Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第6回講義「現代と人権」(2013.11.01.)

2013-11-02 | 日記
 第6回  現代と人権 日本の唯物論--日本共産党の思想(その3)

 日本共産党は、1922年に設立されましたが、翌年の1923年に幹部活動家が検挙されました。それを受けて、天皇制の廃止や日本の社会主義的変革に対する科学的な確信を持ちつつも、一般の国民がまだそれを受け入れていない状況、意識の面で未成熟である状況を考慮して、その成熟を待ってから活動するのがよいと判断し、党組織を解消しました。当時の日本共産党は、共産党の国際組織であるコミンテルンの日本支部であったので、コミンテルンの中央組織の許可なく組織を解消することはできません。コミンテルンの代表は、日本の共産主義者に対して組織を再建するように働きかけ、また自覚的な共産主義者は組織の再建のために活動しました。1926年になって、組織が再建されましたが、その時には、設立当時のメンバーはおらず、新しいメンバーになっていました。そのなかで、特に理論的な指導者として注目されたのが福本和夫でした。彼の「分離・結合論」は、共産党の組織に普及されました。久野さんと鶴見さんの評価によれば、その影響は太平洋戦争が終わるときまで続いたと言われています。
 福本の「分離・結合論」は、日本社会を変革するためには、国民大衆と結びついた労働者の全国的な単一組織が必要であることを論じますが、そのためにその中心部分となる強固な共産党組織を作るために、純粋の共産主義の理論を学び身に付けた純粋な共産党をまず作って(分離)、その後多くの労働者・国民大衆と結びつく(結合)ことを主張します。このような考えに基づくならば、共産党の当面する活動は理論学習活動、理論闘争として位置付けられます。しかしながら、このような理論学習活動は、組織を閉鎖的にし、結局は労働者・国民大衆との結びつきを弱める結果に終わりました。これに対して、野呂栄太郎は労働者を対象にした学習会のなかで、参加者が日本の政治や日本の経済に関して具体的な質問を投げかけてきたことの経験をきっかけにして、これまでのように一般理論から演繹して具体的な現象を説明するのではなく、具体的な現象から出発して、そのなかに一般理論が具体的・普遍的に貫かれていることを説き明かしました。野呂の理論活動は、労働者に社会変革の確信を与え、文字通り日本共産党が労働者とともに社会を変革する組織として発展するための理論的基盤を作りあげました。
 しかし、このような理論的な正しさは、組織活動・組織方針に直結したかというと、その点は少し疑問が残ります。この点は、久野さんと鶴見さんが、福本イズムの問題点が太平洋戦争が終わるまで克服されなかったと指摘していた点とも関わる問題であり、戦前の日本共産党の活動における積極面と消極面を正確に理解するうえで重要であると思われます。

(7)弁証法的唯物論の実践的困難性
 野呂栄太郎は、日本社会の現実を分析することを通じて、日本資本主義の一般的性格とその特殊的性格を明らかにし、日本社会の変革の道すじをつけました。これは、野呂の偉大な功績です。その当時、日本社会の基本的性格をめぐって、社会主義者の間で見解の対立がありました。それは、後に日本社会党=社会民主党につながっていく社会主義者との間での論争です。日本は明治維新以降、急速な資本主義化の道を歩み、日清戦争・日露戦争以降は、ヨーロッパ諸国に伍するほどの資本主義国、しかも朝鮮半島や台湾を併合する帝国となっていました。このような日本の変革の道すじは、どのようなものか。日本共産党は、まず天皇制を廃止して、民主主義的な制度を作りあげ、その上で社会主義に移行するという道すじを想定していました、後に社会党・社会民主党にへとつながっていく社会主義者は、日本は資本主義・帝国主義国家であるので、次の発展段階は社会主義であり、天皇制などの問題は直接的な関係はないか、あるいは社会主義に移行するなかで解決されると考えていました。両者は、社会主義を目指すという点では一致していましたが、天皇制の問題に対する態度においては決定的に違っていました。ここで重要なことは、天皇制に関して見解が異なる人々は、日本共産党にとって、連帯し、協力しながら社会主義を目指すパートナーなのかという問題です。これに関して、風早八十二という社会科学者が戦後に書き残した野呂栄太郎の人柄を知るエピソードがあります。そこには、次のように書かれています。
 形式論理学によれば、ある一定の物事について判断した場合、、「然り、然り」か「否、否」のどちからになります。一定の基準を立てて、それに合致していれば、「イエス」であり、それに合致していなければ、「ノー」という判断が成り立ちます。「イエス」でありながら、同時に「ノー」という判断は不可能です。それが形式論理学の判断の特徴です。しかし、弁証法的論理学は、「イエスであると同時にノーである」、また「ノーであるち同時にイエスである」という判断がありえます。これは弁証法的論理学の特徴です。例えば、「水素原子と酸素原子の化合物であるH2Oは、液体であるか」という問いに対して、「液体である」と答えたならば、同時に「固体である」とか、「気体である」という答えは成り立ちません。目の前にある水の入ったコップがあるとします。「コップに入っているH2Oは、液体であるか」と問われれば、形式論理学は「イエス、液体である」と答えます。これが形式論理学の答えです。弁証法的論理学は、「イエス、液体である」と答えながら、同時に「しかし、同時に液体ではない」と答えることができます。それはなぜでしょうか。弁証法的論理学は、なぜ矛盾したことを同時に主張できるのでしょうか。コップの水は、液体の状態で存在していますが、より詳しく観察すると、外気にさらされている液体の表面が乾燥して、気化していることが分かります。つまり、「コップに入っているH2Oは、液体であるか」という問いに対しては、「液体であると同時に気体でもある」と答えることができます。また、外気の温度が急激に下がれば、外気にさらされている液体の表面に氷が張っていくこともあります。そうすると、「液体であると同時に固体でもある」と答えなければなりません。物事は、変化と発展のなかで存在しています。この変化・発展の状況を論理的に説明するためには、形式論理学では限界があります。
 このような弁証法的論理学に基づいて、日本の資本主義の変化・発展について考えると、資本主義は歴史的な必然性ゆえに成立しているので、資本主義には必然性があるかと問われれば、「イエス、資本主義は必然的に成立した」と答えることになります。しかし、同時にそれは限界にきて、資本主義から社会主義に移行するので、「それと同時に、資本主義は必然的に没落する」と答えることになります。野呂の研究目的は、日本の資本主義が必然的に成立しながら、その必然性ゆえに没落し、社会主義に移行せざるをえないことを説き明かすことでした。それは、日本の資本主義が発展し繁栄し続けるのではないのかと考えている人に対して、非常に説得力があるものでした。風早のエピソードのかなでも、野呂は「高橋、猪俣両氏を仮借するところなく論難追及」しながら、共産党のメンバーが偏向した考えや、機械的な考え、形式的な公式で割り切る考えに対して、正しい弁証法的な考えを持つように教えたといいます。生まれつき病弱な野呂が、ごつごつした手の肉体労働者を勇気づけ、励ましたといいます。これは、野呂が友人に対して、どのように接したか、誤まった考えに陥った友人に対して、正しい考えはどのようなものかを教え、励ましたエピソードとして、野呂の人間的愛情をよく表していますが、その人柄は理論的に弁証法的論理学に支えられていたと思います。
 しかし、1930年代の日本共産党が、このように「確かにそうだ、しかしどうだろうか」という論法で多くの国民大衆と接したでしょうか。日本共産党以外の政治勢力、団体、個人に対して、たとえ天皇制に対する立場は違っていても、「然り、否」、「否、然り」という方法で接したでしょうか。手をつなぐところは手をつないで、理論的な相違は粘り強く働きかけて、相手が変わっていくのを待ったでしょうか。久野さんと鶴見さんが問題にしているのは、この点なのです。社会変革の正しい理論として弁証法的唯物論が採用され、それが日本資本主義の分析に応用されましたが、組織活動の方針はどのようだったのかという問題です。1930年頃以降の日本共産党の機関紙「赤旗」(セッキ)は、組織活動・実践活動における日本共産党の論理が、弁証法的論理の「然り、否」、「否、然り」ではなく、形式論理の「否、否」の全面否定から成り立っていたようです。その時々に政府の政策に対して、日本共産党の立場から、それを全面的に否定して、政府批判を行うのは当然のことですが、政府に対して反対の姿勢をとっている政党、政治団体、組織、個人に対しても、政府に対するのと同じ様に、あるいはそれ以上に厳しい批判の目を向けたといいます。とくに天皇制との闘争を軽視する社会民主主義勢力に対しては、非常に厳しい批判を向けたといいます。なぜ社会民主主義者に対して、「然り、否」、「否、然り」という態度で接して、相手の問題や誤解を正す粘り強い取り組みをしていかなかったのでしょうか。
 1928年3月15日に共産党が大弾圧を受けて、多くの幹部党員が検挙され、刑務所に放り込まれました。その5年後の1933年6月16日、幹部の佐野と鍋山の二人が、天皇制を肯定する声明文を発表しました(いわゆる「転向声明」)。この声明は、党の活動家に対して衝撃的であり、とくに、天皇制を打倒して民主主義日本を作ることに理論的確信を維持して、獄中で闘っていた活動家にとっては深刻でした。治安維持法違反などの犯罪の疑いで裁判にかけられ、有罪の判決が言い渡されて刑務所に収容されていた393人のうち132人、33パーセントが、佐野と鍋山の後を追いかけるようにして転向を表明しました。裁判中の1370人のうち415人、30パーセントが同じように転向しました。日本共産党の「赤旗」は、このような転向の動きに対して、どのように対処したでしょうか。粘り強く説得したでしょうか。それとも、組織の方針と違うことをやっている「裏切り者」として接したでしょうか。その当時の新聞記事では、次のように書かれています。
 天皇制政府のテロル政策に密通して、党破壊に奔走するスパイ的裏切者の佐野と鍋山を大衆的憤慨を以って断罪せよ。
 プロレタリアートの国際主義に挑戦し、ブルジョア地主の強盗戦争を讃美する天皇主義ファシストの策動を粉砕せよ。
 このように書かれていました。当時の新聞やメディアに特有の過激な言葉が用いられていますが、転向声明を出した佐野と鍋山に対する批判が非常に厳しいものであったことがよく分かります。1933年には、多くの幹部活動家が治安維持法違反で逮捕され、拘置所や刑務所に収容されていました。天皇制政府とその警察組織は、天皇制に反対する勢力には容赦のない対応をしていたことは明らかでした。弁証法的唯物論の理論に基づいて、日本社会を変革するためには、天皇制との対決が避けて通れないことは理論的に明らかでしたが、それを実践することは命がけであることも明らかでした。1928年3月15日の大弾圧を受けて、多くの幹部活動家が警察に捉えられ、また1929年4月16日の弾圧によって、またもや幹部が逮捕されたために、党の組織は、野呂のような30才代か、それよりも若い活動家によって支えなければなりませんでした。若い幹部の組織であっても、理論的に正しいことを実践する方針には変わりありませんでした。従って、天皇制に屈服するなどということは、裏切りであり、党組織の破壊であり、スパイであると非難されたのです。
 当時の「赤旗」には、次のようにも書かれています。佐野と鍋山は、天皇制を支持することによって、労働者大衆が党に対して不信を抱くようにしむけ、それによって党組織を破壊しようとする最悪の解党主義者である。佐野と鍋山は、ありとあらゆるデマを飛ばして、日本共産党にケチをつけ、ブルジョア地主と天皇制警察のテロルに協力している。このように書かれています。天皇制を支持する意見を表明することは、国民大衆の日本共産党に対する不信を作り出しているというのです。すでに述べましたが、1923年に弾圧を受けた時に、天皇制に対する国民の意識はまだ成熟していないから、意識が成熟してから出直そうということで、共産党組織はいったん解消されました。その後10年が経過して、国民の意識は成熟したかというと、そうではありません。天皇制に反対する日本共産党の姿は、それが理論的には正しくても、他の政党や団体から見れば非常に異質な存在であったように思います。天皇制を肯定することが、日本共産党に対する国民の不信を作り出すという状況認識は、あまりにも現実とかけ離れているとしかいえません。1933年から7年間は、相次ぐ弾圧によって共産党組織は壊滅的な打撃を受け、また他の政治勢力も現状追随的になり、1941年12月には、政府はほとんど何の組織的抵抗を受けることなく、太平洋戦争に突入することができました。1930年代の後半には、共産党の活動家による地域的な活動はありましたが、全国的な活動はありませんでした。市川正一は、こういっていました。マルクスやレーニンの書物を読んで共産主義の理論を知ることはできても、社会変革の組織、共産党の組織が必要であることを身を以って知り、身を以って示すことができるのは、共産党員だけである。共産党員は、理論を身につけ、組織を作り、その組織を守り発展させることを任務とする。それなしには、日本社会の変革はあり得ない。このように市川正一は言っていました。1930年代の後半に、組織が壊滅的な打撃を受けた結果、思想を実践する場所がなくなった結果、共産党の活動家は、思想そのものを失うことになっていったのではないでしょうか。
 白樺派の武者小路は、彼の理想に燃えて、それを実現するために「新しき村」の運動に取り組み、さまさまな問題を抱えた結果、失敗してしまいました。武者小路にとって「新しき村」から離れ、「村」がなくなることは、共産党員にとって「党」がなくなるのと同じことを意味します。しかし、武者小路は「村」がなくなっても、相変わらず理想をリフレッシュさせて、取り組みを続けることができました。それは忘れの名人である武者小路ならではのことですが、そこに観念論の強みがあると久野さんと鶴見さんは見ています。逆に、「党」の組織を中心に考え、実践する共産党員にとっては、「党」がなくなることは思想それ自体がなくなることを意味します。1930年代の厳しい時代において、弁証法法的唯物論の理論的正しさを実践することは、多くの壁と困難を乗り越えていかなければなりませんでした。

(8)動かぬ座標の明暗
 それでも、日本共産党は、戦前・戦中に日本の思想界において動かぬ座標としての位置を占めていました。日本共産党の日本資本主義分析、天皇制の基本的性格規定、マルク主主義の理論的解釈など、いずれをとっても大局的に正しい方向性を示していました。そういうこともあって、当時の知識人や研究者は、自分の考えの客観性や正当性を認識するために、共産党の理論を引き合いに出して、それと対比させていたといいます。それは、夜空に輝く北斗七星を見ながら、自分の位置関係を測るのにたとえられていました。しかし、久野さんと鶴見さんは、このような積極面のなかにも消極面があるとして批判的に見ています。久野さんと鶴見さんは、日本共産党が日本の知識人に対して天皇に等しい象徴的な位置をしめていたと、やや皮肉な表現を用いて述べています。このような動かぬ座標が、かえって知識人に側で共産党に対する無抵抗・無批判の追随傾向を生み出したとも言っています。およそ政治勢力で批判を受けないものなどありえないはずです。完全に正しいことを主張している宗教的な神のような存在でない限り、本当に正しいのか、問題はないのかと、常に批判さらされなければならないです。それが国民の政治的感覚を養うことにもつながりますし、政党が国民につながる道だろうと思います。日本共産党は、戦前・戦中において天皇制に不徹底な態度をとった社会民主主義者に対して厳しい批判をし、結果的に孤立する運命をたどりました。戦後の知識人や研究者が、戦後においても、日本共産党から批判されるのを避けるために、自分の主張を抑制しているとするなら、それは知識人・研究者だけでなく、日本共産党にとっても利益にはならないことです。神のような存在でない限り、政党や団体は批判にさらされるのを覚悟しなければなりませんし、批判を受けた場合に、徹底的な批判をし返すというのではなく、説得力のある説明を重ねていくというのが大切です。とくに国民大衆と深く結びつこうとしている政党であれば、なおさらのこと厳しい批判に対しては、粘り強い説得が求められるでしょう。しかも、その場合、大前提についての説得だけでなく、小前提についての説得ももとめらるでしょう。久野さんと鶴見さんは、学生や知識人だけを相手にするときは、大前提の大局だけをおさえて説き明かした唯物論の見解で足りるけれども、社会人一般、とくに労働者や農民を相手にするときは、生活面の細部の一点一点について、現実に対する唯物論的認識と変革の道すじを説明していかなければならないと言います。そのあたりの理論的な積み重ねがなければ、説得力を持たないのです。久野さんと鶴見さんは、白樺派の観念論に生産的な、プロダクティヴな側面があると主張していますが、このような主張に対して、唯物論の立場から、あれは観念論だから、そもそも間違っているというだけでは、誰も納得しません。1920年代の日本において、なぜ観念論が流行したのか。それが哲学だけでなく、文学の領域にも影響を及ぼしたのは、なぜなのか。このような質問に対して、その必然性と同時に、その限界を示し、その限界を乗り越える哲学が唯物論であることを指し示すことが求められていると思います。
 日本の現代史において、日本共産党の思想と活動は、大きな影響を与えました。ここでは、1950年代前半までの日本共産党の理論と実践に限定せざるをえませんでしたが、1950年代に日本共産党は、組織的には分裂し、いわゆる「武力革命方式」にもとづいて、「火炎ビン戦術」を採用して、警察署への襲撃など非常に間違った路線を実践しました。戦後直後に衆議院で35議席あったにもかかわらず、このような誤った運動方針を採用したために、1議席にまで減少するという結果になりました。その問題の総括は、1955年に正式に明らかにされました。その当時、少なくない真面目な学生がこのような暴力的な運動に関与し、大学から離れ、学業をおろそかにしたそうです。そして、信じていた組織が誤まった方針を出していたなんて、信じられないと、組織不信、人間不信に陥ったそうです。傷ついた身体と心はそんなに簡単に癒せるものではないと厳しく批判した人も出たそうです。そのような詳細な記録は、小説などにも残っています。戦前の資本主義分析に基づく活動と同様に、戦後に変化した政治・経済関係の分析のうえに、確かな路線を築き上げるには時間がかかったのかもしれませんが、そのような誤りから、理論的方針と組織的方針を確立するきっかけをつかんだというのであれば、一歩前進ということになるのかもしれません。庶民の日常感覚に定着しているために、十分な解明がなされてこなかった問題、すなわち日本の国柄と家の制度、端的にいえば国体と天皇制に対して、一貫した批判を向けてきたのは日本共産党だけであり、戦後の社会においても、日本の社会変革の途上において、避けて通ることのできない敵を分析して、それを運動方針化したのも日本共産党だけです。その実践について、あれこれ結論を出す時期ではありませんが、そのような実践を可能にした科学的な理論、社会を分析し、社会の様々な制度が必然的に成立した由来、さらにそれが必然的に崩壊せざるを得ない法則性を明らかにできた弁証法的論理というものを我々も学んでみる必要があると思います。

 以上で第2章の日本の唯物論の検討を終わります。次回から3回に渡って、第3章・日本のプラグマティズムについて検討したいと思います。やや分量が多いですが、そこでは「生活綴り方運動」という興味深い教育実践運動が取り上げられているので、ぜひ学んでもらいたいと思います。72頁から87頁までを読んできて下さい。