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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ハ「ローマ時代」:((BB)「精神」A「人倫」)Ac「法的状態」という観点から取り扱うにとどめる!

2024-07-30 18:45:16 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ハ「ローマ時代」(249 -252頁)
(57)今ここでは「ローマ時代」をただ((BB)「精神」A「人倫」)Ac「法的状態」という観点から取り扱うにとどめる!
★先に見たように「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階「喜劇」において、すべての「人倫のおきて」(「国家のおきて」と「家族のおきて」)は破壊され、残っているのはただ「個的自己」のみだ。これで「ポリス」は「崩壊」する。(248頁)
☆以上のような次第で、ギリシアの「ポリス」は独立を失って「ローマ帝国」の支配に入るが、これは《 (BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」》における、c「法的状態」にあたる。(Cf. a「人倫的世界」・b「人倫的行為」はギリシャの「ポリス」の時代だ。)(249頁)

《参考1》古代ローマの属州アカエア(前146年設置)ギリシア南部ペロポネソス半島に位置し、マケドニア属州に北で接していた。またアテナイ、スパルタ、テーバイなどのポリスが属していた。
☆ローマ支配前、古代ギリシアのアテナイやスパルタといった有力ポリスはペロポネソス戦争(前431-前404)(アテナイのデロス同盟とスパルタのペロポネソス同盟との間の戦争で古代ギリシア世界全域を巻き込んだ)以降の数々の戦争、マケドニア王ピリッポス2世(在位前359-前336)、アレクサンドロス3世(大王)(在位前336-前323)父子の支配時代(以後、「ヘレニズム」期)を通じ、マケドニアに散発的な抵抗を見せるものの、力を落とした。
Cf. 「ヘレニズム」期は、アレクサンドロス3世 東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシア文化が融合した「ギリシア風」文化の時代だ。アレクサンドロス3世(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプト滅亡(前30クレオパトラ7世の死によってローマ帝国に併合される)までの約300年間を指す。
☆紀元前3世紀、マケドニア王国に対抗するためにアカイア人たちはアカイア同盟(前280-前146)を結成した。彼らは共和政ローマと手を組み、マケドニアやスパルタと対峙した。マケドニアはローマとの戦いで凋落し、前146年共和制ローマの属州となる。アカイア同盟もローマと対決したが、同年にアカエアも属州となった。
☆共和政ローマ期:アカエア属州(前146)では中核となるアテナイやスパルタなどの「ポリス」は、古代ギリシア時代同様に一定の自治を保有した。当時、アカエア属州はマケドニアと一つの属州だった。(前31年、両属州が切り離される。)アテナイは、アレキサンドリアと共に文化都市としてローマ人の尊敬を集めた。キケロがアテナイで学問を習得したことが知られている。
《参考1-2》帝政ローマ期(前27-西ローマ帝国滅亡476):歴代ローマ皇帝はギリシア愛好家だった。ギリシャ文化を愛する皇帝(Ex. ネロ、ハドリアヌス)がアテナイの都市整備の援助を行い、建造物や神殿の整備・修理を行った。ハドリアヌスをはじめ、多くのローマ人がギリシャを訪れ、ギリシャ諸都市は一種の文化観光都市となった。また、ギリシャは文化面でローマに大きな影響を与え、『対比列伝』を著したプルタルコス、『地理誌』を著したストラボンなど多くの学者を輩出した。 詩人ホラティウスは「征服されたギリシャ人は猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)」と述べた。
☆3世紀「軍人皇帝時代」(235-284)と呼ばれる内乱期になり、ローマ帝国が弱体化すると、ギリシャは異民族(ゲルマン民族)の略奪を受けた。
《参考1-3》☆395年、ローマ帝国が東西に分離すると、アカエア属州は東ローマ帝国に属した。西ローマ帝国(395-476)はミラノ、次いでラヴェンナを都に存続したが、4世紀後半に始まったゲルマン人の大移動により、5世紀にはゲルマン人、さらにアジア系のフン族がローマをたびたび掠奪し、大きな脅威にさらされた。(Ex. 410年アラリック1世 の 西ゴート族の「ローマ略奪」)また帝国の防衛もゲルマン人傭兵部隊に依存しなければならず、皇帝は傭兵部隊の意向でたびたび廃位された。
☆476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが、皇帝を追放し、西ローマ帝国は滅亡した。

★「古代の核心は宗教である」との見地を金子武蔵氏はとる。その点からすれば、「ローマ時代」についてもその「宗教」のことを述べるべきかもしれないと金子武蔵氏は言う。(249頁)
★ヘーゲル(1770-1831)も晩年の『宗教哲学講義』(1821,24,27,31)では「ローマ宗教」のことを論じているが、『精神現象学』(1807)では「ローマ人固有の宗教」については全然触れず、「ローマ時代」を「近代」の「教養」が必要とならざるをえなくなる「地盤」であるという意味におけるAc「法的状態」として取り上げているだけだ。(249頁)
☆そうして「ローマ時代」の「宗教」はむしろ「クリスト教」であるという観点をヘーゲルはとる。(249頁)
★そこで今ここでは「ローマ時代」をただ((BB)「精神」A「人倫」)Ac「法的状態」という観点から取り扱うにとどめる。(金子武蔵)(249頁)

《参考2》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)
《参考2-2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考3》(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

《参考4》『ヘーゲルの精神現象学』後半:《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!
☆((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)
《参考4-2》☆終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)
《参考4-3》☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは(C)(AA)「理性」A「観察」であり、また②「対他存在」の側面は(BB) B「教養」Ⅱ「啓蒙」の有用性の立場であり、さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は(BB)C「道徳性」c「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは(CC)「宗教」C「啓示宗教」と「良心道徳」((BB)「精神」C「道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)
《参考4-4》一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

(57)-2 古代ローマにおける((BB)「精神」A「人倫」)c「法的状態」は①「ストア主義」の「自由」を現実面においてあらわしたものだが、それは②「スケプシス的意識」に陥らざるをえない!
★さて(BB)「精神」A「人倫」c「法的状態」では、各人は「所有権」と「人格権」を認められて「自由」だ。(250頁)

《参考5》(CC)「宗教」B「芸術宗教」c「精神的芸術品」第2段階「悲劇」においては、(BB)「精神」A「人倫」すなわち《 (BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)》にかんして述べたように、「家族のおきて」も「国家のおきて」も「運命」の深淵のうちに滅んでいく。(247頁)
☆これはどういうことかというと、ポリスでは本来、「個人の独立性」は現実には認められなかったが、「個人の独立性」を認めるのが当然であるから、「『個人の独立性』を認めない『おきて』」は、したがって「ポリス」は滅び去るのが当然だということを意味する。(247頁)
☆そこで「人間」は「家族」の一員でも「国家」の一員でもない「独立の個的自己」に目覚めてくる。(247頁)
《参考5-2》「ポリス」において、「人間」が、「家族」の一員でも「国家」の一員でもない「独立の個的自己」に目覚めてくると、それが「喜劇」の生まれる時代だ。(247頁)
☆「喜劇」は、B「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階だ。(247頁)
☆「喜劇」では、あらゆるものが「個的自己」のためにある。かくて「自然」は「人間」が生活のために利用する「手段」、着物や住居を作るための「材料」にすぎず、なんら「神秘的」なものではないし、また「国家のおきて」・「家族のおきて」といってもなんら格別「神聖不可侵」のものではなくなる。(247頁)
《参考5-3》B「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階「喜劇」において、すべての「人倫のおきて」(「国家のおきて」と「家族のおきて」)は破壊され、残っているのはただ「個的自己」のみだ。これで「ポリス」は「崩壊」する。(248頁)
☆だが「喜劇」は同時に積極的意義をもっている。「喜劇」は、「個的自己」が、いかなるものに対しても「独立」なものとして「絶対的」意義をもち、「真に『主体』である」ことを表現している。(248-249頁)
☆こうしてギリシャ時代はB「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階「喜劇」で終わる。(249頁)

★(BB)「精神」A「人倫」c「法的状態」は、(B)「自己意識」B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」のうちにある①「ストア主義」にあたり、①「ストア主義」の「自由」を現実面においてあらわしたものだ。(250頁)

《参考6》「無限性」の立場では「自己を限界づけ否定するもの」がないから「自由」がえられる!
☆さてヘーゲルは、「自己意識の自由」について、まず「社会生活」(「社会段階」)のことは素通りし、「道徳」の立場から、①「ストア主義」、②「スケプシス主義」、③「不幸なる意識」(クリスト教)という3つの段階を述べる。(146頁)
☆これらは直接には「主奴の関係」と密接なつながりを持つ。「奴隷」はせっせと働いて「労働」し、「形成」することによって、「主観的・個別的のもの」を「客観的・普遍的のもの」にしてゆく。そこで(「奴隷」の「自己意識」において)「主観的・個別的なもの」と「客観的・普遍的なもの」との間に「統一」がはっきりとあらわれてきて、おのずから「無限性を実現した意識」が登場する。(146頁)
☆「無限性」の立場では「自己を限界づけ否定するもの」がないから「自由」がえられる。(146頁)
《参考6-2》①「ストア主義」:「自由」の実現の仕方が「抽象的普遍性の立場」のものである!
☆「無限性」の立場において得られる「自由」の実現の仕方が、「抽象的普遍性の立場」であるときには「ストア主義」が生じる。「ストア主義」の「自由」は「抽象的」思惟のものにすぎない。(146-147頁)
☆ストア派は「アパテイア」(非情)(※「心の平安」)を強調する。即ち情欲的のものにとらわれず、「思慮」をもって行動し「理性」をもって事に当たるべしという。(147頁)
☆「アパテイア」(非情)を強調するストア学派は、「個別的なものはどうでもよい」というのだから、ストア主義の「自由」は「抽象的」にすぎない。つまり「ストア主義」の「自由」は、「普遍性」は実現しているが、その「普遍性」は「個別的なもの」を捨象し、どうでもいいとする態度、即ち「アタラクシア」(無関心)(※「心の平静」)の態度に基づいている。したがって、現実的なことでは、「ストア派の自由」が「自由」でない場面が多々でてくる。(147頁)

★ところで①「ストア主義」の「自由」は、ただ思想上のもの、観念的形式的なものにすぎないので、その「自由」は実は「不自由」に転じ、そこから②「スケプシス主義」(懐疑主義)が生じた。(250頁)
☆このように①「ストア主義」から②「スケプシス主義」が生まれるのと同じことが、(BB)「精神」Ac「法的状態」において「現実的」な形であらわれてくる。(250頁)
☆古代ローマにおけるc「法的状態」では、各人は(a)「所有権」と(b)「人格権」を認められて「自由」だった。(250頁)
☆まず各人に(a)「所有権」が認められるといっても、一方で「家一つもっていないもの」も、他方で「堂々たる邸宅をもったもの」も「所有権」を認められているのだから、「所有権」の「形式」は同じでも「実質」は非常に違う。(250頁)
☆このように(a)「所有権」と(b)「人格権」が認められているといっても、それらの「実質」は「実力」次第で決まるのだから、このc「法的状態」はけっきょく「弱肉強食」の状態だ。(250頁)
☆しかしそうかといって「すべての人々」に一様に(a)「所有権」・(b)「人格権」の認められていることも事実だ。(250頁)
☆したがって(a)「所有権」・(b)「人格権」が認められているような、いないようなものだ。かかる矛盾からc「法的状態」にあるものは、②「スケプシス主義」的意識に陥らざるをえない。(250頁)

(57)-3 古代ローマのc「法的状態」は、②「スケプシス的意識」に陥らざるをえないが、それは③「不幸なる意識」に移行する!
★さて(B)「自己意識」」B「自己意識の自由」の段階において①「ストア主義」的意識は②「スケプシス」的意識を通して③「不幸なる意識」にまで発展したが、同様なことが(C)「理性」(BB)「精神」A「人倫」の段階のc「法的状態」(ローマ)にも生じる。(250頁)
☆なぜといって一方でローマの「人間」はすべて「カイザーの暴虐のもとに塗炭の苦しみをなめる」のだし、他方で「カイザー」の方でも決して「幸福ではない」からだ。Ex. 「ネロ」のように世界の主人として、あらゆる権力を握り自由にはしていても、頭の中では「貪欲・淫欲」などのとりこであり、それにいつも「臣下の謀反」のことばかり気にしていて決して「幸福」ではない。(250-251頁)
☆かくてローマのc「法的状態」においてカイザーも含めて「万人」すべて「不幸」だ。②「スケプシス主義」に次いで出てきた③「不幸なる意識」が、c「法的状態」においては「現実的」に、つまり身をもって体験されることになる。(251頁)

《参考7》②「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、①「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
☆「抽象的」である①「ストア主義」が「主人」に相応する立場であるのに対して、②「スケプシス主義」は「奴」の立場に応じ、より「現実的」だ。即ち②「スケプシス主義」は「労働」し「形成」して「否定」によって「自由」を実現する「奴」の立場に応ずる。(147頁)
《参考7-2》②「スケプシス主義」はいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、②「スケプシス主義」も「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆②「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに②「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)

《参考8》②「スケプシス主義」は、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)されるという「矛盾」を自覚する!この「矛盾」を「統一」づけようとする③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)!
☆②「スケプシス主義」において、「人間」は「自己矛盾」を痛切に自覚し、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)される(からみつかれる)という「矛盾」を自覚する。(148頁)
☆かくて②「スケプシス主義」はまだ「奴」の境涯を脱しないのだが、しかしこの「矛盾」、すなわち一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿されるという「矛盾」は、「同一の自己意識」に属するから、これを「統一」づけようとする新しい段階が生じる。これが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
《参考8-2》③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題!「不幸なる意識」(クリスト教的意識)は「普遍的」なものと「個別的」のものとの矛盾を「統一」づけようとする!
☆②「スケプシス主義」は、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)されるという「矛盾」を自覚する。この「矛盾」を「統一」づけようとするのが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
☆ここでは『精神現象学』はまだ「歴史哲学」と直接の関係を持たないが③「不幸なる意識」はクリスト教的意識だ。(148頁)
☆「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

《参考9》「ポリス」において、「人間」が、「家族」の一員でも「国家」の一員でもない「独立の個的自己」に目覚めてくると、それが「喜劇」の生まれる時代だ。(247頁)
☆「喜劇」は、B「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階だ。(247頁)
☆「喜劇」では、あらゆるものが「個的自己」のためにある。かくて「自然」は「人間」が生活のために利用する「手段」、着物や住居を作るための「材料」にすぎず、なんら「神秘的」なものではないし、また「国家のおきて」・「家族のおきて」といってもなんら格別「神聖不可侵」のものではなくなる。(247頁)
《参考9-2》B「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階「喜劇」において、すべての「人倫のおきて」(「国家のおきて」と「家族のおきて」)は破壊され、残っているのはただ「個的自己」のみだ。これで「ポリス」は「崩壊」する。(248頁)
☆だが「喜劇」は同時に積極的意義をもっている。「喜劇」は、「個的自己」が、いかなるものに対しても「独立」なものとして「絶対的」意義をもち、「真に『主体』である」ことを表現している。(248-249頁)
☆こうしてギリシャ時代はB「芸術宗教」c「精神的芸術品」の第3段階「喜劇」で終わる。(249頁)

(57)-4 「ローマ帝国」の時代は、一方で(あ)「法的状態」として「不幸」なる時代だが(「絶対実在が自己である」)、他方で「個的自己が自然に対しても、国家や家族のおきてに対しても自由になった喜劇の時代」(ヘレニズム時代以降)としては「幸福」な時代でもある(「自己が絶対実在である」)!
★「ローマ帝国」の時代は、一方で「法的状態」として(あ)「不幸」なる時代(③「不幸なる意識」)だが、他方ではすでに「ポリスの崩壊期」から始まった「喜劇」即ち「個的自己が自然に対しても、国家や家族のおきてに対しても自由になった喜劇」の時代(ヘレニズム時代以降)としては(い)「幸福」な時代でもある。(251頁)
☆ヘーゲルはそれぞれ(い)「自己が絶対実在である」という命題(「幸福」な時代)と(あ)「絶対実在が自己である」という命題(「不幸」なる時代)によって表現している。(251頁)
☆すなわち(い)「自己があらゆるものを属性とする主語であり、主体である」(「自己が絶対実在である」)としてはこの「ローマ」の時代は「幸福」の時代だ。(251頁)
☆逆に(あ)「自己が、絶対実在の述語であり属性であるにすぎぬものとして、絶対実在のうちに消えゆき解消する」(「絶対実在が自己である」)かぎりこの「ローマ」の時代は「不幸」の時代だ。(251頁)

★しかし(い)「絶対実在を自己のうちに解消する」(「自己が絶対実在である」=「幸福」)だけでは、そこに生ずる「絶対精神」も「主観的」にすぎないという憂いがあるから、逆に(あ)「自己が絶対実在のうちに解消する」(「絶対実在が自己である」=「不幸」)ことも必要であるという見地から、ヘーゲルは(い)「幸福」(「自己が絶対実在である」)と(あ)「不幸」(「絶対実在が自己である」)とが「交錯」することに深い意義を認める。(251頁)
☆すなわちこの「ローマ」の時代は、一方で(い)「幸福」から言えば「絶対実在が否定されて自己になった」時代(「自己が絶対実在である」)であり、他方で(あ)「不幸」から言えば「自己が否定されて絶対実在のうちに解消する」時代(「絶対実在が自己である」)であり、かくてこの「ローマ」の時代は、「こういう相反した運動が行われた時代」だとヘーゲルは言う。(251頁)
★かくてこの「ローマ」の時代は、(い)「客体が主体化される」(「自己が絶対実在である」)と同時に、(あ)「主体が客体化される」(「絶対実在が自己である」)。かくて(い)「個別が普遍化される」(「自己が絶対実在である」)と同時に(あ)「普遍が個別化される」(「絶対実在が自己である」)ことによって、この「ローマ」の時代は、まさに「絶対精神」(※真に「自己」として意識された「絶対実在」)が顕現し、したがってまた「絶対実在が真に自己として意識されようとする時代」だとヘーゲルは考える。(251-252頁)

★かかる「ローマ」の時代の「時代精神」(※「絶対精神」が顕現し、したがってまた「絶対実在が真に自己として意識されようとする時代」)を地盤として「クリスト教」は誕生したのだから、「クリスト教」は(BB)「精神」 A「人倫」c「法的状態」の「現実精神」からして当然生まれるべくして生まれてきたものであり、この時代の(い)「幸福」と表裏一体をなす(あ)「不幸」も、「クリスト教が誕生するに際しての生みの苦しみであった」とヘーゲルは見ている。(252頁)

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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