Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第2回講義「現代と人権」(2013.10.04.)

2013-10-05 | 日記
 第2回 現代と人権   日本の観念論――白樺派(その1)
(1)観念論とは何か
 第1章の「日本の観念論――白樺派」から考えていきたいと思います。久野さんと鶴見は、『現代日本の思想』の第1章において、白樺派を取り上げています。彼らが白樺派を取り上げているのは、白樺派が、20世紀の初頭において、非常に注目される思想的な取り組みを行なったからである。ここでは、白樺派を日本の観念論の代表として位置付けているので、白樺派の取り組みの観念論的性格を理解することが重要なテーマになります。
 白樺派の文学運動は、大正時代から昭和の初期にかけて、1910年から1928年頃まで続きます。その後の戦争の時代に入り、取り組みは中断されますが、戦後の1948年から再開されています。久野さんと鶴見さんは、白樺派の運動は、「観念論と言う思想流派のなしとげうるかぎりで最もよいものを含んでいる」、「昭和時代におよぶ最も実りある観念論の運動」だと高く評価しています。しかも、それが「戦後の保守主義の思想家のささえになっている」ともいわれています。
 実りのある観念論、プロダクティヴな観念論、生産性のある観念論とは、一体どういう意味でしょうか。皆さんは、観念論という言葉を耳にしたとき、どのような事柄をイメージするでしょうか。観念論とは、自然や社会について考察する場合、精神的なものが物質的なものに先立って存在し、精神的なものが重要であり、本質的であると考え、精神的なものがあって、物質的なものもが成立すると理解する哲学の一般的な立場をいいます。例えば、ある事柄や物事の内容や本質を認識しようとする場合、認識する側の精神、その直観、ひらめきが物事の本質を見抜くうえで重要性を持ちます。目の前で起こっている自然現象や社会現象の成り立ちや本質を解明するにあたって、それを分析するのではなく、観念的な思考にもとづいて、その本質を明らかにし、また他の現象についての説明を手掛かりにしながら、それを論理的に推理しながら、目の前の現象の本質を説き明かすということで。
 このような観念論は、倫理や宗教の問題にも関係してきます。一般に倫理というものは、私たち一人一人が現在の社会や組織において行動する際の基準のようなものです。法律上の義務のように外的に強制されるものではなく、自ら自発的に順守する義務のことです。今の社会や、所属している組織が何を必要としているのかを考えて、そこから倫理的義務の内容が導き出されますが、そのような考え方は観念論的ではありません。観念論の立場からは、一人一人の人間の中に隠されている可能性を発揮することを(自我の完成)を目標とすることが、倫理を意味します。倫理というのは、自分を発見して、その自分を実現することなのです。
 観念論の立場から考えると、倫理は宗教に似ています。例えば、信仰心の厚い人が、その教えに導かれて精神修養する場合、自分自身の精神に教えを取り入れるために修行します。修行が上手くいかない場合、自分自身を精神的に鍛え上げて、宗教の教えが精神に入ってくるように鍛練します。そして、悟りの境地に入っていきます。宗教においては、修行する者と神との間で対話が行われます。対話する以上、神が存在することは大前提です。目に見えるか、見えないか、言葉が聞こえるか、聞こえないか、そのようなことは、些細なことで、神がいるから宗教の道に入っていけるわけです。これは宗教の特徴であり、観念論の立場とも共通しています。

(2)観念論としての白樺派
 では、白樺派は、どのような意味で観念論なのでしょうか。白樺派というのは、前回少し説明しましたが、日本文学史においては、ある一つの時代を作りあげた文学思想と文学運動です。それは、大正デモクラシーを背景に、自由主義思想が社会に広がり始めた時代に、人間の生命の偉大さと大切をさを高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義の立場から文学を創造した運動です。白樺派の以前には、自然主義という文学の運動がありました。自然主義は、ありのままの自然を観察し、その真の姿を描きます。人間の生命が偉大であるというような価値判断や評価は、排除されています。価値判断を斥けることによって、自然や人間を美化することなく、ありのままに表現するわけです。
 自然主義は、ダーウィンの進化論などから影響を受けました。人間の生命を、偉大であるとか、尊いという価値的に考えるのではなく、自然とその法則に基づいて生まれ、育ち、そして滅んでいくものとして理解します。人間は、その生物体として内に秘めている遺伝と、それを取り巻く社会的な環境によって成立し、その内的要因と外的要因の分析と総合によって、人間の本質も理解されるわけです。この意味において、自然主義は、科学主義・実証主義的であるといえます。
 白樺派の立場は、そのような科学主義・実証主義とは異なります。久野さんと鶴見さんは、白樺派の人々は、「宇宙の意志が、人間の幸福を計ってくれるという信仰」を持っていると説明しています。人間の幸福は、「宇宙の意志」によって計画され、実行され、そして実現されるということです。神が我々を導いてくれるようなイメージです。この「宇宙の意志」に背いて、行動し、人々を不幸にしている人間がいます。それは「こざかしい人間」です。白樺派の1人である志賀直哉の『暗夜行路』のなかで、宇宙の意志が象の姿をして現われて、人間と闘う姿が描かれています。こざかしい人間が妙なことをして、他人を不幸にしなければ、この象は怒らないですし、人間に対して闘いを挑むこともしません。宇宙の意志である象は、人間を幸福にする存在であり、人間に害を加えることはありません。しかし、人間が宇宙の意志に反して行動するから、宇宙の怒りが爆発すのです。それが、象の姿をして暴れまわるのです。
 例えば、人間は科学技術を発展させ、物質文明を求めてきました。しかし、そのような物質的豊かさばかりを追求して、精神的なもの、心の問題を軽視してしまったのではないでしょうか。地球温暖化の問題などは、人間が地球の法則・地球の意識に背いて、好き勝手に経済開発にあけくれてきたツケとして回ってきた問題だと考えることもできるのではないでしょうか。人間が宇宙の意志に従って行動していたならば、このような問題は起こらなかったのではないでしょうか。宇宙の意志と人間の意志が調和すれば、人間は安心した生活を送ることができるし、幸福にもなれるのです。白樺派の人々は、このような素朴な考えを持っているようです。3・11の東京電力福島第1原発の事故を受けて、脱原発動に参加している人のなかにも、このような考えに似た思いを抱いている人がいるのではないでしょうか。
 白樺派の観念論的性格は、まさに宇宙の意志が先に存在しているという点にあります。私たち人間の課題は、その内容を正確に理解し、宇宙の意志に自分たちの行動をあわせことです。それによって、人間とその社会は幸福へと導かれるというのです。その行動は、人々を苦しめ、不幸にしている政治た社会に働きかけて、それを変革するような積極的なものではなりません。宇宙の意志を念頭に置きながら、幸福な生活を設計し、その範囲において行動するという消極的なものです。宇宙は、我々の手の届かないところに存在していて、それがすでに意志を持っています。私たち人間は、その意志を受け止め、それに従って行動すればればよいのです。その意味において、宇宙の意志は、客観的で絶対的なものであるように思います。ですから、その客観的で絶対的な意志に従うことが、我々の倫理的な義務となるわけです。
 皆さんの場合は、自分のなすべきこと、義務、責任というものをどのように考えているでしょうか。今の社会を見渡したとき、どのように行動することが求められているのでしょうか。日本の経済は、どうでしょうか。15年来のデフレ、物価が下落が続いていますよね。サラリーマンの平均賃金も下がり続けていますよね。人は、あまりお金を使わないようにしていますよね。企業は、商品が売れ残ると困るので、値段を下げて、売ろうとしますよね。そうすると、私たちは少しは買おうかなと思って、ようやく買いますが、物価を下げて物を売っても、企業の売り上げはそれだけ減るわけですから、利益が減りますよね。企業の利益が減ると、従業員の賃金を減らすなどの合理化を行いますよね。私たち従業員の給料が減れば、物を買おうという気は起りませんよね。貯蓄にまわしますよね。そのうえ、消費税率がアップすれば、ますます財布のひもは固くなりますよね。このように社会の現状、その動きを正確に見て、われわれは将来どのような職業に就けばよいのか、またもっと良い経済政策を実行してくれる政府を選ぶにはどうすればよいのかを考えますよね。社会を見渡して、一定の方向性を見据えて、自分の行動を決めますよね。このように自分のなすべきことを決める方法、自分の行なうべき行為を自分で決める方法、倫理や責の考え方は、けっして観念論的ではありません。しかし、白樺派はそうは考えません。宇宙の意志に従って、自分の幸福を追求するために行動するのです。それが倫理的な行為であり、その行為を行なうことで義務を果たしたことになるのです。
 白樺派の倫理的義務には、いくつかの特徴があります。一般に宗教は、瞑想と修行を通じて悟りを開いて、自分に倫理的義務を課すことを求めます。それは、非常に過酷で重い責務です。弱い人間は、その重さに耐えかねて、逃げ出してしまうほど重い義務です。しかし、白樺派の人々は、自分の倫理的義務を狭く限定します。彼らは、心の向くままに、気の向くままに、休みたいときには休んで、急がずに、あせらずに、自分の文学的仕事を続けるという義務を自分たちに課します。なぜかというと、現実の社会に立ち向かい、国家権力によって迫害された社会運動家の苦い経験があったからです。例えば、白樺派の運動が始められた1910年に起こった「大逆事件」において、幸徳秋水が国家によって死刑にされたことなどが影響していると思います。また、あまりにも観念的に考えすぎるため、重すぎる倫理的義務を自己に課して、その重さに耐えかねて自殺した有島武郎のような不幸な事件も影響が与えています。
 このような観念的な認識論にもとづいて、自分の倫理的義務を導き出すというのが白樺派の立場です。白樺派の人々は、特定の宗教を信仰しません。宗教を信仰するというよりも、何かを信じ続けるということを重視します。キリスト教、イスラム教、仏教などの神や仏という唯一の存在の教えに導かれて、そこへと向かうというのではなく、重要な教えに導かれて、毎日を送る生活スタイルこそが重要なのです。その意味では、神も仏も混ぜごぜにして、そのいずれの存在を認めるという立場に立っています。特定の宗教に偏らないというのは、日本の民衆信仰とよく似ています。8頁では、次のように書かれています。「宇宙に意志があるという世界観、その宇宙の意志を実感によって感じ取るという認識論、宇宙の意志に沿って自己を生かすことだけを考えればよいのだという倫理(観)、したがっていろいろな宗教の道すじができるので、どれにたいしても敬意と親しみをもつのがよいという寛容な宗教観、それらが、白樺派の哲学の背骨である」。このように白樺派の哲学の背骨が太かったことが、この運動が幅広く進められた、また持続的に進められた秘訣だったといえるのではないでしょうか。

(3)白樺派の産物
 白樺派は、このような観念的な自由な世界観、認識論、倫理観、宗教観を持っています。しかも、この観念論は、実りのある観念論、プロダクティヴな観念論、生産性の高い観念論と評価されています。白樺派は、大正デモクラシーの時代に、自由主義の理念に基づいて、理想主義・人道主義・個人主義の立場から、文学活動を行ないました。また、今からお話しするように、一定の場所において集団で生活し、労働と学問、生活と文学を一体的に進めていきました。このような白樺派のどこに、実りがあるというのでしょうか。プロダクティヴなところがあるというのでしょうか。このあたりの問題を念頭に置きながら、白樺派の人たちが、これらの思想に基づいて、実際に何を行ったのかを見ていきたいと思います。それは、白樺派の積極的な側面、肯定的な側面です。それを見たうえで、そのあと、白樺派の消極的側面、否定的側面を見れば、この本が白樺派を全体としてどのように捉えているのかがよくわかります。
 久野さんと鶴見さんは、「白樺派の実りの第1は、おたがいの成長を助けるグループをつくることに成功したことである。このことは、近代の日本の歴史にめずらしい」と述べています。お互いが、お互いの成長を支え、助け合うためにグループを作ることは、今の社会では珍しいことではありませんが、大正時代から昭和の時代にかけて、とくに文学の世界においては、そうではなかったようです。文学者がグループを作ると、その内部で、批判しあい、傷つけあうことがよくありました。作品を書いて、それが世の中に認められれば、売れっ子とそうでない人との間に対立が生じて、敵対する関係ができてしまいます。これに対して、白樺派の場合、そのメンバーが助け合って、それぞれ自我の実現に成功したというのです。白樺派には、文学者だけでなく、詩人や歌人、劇作家、画家、美術史家がいて、様々な人たちから成り立っています。白樺派は、文学の上では、他のグループと同じ様に、一つの文学の流派でした。そのような人たちだけのグループであったならば、他のグループと同じ様に、内部抗争を起こして、対立しあって、潰れていったのかもしれません。そのようにはならず、幅広い分野の人たちによって担われていたからこそ、このグループは、1950年代の半ばまで、およそ50年ものあいだ続いたのではないかと思われます。志賀直哉が、若い頃ついた小さなウソを、歳をとっても、作品のなかでこだわって書いていることが紹介されていますが、グループのメンバーの間が疎遠であれば、そんなウソは昔の話で、もうあれこれ取り上げて書くまでもないことです。それを年老いても作品のなかで書き続けているということは、そのようなウソでもお互いに許せる間柄が出来上がっていたということを示しているように思います。
 白樺派は、このように相互協力のグループでしたが、その実際の活動でも特に重要なものとして紹介されている一つに、「新しき村」の運動があります。1918年に宮崎県の児湯(こゆ)郡木城(きしろ)村から始まり、その後、1939年に埼玉県の入間郡毛呂(もろ)山葛貫(つづらぬき)に移って進められた運動です。メンバーが共同生活しながら、自発的に労働し、自分の食べるものだけを作り、後の時間は自分の好きなことに使う、自我の実現に使う。そういう志を持った人たちが作ったのが「新しき村」でした。白樺派の人たちは、全国から、白樺派の活動に賛同する文学青年をに呼び掛けて、人々を集めました。集まった人々は、自分の財産の一部を投入して、土地を買い、農機具をそろえ、住居を建てて、そこで生活しました。武者小路実篤は、1918年から8年間、そこで労働し生活しました。久野さんと鶴見さんは、この「新しき村」の運動を、理想社会をつくるための運動、唯物論が日本に根を下ろす前の観念的な発想による理想社会建設運動の試みであると見ています。武者小路実篤は、「新しき村」の建設にあたって、神に感謝する言葉を残していますが、そのなかに観念論的と評価できるフレーズが多々見受けられます。「私をここまで導いてくれた神よ。私にはもう人類は犠牲を払わずにあなたのもとに帰れる時に達しているように思えます。私はその道を見出したと思います」。武者小路は、「神」という宗教的なシンボルに対して語りかけていますが、それは白樺派の人たちに共通するシンボルではありません。彼らに共通するのは、「宇宙の意志」です。武者小路は、この「宇宙の意志」に導かれて、宮崎県の「新しき村」にようやくたどり着いたのです。そして、そこが出発点となってどこに向かうのかというと、人類が犠牲を払わずにすむあなたのもとだというのです。明治維新以来、日本はヨーロッパの文化や科学を取り入れて、一流の国になることを目指して、取り組んできました。古いアジアから脱して、ヨーロッパの仲間入りするために努力してきました。これを「脱亜入欧」といいます。そして、経済的に強いだけでなく、軍事的にも強くならなければ、ヨーロッパやアメリカの植民地・属国になってしまうといって、軍事力を強化しました。これを「富国強兵」といいます。このような政策の延長線上に、日本は中国(当時の清)と戦争をし、また南へと進んでくるロシアとも戦い、いずれの戦争においても勝利するほどの軍事大国になっていました。白樺派の人たちにとっては、それは「宇宙の意志」に合致する行為ではなく、それに反する行為だと映ったのではないでしょうか。日本にも、相手国にも、多くの犠牲者が出たはずです。多くの建物が壊され、多くの自然が破壊されたことは、いうまでもありません。このような悲惨な状況を目の当たりにして、白樺派の人々は、犠牲を払わずに、幸福になることはできないのかと考えたのだと思います。そして、このような悲惨な結果を避け、幸福になることができる方法が、ようやく見つかったのです。それが「新しき村」の運動だったのです。強制ではなく、自発的に農作業について働き、全員で収穫を喜びあり、自分が食べるものだけ受け取り、後の時間は、例えば冬の寒い間は、いろりの近くに机を寄せて、文学作品を書き続けるという理想的な生活を送ったのです。これを神に感謝せずにはいられない、というのが武者小路の率直な気持ちだったと思います。
 有島武郎もまた、北海道に所有していた土地で、同じ様な実践を行っています。有島の場合は、家が裕福で、地主でした。親から譲り受けた土地を小作人に貸し与えて、そこから搾取・収奪して豊かな生活を送っていました。しかし、そのような小作人いじめを止めて、土地を小作人の共同管理に移し、自分は地主の地位から退きました。それまで土地を持ったことがなかった小作人は、それを共同で管理して農業に従事しますが、この人々は自発的に集まった文学青年ではありません。昔からの小作人です。この点が、有島の実践と武者小路の実践とのあいだに違いをもたらしています。有島は、次のようにいいます。小作人に分け与えた農場が大規模であっために、その管理運営に当たっては小作人のことをよく理解している吉川という人に任せ、運営方針についても、札幌農科大学に相談して、具体案を作ってもらってください。ただし、その運営方針に基づいて、共同管理するのもしないのも皆さん次第です。運営方針が決まれば、私はこの農場から身を引きます。今後、お金に困ることがあるかもしれませんが、たまにここに遊びに来て、数日の宿を提供してもらえれば、それだけで十分です。有島は、このように述べているのです。この農場は、もとはといえば有島の家のもので、両親から譲り受けた土地です。それを小作人の共同管理に移し、しかも自分はそこから身を引くというのです。要するに、地主が地主を止めたということです。1922年の有島の最後の言葉が印象的です。「終わりに臨んで諸君の将来が、協力一致と相互扶助との観念によって導かれ、現代の悪制度の中にあっても、それに動かされないだけの強固な基礎を作り、諸君の精神と生活とが、自然に周囲に働いて、周囲の状況をも変化する結果になるようにと祈ります」。小作人によって共同管理された大規模な農場が、上手く運営され、誰が得をするわけでもなく、また誰が損をするわけでもなく、お互いに協力し、お互い助け合って、労働と生活を築きあげてほしい。有島は、このような気持ちを述べています。1922年の時点での日本の社会は、働く者を苦しめる悪い制度だらけでした。そんな悪い制度のなかにあっても、それに影響されずに、しっかりとした基礎をつくってほしい。皆さんの労働と生活が素晴らしいものになれば、それが多くの人たちの共感を呼んで、周囲に広がっていくと思う。そのようなモデルになるよう、がんばってほしい、と述べています。この年の翌年の1923年に有島は、軽井沢で愛人と自殺します。なぜ自殺したのかは、分かりませんが、有島は地主でしたから、働かずに小作人から収奪し、それが不正であると自覚していました。だから、土地は土地を耕している小作人が管理するのが一番だと思い、地主であることを止めたのです。そういう意味では、消極的であるとはいえ、理想社会の建設を目指して取り組んだといえます。しかし、愛人を作るというのは、理想的な生活とはいえません。農場の小作人たちは、理想社会に向かって、毎日額に汗して働いているのに、自分は愛人を作っている。有島自身の人間的弱さの表れだったのでしょうか、女性に惹かれ、その人を愛人にしてしまい、悩んだようです。このような自分には理想社会を語る資格がないのではないかと悩み、理想の社会と現実の自分のギャップが大きすぎたため、自ら命を絶ったのではないかと思います。思いつめた観念論、強すぎる正義観、自分に重すぎる荷を負わせる悩みのために、有島は自殺したのではないかと思います。
 武者小路にも悩みがなかったわけではありません。武者小路には、「新しき村」において2つの悩みがありました。それは、「新しき村」のなかにおける人間関係とお金の問題です。理想に燃えた文学青年には、ときおり頭でっかちの人がいるものです。自分を良く見せようとする人もたまに出てきます。自分より能力のある人がいると、ねたんだり、ひがんだりする人もいます。理想に燃えているだけでは、毎日の厳しい労働に耐えれません。仕事をさぼりがちになります。働いている人とそうでない人がでてくれば、そこはもう理想社会ではありません。また、農産物を収穫し、必要なものだけ手にして、あとは自我実現の時間にあてるとはいっても、日本社会では、実際には貨幣経済が成立しているので、残った農作物を商品として出荷して、村全体を経営的に運営していかなければなりません。頭でっかちで、観念的な話しで自己実現をして、満足に浸っている文学青年には、そのような経営・経理は非常にめんどくさい仕事です。このように歯車がかみ合わないまま、「新しき村」は、規模が小さくなっていき、武者小路自身は、8年たって、村から離れていきます。
 武者小路の「新しき村」の運動と有島の運動とを比べると、何が同じで、どこが違うでしょうか。「宇宙の意志」に自己の行動を合わせる、それが自己の倫理的義務であると考える発想方法は同じです。しかし、その行動は、武者小路の場合、この理念と理想を全国の若い文学青年に訴えかけて、かれらを集め、一か所に住み移って、集団労働・集団生活を行ったのに対して、有島の場合は、すでに集団的に農業に従事していた小作人に農場の管理をまかせ、かれらの集団管理に委ねます。「宇宙の意志」、理想主義、人道主義という理念に基づいて、「新しい村」の運動を作り、そこに人を集めて、引っ張っていくためには、半年、1年が経過して、自分たちの理想がどの程度まで実現したのか、という途中経過を点検していくことが重要になると思います。このような発想は、「新しい村」を建設するために、まず「新しい村」とはどのようなものか、どのような村か、そこで何を行うか、何が実現できるかについて、基本方針や基本設計が明らかでなければなりません。まず「新しい村」の土台を築いて、その上に村を組み立てていくという計画が必要です。段階を経ながら、理想の村が建設されていくと思います。しかし、武者小路の「新しき村」には、そのような計画性はうかがわれません。理念を胸に秘めた若い文学青年が、朝起きて農場に出て働き、収穫したもののなかから必要なものだけを受け取り、それで食べていく。残りの時間は、文学や芸術などの創作活動、自我実現にあてていくというものです。それはそれで、文学青年には有意義な時間の使い方だったと思います。個人としては、働いて身体を動かし、すっきりしたところで創作活動に打ち込むというのは、健康的で理想的だと思います。しかし、そのような個人主義の喜び、幸福、充実だけでは、「新しき村」を経営的に運営していくことはできません。「宇宙の意志」にそう行動がどれだけできているのか、その意志がどれほど実現されているかを判断することもできません。理念が抽象的なので、それがどれほど現実化されているかは判断しにくいのです。そうすると、「宇宙の意志」に従っているという各人の抽象的な実感が重要になって、それを具体的に検証できなかったという問題があるように思います。それは、村を建設する組織の弱さにもつながっていくと思います。観念論の運動は、理念が明確であれば、それを目指している人たちの結束を強くするでしょうが、それが曖昧であれば、結束を強めることはできません。そういうこともあって、「新しき村」はバラバラになっていったのではないかと思います。
 それに比べて、有島の場合は、そのような問題はありません。有島は地主でした。小作人は、地主によって搾取され、収奪されます。両者の間には、社会階層・社会階級において、大きな違いがあります。この違いがある以上、同じ理念、同じ理想を共有することは難しいと思います。従って、自らが小作人をいじめている地主である以上、「宇宙の意志」に従って行動するためには、地主であることをやめ、そして土地を小作人に譲り、彼らの共同管理・共同運営にまかせることだけです。観念論的な理念、絶対的で客観的な宇宙の意志のような理念は、異なる階級・階層の垣根を超えて共有することは困難です。このような観念論の限界を自覚するならば、有島のとった行動を理解することができます。
 「新しい村」も、有島の農場も、それぞれの自発性にまかせて、お互いがお互いを助け合いながら、成長を支え合いながら、取り組まれました。それは、観念論という思想的な立場から行われた運動としては、決して意味のないことではありません。私たちが、今の社会において、何かを始めるときに、大きな手掛かり、ヒントを与えてくれる良い経験なのではないでしょうか。例えば、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起こった後、私たちは、原発事故の危険性のなかで生活しています。今は大丈夫であっても、後に大きなツケが回ってくるような社会システムのなかで生活しています。これに疑問を感じた人が、1人、また1人と立ち上がり、自覚的な運動を始めています。脱原発を求める首相官邸前のデモなどを見ていますと、その理念を実現するために、まず組織を作り、メンバーを集めて、責任者を選び出し、組織運営の規則を作るようなことは行われていません。脱原発の声を直接首相官邸に向けるために、ツィッターで呼びかけるなどしているだけです。そうすると、自然に人が集まる。取り組みが始められた当初はは、数人規模の小さな運動でしたが、それが徐々に広がり、増えていきました。なかには、電車やバスに乗って帰宅する途中で、首相官邸前で下車して、デモの集団に交わる人も出てきているようです。デモ行進するわけでも、大きな声でシュプレヒコールを叫ぶわけでもありません。ただ、「脱原発」と書いた小さなプラカードを掲げるという、ささやかな行動を行なうだけです。派手な行動はありません。そして、帰宅しなければならない時間になると、そのまま地下鉄の駅に戻るといった感じです。「新しき村」や有島農場のような集団生活はしていません。ものすごくフットワークが軽い運動です。時間もとられませんし、あまりお金もかからないと思います。それが強みで、長続きしそうな感じがします。会合があったり、打ち合わせがあって、時間がとられる。他人と意見交換をして、上下関係ができるというようなこともありません。「脱原発」の理念と政策は、明確であり、観念論的でもありません。その運動の実現度合いも、政府の政策内容を見て、途中経過を確認することができます。現在の日本社会を見回すと、白樺派の「新しき村」の運動を教訓にして、様々なことを考え、実行に移すことができるのではないでしょうか。

 次回は、白樺派の後半を考えます。16頁から28頁までを読んできて下さい。