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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ロ「ギリシャ時代」(その2):「家族」・「国家」の調和がなくなり、「個人」が残り「ポリス」は崩壊!

2024-07-26 19:37:12 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ロ「ギリシャ時代」(その2)(240-243頁)
《参考1》すべての他の「宗教」と同じく、このB「芸術宗教」もまた「現実精神」を地盤とし、それを反映したものだ。(237頁)
☆この側面の重要な点は、《 (BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(「人倫的精神」)a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」》において展開されている。(237-238頁)

《参考2》A「真実なる精神」(「人倫的精神」)とはどういうことであるか?ギリシャの「ポリス」においては「各人」が「自主独立」でありながら、それでいて「全体」と結びつき、「全体」のためにつくし、「『個別』と『普遍』とは美しい『調和』を形づくる」が、そうさせるものが「真実なる精神」(ヘーゲル)だ。(239頁)
☆ただしここで「真実なる」というのは、「絶対的」な意味ではなく、「直接的」意味におけるものだ。いいかえると「自然的」になり出たものとして「自然性」をまぬがれえないということだ。(239頁)
☆そこに「真実なる精神」が同時に「人倫」たるゆえんがある。(239頁)

(55)-3-2 B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)の「地盤」をなす「現実的精神」において、(BB)「精神」Aa「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」とは何か?「国家」(=「男性」)と「家族」(=「女性」)!
★「人間のおきて」とは「国家」の政令のことだ。「国家」の政令は、「人間」が理性を働かせて、その時々の状況に応じて「人為的」に作ったものだ。(240頁)
☆これに対して「神々のおきて」とは「家族」的情愛の見地からのおきてである。「家族」的情愛の見地からのおきては、「国家」の政令のように「人間」の具体的な事情や必要のいかんによって変動するものでなく、「大昔からある普遍のもの」だからだ。(240頁)
☆論理的に言えば、「神々のおきて」は「家族」のものとして「個別性」の方向、「人間のおきて」は「国家」のものとして「普遍性」の方向だが、これらの2つ(「神々のおきて」と「人間のおきて」)が「ポリス」では非常に美しい「調和」をとげていたので、それをヘーゲルは「人倫のコスモス(秩序)」即ちAa「人倫的世界」と呼ぶ。(240頁)

★さてギリシャの「ポリス」では「人間」は「男性」と「女性」という自然の性別にしたがって区別されただけであって、「個性」は認められていなかった。これが「男性と女性」とある理由だ。「男性」は「国家」に生き、「女性」は「家族」に生きる。(240頁)
☆しかし「男性」と「女性」が「夫婦」になるので、「男性」も(「夫婦」としての)「女性」を介して「家族」に属し、「女性」も(「夫婦」としての)「男性」を介して「国家」に結びつく。かくて「国家」→「男性」→「家族」と「家族」→「女性」→「国家」の2つの推理連結が成り立つが、中間で「男性」と「女性」が「夫婦関係」を形作ることによって、2つの推理連結がまた連結され、全体は完全に美しい「調和」を成し遂げていた。(240-241頁)

★「国家」は個人に対していろいろな犠牲を要求せざるをえず、特に戦争にさいしてそうだが、しかし「国家」の力は、「家族」によって成り立つことをギリシャ人はよく知っていたので、「家族」に自由な存在を許した。(241頁)
☆しかし「家族」が「家族」として生計を保っていけるのは、「普遍的」なもの、つまり「国家」によって可能であるから、「男性」が家族の代表として「国事」に参加し献身し、そうして「女性」は「家庭」をつかさどる。(241頁)
★こういうわけで「『国家』と『家族』とが美しい『調和』を保っていた」ということが(BB)「精神」Aa「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」で述べられている。(241頁)

(55)-3-3 B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)の「地盤」をなす「現実的精神」において、(BB)「精神」Ab「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」とは何か?Aa「人倫的世界」は人倫的「心情」の段階だ!Aa「人倫的世界」の「心情」と、Ab「人倫的行為」は「矛盾」する!
★Aa「人倫的世界」の美しい「調和」も、「ポリス」には本来の「個別者」はなく、あっても「家族」の一員、あるいは「国家」の一員としてのものにすぎなかったことによる。(241頁)

★しかし人間は「個別者」として自覚をもたざるをえないものだが、この自覚を持たせるものは「実際上の行為」だ。かくしてA「真実なる精神」(「人倫的精神」)のAb「人倫的行為」の段階に移る。この意味ではAa「人倫的世界」は人倫的「心情」の段階だったと言える。

★Ab「人倫的行為」の段階に移り、つまり「実際の行為」となってくると、Aa「人倫的世界」の段階の「心情」では気づかれなかった「矛盾」があからさまになるが、「国家」と「家族」との関係の場合も同様だ。(241頁)
☆これについてヘーゲルはソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』の表象的表現によって論をすすめる。(242頁)

《参考》ソフォクレス『アンティゴネ』(前442頃):アンティゴネはテーベの王女。父はオイディプス王、母はイオカステー。父オイディプスが自分の出生の秘密(先王を殺害し、産みの母イオカステーと交わって子を儲けた)を知り、目を潰した後、叔父(イオカステーの実弟)クレオンに追放される(クレオンがテーベ王となる)と、アンティゴネは父オイディプスに付き添って諸国を放浪した。父オイディプスの死後、アンティゴネはテーベに戻ったが、兄ポリュネイケスは隣国の助けを借りテーベの王位を取り戻すべくテーベに攻め寄せてくる。だがポリュネイケスは敗死する。クレオンは反逆者であるポリュネイケスの屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオンによって捕らえられ、地下の墓地に生きながら葬られる。アンティゴネはそこで自害し、その婚約者であったクレオンの息子ハイモンもまた彼女を追って自刃した。

★ソフォクレス『アンティゴネ』において、テーベの王女アンティゴネは「家族」の情愛から兄ポリュネイケスの死骸を葬ったが、叔父のクレオンはテーベの町の支配者(テーベ王)であるという「国家」の立場から、侵入者たるポリュネイケスの死骸を葬ることを禁じていたので、アンティゴネを処刑しようとした。(242頁)
☆アンティゴネの「行為」は「家族」の「情愛」からするものであり「神々のおきて」に従うものだ。これにたいしてクレオンの「行為」は「国家」統治者の見地からするものであり「人間のおきて」に従うものだ。いずれも「人倫的」行為であるのに、それらの「義務」が対立抗争する。(242頁)
☆「心情」のうちで美しい「調和」をなしていた「家族」と「国家」も、「実際上の行為」となると「対立」(「矛盾」)を露骨にあらわしてくる。(242頁)

★ところでクレオンとアンティゴネはどちらが正しいかというと、いずれも「是」にして「非」であり、したがって「罪責」をまぬがれず、両者共に滅んでいく。アンティゴネは洞窟のうちで自殺するし、クレオンも死ぬのも同然の「運命」にある。アンティゴネが死んだために、その婚約者のクレオンの一人息子ハイモンは自刃し、息子の死を悲しんで奥さんも死んでしまう。かくしてアンティゴネもクレオンも「人知」を越える「神知」によって「運命」の深淵の中に没落してゆく。(242頁)
★ここにAb「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」と題されるゆえんがある。(242頁)

(55)-4 B「芸術宗教」(「ギリシャ宗教」)の「地盤」をなす「現実的精神」において、(BB)A「真実なる精神」(「人倫的精神」)のa「人倫的世界」・b「人倫的行為」は崩壊し、つまり「人倫」(ギリシャ)は崩壊し、ローマのc「法的状態」に移る!ギリシャの「人倫」的共同体が崩壊し、「個人」のみが残る!
★じつは没落するのは、「家族のおきて」と「国家のおきて」、あるいは「家族の一員」としての個人と「国家の一員」としての個人だけであって、「個人自身」は残っている。(242-243頁)
☆しかしギリシャの「ポリス」は、「家族」と「国家」との「調和」の上に立っていたものだから、両者(「家族」と「国家」との「調和」)がなくなって、ただ「個人」だけが残るようになると「ポリス」は崩壊して、Ac「ローマの法的状態」に移る。(243頁)

(55)-5  ヘーゲルは「国家共同体において『女性』が永遠のアイロニーである」ことからも「(BB)Aa『人倫』の崩壊」を説いている!
★これまではヘーゲルは悲劇「アンティゴネ」の表象的表現によって「(BB)Aa『人倫』の崩壊」を説いているが、さらに、ヘーゲルは「国家共同体において『女性』が永遠のアイロニーである」ことからも「(BB)Aa『人倫』の崩壊」を説いている。(243頁)
☆「ポリス」は「家族」(「家庭」)において「個別性」の原則を承認しなくてはならないが、「家庭」を主宰するものは「女性」だ。だが「女性」の配慮するものは、「公共の利害」ではなく、「家族の私利私益」にすぎない。(243頁)

《感想》今の日本、あるいはおそらく世界で、「私利私益」(カネ・出世・権力・威信などのための私的な忖度)抜きに、「公共の利害」のみを考える「男性」(政治家)はほとんどいないだろう。(むしろ「公共の利害」を考えて社会活動をする「女性」が多いように見える。)「男性」が「公共の利害」をのみ配慮するとのヘーゲルの見解はあたっているのか?古代ギリシャのポリスでは「公共の利害」のみを考える「男性」が多数派だったのか?

★また古代ギリシャのポリスにおいて、妻(「女性」)は夫により(夫を通じて)、母(「女性」)は息子により(息子を通じて)、「公共の目的」を「私的目的」にすりかえ、「公共の財産」を「私有財産」にしてしまう。(243頁)

《感想》現代世界&日本を見れば、権威主義的国家、独裁制の国家では、また一般に有力なボス的政治家は(多くは「男」だが、もちろん「女」でも)、「公共の目的」を「私的目的」にすりかえ、「公共の財産」を「私有財産」にしてしまうのが普通だろう。

★さらに古代ギリシャのポリスにおいて、ことに若い「女性」が賛美するのは若者(若い「男性」)であり、しかも防衛には「国家」は彼ら若者(若い「男性」)の腕力を必要とするところから、おのずとおだてられた若者(若い「男性」)たちが、「ただ『公共の目的』しか思慮しない(『男性』の)『老人』の円熟した知恵」を笑い草にすることになる。(243頁)
★かくて「自然的」たるものの跋扈(バッコ)によって「人倫的共同体」は崩壊すると、ヘーゲルは言う。(243頁)

★要するにヘーゲルの言わんとするのは、「『人倫の崩壊』は、それがまぬがれえぬ『自然性』による」ということだ。(243頁)
★このようにして古代ギリシアの「ポリス」の「人倫」((BB)Aa「人倫的世界」)は崩壊し、古代ローマの(BB)Ac「法的状態」に移る。(243頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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