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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-5):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)「実体性恢復の段階」(B)絶対知の立場:キリスト教がヘーゲル哲学の根本だ!

2024-04-02 10:53:54 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-5)
(10)-2-5 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続4):「キリスト教」が「ヘーゲル哲学」の根本をなしている! 
★「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。(69頁)
☆じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

★ところで「実体の立場」とは一般に「宗教の立場」だ。そして宗教のうち、ヘーゲルにとって最も重要なのは「キリスト教」だ。(69頁)

《参考1》ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
《参考2》(イ)《精神》の「実体性の段階」とは、「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。(63頁)
☆「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)(63頁)

★1806年夏学期の講義でヘーゲルは「キリスト教」について次のように述べる。(69-70頁)
「☆《神》が、おのれ自らを《直観》することが《宇宙万有の永遠なる創造》である。
☆宇宙においては各点はいずれも《相対的全体性》として、独自の生活を営んでいる。かく多様なるものが《定立》せられること、これが《神の慈愛》である。
☆しかしまた《個別者》は《個別者》としておのれを《止揚》しておのれの《普遍性》を示す。かくすることが・・・・・・絶対的転換点たる《神の義》であり、《神の義》は絶対的威力として実在するものの否定的な側面(Cf. 悟性的規定)を取り出し、それを《対自存在》から他のすべてとの《統一》に転換させる。
☆《神》は、《永遠に自己同一的な自己意識》であって、《静止的》であると同時に《生成的》なこの二重な宇宙過程のいずれかに《無媒介的》に埋もれてしまわないから、彼(《神》)が被造物を再び創造することも全く《イデアリテート》の性格を保持しているが、このかぎり、《神》は《永遠の智慧》であり《祝福》である。
☆おのおのの《相対的全体性》は、そうして極めて些細なものの場合でも、その生活過程においては《祝福》せられている。もちろんこの《祝福》せられた《自己内存在》を《相対性》が中断しはするけれども、しかし《個別者》はまさに制限せられたものであるから、それが導いて行かれる《審判》はいわれなきものではない。
☆が《神》は《絶対に普遍的な全体性》であるから、《世界の審判者》としても《断腸の思い》をなさざるを得ぬ。《神》は世を《さばく》ことは《できず》、彼(《神》)はそれをただ《憐れむ》ことができるだけである。」(69-70頁)

★これは「キリスト教」がいかに「ヘーゲル哲学」の根本をなしているかを明瞭に示している。(70-71頁)
☆《神》は、一方においては《愛》(《慈愛》)であり、他方においては《義》だ。(70頁)
☆《愛》であるかぎり、《神》は一切のものを存在させるから、すべてのものは《祝福》された存在を与えられている。(70頁)
☆しかし存在を許されてはいても、無制限に許されているわけではなく、いつもある一定の限界が置かれている。なにかの存在が自分の負わされている限界を越えて存在しようとする場合には、《神の義》《さばき》がやってくる。つまり《神》がそれぞれのものを負うている限界へと追い返す。追い返すというのは、それぞれのものがそのものだけで成り立っているのではなく、他のものとの連関においてのみ成り立っているということを意味する。(70頁)
☆この意味で《神》は否定的に働くが、しかし否定的に働きながらも《神》は《愛》としてそれぞれのものに存在を許す。かくて「《神》は《愛》であると同時に《義》である」といわれる。(70-71頁)
☆この《愛》という方面は、論理的に言えば「個別性」の方面だ。それに対して《義》という方面は「普遍性」の方面だ。かくて《神》は「個別的」であると同時に「普遍的」であり、「普遍的」であると同時に「個別的」である。(71頁)
☆それは「キリスト教」においては宗教的に述べられているが、「ヘーゲル哲学」においては、宗教は「構想力」の産物であり「表象」の産物とされるという相違がある。(71頁)

★キリスト教には「三位一体の教義」がある。(71-72頁)
《参考1》「三位一体説」はアタナシウス派によって理論化された「神」と「イエス」と「聖霊」はそれぞれ別な「位格」(ペルソナ)をもつが「実体」(サブスタンシア)としては一体であるという神学説だ。325年のニケーア公会議に始まる数回の公会議を通じて、キリスト教の正統教義とされた。アタナシウス派が正式に正統とされるのは、コンスタンティノープル公会議(381)においてである。

《参考2》ニケーア公会議(325)では、アタナシウスの「子なる神」として「イエスの神性」を認める説を正統とすることで落着した。(アタナシウスは「父なる神」と「子なるイエス」は同質(ホモウーシス)であると主張した。)なおニケーア公会議では「聖霊」をどう考えるかという新たな問題が加わった。

Cf. 「聖霊」:キリストが地上を去った後、信者に信仰と心の平和を与えるのは「聖霊」すなわち「信者の心に宿るキリスト」である。それでは「聖霊」も「神性」を持つのか?「聖霊」の「神性」を認めれば、キリスト教は多神教となる。この問題を解決したのが、コンスタンティノープル公会議(381)だった。「聖霊」の「神性」が認められ、「神」は、自らを同時に「父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)」の中に示す「一つの神」だと宣言された。すなわち、「父と子と聖霊」は各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの「実体(スブスタンティア)」、すなわち「一つの神」であると決定された。

Cf. アリウス派:ニケーア公会議(325)でアリウス派は「イエスの神性」を否定し、異端とされた。アリウス派はキリストは「神聖」であるが「神性」をもたないとする。イエスは「人」とされる。アリウス派はローマで排除されるが、ゲルマン人に広がった。なおアタナシウス派が正式に正統とされるのは、コンスタンティノープル公会議(381)においてである。
・アリウス派は、コンスタンティヌス大帝の晩年に異端であることが取り消されたので、コンスタンティノープルのローマ帝国宮廷ではしばらくの間、優勢であった。
・しかしアリウス派はコンスタンティノープル公会議(381)で再び異端として認定されたため、ローマ領内での布教はできなくなり、北方のゲルマン人に布教されていった。一方のアタナシウス派の教義は「三位一体説」に発展したが、その「父と子と聖霊は三つの面を持つが一体である」(「三位一体説」381年)という教義は理解が困難であったのに対し、アリウス派の教義は神とイエスの関係をわかりやすく説明したので、アリウス派はゲルマン人に受け容れやすかった。

Cf. ネストリウス派:「三位一体説」(アタナシウス派)が正統とされ、キリストの本性は「人性と神性の両性を持つ」(「両性説」)とされたが、ネストリウス派はこれを批判し、イエスの本質は「人性」だとした。エフェソス公会議(431)で議論がなされ、最終的にネストリウス派は異端とされた。
単性説の否定
Cf. 「単性説」:キリストの本性をどう捉えるかという論争はまだ続いた。ネストリウス派は「両性説」(アタナシウス派)を否定した。そして「単性説」も「両性説」を否定するが、ネストリウス派とは逆に「単性説」はキリストの本性は「神性」だとする、つまり「キリストに神性だけを認める」。カルケドン公会議(451)が召集され、「単性説」について議論されたが、ここでも「三位一体説」(アタナシウス派)が勝利した

★「神が自分のいとし子、最愛のひとり子を大工の子として、この世につかわす」ということは、「それぞれの《個別者》が、《個別者》であると同時に《絶対者》としての権威を持っている」ことを示す。(71頁)
☆しかし人間は《神の子》であると同時に《人の子》でもある。つまり人間は「肉を負うたもの」、「罪を負うたもの」、「十字架を負うたもの」だ。それゆえ人間は「肉」に死ななければならない。(71頁)
☆人間は「肉に死する」ことによって「精神」として「霊」としてよみがえる。それによって人間は「父なる神」のもとに帰る。(71頁)
☆したがって「父なる神」はまず「裁きの神」、「超越的な神」にとどまるが、しかしその神も「超越的なもの」にとどまるならば、「実在性」あるいは「現実性」をもつことができない。そこで神自身が肉に宿り、即ち賤しい「大工の子」として生まれねばならない。神がそれぞれの「個別者」を「個別者」として存在せしめるゆえんがそこにある。(71頁)
☆「キリスト教」あるいは「三位一体の教義」を論理的に説明すれば、以上のように言える。(71頁)

★「キリスト教」あるいは「三位一体の教義」は「父なる神」とか「ひとり子イエス」とかいうように「構想力」や「想像力」で神話として形づくられたものを含み、「論理的」でない。上述したように「キリスト教」あるいは「三位一体の教義」を「概念的」に直して把握すると、ヘーゲルの言う「理性」の立場・「精神」の立場・「主体」の立場が出てくる。(71-72頁)
☆そこでは「反省」あるいは「悟性」が必要となる。そこにヘーゲルが、「理性」は「悟性的理性」であるというゆえんがある。(72頁)
☆こうしてヘーゲル『精神現象学』、いな「精神」の概念そのものにとって、根本的に重大な意味をもっているのは「キリスト教」であり、そのうちでも「三位一体の教義」あるいは「使徒信条」だ。(72頁)

★もっともヘーゲル『精神現象学』は「感覚」や「知覚」や「悟性」から始まっているのであって、「宗教」から、また「キリスト教」から始まってはいない。(72頁)
☆それはすでに「反省」の立場が取られているからだ。(72頁)
☆ところがヘーゲル『精神現象学』では、「《反省》によって分析せらるべき《全体》」として「《信仰》の立場からする人生観・世界観」が「ひそかに前提せられている」。(72頁)
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