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Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法Ⅰ(11)講義

2021-06-22 | 日記
 刑法Ⅰ(11)未遂犯論(2)
1未遂犯の処罰根拠
 刑法43条本文は、「犯罪の実行に着手しこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる」と定めています。これが未遂犯処罰の一般規定です。犯罪の構成要件該当行為の一部または全部を開始したが、構成要件的結果の発生に至らなかった。このような場合でも、法益の重大性や原状回復の困難性などを考慮して、未遂犯として処罰される場合があります(44条)。
 結果が発生していないにもかかわらず、なぜ未遂として処罰されるのでしょうか。その理由をめぐって、主観的未遂論と客観的未遂論の間で対立があります。主観的未遂論は、行為者が結果を発生させる意図で行為を開始しているので、それによって行為者が犯罪的意思や犯罪的性格・人格を持っていることを理由に未遂として処罰できると主張します。未遂処罰の根拠を「行為者の危険性」に求めます。これに対して、客観的未遂論は、行為者が行った行為によって法益侵害の危険が発生していることを理由に未遂としての処罰を根拠づけます。未遂の処罰根拠を「行為の危険性」に求めます。
 刑法は、実行の着手以前の予備の段階(殺人予備、強盗予備、放火予備など)、さらにはそれ以前の陰謀の段階(内乱陰謀など)における処罰を認めています。この予備・陰謀の段階においても、行為者に犯罪的意思や犯罪的性格・人格があることは明らかです。そうすると、未遂と予備・陰謀を区別する必要はないと言うこともできますが、刑法は陰謀→予備→実行の着手の段階に応じて処罰の要否を区別しているので、客観的に区別する基準があると思われます。陰謀・予備の段階と未遂の段階では、行われた外部的な行為によって法益に与える危険性に違いがあることに着目すべきです。そうすると、「行為の危険性」を未遂の処罰根拠とする客観的未遂論が妥当です。また、行為者の意思や性格・人格の危険性を問題にすることは、行為者の内面に刑罰権力が介入することになり、問題があります。人権侵害の危険性を危惧する立場からも、客観的未遂論が支持されています。


2いわゆる不能犯
 犯罪の実行に着手したが、結果が発生しなかった理由には様々なものがあります。イスに腰をかけている被害者に向けてけん銃の引き金を引こうとしたところ、「カラスが目の前を横切ったため、引き金を引くのを中止した場合」、殺人未遂罪が成立します。「被害者がかわいそうになったので、引き金を引くのを中止した場合」でも、殺人未遂が成立します(ただし、自己の意思により中止しているので、中止未遂の規定が適用されます)。
 では、次のような場合はどうでしょうか。引き金を引こうとしたが、イスに座っていたのは被害者に似せた人形であった。あるいは、けん銃には弾が込められていなかった。このように外形的には殺人罪の実行に着手しているように見えますが、結果が発生しえない場合でも、殺人未遂罪が成立するでしょうか。生命侵害の危険性のある行為が行われたといえるのでしょうか。行為客体が存在しない、あるいは行われた行為は結果発生の危険性はなかった。このような場合、そもそも実行に着手したとはいえないのではないでしょうか。構成要件該当行為は開始されていない、それに密接に関連した行為も開始されていない、したがって結果発生の危険性もない。未遂として処罰する必要はあるでしょうか。これが不能犯の問題です。


3危険概念をめぐる主観的未遂論と客観的未遂論の対立
 主観的未遂論の立場に立つなら、行為者に犯罪的意思がある以上、行為に結果発生の危険性がなくても、未遂として処罰することができます。未遂処罰の根拠となる危険性とは、行為者の意思・性格・人格の危険性であり、主観的危険性です。そうすると、およそ結果発生の危険のない丑の刻参り(うしのこくまいり)のような迷信・都市伝説の場合でも、行為者に意思の危険性があることを理由に未遂犯として処罰できます。これに対して、客観的未遂論の立場に立つなら、行為に結果発生の危険性がなければ、未遂として処罰することはできません。行為者に犯罪的意思があることは、あくまでも故意や責任の問題として扱われます。そうすると、丑の刻参りのような行為は、被害者にとって無害な行為はなく、行為の危険性がないので未遂犯にはあたりません。
 迷信犯については、そのような行為では結果の発生はありえないので、「一笑に付すべきナンセンス」として片づけてもよいでしょう。しかし、行為客体が不在であった、けん銃に弾が入っていなかったが、殺人の実行に着手しているような外観がある場合でも、「一笑に付すべきナンセンス」として片づけてよいでしょうか。意見が分かれると思います。客観的未遂論は、未遂処罰の根拠である行為の危険性は、結果発生の客観的危険性であると考えます(客観的危険説)。そうすると、結果発生の危険性は客観的にはなかったならば、未遂の成立を認める必要はありません。そのような行為を処罰するのは刑罰権の濫用という批判もあります。


4危険概念をめぐる客観的危険説の修正
 結果が発生する危険性がなかった場合にまで、未遂として処罰するのは刑罰権の濫用であるという批判は説得力があります。結果発生の危険性の有無は、行為客体が不在であったなどの事実が明らかになった時点で明らかになりますが、行為の時点では危険性があると認識されていたのではないでしょうか。判断の時点によっては、行為の危険性の有無の判断は変わってきます。これは、刑法の役割・任務にさかのぼって考えるべき問題です。
 刑法の目的は、法益の保護、犯罪の予防です。この予防されるべき犯罪とは何か。未遂犯の場合、それは「犯罪の実行に着手した」行為です。この行為を予防・規制することによって、結果の発生を未然に防止することができます。この目的を実現するためには、実行の着手の時点に照準を合わせて、結果発生の危険性を認定する必要があります。行為者が一定の行為を行おうとしたとき、刑法は責任能力を有している一般の行為者を想定しながら、刑法の禁止・命令規範に従って行動を制御することを求めます。つまり、刑法は、一般の行為者が刑法規範に直面し、そのときに認識した危険な行為を規制することによって、犯罪の予防目的を実現する行為規範という性質を有しています。このような刑法の行為規範性を重視するならば、結果発生の危険性は、その規範が行為者に向けられた行為の時点において、行為者の認識や一般人の認識可能性を基準に具体的に判断されることになります。このような見解を具体的危険説といいます。これは客観的未遂論の立場から主張されていますが、それは客観的危険説を修正することによって、妥当な結論を出そうとしています。
 もっとも、刑法規範は行為規範に尽きるものではありません。裁判官が未遂の成否を判断し、適正な処罰の範囲を確定するための規範でもあります。その意味では、刑法は、裁判時に裁判官に向けられる裁判規範でもあります。ただし、刑法規範は、行為時においては行為者に向けられる行為規範であり、それは裁判時においては裁判官に向けられる裁判規範でもあります。2つの規範は、単一の刑法規範の2つの側面として理解できます。
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