Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

2015年度前期刑法Ⅰ(総論) 第06週 練習問題

2015-05-11 | 日記
 第06週 練習問題

(1)記述的構成要件要素の認識
1「たぬき・むじな事件」(大判大14・6・9刑集4巻378頁)
 狩猟法は、「たぬき」の捕獲を禁止しているが、Aは目の前にいる動物が「むじな」であると認識し、それを捕獲した。検察官は、その動物が「たぬき」であると認定し、同法の禁猟獣捕獲罪で起訴した。行為当時、一般に「たぬき」と「むじな」が同じ動物であることは知られていなかった。Aに狩猟法の禁猟獣捕獲罪の故意は認められるか。



 「むじな」の捕獲の事実の認識アリ→ 「たぬき」の捕獲の事実認識アリ?→ 故意アリ
              ナシ?→ 故意ナシ

 Aは、「むじな」を捕獲していると認識していた。その際、Aが禁猟獣である「たぬき」を捕獲しているという認識があったかならば、狩猟法違反の構成要件に該当する事実の認識があり、その故意を認めることができる。しかし、Aは「むじな」が「たぬき」とは別の動物であると認識していた。このような場合、Aには狩猟法違反の事実の認識があったとはいえない。従って、Aに狩猟法の禁猟獣捕獲罪の故意は認められない。


2「むささび・もま事件」(大判大13・4・25刑集3巻364頁)
 狩猟法は、「むささび」の捕獲を禁止しているが、Bは目の前にいる動物が「もま」であると認識し、それを捕獲した。検察官は、その動物が「むささび」であると認定し、同法の禁猟獣捕獲罪で起訴した。行為当時、その土地では、「もま」は「むささび」の俗称であり、「むささび」と「もま」が同じ動物であることは知られていた。Bに狩猟法の禁猟獣捕獲罪の故意は認められるか。


 「もま」の捕獲の事実の認識アリ→ 「むささび」の捕獲の事実認識アリ?→ 故意アリ
              ナシ?→ 故意ナシ

 Bは、「もま」を捕獲していると認識していた。その際、Bが禁猟獣である「むささび」を捕獲しているという認識があったかならば、狩猟法違反の構成要件に該当する事実の認識があり、その故意を認めることができる。確かに、Bは「もま」を捕獲していると認識していたが、「もま」は「むささび」の俗称であった。このような場合、Bには狩猟法違反の事実の認識があったといえる。従って、Bに狩猟法の禁猟獣捕獲罪の故意が認められる。


3覚せい剤輸入罪事件(最決平2・2・9判時1341号157頁)
 アメリカ国籍のCは、覚せい剤を腹巻のなかに隠して、台湾から飛行機に乗り、日本の空港で入国手続を済ませた後、入国カウンターで逮捕された。Cは、覚せい剤を含む有害で違法な薬物類であることは認識していたが、それが覚せい剤という種類の薬物であるとの確定的な認識はなかったと主張した。Cに覚せい剤輸入罪の故意を認めることができるか。

・事実関係の成立と問題の所在
 Aは、腹巻に覚せい剤を隠して、日本国内に入国手続を終了した。この行為は覚せい剤輸入罪の構成要件に該当する違法な行為である。しかし、Cにはそれが覚せい剤であるとの認識がなかった。この場合、Cに覚せい剤輸入罪の故意があるといえるか。


・故意の定義
 故意は、一般に犯罪事実の認識・予見であると定義されるが、本件事案において、Cに覚せい剤取締法の輸入罪の事実の認識があたっといえるか。その認識がなかった場合、故意を認めることはできない。


・立論
 Cには、日本に持ち込もうとした薬物が覚せい剤であるとの確定的な認識はなかったが、覚せい剤を含む有害で違法な薬物類であるとの認識はあった。このような場合、Cには、持ち込もうとした薬物が覚せい剤かもしれないし、そうでなくても身体に有害な違法な薬物であるとの認識があったので、覚せい剤輸入の違法性を確定的に認識していたわけではなくても、その違法性を認容していたということができる。従って、覚せい剤輸入罪の故意を認めることができる。


・結論
 以上から、Cには覚せい剤輸入罪の故意が成立する。


4「公衆浴場浴場無許可営業事件」(最判平元・7・18刑集43巻7号752頁)
 公衆浴場法8条1号は、都道府県知事の許可を受けずに公衆浴場を営業することを禁止している。実父は、町外れで、長年にわたり公衆浴場の個人営業を営んでいたが、それをスーパー銭湯のチェーン会社を経営する長男Dに引き継ぐことを決め、県の係官にそのことを相談した。係官は、「あなたの公衆浴場の営業を、Dの会社に変更してください。そのためには、公衆浴場営業許可申請事項変更届を提出しなければなりません」と指示された。Dは父親とともに、その書類を県に提出し、受理された旨の連絡を受けたので、Dは、自分が経営する会社に父親の公衆浴場を営業する許可が与えられたと認識し、その営業を始めた。
 しかし、公衆浴場法によれば、公衆浴場営業許可申請事項変更届というのは、営業許可を受けた人の住所や電話番号などの変更を届け出るためのものであり、Dが父親の公衆浴場を営業許可を引き継ぐような場合には、許可申請事項の変更届けではなく、新規の営業許可の申請が必要であると規定している。従って、県が変更届を受理したことには重大な瑕疵(手続違反)があり、Dに対する公衆浴場の営業許可は無効であることが判明した。また、Dは会社の顧問弁護士から、「公衆浴場の営業許可は、公衆浴場単位ではなく、その経営者単位で出されるもので、父親への許可をDに変更できるような性質のものではない」とアドバイスを受けていたことも判明した。Dに公衆浴場法8条1号の「無許可営業罪」の故意が認められるか。

・事実関係の整理と問題の所在
 Dの行為は、客観的に公衆浴場法8条1号の無許可営業罪の構成要件に該当する(違法性を阻却する事由に該当する事実はない。従って、その違法性も認められる)。では、その故意についてはどうか。


・故意の定義
 故意は、一般に犯罪事実の認識・予見であると定義されるが、本件事案において、Dに公衆浴場法の無許可営業罪の事実の認識があたっといえるか。その認識がなかった場合、故意を認めることはできない。それに対して、その認識はあったが、評価を誤って法的に許されると解したというならば、違法性を基礎づける事実の認識があったのかが問題になる。


・立論
 Dは、顧問弁護士から公衆浴場の営業許可は、公衆浴場単位ではなく、経営者単位で認められるものであり、父親への許可をDに変更することはできないとアドバイスを受けていた。この点に着目するならば、Dは新規の許可申請の手続をとらずに、公衆浴場を営業し、その事実の認識もあるので、無許可営業罪の故意を認めることができるようにも思える。しかし、Dは県の係官から、許可申請事項の変更届を提出するよう指示され、その書類を提出し、受理されたとの連絡を受けていたので、自分の会社が父親の公衆浴場を営業することが許可されたと認識していた。このような場合、Dには公衆浴場を無許可で営業しているという認識があったということはできない。従って、Dには公衆浴場法の無許可営業罪の事実の認識はなく、その故意があったとはいえない。


・結論
 以上から、Dには公衆浴場法の無許可営業罪の成立を認めることはできない。


5誤想防衛
 Eは、夜の公園を散歩していると、女性の悲鳴が聞こえたので、近寄ってみると、男性が女性と揉み合いになっているのが見えた。女性がEの存在に気づくと、「助けて」と叫んだので、Eは女性が男性に襲われていると思い、女性を助けるため、男性を背後から取り押さえた。それによって、男性に加療2週間の傷を負わせた。後に、男性は女性が自殺しようとするのを止めさせるために、女性と揉み合いになったことが判明した。

・事実関係の整理と問題の所在




・故意の定義




・立論―誤想防衛・違法性阻却事由にあたる事実の認識(誤想)があった場合





・結論





(2)規範的構成要件要素の認識
1Fは、出版社の社長であるが、D・H・ロレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳・出版を計画し、翻訳者に依頼して、その日本語訳を得た。Fは、その内容に性的描写の記述があることを認識しながら単行本として出版した。検察官は、Eをわいせつ文書頒布罪で起訴した。Fは「男女の赤裸々な関係が描写されており、いやらしさが感じられたが、それも芸術的創作の一環であり、わいせつであるとは思えなかった」と主張した。裁判では、Fに「わいせつ文書」を頒布している認識があったかどうかが争われた。

・事実関係の整理と問題の所在
 Fは、わいせつ文書を頒布したとして起訴された。Fには、わいせつ文書の認識がなかった。Fに、故意犯であるわいせつ文書頒布罪が成立するか。


・規範的構成要件要素の認識
 故意は、犯罪事実の認識、すなわち構成要件該当の事実の認識であると定義される。構成要件該当の事実の認識とは、構成要件のすべての要素に該当する事実の認識である。AがBの生命を侵害した場合、Bが人であること、その行為が殺す行為であることの認識があれば、Aには殺人罪の故意がある。わいせつ文書頒布罪の場合も、頒布している文書が「わいせつ文書」であることの認識があれば、その罪の故意を認めることができる。


・立論
 Fは、出版・販売した小説がわいせつなものであると認識していなかったので、わいせつ文書頒布罪の故意があったとはいえないようにも思われる。しかし、いやらしい小説であるとの認識はあった。このような場合、わいせつ文書の認識を認めることができるだろうか。一般に規範的構成要件要素の認識については、法的立場から判断された専門的な意味の認識までは必要ではなく、いわば素人的判断の程度における社会的な意味の認識で足りると解されている。わいせつ性についても、裁判の判例で確立したような専門的な意味ではなく、社会において一般人が「いやらしい」と感ずるような意味を認識している場合には、わいせつ性の認識があったものと認めることができる。Fは、「男女の赤裸々な関係が描写されており、いやらしさが感じられた」と述べており、「わいせつ性」にあたる社会的な意味の認識があったといえる。


・結論
 以上から、Fにはわいせつ文書頒布罪の故意の成立を認めることができる。


(3)犯罪事実の認識=構成要件該当事実の認識 の 意味
 構成要件は、違法行為の類型である。構成要件に該当する事実の認識があれば、それは違法性(の推定)を基礎づける事実の認識があることになる。従って、誤想防衛のような事情がない限り、刑法の禁止規範に直面して、反対動機を形成することができる。それにもかかわらず、行為を実行する意思を決定した場合、その意思は故意類型に該当する(または構成要件的故意に該当する)と認定することができ、故意の非難可能性が認められる。

 「わいせつな小説」は「わいせつ文書」に該当する。従って、「わいせつな小説であるという認識」があれば、「わいせつ文書の(頒布の)故意」があると言うことができる。これに対して、「いやらしい小説」は「わいせつ文書」に該当するか。「いやらしい小説」のすべてが「わいせつ文書」にあたるとは限らないので、「いやらしい小説であるという認識」があっても、「わいせつ文書の(頒布の)認識」」があるとは必ずしもいえない。しかし、判例では、「いやらしい小説であるという素人的な認識」があれば、「わいせつ文書であるとい認識」があると認められた(チャタレイ事件」。それは、何故だろうか。

 構成要件に該当する事実の認識があれば、それは違法性(の推定)を基礎づける事実の認識があることを意味する。逆に言うと、一定の犯罪の違法性(の推定)を基礎づける事実の認識があれば、その犯罪の構成要件に該当する事実の認識があることになる。違法性とは、実質的に見ると、社会的に不相当なこと、社会倫理に反すること、社会通念上認められないことと解すると(規範違反説=行為無価値論)、そのような認識があれば、「法益を侵害している」という認識がなくても、違法性を基礎づける事実の認識があったので、構成要件該当の事実の認識があったということになる。規範的構成要件要素の認識が、法的・専門的な意味の認識から、素人的・社会的な意味の認識にまで緩和されているのは、このような行為無価値論的な違法論が影響していると思われる。


(4)未必の故意
 Aは、遠方にいるXに向けてピストルの引き金を引いた。Aは、Xに命中する確率はそんなに高くはないので、命中しないだろうと思っていた。しかし、弾丸はXに命中し、Xは死亡した。

 Bは、遠方にいるYに向けてピストルの引き金を引いた。Bは、Yに命中する確率はそんなに高くはないが、命中するかもしれないし、それもやむを得ないと思っていた。案の定、弾丸はYに命中し、Yは死亡した。

 Cは、遠方にいるZに向けてピストルの引き金を引いた。Cは、Zに命中する確率はそんなに高くはないが、命中するかもしれないと思いながらも、命中しないろうと思っていた。しかし、弾丸はZに命中し、Zは死亡した。

 A・B・Cに殺人罪の故意は認められるか。


 A・B・Cの行為は、いずれも殺人罪の構成要件に該当する行為であり、違法性を阻却する事由に該当する事実もない。では、殺人罪の故意は認められるだろうか。

 故意とは、犯罪事実の認識・予見である。殺人罪の構成要件に該当する結果が発生することを予見しているならば、殺人罪の故意が認められるが、AもBもCも、被害者に命中する確率はそんなに高くはないと思っていた。つまり、結果が発生する蓋然性は高くはないと認識していた。犯罪事実の認識・予見が、「犯罪事実が発生する蓋然性が高いと認識・予見していること」を意味すると理解するならば(認識説)、いずれも故意は否定される。

 これに対して、責任の実質は非難可能性であり、故意の非難が可能な内容を備えていなければ、故意と認定することはできないと考えるならば、結果の発生の蓋然性を認識しているだけでなく、それを認容していなければならない(認容説)。Bについては、認容する態度が認められるので、故意を認めることができる。

 これらの事案では、AもBもCも同じ事実を認識している。すなわち、遠方にいる被害者に向けてピストルの引き金を引いたという事実を認識している。異なるのは、それが命中すると思ったかどうかだけである。このように同じ事実を認識しているにもかかわらず、認識説と認容説で故意の成否に差が生じ、しかも認容説からは、Cの故意まで否定してしまうのは妥当ではないように思われる。故意の成否の基準は、結果の発生を認容したかどうかではなく、思いとどまるための反対動機を形成しうるような事実を認識したかどうかではないだろうか(動機説)。たとえ被害者が遠方にいても、それにピストルを向けたとき、行為者には思いとどまるための反対動機が形成されていると思われる。個性や性格などによって、動機の形成に若干のへんかがあるかもしれないが、法が前提としている人間像を念頭において考えるならば、A・B・Cが認識した事実は、反対動機を形成するようなものであったということができる。それにもかかわらず、「命中しないだろう」と思って、行為を思いとどまらなかった心理的態度は、故意の非難に値すると判断してもよいであろう。