Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第3回講義「現代と人権」(2013.10.11.)

2013-10-12 | 日記
 第3回 現代と人権   日本の観念論--白樺派(その2)
 前回は、白樺派の思想の特徴が観念論的であると評価されている理由を考えてきました。そして、白樺派がその思想に基づいて取り組んだ「新しき村」の運動の特徴を見てきました。今日は、その続きになるので、前回の内容を振り返っておきたいと思います。
 白樺派の思想の特徴は、「宇宙の意志」を重視し、それに従うところにあります。志賀直哉の『暗夜行路』の一節に、「宇宙の意志」が象の形をして現われて、悪い人間と戦うシーンが描かれています。人間は、この像に対して大砲や地雷を用いて反撃します。しかし、象の皮膚は一町(約110メートル)ほどの厚みがあるので、その程度の攻撃では象にダメージを与えることはできません。食糧攻めしても、象は朝ごはんを食べてから、50年ほどして昼ごはんを食べるので、戦争が長期戦になると人間はもちません。賢者は、象を怒らさなければ、象は悪いことはしないといいます。インドのお坊さんは、あの象は神だといいます。しかし、他の人々は、象を何とかして殺そうとします。志賀直哉の『暗夜行路』では、主人公が象になって、悪い人間と闘っていることを想像しています。それは現実にはあり得ないことです。しかし、宇宙の意志が象の形をなして、悪を退治してくれる、あるいは自分がその象になって悪と戦うというのは、非現実的ですが、誰もが一度は想像したことがあることではないでしょうか。戦争や災害などによって、人類が危機に直面し、地球が破滅しそうにあったとき、目を閉じて、心の中で祈って、救いの神が現れるのをじっと待つというような感じです。誰もが、救世主が現れてくるのを期待しているのです。現実的ではないと思っていても、心のどこかにそのような期待があるように思います。白樺派の場合は、それが「宇宙の意志」と呼ばれているものです。この宇宙の意志が必ず問題を解決してくれる。この意志に従って行動することによって、問題が必ず解決される。それを自分の生活の信条にしよう、倫理的義務にしようと考えているのです。今日は、この「宇宙の意志」と倫理的義務の関係についてお話しします。これは白樺派の思想的弱点を考える上で非常に重要です。
 皆さんのなかには、宗教を生活の指針として毎日過ごしている人がいると思います。私がドイツで暮らしていたときのことです。大学の図書館に行くために、地下鉄に乗っていると、隣の女性が細かな文字で書かれた本をじっと読んでいるんですね。何を読んでいるのかと思って、ちらっと見ると、聖書を読んでいるんですね。少しの時間を使って聖書を毎日読んでいるんだろうなと思いました。誰かに命令されたから読んでいるのではありません。自発的に神と対話しているんです。そのような生活が倫理的な生活であり、自分で決めたことをしっかりと行なうことが倫理的な義務をまっとうした生活なのだと思います。それによって、幸福を実感できるのです。しかし、倫理的義務を全うすれば、幸せを「実感」できても、幸せで「ある」とは限りません。ここに白樺派の思想の落とし穴というか、弱点があるように思います。「宇宙の意志」に従って、倫理的義務を全うしているという実感、正しいことを行っているという実感があるために、逆に現実の社会や自分自身の在り方に対して、批判の目を向けることができなくなっているように思われるのです。
 以上のことを踏まえて、今日は「白樺派の弱さ」を考えたいと思います。

(4)白樺派の思想的脆弱性
 武者小路は、理想社会を建設するために、「新しい村」の運動を実践します。全国の文学青年に呼び掛けて、多くの若者を「新しき村」に集めました。自分自身も、所有している財産を処分して、住居や農機具などの購入費用にあてました。それによって、「新しい村」での集団生活・集団労働の基礎が準備されました。
 白樺派の活動は、文学の創作活動と「新しき村」の運動の二つに分けることができます。そのように分けた場合、「新しき村」の運動は成功したとは必ずしも言えないようです。久野さんと鶴見さんは、その原因を分析していますが、それは武者小路らが「制度」に対して十分な理解がなかったことにあると言っています。「個人の善意と労働の喜び、この二つだけで、理想社会建設の運動に乗り出した武者小路は、善意と労働とを組織する制度について、まったく理解をかいていた」と述べられています。この意味を考えたいと思います。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本は、日清戦争や日露戦争に勝利し、アジアにおける軍事大国化の道を歩み始めていました。そのような世界情勢のなかで、文学青年は、人道主義・個人主義の理想を掲げて、「新しき村」の運動に集まりました。農業に集団で従事して、そして生活に必要な農作物を受け取り、残りの時間は文学や芸術に使う。このような自己実現の生活が安定的に続くならば、紛争や対立は起こりません。安定した平和のなかに、幸せを実感できると思います。そして、この「新しき村」の運動が、一地方の小さな規模の運動から、社会・国家のレベルで大規模に進められていったならば、国家観の戦争や紛争も起こらない平和な時代を築き上げることも不可能ではありません。貧富の差や格差なども生じない平等な社会も決して夢ではありません。
 しかし、農作業において、村人が食べれるだけの農作物を安定的に収穫するというのは、そんなに簡単なことではありません。農業は、自然災害や気候変動の影響を直接に受けるので、科学性・客観性・計画性が求められます。善意から、額に汗して働いて、労働の充実感と喜びを実感していれば、上手くいくと考えるのは、甘いと非難されても仕方ありません。必要な程度を超えて農作物をつくり、それを一般の市場に出荷して、現金化することをしなければ、農機具を買い替えることも、苗や種、肥料や飼料を買うこともできません。「新しき村」の住人が必要な分だけを取った後に残った余剰生産物を貨幣経済の市場に「商品」として流通させ、それが売買されて貨幣の形で戻ってくる必要があります。そして、その貨幣を基に、苗や種、農機具などを購入して、再び商品としての農作物を作るという拡大再生産をしなければ、貨幣を手にすることはできないのです。ですから、必要な農作物を取って、後の時間は文学や芸術に使うというような時間・精神的的余裕はあまりないというのが実情なのです。全社会的規模で普及し確立されてる市場のメカニズムにおいては、働きたいときだけ働いて、休みたいときに休むというような生活様式は不可能です。よい農作物ができた時には出荷して、できなかったときには出荷しないというような不規則・不安定な商売も認められません。安定的で品質が保証された商品の流通が求められているので、不安定な商売は市場のメカニズムによって淘汰されてしまします。武者小路は、このように労働によってモノが作り出され、それが商品として交換されて、貨幣になって戻ってくるという資本主義経済の制度を理解していたでしょうか。久野さんと鶴見さんは、この制度に対する知識の不十分さが「新しき村」の運動の失敗の原因であると見ています。村の人間関係も複雑だったかもしれませんが、なによりも資本主義制度に対する理解の乏しさが、失敗の原因であるといえます。
 武者小路は、商品経済の基本について、十分な知識を持っていたとは思えません。国家・社会の規模での資本主義制度に対して、十分な知識はなかったようです。1860年代から明治維新が進められ、日本は資本主義化の道を歩み始めました。それは、資本主義化の道を均一的に、一段ずつ歩んで行ったわけではありません。今の日本の資本主義経済においても、コンピュータ化、情報化、IT化といった流れがあるように、当時の日本の資本主義化においても、内容的な変化、制度的な変化がありました。テキストの後ろにある年表を見てもらえるでしょうか。例えば、1928年には日本共産党に対する弾圧が行われ、1929年には労農党の代議士山本宣治が暗殺されています。1930年には、浜口首相が暗殺され、1932年には井上大蔵大臣が暗殺され、団琢磨が暗殺され、犬養首相が暗殺されています。このような政治テロは、資本主義経済の制度的変化とは無関係ではありません。端的に言うならば、日本の社会が全体として、欧米の資本主義国との競争関係に入っていった、そのために軍国主義を強化しなければならなくなった、経済的な権益や市場を確保するために、アジア諸国に対する経済的・軍事的な進出を本格化させていったということです。しかし、武者小路には、このような経済社会の制度的変化についての正確な認識はないようです。彼は、政府が戦争について語る表面的な言葉を信じて、それを批判する目を持っていなかったと言えます。その当時、戦争を進める政策の基本には、これは聖戦である、正しい戦争であるというイデオロギーがありました。アジアをアメリカやヨーロッパ諸国が植民地支配しているので、彼らからアジアを解放し、真に独立させる必要があり。この戦争は、そのための正しい戦争であり、その中心的や役割を日本が担わなければならないという考えがありました。武者小路は、これを真に受けていたようです。だから、当時の中国国民党の蒋介石が日本による中国大陸への軍事的攻撃を批判したことを正確に理解できずに、蒋介石は日本人の善意が分からない奴だと言ったのです。そして、1941年に太平洋戦争が起こった時も、アメリカ、イギリス、中国の指導者を「三馬鹿」と笑いとばしたのです。

(5)白樺派の戦争責任
 白樺派が、日本の戦争政策に対して批判の目を持てなかったことには、日本資本主義の制度の変化、質的な変化が理解できなかったことがありますが、その無理解の根本的な原因は、彼らの観念論的な立場にあると思います。
 「宇宙の意志」は、人々を幸福に導いてくれる。従って、それは正しい。それに基づいて行動することこそが、白樺派の倫理的義務である。その義務を全うして生活することによって、幸せを実感し、実現することができる。このような「宇宙の意志」の論理は、それを正しいと信じ、それに従って行動していると実感している人にとっては、心に響くものです。正しいことを行なっているという実感は、自分が行なっていることの正しさの確信につながります。「宇宙の意志」は、また欧米諸国の支配からアジアの人々を解放し、幸福にすることを求めている。日本は、そのために行動している。自分たちの義務は、それを応援することである。その義務を全うすることが、白樺派だけでなく、日本人の倫理的義務である。日本人として、その義務を全うして暮らすことこそが、幸福な生活である。「宇宙の意志」、自らに課された倫理的義務、それを全うすることでもたらされる幸福の実感。このような観念論の特徴が、日本の戦争政策や自分の立場に対して批判の目を持ち得なかった理由になっているのではないかと思います。
 しかし、戦争が終わった後、自分の見詰め直して、戦争に協力をしことを悔い改めた人もいます。久野さんと鶴見さんは、高村光太郎という詩人の「協力会議」というタイトルの詩を紹介しています。協力会議とは、分かり易く言うと、国の政策に協力する人の意見をまとめて、それを国に伝えるための組織です。高村は、委員になってほしいと言われて、その委員になります。しかし、意見を言っても、それが国に反映される気配はなかったようです。それどころか、異様な重圧がうえから覆いかぶさり、のしかかってきたと言います。その結果、協力会議は、ある意思によって一方的に動かされてしまった。高村は、その会議が行われている建物から、国会議事堂が霊廟のように見えたといいます。霊廟とは、先祖や偉人の魂を祭る神社やお宮のことです。高村は、自分の詩にそのようなことを書いたために、検閲を受けて、発行できなくなったそうです。高村が「協力会議」を書き、戦争に協力したことを反省したのが1950年のことでしたが、当時は「宇宙の意志」に従い、善意から倫理的な行動として協力したのです。
 このような無批判ぶりは、高村に限らず、白樺派の人々に共通しています。戦争が終わって、その問題に気づいた人は、そんなに多くはいないと思います。「宇宙の意志」に基づいて、文学の創作活動に携わって、また「新しき村」の運動によって理想社会のモデルを作ると言っていましたが、このような牧歌的な考えに基づいていたため、自分は良いことを考え、良いことを行っているのに、なんで中国やアメリカ、イギリスは文句をいうんだろう。不思議だ。わからない。なんで戦争になるんだろう。このような疑問しか持てないでしょう。戦争の本質、それに加担していることの責任を自覚することはできないでしょう。例えば、久野さんと鶴見さんは、武者小路実篤について、次のように論評しています。白樺派の運動の中心人物は武者小でしたが、白樺派の運動を始めた時、彼が自分の胸に秘めていた目的は、青春期にある若者に特有の無限大のものでした。全てが可能であり、全てが実現できるという壮大なものです。自分にはそれを行なえる無限の力がある。1920年前後の彼の初期の作品においては、すべて自分がモデルとして書かれ、すでに自分が理想像として描かれています。このことは、戦争が終わる頃の作品、戦後直後の作品においても同じです。主人公は自分自身です。その人物は、理想的な人間として描かれています。過ちを犯したり、挫折したりしません。これは一体どういうことでしょうか。「宇宙の意志」を理解し、それに沿って行動しているので、過ちもや挫折とは無縁だということでしょうか。自分の善意は、必ず周囲の人は理解してくれるであろうという自信があったのではないかと思います。こんな具合ですから、戦争が終わっても、武者小路は、自分が行ったことに対して責任を自覚できないのです。久野さんと鶴見さんは、こんな武者小路を「忘れの名人」と書いています。「新しき村」の運動は成功しなかったため、武者小路自身も村から離れていきましたが、この苦い経験から、武者小路は何も学んでいません。この経験は、彼の記憶からきれいに洗い流され、彼の思想はもとの状態のままにあります。鈍感と言うか、無神経というか、無感覚と言うか、悲惨な戦争に対して、また「新しき村」の失敗に対して、まったく無感覚なのです。このように挫折を感じない精神構造は、天才的だと評価されています。うらやましいとまで言われています。

(6)白樺派の観念論的優位性
 ただし、白樺派の人たちが、みな武者小路のよう忘れ名人で、責任に無自覚であったわけではありません。高村光太郎は、協力会議のなかで苦しんだことを、その当時は明らかにしませんでしたが、1950年に詩として表したことは先にお話ししました。戦争に協力・加担した責任を一身に背負い、岩手県の山奥の吹雪の降り込む寒い小屋で、一人で住んで、自分で自分に罰を科し、水牢の刑、水責めの刑に処しました。戦前・戦中に自分が行ってきたことを自分で見つめ、それを自分で判断し、裁くという方法もまた観念論的なものです。戦争に協力したことの責任の取り方は、自己の内部で自己完結した責任の取り方です。ひたすら自己と向き合いし、自己告白という方法で行われる観念論の方法論だということができます。
 千家元麿もそうです。1888年、島根県の出雲に生まれ、1948年に亡くなっています。彼の家は出雲大社の宮司であり、非常に厳しい家庭であったようです。父親は、明治時代に司法大臣、東京の知事まで務めた政治家だったようですが、奥さん以外にも女の人と不倫しており、元麿は、不倫相手の女流画家とのあいだに生れた子どもでした。不倫相手の子どもとして生まれたことにコンプレックスを持っていたと思います。恵まれない環境の中でも、自分の仕事をもって働いている母親に対して同情していたようです。母に対する同情は、権威的な父に対する怒り、家柄に対する批判となったようです。このような境遇のなかで生まれ育った元麿が、「宇宙の意志」にもとづいて、平和で平等な社会を目指して活動を始めたことは、高く評価すべきことと思います。その生活態度、詩に現れた彼の清らかな心は、「立ち話し」という詩にも表れています。日々の生活において、夫婦があれこれと用事を話している。忙しそうに話している。そんなときでも、背中に背負われてる子どもの可愛らしいしぐさ、笑顔が鮮やに描かれています。彼の子どもは1944年に戦死し、翌年に妻も病死しています。貧乏ではありましたが、楽しく、仕事にうちこむなかで彼自身も1948年に死んでいます。戦争には反対しませんでした。それに協力しました。しかし、白樺派の理念を最も徹底して正直に生きた人だといえます。

(7)観念論と「実感」
 高村や元麿のような存在があったにもかかわらず、武者小路は不思議なほどの無責任な感じがします。それを「実感」というキーワードから考えてみたいと思います。
 久野さんと鶴見さんの分析には、「実感」という言葉があちこちに出てきます。例えば、6頁に「宇宙の意志」と倫理的義務について解説したところでは、社会に対する働きかけも、社会運動も、自分にとって「実感」をもって正しいと思える限りにおいて、倫理的義務として自らに課されると述べられています。また、15頁には、白樺派が生み出した民芸運動の意義について述べたことろでは、太閤秀吉が使った茶わんの価値を、その歴史的由来や因縁によって評価するのではなく、あくまでも自分たちの今日の「実感」に照らして判断するといいます。20頁で、白樺派の観念論には「制度」の観念が欠落していたため、制度を超越したところで観念的に成立するコスモポリタン(世界市民)的な傾向に流れてしまったと評価されていますが、このコスモポリタン的な傾向にマッチするものが「実感」なのです。「制度」に対する理解が欠如していたため、今の国家制度に問題がないのか、君主制度で果たして平和が実現されるのか、社会主義こそが平等な社会を作るのではないかといった批判的な検証は行なわれませんでしたが、この「実感」が批判的に作用する可能性があったのかというと、そうではありません。彼ら自身、明治維新以降の日本の資本主義制度のなかで生まれたにもかかわらず、彼らの「実感」の感情は、そのような制度から切り離されて、コスモポリタン的に理解されていますが、「実感」は制度から逃れられないのです。「自分の皮膚の下にまで入り込んでしまった旧社会の習慣に結局はよりかかって、判断の規準とすることになってしまう」というのは、制度が自分の体にしみ込んでいて、「実感」はその制度に合致しているという感情でしかないということです。私は、久野さんと鶴見さんの20頁の分析と批判が非常に重要ではないかと考えています。さらに、21頁では、里見とんが自分が実感を持ち得ぬ限り国策に協力できないとしたのは、ある意味で観念論と実感尊重という立場を強く貫いた結果であって、戦争反対でも反体制的でもありません。総じて白樺派の実感尊重の考えは、制度に対する無知、制度によって形成された自己の思想に対する無知、自己の実感に対する無知であったため、社会認識と批判を曇らせ、保守主義思想に対して妥協する道を開いたといえます。志賀直哉も、一度は天皇反対にまで踏み切りながら、国策支持の側にまわることができたのは、実感という個人主義的で観念的な判断基準しか持ち得ていなかったためだろうと思います。
 実感は、ものごとの是非を判断する基準になりますが、個人によってその内容は異なってきます。その意味ですごく主観的です。また、明確な根拠によって裏付けられるものではありません。情緒的で、非合理的です。自分の思想的な限界を超え出るきっかけがなければ、結局は現状に収まるしかない。それが、白樺派の実感尊重であったと思います。実感を尊重するというのは耳触りが良いのですが、結局は自分の外にある現実と直面できない、自分の限界を知ることもできない。結果的には、現実を批判することもできないのです。

(8)白樺派の公共遺産
 高村光太郎や千家元麿は、自分が行ったことを忘れることなく、また自分の追い求めた理念を忘れることなく、最終的には挫折していきましたが、彼らはそれによって幸せな人生をまっとうできました。これに対して、武者小路は違います。久野さんと鶴見さんは、彼のことを、例えば天才的な忘れの名人であり、うらやましいぐらいだと批評しています。たぐいまれな資質だとも言っています。それは、皮肉な言葉のように聞こえますが、少し違う意味も込められています。
 理念や観念のみを信奉して、それを頭のなかで繰り返し呪文のように繰り返すと、飽き飽きしてくることもあります。マンネリ化してくることもあります。そうすると、もうやめとこうと、挫折していまいます。武者小路は、挫折しませんでした。彼は、「宇宙の意志」という人道的で理想的な理念に基づいて行動しましたが、マンネリ化することなく、長く活動を続けることができました。自分に対して過大なほどの倫理的義務を課すことなく、観念論的な活動を長く続けることができました。その秘密は、同じ観念に基づきながら、それを常に新しい情熱で再生させ、再燃させたことにあります。理念と観念への献身をばからしいものとして斥ける人がときにいます。そのような人に抵抗できたのです。天才、やうらやましい、といった評価は決して皮肉ではありません。武者小路は、挫折して、失敗しても、その苦い経験を記憶から洗い流して、忘れ去って、理念に新たな息吹を吹き込み、再生させる名人なのです。ひょうひょうとした彼から私たちは学ぶべきものは多いと思います。
 観念論というと、現実を見ない思想の典型であると批判されることがあります。とくに唯物論の側からそのような批判が出されます。しかし、問題はそんなに単純ではありません。観念論には問題点や弱点もありますが、優位性や強みもあります。武者小路、高村、元麿の生きざまを観念論ゆえの生きざまとして理解することが必要だろうと思います。
 以上で、白樺派の観念論についての検討を終えます。次回は、日本の唯物論について3回に渡って考えます。テキストの30頁から37頁まで読んできて下さい。