一つの「要素」なのでしょうか。「要素」というのは、故意・過失と同じように、有責性を判断する際の一要素という意味です。
後に見るように、責任能力は、個人の生物学的な側面(精神障害の有無や是非・善悪を区別・判断する知能の水準)に関連しているために、故意や過失(結果発生の予見や予見可能性)といった個別の行為の認識またはその可能性などの問題とは無関係に、責任能力の有無や程度を検討することができます。例えば、「この3才の子どもに刑事責任はあるか」と聞かれれば、「ない」と答えることができるでしょう。その子が、何かの行為を行なったかどうか、その認識があったかどうかという問題とはまったく無関係に答えることができるでしょう。その限りでいえば、責任能力は、責任の「前提」として位置付けることができます。
しかし、個別の行為についての故意・過失を問題にする前に、それとまったく無関係に責任能力の有無を検討することができると解すると、行為者が個別の行為を行なうまえに、責任能力の有無に基づく処遇内容を決定できるかのような誤解が生まれてきそうです。その処遇としては、例えば精神病院への措置入院などがあります。このような処遇内容は、構成要件に該当する違法な行為を故意または過失に基づいて行なった行為者に対して決定されるのですから、責任能力は責任の「前提」ではなく、その「要素」であると位置づけるのが妥当でしょう。
刑法39条は、38条の故意・過失(1項)、事実の錯誤(2項)や違法性の錯誤(3項)に関する規定を踏まえたうえで、心神喪失・心神耗弱について定めています。従って、責任能力は、故意・過失、事実の錯誤、違法性の錯誤を理論的に検討し、故意責任・過失責任があることが推定されたあとで、それを阻却する事由として位置付けられています。従って、責任能力は、「責任能力があるから、故意責任・過失責任が成立する」という文脈で理解するのではなく、「責任能力がないから、故意責任・過失責任が阻却される」という文脈で理解すべきです。
(2)責任能力の内容
行為者が構成要件に該当する違法な行為を故意・過失によって行なっても、責任能力がなければ責任または責任が阻却され、処罰されません(39条1項:心神喪失)。また、責任能力が限定されている場合には、責任が減少するので、その刑が減軽されます(39条2項:心神耗弱)。
1心神喪失と心神耗弱
心神喪失とは、精神の障害により、行為の是非を弁識する能力がないか(弁識能力の欠如)、または弁識する能力があっても、その弁識に従って行動する能力のない(制御能力の欠如)状態をいいます。心神耗弱とは、弁識能力や制御能力が著しく減退している状態をいいます(弁識能力または制御能力の減退)。
心神喪失は責任無能力、心神耗弱は限定責任能力とも呼ばれている。この定義を踏まえると、責任能力とは、行為の是非・善悪、違法・適法を弁識し、それに従って行動を制御する能力を意味します。それが欠如・減退しているならば、行為者に犯罪事実の認識(故意)やその可能性(過失)があっても、それを行ない意思を決定したことを非難することができないので、責任が阻却され、また軽くしか非難できないので、責任が減少します。
このように責任能力は、「精神の障害」という生物学的要素と「弁識能力・制御能力」という心理学的要素の2つの要素から成り立っています(混合的方法)。
2生物学的要素としての「精神の障害」
「精神の障害」とは、精神保健福祉法に定められています。その定義によると、精神病、知的障害および精神病質とされています。
精神病には、内因性のもの(統合失調症、そううつ病など)と外因性のもの(アルコール中毒、麻薬中毒など)に分けられます。ただし、それらの全てが無条件で弁識能力・制御能力の欠如をもたらすわけではありません。
そのなかでも弁識能力や制御能力の有無が争われるのは、幻覚や妄想を伴う「統合失調症」です。同様の症状は「酩酊」によっても生ずることがありますが、自分で招いた結果であるため、裁判では心神喪失にあたるとは認められず、心神耗弱にとどまることが多いと言われています。覚せい剤中毒の場合も同じです。
知的障害とは、先天的・後天的な知能の発達の遅れであり、責任能力の程度に影響を与え、心神耗弱と認められる場合が多いといわれています。
精神病質は、著しい性格のかたより(異常性格)と解されています。それを精神病や知的障害と同じように扱うべきかについては議論があり、責任能力が完全に肯定される傾向が強いと言われています。
3心理学的要素としての弁識能力・制御能力
弁識能力とは、行為の是非・善悪を識別する知的作用に関する能力です。制御能力とは、その弁識に従って行動を統制する身体的作用に関する能力です。精神の障害があるために、これらの能力が欠如すれば心神喪失であり、それが著しく減退すれば心神耗弱です。
(3)責任能力の判断方法
責任能力の有無とその程度の判断は、裁判においては専門家による精神鑑定に委ねられます。ただし、医学・心理学の専門家の鑑定であっても、裁判官はそれを踏まえなければならないわけではなく、また専門家のあいだでも鑑定結果が分かれることもあるので、裁判では、鑑定意見を参考にしながら、裁判官が法的な立場から責任能力の有無を判断します。
1法的概念としての責任能力
判例では、一般に精神の障害があるからといって、直ちに心神喪失とは判断されません。精神の障害は、医学・生物学などの自然科学的な立場から、その有無と程度を考察することができる概念ですが、「責任能力」は、そのような自然科学的な概念とは相対的に異なる法律な制度です。そのために、精神障害があっても、それによって責任能力の欠如が推定されるわけではないと考えられています。従って、刑事裁判において責任能力が争点となる場合、精神鑑定の結果によって責任能力の有無が決定されるのではなく、裁判官が精神鑑定の結果を踏まえて、責任能力の有無と程度を判断することになります。裁判官の判断は、精神鑑定に拘束されないと言われています(最判昭和59・7・3刑集38巻・8号2783頁)。
2科学鑑定と裁判官判断の関係
責任能力の有無と程度は、判例によれば、病歴、犯行当時の病状、犯行前の生活態度、犯行の動機・態様、犯行後の動向、犯行以後の病状などを総合的に考察することによって行われます(最判昭53・3・24刑集32巻2号408頁)。その意味では、自然科学的な考察の歯範囲を超えています。従って、このような責任能力に関する精神鑑定の結果は、一律的に出されてくるものではなく、また専門家によって異なる場合もあるのは自然なことでしょう。そのために、責任能力の判断は、最終的に裁判官の法律的判断に委ねられることになるのも理解できます(最判昭58・9・13判時1100号156頁)。しかし、専門家の鑑定がいずれも共通して一定の方向を示している(責任能力があることをを疑わせる方向)場合、その鑑定結果と責任能力の法律的判断との間には「推定関係」があると解すべきでしょう。「法則的関係」のような実証的な裏づけがなくても、専門家に精神鑑定を委ねる制度の趣旨から考えても、推定関係を認めるべきです。
3刑罰以外の犯罪の抑止力
精神障害を持つ被告人の責任能力の有無を判断するというのは、その人の生活や将来の人生に直接的な影響を与えます。周囲の人々がその人を支え、生活支援するという条件が整っていれば、あえて刑事責任を問わなくてもよい場合もあります。しかし、そのような条件がない場合、再犯の危険性などを理由に実刑が言い渡される可能性も少なくありません。責任能力が裁判官の法律的判断であるとしても、そこにおいて犯罪予防の観点を過度に持ち込むのは問題があるといえるでしょう。
(4)刑事未成年
1刑事未成年
刑法41条は、14歳未満の者の行為は罰しないと規定している。これを刑事未成年といい、年齢によって一律的に規定されています。そこでは、自然年齢が絶対的な規準となっており、個々の未成年者の弁識能力や制御能力の有無は一切考慮されません。従って、14歳以上の者が犯罪にあたる行為を行なった場合、個別的に責任能力の有無を判断して、処罰されるかどうかが決まってきます。
2少年法の理念
しかし、14歳以上20歳未満の者には少年法が適用されるので、責任能力がある場合でも、成人の行為者と同じようには扱われません。少年の犯罪は、家庭裁判所が審理し、収容する場所も少年院という特別の施設になります。これは、少年法の教育的理念によるものです。さらに、14歳未満の者に対しても、少年法や児童福祉法による一定の対応がなされる場合があります。少年法では「触法少年」に対する保護観察が行われ、児童福祉法では14歳未満の者が入所する児童自立支援施設が設けられています。
3少年犯罪対策と刑罰
少年法は、少年が罪を犯しても、それは未熟さゆえの行為であって、処罰するのではなく、その立ち直りの支援を教育的に行うことによって、再犯を防止することを理念としています。従って、刑罰による矯正・改善といった成人に対する対応とは質的に異なります。とはいえ「少年犯罪が激増している」、「悪質化している」などといった世論が高まるなかで、少年法の理念が軽視され、厳罰化を求める風潮が強まっています。かりに少年の犯罪が増加・悪化しているとしても、それを理由に教育的な支援を弱めることを正当化することはできません。むしろ、それを強化することこそが、少年犯罪の問題を解決する道であると思われます。
(5)原因において自由な行為
責任能力は、行為の是非・善悪、適法・違法を弁識し、それに従って行動を制御する能力であり、故意・過失とならぶ責任の要素です。従って、責任主義の原則からは、責任能力の有無は、行為者が故意または過失によって個別の行為を行う際に備わっていなければなりません。行為者が故意・過失によって一定の法益侵害結果を発生させたことにつき、その非難が問題になる時点において、責任能力は、行為者に備わっていなければなりません。これを「実行行為と責任能力の同時存在の原則」といいます。それは、責任主義からの重要な要請です。
飲酒や薬物の使用によって、自らを責任無能力または限定責任能力の状態におとしいれ、その状態で傷害や殺人などにあたる行為を行なった場合、どのように扱われるのでしょうか。例えば、過去に飲酒した際に暴力的になり、隣人に暴行を加えた経歴のある者が、「今回もまた暴れるかもしれないが、そうなっても仕方がない」と思いながら、同じ様に飲酒して責任無能力状態になり、他人に傷害を負わせたような場合です。暴行や傷害にあたる行為(「結果行為」といいます)が行われた時点で責任能力はありませんでした(意思の自由はない)。しかし、責任能力を欠如させた過度の飲酒(「原因行為」といいます)をしたときには、責任能力はありました(意思の自由はあった)。
このような行為(結果行為)に対して、「実行行為と責任能力の同時存在の原則」を機械的に適用すると、行為者は無罪になってしまいます。行為者が原因行為によって責任無能力状態をあえて作り出し、それに起因する結果行為から傷害が生じているにもかかわらず責任が阻却されるというのは、納得がいきません。このような問題を解決するのが「原因において自由な行為」の理論です。原因行為の時点において、責任能力(意思の自由)はあったので、「原因において自由な行為」(actio libera in causa)と呼ばれます。
1事案の類型
・過失犯と故意犯の事例
被告人Aは、飲食店で食事中に女性店員Bにからかわれたため、Bを殴打したところ、居合わせた客Cから制止されたため、憤慨し、とっさに傍らにあった包丁でCを刺殺しました。この事案では被告人の行為が「過失致死罪」にあたるかどうかが問われました(殺人罪ではありません)。
原審は、被告人が「回帰性精神病の症状」を有し、犯行当時(結果行為時)に甚だしく飲酒していたために、「病的酩酊状態」に陥り、「心神喪失」にあったとして、過失致死罪は成立しないと判断しました。結果行為時に責任能力が欠如していたので、「同時存在の原則」によって、無罪を言い渡したということです。
これに対して、検察官が上告しました。最高裁では、被告人に過失致死罪の成立が認められました。原審は、結果行為時に心神喪失であった以上、行為と責任の同時存在の原則を踏まえると、結果行為を行なったことを非難できないと判断しましたが、最高裁はそれをくつがえしたわけです。それは、どのような理由によるのでしょうか。被告人のように、多量に飲酒すれば病的酩酊状態に陥り、心神喪失状態において他人に危害を及ぼすおそれのある素質を有する者であれば、飲酒を抑制・制限して、危険の発生を未然に防止すべき注意義務があります。被告人は自己の素質を自覚しており、飲酒について注意すべき義務を怠って(過失によって)結果行為を行ないました。従って、原因行為の時点において責任能力が備わっており、その時点において結果行為を惹起することが予見可能であったので、原因行為時の責任能力とその時点の過失を結果行為に対応させて、過失致死罪の成立を認めました(最判昭和26・1・17刑集5巻1号20頁)。
また、複雑酩酊下において住居侵入や強盗未遂などを行なった前科のある被告人が、飲酒し酩酊状態に陥り、凶器を携帯して、強盗目的でタクシーに乗り、運転手に暴行・脅迫を加えたが、金品の強取にはいたりませんでした。この行為が強盗未遂に問われました。大阪地裁は、結果行為時に「心神喪失」にあったことを認め、また結果行為時には強盗の故意はなかったとして、強盗未遂の成立を否定しました。結果行為時に責任能力が欠如していたので、「同時存在の原則」によって、強盗未遂罪の成立を否定し、無罪を言い渡しました。また、かりに責任能力があったとしても、強盗の故意がないので、強盗未遂にはあたらないと判断しました。
これに対して、最高裁は、被告人は原因行為である飲酒の際に、強盗の認識はなかったが、他人に暴行脅迫を加えるかもしれないことを認識・予見しながら飲酒を続けたのであるから、「暴力行為等処罰法」にいう「示凶器暴行脅迫罪」の故意を認め、示凶器暴行脅迫罪の成立を認めました。この判断の特徴は、まず結果行為時には心神喪失にあったと認め、その際の強盗の故意を否定していること、原因行為時に責任能力と示凶器暴行脅迫罪の故意を肯定していることです。そして、原因行為時の責任能力と示凶器暴行脅迫罪の故意を結果行為に対応させているのが特徴です。
また、この事案は抽象的事実の錯誤の問題でもあります。つまり、主観的には示凶器暴行脅迫罪罪の故意に基づいて、客観的には強盗未遂罪を行なった抽象的事実の錯誤の事案です。通説・判例の法定的符合説からは、両罪の構成要件が重なる示凶器暴行脅迫罪罪について故意が成立します。
以上は、いずれも原因行為時には責任能力と犯罪の故意または過失があり、結果行為時にはそれが「喪失」している場合に「原因において自由な行為の理論」を適用して、処罰を可能にした事案です。
・限定責任能力に陥った事例
では、次のような事案はどのように理解すればよいのでしょうか。飲酒後に心神耗弱状態に陥り、他人の自動車を運転した酒酔い運転の事案です。この事案に関して、地裁は、酒酔い運転を行なった時点において、行為者は心神耗弱であったことを理由に、刑の減軽を認めました。これに対して、控訴審では、酒酔い運転時に飲酒により心神耗弱の状態にあったとしても、飲酒を開始する時点において、自動車運転の意思があった場合には心神耗弱を理由に刑を減軽することはできないと判断し、上告審でもこの判断が維持されました(最決昭和43・2・27刑集22巻2号67頁)。
地裁の判断の特徴は、実行行為と責任能力の同時存在の原則から考えると、この事案では酒酔い運転の実行行為と責任能力(限定責任能力・心神耗弱)は同時存在しているので、39条2項を適用して刑の減軽を認めましたが。しかし、このような心神耗弱状態での酒酔い運転に「原因において自由な行為の理論」を適用しないならば、軽い酒酔い運転は常に刑が減軽され、重くなると「原因において自由な行為の理論」の適用を受けて、重い刑が言い渡されることになります。
「原因において自由な行為の理論」は、結果行為時に責任能力が「喪失」している場合にしか適用できないというのであれば、地裁の判断でもやむを得ないのですが、この事案では、そのような理解は斥けられ、結果行為時に心神耗弱・限定責任能力であり、「同時存在の原則」を満たしうる状態にあっても、「原因において自由な行為の理論」を適用したところに特徴があります。
・実行行為開始後に途中から責任能力が減退した事例
被告人が、飲酒を続けた過程において、被害者に殴打し、その後も飲酒を続け、数度にわたって被害者の頭部や背部を殴打し、踏みつけるなどの暴行を加え、よって死亡させました。この傷害致死の事案では、被告人は当初は単純酩酊(責任能力は完全にある)であったが、その後、致死にいたる本格的な行為を行なった段階で複雑酩酊に陥り、心神耗弱の状態になったと認定されましたが、刑を減軽すべきではないと判断されています(長崎地判平成4・1・14判時1415号142頁)。
この事案もまた、「原因において自由な行為の理論」を適用したものです。飲酒という原因行為のときには、責任能力と暴行の故意があり、結果行為のときには、責任能力が減退していましたが、責任能力を認め、刑の減軽を否定しています。
2学説
実行行為と責任能力の同時存在の原則をそのまま適用すると、結果行為時に責任能力に問題があった場合には、無罪または刑を減軽することになります。しかし、、原因行為によって責任無能力または限定責任能力の状態を作り出し、原因行為の時点において結果行為を行う故意や過失がある場合にまで、無罪や刑の減軽をみとめるべきではないでしょう。
しかしながら、妥当な判断を導くためには、同時存在の原則を維持することはできません。妥当な結論を導くために、同時存在の原則をめぐって厳しい対立があります。
・同時存在の原則を維持する立場――間接正犯類似の構成(構成要件モデル)
この理論は、実行行為と責任能力の同時存在の原則の「実行行為」を原因行為と解することによって、同時存在の原則を維持します。
行為者は、飲酒などの原因行為を行なう時点において責任能力と傷害などの故意・過失がありますそして、飲酒によって心神喪失・心神耗弱の状態になり、自己を道具のように利用して傷害などを実行します。このように間接正犯の理論を準用して、「原因において自由な行為」の処罰の可能性を導き出すことができると主張しています(厳密に言えば、間接正犯の理論では結果行為を行なう者(自己)が責任無能力の状態になっていることを前提としているので、「原因において自由な行為」は間接正犯「類似」の構成と呼ばれています)。
間接正犯類似の構成によって、責任主義の要請である同時存在の原則を堅持することができます。しかし、この理論では、飲酒などの原因行為を犯罪の実行行為の一部と捉えざるをえなくなるため、実行行為や構成要件の概念を抽象化させてしまうという問題があります。飲酒が暴行や殺人の実行行為の一部というのは、法益侵害の危険があまりにも希薄すぎます。従って、原因行為は、せいぜい予備行為でしかないと思われます。また、飲酒時に責任能力と傷害などの故意があったが、飲酒の影響のために寝てしまった場合でも、原因行為(実行行為)を開始している以上、傷害や殺人の実行に着手していることになります。原因行為時に殺人の故意があった場合には、殺人未遂が成立してしまうことになります。
・同時存在の原則を緩和する立場(例外モデル)
この立場は、同時存在の原則を修正して、責任能力が結果行為の時点において欠如・減退していていても、その状態を作り出した原因行為の時点において責任能力と犯罪の故意・過失があれば、それで足りると解します。そして、実行行為はあくまでも犯罪結果を直接発生させた結果行為であると解し、結果行為の開始をもって実行の着手と解します。このように理解することによって、飲酒後の就寝を殺人未遂で処罰するという不都合を回避することができます。結果行為の時点において責任能力がなくても、その状態を作り出した原因行為の時点において責任能力が備わっていれば、結果行為を行なったことについて非難できるのである。
「原因において自由な行為」は、傷害や殺人を実現する1個の意思(故意・過失)を実現するプロセスとして捉え、責任能力と意思はそのプロセスが開始されるとき、すなわち原因行為時に備わっていればよいと理解することができます。
・「原因行為と結果行為の因果連関」と「原因行為時の故意・過失による結果行為の制御」
「原因において自由な行為」をめぐる論争は複雑ですが、この問題を考える基本的な要点は、2つにしぼられると思います。
第1は、「原因行為と結果行為の因果連関」の問題です。事案では、原因行為と結果行為に、原因と結果という客観的な関係があり、それらが客観的に連続的に行なわれていると認定されています。しかし、一般には飲酒・薬物使用などの原因行為と酒酔い運転や殺人などの結果行為との客観的な因果連関、原因行為から結果行為への連続的展開は、自動的には進行しないように思われます。飲酒をすれば、犯罪を行うという客観的な因果連関は、過去の経験や習癖などにもとづいて認定されていますが、慎重に判断しなければならないと思います。例えば、飲酒と酒酔い運転の場合は、一定の時間的・場所的な接着性の範囲内において「連続性」を認めることができますが、飲酒と暴行などは、その行為者の習癖などに基づいて慎重に判断すべきでしょう。
第2に、「原因行為時の故意・過失による結果行為のコントロール」の問題である。すなわち、原因行為時の行為者の故意・過失によって、それを内容とする結果行為がコントロールされているかどうかという主観的な関係です。裁判では、原因行為時の「故意」によって結果行為が統制されたことを肯定した事案は多くはありません。飲酒している時に、「殺してやろう」とか、「痛めつけてやろう」と思っていても、その故意を実現する行為として結果行為が行なわれているとは認定されていません。むしろ、問題の多くは、原因行為時において結果行為を行なうことの予見可能性があったかどうか(つまり結果行為についての過失の有無))です。
一般に過失犯の構成要件は、故意犯の構成要件に比べて、幅広く認定される傾向があります。例えば、母親が赤ちゃんと添い寝をして、覆いかぶさって窒息死させたとします。この場合の過失致死罪の構成要件該当行為は「添い寝をする」ことから開始されていますが、赤ちゃんの口と鼻を押さえつけて窒息死させた場合の故意の殺人罪の構成要件的行為は「口と鼻を押さえる」ことから開始される言わなければなりません。故意犯の場合に比べて、過失犯の構成要件の行為が類型的に幅広いと理解されています。さらに、過失を構成要件要素として位置付けると、注意義務違反が認められ、過失が認定されれば、それによって原因行為について構成要件該当性が認められます。そうすると、「原因において自由な行為」の理論を用いなくても、過失犯の場合では、構成要件該当行為が幅広く認定されるので、原因時に予見可能性・過失があれば、それによって過失行為の開始を認定できます。実際にも、飲酒運転などで自動車事故を引き起こしても、「原因において自由な行為」の理論は適用されていません。
(6)適法行為の期待可能性
責任能力がないことは、責任阻却事由の一つですが、さらに適法行為の期待可能性がなかったために責任が超法規的に阻却される場合があります。犯罪構成要件に該当する違法な行為を故意・過失によって行い、その時点において責任能力も備わっていましたが、違法行為以外の適法行為を行うことが不可能であったという場合は、超法規的に責任が阻却されます。
例えば、「カルネアディスの板」の事例を「二分説」に基づいて理解する場合に「適法行為の期待可能性の不存在」を理由にして超法規的に責任を阻却することが主張されています。漂流中のAは板を引き寄せるときに、Bの手を振り払った。そのためBは溺死した。Aには、殺人罪の構成要件に該当する違法(が減少するだけの)行為について、故意がありますが、それ以外の適法な行為を期待することができなかった以上、Aの殺人の意思を非難することはできないので、条文には根拠はありませんが、責任は阻却されます。
ただし、「適法行為を行うことを期待できなかった」かどうかは、何を基準に考えればよいのでしょうか。行為者自身の能力を標準にすると、他の人であれば可能であったのに、免責されてしまうのは問題があります(個人標準説)。逆に、一般人の能力を基準にすると、それより劣った能力しかない行為者に、一般人の能力を求めるのは、不可能を強いてしまうことになり、これも問題です(一般人標準説)。
法は、我々に一定の行為を禁止・命令します。それは、その禁止・命令に従った行動が可能であるので、それを期待できるからです。そのような行動が不可能な状況の場合、禁止・命令に同じような拘束力はありません。もはや状況が、法(国家)が適法行為を行なうことを要請する前提条件とは異なる場合には、それに反する意思決定をしても、責任は阻却されるべきです。従って、適法行為の期待可能性の有無は、法と国家の見地を基準とすべきでしょう(国家標準説)。ただし、自己犠牲を強いる現実の国家ではなく、人間の弱さを熟知している理念としての法治国家です。