Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

2015年度前期刑法Ⅰ(総論) 第01週 刑法の基本原則と犯罪体系論

2015-04-06 | 日記
 第1週(2015.04.07-09) 刑法の基本原則と犯罪体系論
(1)刑法学を学ぶ意義
 犯罪とは何でしょうか。それに科される刑罰とはどのようなものでしょうか。この問いに対して答えることが刑法学の課題です。「犯罪とは何か、刑罰とは何か」という問いを発した瞬間、皆さんは刑法学の入口に立っています。そして、その出口から出る時に、再びこの問を発することになるでしょう。「はたして、犯罪とは何だったのか、刑罰とは何であったのか」と。犯罪と刑罰を扱う刑法学は、人間の本質だけでなく、社会や国家のあり方をも問題にし、それは答えを求めて永遠の問いを問い続け迷路にも似た学問的世界です。この問を発した瞬間、皆さんはこの世界に引き込まれ、一人の刑法学者として答えを探し求めていくことになります。

(2)犯罪とは何か
 犯罪を見つめる目
 犯罪とは何でしょうか。新聞やニュースを見ると、毎日のように犯罪が起こっています。なかには起訴され裁判にかけられるものもありますが、なかには起訴されずに釈放されるものもあります。起訴されない理由には様々ありますが、違法な行為であるにもかかわらず、それを罰する法がないという場合があります。犯罪は違法な行為ですが、違法な行為の全てが犯罪として処罰されるわけではありません。私たちは、気分や感情に基づいて、「ひどい行為だ。処罰すべきだ」と主張したり、また情にほだされて、「本人は深く反省しているのだから、処罰しなくてもよいのではないか」と考えたりすることがありますが、その「犯罪を見つめる目」は、犯罪を処罰すべきかどうかという問いに対して、時には被害者の心情をおもんぱかって厳しい制裁を求める声を発することもありますが、また時には人情味あふれる人間的な解決策を提示することもできますが、そもそも犯罪とは何かという根本的な問いに対して答えを与えるものではありません。犯罪とは何かという問いに答えるためには、犯罪を定めた法律、刑法を見つめる目を持たなければなりません。

 刑法を見つめる目
 刑法を見つめる目は、何が犯罪として処罰されるべきものなのか、また何が犯罪として処罰されるべきではないのかという問いに答えることができます。
 犯罪をめぐっては、人間社会はそれを見つめる様々な目を持っています。文学の世界においては、喜怒哀楽に満ちた人間の社会を明らかにし、人間の本質に迫るために、犯罪がテーマにされてきました。そこでは「罪とは何か、罰とは何か」が常に鋭く問われてきました。また、特定の宗教集団に所属している人の場合、社会のルールとは別に、信仰する宗教の教えに導かれて日常生活を営んでいます。その教えの中には「戒律」と呼ばれるものがあり、それに違反するような行為が行なわれた場合、宗教の教えに基づいて厳しく戒められます。最悪の場合、破門という処分を受けることもあります。「汝、殺すことなかれ」、「汝、冒すことなかれ」。そこでも「何を行なえば、罪にあたるのか、それを償うためには、どのような罰を受ければよいのか」ということが教えられます。さらに、人間社会のなかでも、「道徳」や「倫理」という基準があり、それに沿った行為が是とされ、それに反する行為が非とされます。道徳違反、反倫理的という評価を受けると、硬みが狭くなり、おもてを歩けなくなりますが、刑罰が科されることはありません。ここで関心の対象になっているのは、何が道徳的な行為なのか、何が倫理的な振る舞いなのかという問題だけです。
 このように文学や哲学の世界、宗教の世界、道徳や倫理の世界において、罪とは何か、罰とは何かが繰り返し問われてきましたが、私たちが問うのは、刑法において、犯罪とされているのは、どのような行為か、それに科される刑罰にはどのような意味があるのかという問題です。一方で赤裸々な違法行為を見つめながら、他方でそれが犯罪にあたるのかどうかを明らかにするために刑法を見つめる目を持たなければなりません。他人の権利を侵害し、社会を害する行為は忌み嫌われるべきであり、それを犯罪として処罰することは必要なことですが、犯罪にあたらない行為を処罰することは、その人の権利を害することであり、同じように忌み嫌われるべきです。処罰すべき行為とそうでない行為、犯罪として処罰される領域とそうでない領域を明確に区別するための基準として刑法は重要な意味を持っています。

(3)刑罰とは何か
 犯罪に対しては、刑罰が科されます。それは至極当然のことです。犯罪の内容や刑罰の種類・執行方法は、時代や社会において様々ですが、犯罪に対して刑罰が科されるという一般的なルールは、どの時代にも、どの社会においても認められていると言ってよいでしょう。
 犯罪に対して刑罰が科されることが自明のことであるとしても、その意味は時代や社会において異なります。犯罪は忌み嫌うべき行為であることは明らかですが、それを行なった人に刑罰を科すことに、どのような意味があるのでしょうか。例えば、次のような見解を検討してみましょう。自然界は一定の法則、自然法則に基づいて運動しています。その自然法則は、物理的な法則として説明することができます。例えば、机の上に一冊の本が置かれています。日常の風景ですが、本は万有引力の法則に基づいて、地球の中心へと引き寄せられていますが、本は机を押しのけ、地面へとのめり込むことはありません。何故でしょうか。それは、本乗せている机の表面から、本を引き寄せているのと同じ力で本を押し戻す力が働いているからです。そのような力が働いているから、本は机の上に置かれ、静止した状態にあるのです。ただたんに静止しているのではありません。万有引力の法則に基づいて、本を引き寄せる自然の作用に対して、同じ自然の反作用が働き、両者の力が相殺されることによって、本は静止した状態にあるのです。
 人間社会にも、この自然の法則が当てはまると考えるならば、犯罪と刑罰に関係は次のように説明することができるでしょう。犯罪は他者や社会・国家に対する有害な作用、それらを否定する作用であり、刑罰はその作用を押し戻し、他者や社会・国家が従前のとおり静止した状態を続けるための反作用であるといえます。作用としての犯罪に対する反作用としての刑罰。このように刑罰を捉えるならば、刑罰は犯罪が行なわれたから科されるだけであり、反作用という意味以上のものはありません。刑罰が科される意味は、刑罰の正当性は、反作用としての刑罰それ自体にあることになります。このような刑罰観を「絶対的刑罰論」といい、(絶対的)応報刑論として主張されています。「応報」という言葉は、「仕返し」のような意味で理解され、用いられることがありますが、正しい理解に基づいているとはいえません。
 しかし、刑罰には何の意味も、何の目的もないとうのは、理解に苦しみます。というのは、犯罪を行ない刑罰を科された人は、日々、何を考えながら刑務所の塀のなかで生活しているのかを想像すれば察しがつきます。おそらく、「こんなところで生活するくらいなら、あんな馬鹿はやめるべきであった」と反省し、後悔しているでしょう。このような内省を通じて、彼は自ら改善し、矯正し、社会復帰を遂げていくのです。また、一般の人々は、そのように刑務所暮らしをしている人がいることを通じて、「あのよう行為を行なったのだから、刑務所に収容されているのだ。だから、そんな行為はするものではない」と、犯罪を行なえば、刑罰が科されることを実感し、自らもそれを行なわないことを決意するでしょう。つまり、刑罰には何の意味も目的もないというのではなくて、明確な目的、しかも犯罪を予防するという目的があるのです。このように刑罰が科される意味、刑罰の正当性を一定の目的を達成するための手段の関係において説明する刑罰観を「相対的刑罰論」といい、目的刑論として主張されています。予防刑論のなかでも、一般の人びとの犯罪を予防する側面を重視する考えを「一般予防論」、犯罪人の改善・矯正を重視する考えを「特別予防論」といいます。「特別予防論」は、犯罪人を矯正教育を通じて改善・社会復帰を目指すことから、「教育刑論」としての側面を兼ね備えています。
 刑罰を応報として捉えると、犯罪に対して意味のない制裁を加えていることになりますが、これに対して、刑罰を予防の観点から捉えた場合、それには重要な意味があることになります。その限りで言えば、予防刑論の方が理屈に合っているようです。しかし、特別予防の観点を重視すると、その人が改善・矯正されるまで、制裁を課し続けることになりかねません。また、出所後も、その居場所を明らかにし、行動範囲も制約されることを容易に正当化することにもつながります。また、一般予防を重視すると、社会の一般人の犯罪を予防するのに必要な程度の刑罰が科されることになりますが、それが犯罪人の改善・矯正に必要な程度を超える場合でも、正当化できる根拠は明らかではありません。

(4)刑法の基本原則
 罪刑法定主義
 犯罪と刑罰を見つめる目は、刑法という法律を見つめる目です。したがって、犯罪と刑罰は常に刑法のなかにあります。その意味で犯罪と刑罰は法的な概念、法的に構成されたものになります。このことから次の原則が導かれます。それは、罪刑法定主義です。犯罪と刑罰は法律によって定められなければならない。法以外の基準、例えば社会や一地域の「常識」のようなものに基づいて、犯罪を認定したり、刑罰を科してはなりません。「法律なければ犯罪もなく、刑罰もなし」。これが罪刑法定主義の核心的内容です。法律を制定または改廃する権限は、選挙で選び出された国民代表議会である国会にあります。国会が定める法律だけが、犯罪と刑罰の根拠になります。国家は、刑法という法律を根拠にして人を裁くことが許されているだけです。刑法に反しない行為はたとえ非人道的なものであっても、裁くことはできません。罪刑法定主義は、このように法律で禁止されていない行為を処罰することはできないという自由主義の要請と法律を制定するのは国民代表機関だけであるという(議会制)民主主義の要請を実現する刑法の大原則です。
 この罪刑法定主義からは、次のような原則が派生します。犯罪と刑罰を定めるのは法律だけであるということは、法律以外の基準、慣習による処罰は禁止されるという原則です(慣習刑法の禁止)。また、かりに法律が犯罪と刑罰を定めていても、それを制定前に行なわれた行為に適用することもできません(事後法の禁止または刑罰法規の遡及適用の禁止)。たとえ、制定後の行為に適用する場合でも、その処罰の領域や射程範囲は自ずと決められているので、法律を類推してその領域を超えて適用することも許されません(類推適用の禁止)。犯罪と刑罰は法律に基づいて適正な手続を経て適用されますが、その法律の内容があいまいであってはなりません。裁判・訴訟という手続面だけでなく、法律の内容という実体面における明確性が適正な法適法を担保するといえます(実体的デュー・プロセスの要請または刑罰法規の明確性の原則)。

 行為主義
 国民代表議会である国会が明確な法律によって犯罪と刑罰を定め、その意思に従って適用するというのが罪刑法定主義です。しかし、国会だからといって、無制限に法律を制定する権限があるわけではありません。刑法には議会(立法者)をも制約する原則があります。第1は行為主義の原則です。行為主義は、犯罪として処罰されるのは人間の行為だけであるという原則です。この原則によれば、行為として表現される前の思想や信条のような内心は、それがいかに問題がある内容であっても、また他者や社会に敵対的なものであっても、処罰の対象にはなりえまません。また、たとえ思想や信条の表現として行為が行なわれたとしても、その思想・信条を理由に行為の善し悪しを問題にしてはなりません。思想や信条は内心の自由の問題であって、刑法は外部に表された行為だけを問題にすることができるだけです。

 侵害主義
 思想は内心の自由の問題であり、国家が刑法を用いてそこに介入することは許されません。外的に行なわれた行為だけが刑法の対象になります。ただし、この行為は他者や社会に対して侵害性を有する行為に限られ、何ら問題のない行為を「行為」であることを理由にして、刑法が対象とすることはできません。このような考えを侵害主義といいます。社会侵害性を有する行為だけが刑法の対象となるので、社会侵害性原理であるとか、行為原理とも呼ばれていますが、問題は何を、どのように侵害する行為が刑法の対象になるのかという点です。他者や社会にとって「迷惑な行為」は行なうべきではありませんが、だからといって、それを犯罪として禁止することがあ無条件に許されるわけではありません。社会侵害性は行為を犯罪として規制するための必要条件ですが、十分条件ではありません。社会侵害性のある行為は刑法の対象であり、そのような行為のなかから重大なものだけを取り出して犯罪として規制すること許されています。

 責任主義
 重大な社会侵害性のある行為を犯罪として規制することができるとしても、それは行為者の責任に帰すことのできる行為でなければなりません。つまり、その人の仕業(しわざ)として非難可能な行為でなければなりません。あることが原因で身体が反射的に動き、それが原因で一定の結果が生じた場合、それは不可抗力が原因で生じたことであり、その人の責めに帰すことはできません。そのような行為を処罰しても、結果の再発の防止(一般予防)には役立ちませんし、その人の改善・矯正(特別予防)にも役立ちません。そのような不可抗力が原因で生じた結果は、社会の自然の1つの状態として予定されており、社会全体で甘受すべきものです(応報の対象ではない)。犯罪として処罰されるのは、あくまでも行為者の責めに帰すべき行為だけです。つまりその人が故意や過失で引き起こした「仕業」だけだということです。

(5)刑法解釈学の課題
 犯罪と刑罰を見つめる目は、刑法を見つめる目です。刑法を見つめる目は、刑法の条文解釈の目でなければなりません。刑法の条文を読んで、どのような行為が犯罪として処罰され、それに対してどのような種類と量の刑罰が科されることが予定されているのかを明らかにする目線が必要です。さらには、刑法上の犯罪と刑罰が、行為主義・侵害主義、責任主義などの基本原則に基づいて定められているかどうかを批判的に吟味するための目を持つことが必要です。

 事実としての犯罪
 犯罪は、私たちの身の回りにおいて、常に具体的な事象として生起しています。殺人、窃盗、放火などの具体的な被害を伴って起きています。それは全て重大な権利・利益侵害の行為ですが、その行為の態様や侵害される権利・利益の内容は様々です。殺人と放火には具体的な事実の点において共通性はありませんが、犯罪として刑罰が科される行為であるという意味においては共通しています。個別的で具体的な犯罪現象を考察の対象にして、それが「いつ」、「どこで」、「誰によって」、「誰に対して」、「どのような方法で」行なわれるのか、その原因は何であるのかを明らかにし、その予防策を考えるのが「犯罪学」(刑事学・刑事政策学)の課題ですが、刑法学は、そのような考察をする前提として、刑法においてどのような行為が犯罪として定められているのか、その特徴と要件を明らかにすることを課題としています。さらに刑法総論は、犯罪の成立に必要な一般的な要件、犯罪の成立を否定(阻却)する要件などを考察することを目的としています。これに対して刑法各論は、犯罪によって侵害される法益の分類に対応して、個人的法益に対する罪、社会的法益に対する罪、国家的法益に対する罪の内容と相互の関係を考察することを目的としています。

 法的概念としての犯罪
 犯罪は法的な概念であり、その国の刑法が犯罪としているものだけが対象となります。従って、お国が違えば、犯罪も異なることになります。国家や社会は、歴史的に形成された社会的・文化的な組織なので、歴史・伝統・文化・宗教などによって支えられています。犯罪と刑罰の概念は、あくまでも法的なものであり、宗教や文化などの要素は除外されていますが、しかし宗教上の決まりが社会の共通認識になっている場合には、それを法律上の制度として位置づけることもあります。また、犯罪は法的な概念でありますが、刑法の条文の構成の仕方は、国によって様々なので、法的な概念としても国によって様々です。また条文が同じような形式で定められていても、犯罪の捉える方法が異なれば、概念も異なってきます。

 犯罪概念の構成要素とその体系(犯罪体系)
 犯罪は人間によって行なわれるので、「犯罪は行為である」と特徴づけることができます。刑法の条文も、処罰されるのは行為であることを前提として規定しています。
 では、犯罪を法的に定義すると、どのようになるでしょうか。犯罪とは、どのような行為をいうのでしょうか。この点について、刑法学では、犯罪とは刑法が犯罪として定めている行為の類型に該当する行為であると解されています。つまり、刑法には犯罪として処罰される行為が一般的な内容で類型化されていますが、行為者が行なった行為がそれに該当する場合には、原則的に犯罪であるといえます。ただし、犯罪の行為類型に該当しても、正当防衛などの理由から例外的に「正当化」(違法ではない)されたり、また違法な行為であっても、行為者に責任能力がないため「免責」(責任がない)される場合があるので、刑法の犯罪行為の類型に該当するだけでは、その行為を犯罪として処罰することはできません。従って、以上のことを踏まえると、犯罪とは、刑法が犯罪として処罰するとした行為類型に該当し(構成要件に該当し)、(正当防衛などの違法性を阻却する理由がないため)違法であり、かつ(責任能力が欠如するなど責任を阻却する理由がないため)責めに帰すことができる(有責な)行為であると定義することができます(犯罪は、構成要件に該当し、違法でかつ有責な行為である)。以上の定義にそうならば、犯罪体系の理論は、犯罪とは、①行為であること(行為性)、②犯罪の行為類型に該当すること(構成要件該当性)、③違法であること(違法性)、④有責であること(有責性)の順に考察することになります。被告人が①「行為」を行なったということを前提にして、それが②犯罪の行為類型に該当する、犯罪のタイプ・カタログに当てはまる、構成要件に該当するという評価を受け、③それが法の見地から見て許されない、法に敵対・矛盾しているという評価を受け、かつ④そのような行為を行なったことにつき、被告人を責めることができる、その行為は被告人の仕業であると非難できるという評価を受けたときに、被告人を処罰することができます。被告人が行なった行為(AがBの腹部をナイフで刺した。その後、Bは死亡した)の「事実」を踏まえて、それが殺人罪の構成要件に該当する、違法である、有責であるという「評価」が成り立つとき、その行為を殺人罪として処罰することができます。

 犯罪体系論を基礎づける行為概念
 以上のように、被告人が行なった行為が犯罪に該当するかどうかは、①その行為の詳細な事実関係を踏まえた上で、②構成要件該当性、③違法性、④有責性という評価を加えることができるかどうかの順に論じていくことになりますが、「被告人の行為は、殺人の行為類型(構成要件)に該当するかどうか」と問われても、どのように答えてよいか迷うのではないかと思います。例えば、Aが駅のホームでタバコを吸っていたので、Bがそれを注意すると、Aは「うるさいなー」と無視して吸い続けたところ、BはAのタバコを取り上げた。Aがそれを奪い返そうとしたが、Bがそれを避けてかわしたとき、足元が崩れ、そのままホームに転落した。そのとき、Bはホームに入ってきた電車に轢かれて、死亡した。被告人Aの行為(Bからタバコを奪い返そうとした行為)は殺人罪の行為類型(構成要件)に該当するでしょうか。
 Aの行なった行為が原因でBが死亡している以上、その事実は「殺人罪の構成要件」に該当すると考えることができますし、またAの行為が原因でBが死亡したのは事実であるが、Aには殺意(殺人の故意)があったとはいえないので、殺人罪ではなく、「過失致死罪の構成要件」にしか該当しないと考えることもできます。単純化して言うと、行為者の行為は、殺人罪の構成要件に該当するかどうかという評価の対象であるが、その行為の内容や構造の捉え方によっては、結論が異なってくるということです。構成要件該当性の判断対象としての行為を外部的で客観的な事実関係に限定して捉えるならば、Aの行為は、その殺意の有無とはかかわりなく、殺人罪の構成要件に該当すると判断することができます。これに対して、人間の行為は、外部的・客観的な事実関係だけでなく、それを作り出した行為者の内面的・主観的な認識(故意)・不認識(過失)から成り立っており、構成要件該当性の判断対象としての行為には、行為者が何を行おうとしていたのかという事情も含まれることになるので、殺意の有無は殺人罪の構成要件該当性の判断にとって決定的に重要なものになります。これらの立場の違いを図式で表すと、次のようになります。

 外部的・客観的な行為=構成要件に該当→違法性の推定→違法性阻却事由なし→違法性あり
           (構成要件=違法行為類型)
 内面的・主観的な事情=故意・過失の責任類型に該当→故意・過失の責任の推定
            →責任阻却事由なし→有責性あり



 主観・客観の行為=構成要件に該当→違法性の推定→違法性阻却事由なし→違法性あり→
         (構成要件=違法・有責類型)
→責任阻却事由なし→有責性あり


 刑法の論理的・整合的な解釈を支える犯罪体系論
 行為の概念を外部的・客観的な事実として捉えるか、それとも主観と客観の統一体として捉えるか。この問いは、刑法解釈学の入口で問われ、最終的に出口でも問われます。この講義では、行為概念を外部的・客観的な事実として捉える立場に立って解説していきますが、異なる立場と対比させながら、どちらが論理的で整合的な解釈に資するかを常に問いながら話を進めていきたいと思います。最終的にどの立場を選択するかは、各自の判断に委ねられますが一つの立場を選択した以上、そこから導き出される結論に責任を負わなければならないことは、言うまでもありません。

(6)行為と構成要件
 ある行為が一定の犯罪の構成要件に該当するかどうか。この問いに答えるのが、構成要件論の課題です。従って、犯罪の構成要件には、次のような重要な機能があります。まずは、構成要件の違法性推定機能です。いずれの立場からも、構成要件に該当する行為は、原則的にその犯罪の違法性があることを推定させます。例外的に違法性を阻却する事情がない限り、その行為は違法であることになるので、構成要件と違法性阻却事由との関係は、違法性の原則型と例外型の関係にあるといえます。次に構成要件の故意規制機能というものです。これは、構成要件に該当する事実の認識がある場合には、行為者に故意を認めることができるという機能です。AがBに接近したtめ、Bはホームに転落して、電車に轢かれて死亡した。Aがそのような結果の発生を認識していた場合には、殺人の故意があるといえます。これが構成要件の故意規制機能と呼ばれるものです。そして、構成要件には成立犯罪を個別化する機能があります。生命を侵害した場合には、殺人罪が、財産を侵害した場合には窃盗罪などが成立するので、該当する構成要件によって成立する犯罪が確定してきます。ただし、殺人罪の構成要件に該当するかどうかの判断にあたって、行為者の故意を踏まえる立場に立つならば、故意規制機能は、犯罪個別化機能の一部として位置づけられることになります。これに対して、構成要件該当性の判断の段階では故意を問題にせず、有責性判断のところで議論する立場に立つならば、構成要件には犯罪個別化機能はないことになります。

 構成要件の諸要素
 犯罪には、殺人罪、窃盗罪、放火罪など様々なものがあります、いずれも他の犯罪とは全く性質がことなりますが、犯罪をして犯罪たらしめる本質や基本的な要素には共通点があります。例えば、三角形には正三角形や二等辺三角形、直角三角形など形態の異なる様々な三角形がありますが、「三辺の内角の総和が180度である」という点においては共通しています。犯罪にもそれと同じように共通点があります。「犯罪は、構成要件に該当する違法で有責な行為である」という定義がまさに犯罪の成立要件の共通性を表しています。
 犯罪の成立要件の第1は、構成要件です。構成要件は、以下のような図式で表すことができます。

   客観的側面(違法行為類型=構成要件)
   ①主体 ②実行行為 ③客体 ④法益侵害・危殆化の結果 ⑤行為と結果の因果関係

犯罪

   主観的側面(故意または過失の責任類型)
   ⑥客観的側面(構成要件該当事実)の認識・予見=故意の責任類型
   ⑦客観的側面の不認識・不予見(認識可能性・予見可能性)=過失の責任類型


 構成要件の要素は、①行為の主体、②実行行為 ③行為の客体 ④法益侵害・危殆化の結果、⑤行為と結果の因果関係から成り立ちます。おおよその行為は、誰が行なっても成立し、処罰されるので、①の行為の主体は問題になることはあまりありませんが、犯罪によっては、特定の社会的地位・立場にある人しか行えないものがあります。収賄罪は、それを公務員が行なった場合にしか成立しません(このような犯罪を身分犯といいます)。従って、身分を持たない者がそれと同じ行為を行なっても、収賄罪の構成要件には該当しません。②は構成要件が類型化している行為のことであり、④の結果を発生させる危険性のある行為です。③は実行行為が向けられる対象であり、④は行為客体が担っている法益を侵害したり、危殆化することです。⑤の因果関係とは、②と④の原因と結果の関係です。②が行なわれ、④が発生していても、その間に因果関係がなければ、④の結果の発生を内容とする「既遂犯」の構成要件該当性は否定されます。結果が不発生の場合でも犯罪が成立する「未遂犯」の場合は、未遂犯の構成要件該当性が認められます。この構成要件該当性は、⑥・⑦のいずれの場合とも共通しています。つまり、故意による行為の構成要件該当性・違法性も、過失による行為の構成要件該当性・違法性も同じ内容であり、その限りにおいては、構成要件該当性・違法性の段階では犯罪は個別化さえれません。犯罪を個別化するのは、故意・過失の責任の段階においてです。
 このように行為の外部的・客観的側面を対象にして、犯罪の構成要件該当性の判断が成立すると、原則的に違法性が推定され、違法性阻却事由がない限り、違法性が確定します。行為者に⑥故意または⑦過失の心理状態が認められる場合には、故意責任または過失責任が推定され、責任を阻却する事由がある場合には、「故意責任」または「過失責任」が阻却されます。この立場とは異なり、構成要件該当性の判断対象に内面的・主観的事情をも判断対象に含める立場からは、⑥の認識がある場合には、「故意犯」の構成要件該当性が認められ、⑦の認識可能性がある場合には、「過失犯」の構成要件該当性が認められることになります。それらは、構成要件の内容が異なります。そして、その該当性によって推定されるのは、故意犯の違法性、過失犯の違法性です。違法性阻却事由がなければ、違法性が確定し、責任を阻却する事由がある場合には、「責任」が阻却されます。




 次回は「第02週 因果関係と客観的帰属」です。
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