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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その4):客観的な「国権」と「財富」の対立、主体的な「善」と「悪」の対立!

2024-08-06 18:53:20 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その4)(261-263頁)
《参考》「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」の2つに分かれる。(260頁)
☆「自己疎外的精神の世界」a「現実の国」は、「風」のごとくいつも「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとくいつも「自己とちがったもの」になる「財富」との2つをもって要素としており、これら2つの相反したもの(「国権」と「財富」)が、「火」にあたる「精神」Geistによって活気づけられ、相互に他に転換する。(260頁)
☆だから「国権」と「財富」とは、いずれも「あれどなきがごときもの」だ。a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり「空の空」だ。(260頁)
☆しかしこのことは「地上」(「地」・「水」・「火」・「風」の4元素)と別に「天上」のあることを暗示している。そこに「此岸」(「地」)に対する「彼岸」(「天」)として「信仰の世界」((BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」)がある。(260頁)
☆そこでa「現実」の世界のほかにさらにb「信仰」の世界があり、したがってa「現実の国」において「国権」(「風」)と「財富」(「水」)とが互いに他に転換し疎外するばかりでなく、「此岸」(a「現実の国」)と「彼岸」(b「信仰」)も互いに疎外するが、この対立、すなわち「此岸」(「地」)と「彼岸」(「天」)との対立を克服しようとするのがb「純粋透見」だ。(260頁)

(60)-3 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」すなわち「教養の世界」は、客観的には「国権」と「財富」の対立、主体的には「善」と「悪」との対立という2種の対立を含む!
★ a「現実の国」(「地上」)において、差し当って意義を持つのは「風」(「国権」)と「水」(「財富」)だ。(261頁)
☆元素「風」について:①規定は「普遍」あるいは「即自」、②「現実意識」は「国権」、③「純粋意識」は「善」、④「現実意識と純粋意識との結合」は「高貴なる意識」だ。(261頁)
☆元素「水」について:①規定は「個別」あるいは「対他」・「対自」、②「現実意識」は「財富」、③「純粋意識」は「悪」、④「現実意識と純粋意識との結合」は「下賤なる意識」だ。(261頁)

☆②「現実意識」について、「国権」と「財富」との対立は、「『国権』がじつは『財富』」、「『財富』がじつは『国権』」というように転換がある。(261頁)
☆③「純粋意識」について、「善」と「悪」との対立は、「『善』がじつは『悪』」、「『悪』がじつは『善』」というように転換がある。(261頁)
☆④「現実意識と純粋意識との結合」について、「高貴なる意識」と「下賤なる意識」との対立は、「『高貴なる意識』がじつは『下賤なる意識』」、「『下賤なる意識』がじつは『高貴なる意識』」というように転換がある。(261頁)

★「実体」(「地上」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素、さらに別に「天上」がある)には当然、その「普遍的」な面(「風」)と「個別的」な面(「水」)、あるいは「即自的」な面(「風」)と「対他的」・「対自的」な面(「水」)があり、それぞれが「風」(いつも「自己同一」を保つ)と「水」(いつも「自己とちがったもの」になる)によって象徴される。(261頁)

(60)-3-2「普遍」と「個別」、あるいは「即自」と「対他」・「対自」という「実体自身」における区別について、受け入れる意識:①「現実意識」の場合は「国権」(「風」;「普遍」あるいは「即自」)と「財富」(「水」;「個別」あるいは「対他」・「対自」)、②「純粋意識」の場合は「善」(「風」)と「悪」(「水」)!
★「普遍」と「個別」、あるいは「即自」と「対他」・「対自」は、「実体自身」における区別だ。ヘーゲルはここでさらに、この区別を受け入れる「意識」を問題にする。しかし「意識」にもすでに「不幸なる意識」(クリスト教)の場合もそうであったように、「現実意識」と「純粋意識」との区別がある。(261頁)

★まず①「現実意識」からいうと「風」(「普遍」あるいは「即自」;いつも「自己同一」を保つ)は「国権」にあたり、「水」(「個別」あるいは「対他」・「対自」;いつも「自己とちがったもの」になる)は「財富」にあたる。①「現実意識」において「教養の世界」(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)で基本的に対立しているのは「国権」と「財富」である。(261頁)

☆「国権」(「風」)と「財富」(「水」)は、A「真実なる精神、人倫」の「人倫的な世界」(「ポリス」)における「国家」と「家族」にあたる。(261頁)
☆「国家」(古代ギリシャの「ポリス」)と「国権」(B「自己疎外的精神、教養」a「教養と現実の国」;「フランスの封建国家と君主国家」)はどう違うか?ギリシャの「ポリス」の場合の「国家」もむろん「権力」をもって働くが、しかし「ポリス」は「自然的な親睦」によって支えられているものなので格別「権力」の必要が際立っていなかった。しかし「近代社会」になると「個人の独立」が徹底しているために、どうしてもその統合には「権力」による強制の度が強くなる。これが単に「国家」(「ポリス」)であったものが「国権」(「フランスの封建国家と君主国家」)に転化する理由だ。(261-262頁)
☆「ポリス」においても「国家における公共的な生活」のほかに「私的な生活」つまり「衣食住の生活」もむろんある。しかし「個別性」に徹底しない「ポリス」では「営利的」意欲はそれほど顕著でなかった。かくて「国家」に対立するものは単に「家族」(Cf. 「財富」ではない)と呼ばれるだけで十分だった。(262頁)
☆だが「近代」となると、そうはゆかない。「営利」をあからさまに肯定するいわゆる「市民社会」(「資本主義社会」)が発達してくる。「国家」(「国権」)に対するものは、わざわざ「財富」と呼ばれざるをえなくなった。

★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」すなわち「教養の世界」は、①「現実意識」においては、つまり客観的には「国権」と「財富」の対立、②「純粋意識」においては、つまり主体的には「善」と「悪」との対立という2種の対立を含む。(261-263頁)

★すなわち「教養の世界」(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は②「純粋意識」からいうと「風」(「普遍」あるいは「即自」;いつも「自己同一」を保つ)にあたるのは「善」であり、「水」(「個別」あるいは「対他」・「対自」;いつも「自己とちがったもの」になる)にあたるのは「悪」である。(262頁)
☆「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。(262頁)
☆さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

★かくて「教養の世界」には、①「現実意識」に映じたさいの対立である「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、また②「純粋意識」における対立である「善」(「風」)と「悪」(「水」)との対立という2つの対立がある。(262頁)
☆このように「教養の世界」(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)は「客観的」には(①「現実意識」においては)「国権」と「財富」の対立、「主体的」には(②「純粋意識」においては)「善」と「悪」との対立という2種の対立を含む。(262-263頁)

《参考1》「現実意識」と「純粋意識」!
☆ヘーゲルは(B)「自己意識」における「中世カトリック教の意識」(「不幸なる意識」)を(1)「純粋意識」と(2)「現実意識」と(3)「現実意識の自己否定」という3つの段階に分けて展開する。(151頁)
Cf. 「不幸なる意識」における《「普遍性」と「個別性」》の《「結合」と「分離」》の問題!「不幸なる意識」(クリスト教的意識)は「普遍的」なものと「個別的」のものとの矛盾を「統一」づけようとする!(148-151頁) 

《参考1-2》(1)「純粋意識」の段階としての「中世カトリック教の意識」(「不幸なる意識」)は、「帰依・信仰」の段階だ。まだ「概念」の立場に至っていない。「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、それは「ボンヤリとわかっている」にすぎず、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える。それは「概念あるいは思惟Denken」と「感覚」との中間にとどまった「帰依An-dacht」という態度だ。すなわち「思惟そのもの」には到達せず、「思惟にむかっているにすぎぬ段階」だ。(151頁)
☆「音楽を奏しミサの儀式を行じて、クリストを憧憬する」という中世人の宗教意識!(151頁)
☆ここでは「普遍的なもの」(※神)はけっきょく「個別的のもの」(※人間)としてとらえられているから、おのずと「聖墓を恢復しようとする運動」も生じる。すなわち「クリストの聖墓がトルコ人に占領されているから、ぜひ恢復しようという十字軍の運動」がおこる。(151頁)

《参考1-3》「中世カトリック教」の意識(「不幸なる意識」)の(2)「現実意識」の段階!「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」!だが「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない!(152-153頁)
☆「『神』を『精神』として内面的にとらえよう」とする努力によって、(a)「『人間』も罪を負う『人の子』であるとともに『神の子』である」という自覚がえられ、(b)「『神』も『人間の形態 Gestalt』をもったもの」であり、いな(c)「『人間』にかぎらず『形態をもつもの』はすべて『神』の現れである」ところから、(d)「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」ことになる。(152頁)
☆そうなると「欲望し享楽するというような現実的活動」も「決してけがれたものでない」とされる。(152頁)
☆「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はすでに解決されているといってもよいかのように思われる。(152頁)
☆だが「中世カトリック教」のこの(2)「現実意識」の段階においては、「分裂」はすでに解決されているわけではない。①なるほど「人間」はいろいろと「享楽することができる。しかしこれは(「人間」の)「自分の力」によることではない。「日々のパン」も「野原の羊」も「それからとった着物」などはすべて、「神」から与えられたものだ。①-2だから「彼岸的なもの」(「神」)が別にあり、「人間」である自分自身には十分な「現実性」はなく、十分の「力」もないということになる。(152頁)
☆また②「労働」していろいろの「欲望」を充足するには「才能や努力」がいるが、これらも「神」によって与えられたものである。(152-153頁)(Cf.  神の「gift」=「才能」!)
☆かくて「永遠の聖なる神」と「みにくき個別的自己」(「人間」)との「分裂」はまだ十分に克服されていない。(153頁)
☆もっとも、日々のパンも神が賜うたものであるから「人間」は神に感謝し、そうして「神」は食物や才能をも人間に与えるというように、「『神』と『人』との間に『相互承認即ち完全なやわらぎ』が成り立つ」ように思われる。しかし「人間」には(ア)「『神』に感謝しているから、これぐらいなことはやってもよいだろう」というように、「神への感謝」を「誇り」・「功徳」にするという「私」(※私情)(※「個別性」)があり、また(イ)「人間」の「欲望や享楽の意志」には「個別性」が残っていることは明らかである。しかも他方「神」は「個別性」を超えた、したがって「普遍的絶対的」のものだから、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない。(153頁)

《参考1-4》「中世カトリック教」(「不幸なる意識」)における(3)「現実意識の自己否定」の段階!(153-154頁)
☆「中世カトリック教」の(2)「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)
☆ここでヘーゲルは「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」を生かそうとする。(153頁)
☆ヘーゲルは「アセティスィズム」が「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」ことについて述べる。(153頁)
☆「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」は(a)「労働」によって獲得した所有物を投げすて「喜捨」し「寄進」する(※「個別性の否定」)のみならず、(b)なにごとについても「教会」に相談し(※「普遍性の定立」)、その指示を仰ぎ、(b)-2 「自分では決定せず」、即ち「自分の意志を放棄」し、したがって「自己のすべてを放棄する」が(※「個別性の否定」)、(c)これは「単なる否定」にとどまるのではなく、「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」。(※これこそ「中世カトリック教」の意識のの段階の(3)「現実意識の自己否定」の段階だ!)(153頁)
☆「中世カトリック教」において、「絶対者とのやわらぎ」が「免罪」Ablassというかたちであらわれてくる。(153頁)
☆「免罪」はがんらい「懺悔」contritio および「告白」confessio と結びついたものだ。なにか「罪」を犯したときには、悔恨し「懺悔」しなくてはならないが、これをさらに「僧侶」に告白することが要求される。このとき「僧侶」はそれぞれの「罪」に応じて「祈り」とか「喜捨」とか「巡礼」とか(「※「禁欲主義」の「禁欲」の諸内容に相当する)を課す。これらを果たすことによって「免罪」absolutio が宣告される。ヘーゲルはこの「免罪」ということを生かして一般に、「禁欲」を通じて「罪」が赦され「神とのやわらぎ」が成立するという意味に用いる。(153-154頁)
☆むろん「免罪」を行うものは「教会」・「神」である。「免罪」は、「天」からくるものであって「自分」でうるものではない。したがって充実した権能をもつのは「教会」や「神」であって、「信者」ではない。(154頁)
☆しかし「教会」や「神」が充実した権能をもつのは、「個別者」が「帰依」するからだ。例えば「信者」が「喜捨」するからこそ立派な「寺院」(「教会」)も建つ。(154頁)
☆かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する。すなわち「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(154頁)
☆この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(154頁)
☆このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた。(154頁)

《参考2》(C)「理性」(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のところでa「教養と現実の国」とあるが、「現実の国」を構成するものは「国権」と「財富」だ。(143頁)
☆ヘーゲルは「意識」を「普遍的」と「個別的」とにわける。「普遍的」意識は「国権」に服従する。「個別的」意識は「財富」に執着する。(144頁)
☆「普遍的」意識を実現するのは「高貴なる意識」であり、「個別的」意識を実現するのは「下賤なる意識」だ。(144頁)
☆ここへさきほどの「主と奴の関係」(《「ヘーゲルのやり口」1》)をもってくると、「高貴」と「下賤」との間にも同じことが成立する。最初は「本質的」なものは「高貴」であり、「非本質的」なものは「下賤」であるのに、後には「両方」共に「本質的」であるとともに「非本質的」であるということになり、価値において「両者」が同じことになる。(144頁)

《参考2-2》「普遍性」(※「本質的」)の方面の「善いもの」である「批判的良心」と、「個別性」(「非本質的」)の方面の「悪いもの」である「実行的良心」が、後に価値において「両者」(善い「批判的良心」と悪い「実行的良心」)とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!

《参考2-3》また(C)「理性」(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のc「良心、美魂、悪とその赦し」では、「批判的良心」が「普遍性」(※本質的)の方面、「実行的良心」が「個別性」の方面であり、「批判的良心」は「善いもの」、「実行的良心」は「悪いもの」というように一応考えられる。しかし実際には「批判的良心」も「個別的」であり、「実行的良心」も「普遍的」であるとういうことになって、「二つの良心」は同価値になり、「本質」と「非本質」の区別がなくなる。(144頁)

《参考2-4》「本質的」(※「普遍的」)である「善」と「非本質的」(※「個別的」)である「悪」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!(144頁)
☆(C)「理性」(CC)「宗教」のC「啓示宗教」(クリスト教)のところでは、「善」は「本質的」、「悪」は「非本質的」だとされる。しかしやがて「善」・「悪」ともに「普遍的」(※「本質的」)であるとともに「個別的」(※「非本質的」)であることになり、「本質的」と「非本質的」との表面的な区別はなくなってしまう。(144頁)

《参考2-5》「ヘーゲルのやり口」まとめ!(143-145頁)
☆「主」と「奴」との「相互転換」という「やり方」(「へーゲルのやり口」)は『精神現象学』全体に通ずるものだということがわかる。「主」「奴」いずれの「自己意識」も「普遍的」と同時に「個別的」であり、そこにはじめて「相互承認」の関係が実現する。即ち「自己意識」は「無限性」に到達する。これによって「自己以外になにものもない」ということから、「自己意識の自由」の段階となる。(144-145頁)
《参考2-5-2》《「ヘーゲルのやり口」0》「知覚」における「本質的性質」と「非本質的性質」という区別がなりたたない!
《「ヘーゲルのやり口」1》「主人」の意識は「本質的」、「奴隷」の意識は「非本質的」だという区別がなりたたない、すなわち「両者」は価値において同等だ!
《「ヘーゲルのやり口」2》[(BB)「精神」のB「自己疎外的精神、教養」のa「教養と現実の国」]「本質的」な「高貴なる意識」と「非本質的」な「下賤なる意識」が、後に価値において「両者」が同じことになってしまう!
《「ヘーゲルのやり口」3》[(BB)「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のc「良心、美魂、悪とその赦し」]「普遍性」(※「本質的」)の方面の「善いもの」である「批判的良心」と、「個別性」(「非本質的」)の方面の「悪いもの」である「実行的良心」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!
《「ヘーゲルのやり口」4》[(CC)「宗教」のC「啓示宗教」(クリスト教)]「本質的」(※「普遍的」)である「善」と「非本質的」(※「個別的」)である「悪」が、後に価値において「両者」とも同じことになってしまう!「両者」共に「本質的」であるとともに「非本質的」である!

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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