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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その1):「絶対精神」はローマ帝国・中世以降、まだ「主体」となっていない!

2024-08-03 07:38:41 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その1)(254-257頁)
(59)「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動!(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」Ⅱ「啓蒙」Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」!
★今までは「表象性」の立場、「対象意識」の立場、「即自存在」の立場において「絶対知」を成就した「古代」を、その「宗教」((CC)「宗教」A「自然宗教」B「芸術宗教」C「啓示宗教」)を中心として、述べてきた。(金子武蔵氏)(255頁)
☆これからは「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動すなわち《 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」Ⅱ「啓蒙」Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」》について述べる。(金子武蔵氏)(255頁)
☆そして最後に「2つの立場が綜合される現代」すなわち《 (DD)「絶対知」》について述べる。(金子武蔵氏)(255頁)

★「絶対知」を「自己意識」あるいは「対自存在」の立場において実現していく「中世から近代へ」の運動((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」C「自己確信的精神、道徳性」)の出発点は、「ローマ帝国」の時代、ヘーゲルが《 (BB)「精神」A「人倫」の段階のc「法的状態」》と呼ぶものだ。そしてこれにはギリシャの「ポリス」即ち《 (BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」》が前提となっている。(255頁)

《参考1》《「宗教」の「古代的」系列》と《「道徳」の「近代的」系列》との綜合:《「現代」の「絶対知」》!
☆(CC)「宗教」の方向は「表象性」・「客体性」の方向であって、ここにはA「自然宗教」→B「芸術宗教」→C「啓示宗教」という「古代的」系列がある。(225頁)
☆「道徳」の方向は「思惟性」・「主体性」の方向であって(BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」という「近代的」系列がある。(225頁)
☆そうしてこれら2つの系列(「古代的」系列と「近代的」系列)を綜合する(DD)「絶対知」は「反省を媒介として恢復された実体性」としての(四)3「現代」にほかならない。(225頁)

《参考1-2》(CC)「宗教」において、「東方の宗教」(A「自然宗教」)は(A)「対象意識」の段階、次いで「エジプトの宗教」は(B)「自己意識」の段階のあけぼの、そして「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は本来の(B)「自己意識」の段階にあたる!(227-228頁)
☆ヘーゲルにおいては「宗教」には「東方」と「西方」との区別があり「東方の宗教」(A「自然宗教」)が(A)「対象意識」の段階にあたるのに対し、「西方」の宗教である「ギリシャ宗教」(B「芸術宗教」)は(B)「自己意識」の段階にあたるとされる。(227頁)

《参考1-3》(C)「理性」において、(BB)「精神」から(CC)「宗教」をへて(DD)「絶対知」にまで至る運動には、普通のいい方をすると「道徳」と「宗教」という2つの方向があり、ヘーゲル『精神現象学』のテキストでは外形上、「道徳」((BB)「精神」A「人倫」→Ac「法的状態」→B「教養」→C「道徳性」)から「宗教」((CC)「宗教」)へ連続して進むとなっているが、むしろ「道徳」と「宗教」の2つの方向はそれぞれ独立のものとして相互に並行して進み、そうして最後に(DD)「絶対知」において両者(「道徳」と「宗教」)が綜合されるのだ。(金子武蔵)(225頁)

《参考1-4》『ヘーゲルの精神現象学』後半:《 (C)「理性」:(BB)「精神」(Ⅵ)、(CC)「宗教」(Ⅶ)、(DD)「絶対知」(Ⅷ)》の「史的叙述」!(DD)「絶対知」は《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》の「表象性」を剥奪して成立する!
☆((C)「理性」)(BB)「精神」は最初A「人倫」(a「人倫的世界」b「人倫的行為」c「法的状態」)であるが、やがてその直接的統一が破れて、B「教養」の段階(Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」)において分裂に陥り、これが最後にC「道徳性」の段階(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心」)において、とくにc「良心」において克服される。(224頁)

《参考1-4-2》☆終点は(DD)「絶対知」であるが、これは《「絶対実在」を「自己」として意識するC「啓示宗教」》のまだまぬがれことのできない「表象性」を剥奪することによって成立する。(224頁)
☆しかしC「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が、(a)「自己」の側からのみするものであるときには(DD)「絶対知」も「主観的」たるをまぬがれないから、むしろ(b)「対象」の側からするものであるべきだが、実はこれはすでに成就されている。(224頁)
《参考1-4-3》☆C「啓示宗教」からの「表象性」の剥奪が(b)「対象」の側からなされているとは、
「対象」は①「自体存在」の側面と②「対他存在」の側面と③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》という3つの側面(①②③)を具えているが、最初の①「自体存在」を究極まで押し詰めたものは(C)(AA)「理性」A「観察」であり、また②「対他存在」の側面は(BB) B「教養」Ⅱ「啓蒙」の有用性の立場であり、さらに③《両者(①②)を包含する「内なるもの」あるいは「普遍者」》は(BB)C「道徳性」c「道徳性の良心」であるが、この「良心」においてすでに「対象」自身が「自己」となっているということだ。(224頁)
☆そこでヘーゲルは(CC)「宗教」C「啓示宗教」と「良心道徳」((BB)「精神」C「道徳性」c「良心」)とを比較して両者が実質的には同一であり、したがって「啓示宗教」の「表象性」が克服されるという観点から、(DD)「絶対知」の成立を説く。(224頁)
《参考1-4-4》一般にヘーゲルにとって「知識」は、「直接性あるいは表象性」→「媒介性」→「イデー(理性的知識)」という順序をとって成立する。(225頁)

(59)-2 「ローマ帝国」(c「法的状態」)はやがて滅亡し、社会の秩序は滅茶苦茶になった!「自然」のままに放任され、「服従すべきなにものかの厳としてあること」の必要をいまさらながら実感せざるをえない!
★「ローマ帝国」((BB)「精神」Ac「法的状態」)はやがて蛮族の侵入(4世紀後半から6世紀末にかけて起こったゲルマン諸部族の大移動)を招いて滅亡し(西ローマ帝国滅亡476)、社会の秩序は滅茶苦茶になって「中世」の暗黒時代が到来する。(255頁)
★しかし「乱暴狼藉をほしいままにすると、人間は自分自身をも滅ぼしてしまう」。だから「『自然』のままに放任」され、「直接的な欲望のとりこ」になっているわけにはゆかない。かくて「服従すべきなにものかの厳としてあること」の必要をいまさらながら実感せざるをえない。(255頁)(Cf. ホッブス問題、『リヴァイアサン』1651を思い出させる。)

(59)-3  ギリシアの「人倫的世界」は「自然的」になり出てきたようなものだから「滅びゆくほかない」!しかもそれは「個的自己」に独立を認めなかったので「滅びゆくのが当然だ」!
★西ローマ帝国滅亡(476)後において、「人間」はもはや「自然」のままに「放任」されえぬものであることが際立って実感されるようになったことは、ギリシャのポリスが「自然的」であったことに関係する。(255頁)
☆ギリシアの「人倫的世界」((BB)「精神」A「人倫」a「人倫的世界」b「人倫的行為」)においては、人間は「自然」のままに放任されながら、それでいてただ「我利我欲ばかりを追求する」にとどまるのでなく、同時に「国家社会に献身」し、もって「全体の美しい秩序」が成り立っていた。(256頁)
☆しかしそれはおのずと「自然的」になり出てきたようなものだから、「若者や乙女の天与の美しい姿もつかの間のことで、やがて老醜に化する」のと同じで、「滅びゆくほかない」。しかもそれは「個的自己」に独立を認めなかったので、「滅びゆくのが当然だ」。(256頁)

(59)-4 「個的自己」(「ローマ帝国」の時代以降)は「自然的」な「我利我欲」をこえて「ある絶対的なもの」=「絶対精神」を体験する!
★ギリシアの「人倫的世界」が滅びて「ローマ帝国」の時代((BB)「精神」Ac「法的状態」)となると、人間は「個的自己」にめざめてくるが、「自然的」な「我利我欲」ばかりにとらわれていたのでは、人間として存在することはできず、したがうべきなにか「ある絶対的なもの」が厳として存在していることを、身をもって体験する。(256頁)
☆すなわちやがて展開せらるべき「信仰の世界」((CC)「宗教」C「啓示宗教」=クリスト教)においてあらわれる「絶対精神」がここに働いてくる。(256頁)

《参考2》「宗教」(クリスト教)は「絶対実在」に関するものだから「絶対精神」――まだ「表象性」をまぬがれないとは言え――である。(228頁)

Cf. 「絶対精神」についての一般的説明:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。

《参考3》「ローマ帝国」の時代は、一方で(あ)「法的状態」として「不幸」なる時代だが(「絶対実在が自己である」)、他方で「個的自己が自然に対しても、国家や家族のおきてに対しても自由になった喜劇の時代」(ヘレニズム時代以降)としては「幸福」な時代でもある(「自己が絶対実在である」)!(251-252頁)
《参考3-2》「ローマ帝国」の時代は、一方で「法的状態」として(あ)「不幸」なる時代(③「不幸なる意識」)だが、他方ではすでに「ポリスの崩壊期」から始まった「喜劇」即ち「個的自己が自然に対しても、国家や家族のおきてに対しても自由になった喜劇」の時代(ヘレニズム時代以降)としては(い)「幸福」な時代でもある。(251頁)
☆ヘーゲルはそれぞれ(い)「自己が絶対実在である」という命題(「幸福」な時代)と(あ)「絶対実在が自己である」という命題(「不幸」なる時代)によって表現している。(251頁)
☆すなわち(い)「自己があらゆるものを属性とする主語であり、主体である」(「自己が絶対実在である」)としてはこの「ローマ」の時代は「幸福」の時代だ。(251頁)
☆逆に(あ)「自己が、絶対実在の述語であり属性であるにすぎぬものとして、絶対実在のうちに消えゆき解消する」(「絶対実在が自己である」)かぎりこの「ローマ」の時代は「不幸」の時代だ。(251頁)
《参考3-3》しかし(い)「絶対実在を自己のうちに解消する」(「自己が絶対実在である」=「幸福」)だけでは、そこに生ずる「絶対精神」も「主観的」にすぎないという憂いがあるから、逆に(あ)「自己が絶対実在のうちに解消する」(「絶対実在が自己である」=「不幸」)ことも必要であるという見地から、ヘーゲルは(い)「幸福」(「自己が絶対実在である」)と(あ)「不幸」(「絶対実在が自己である」)とが「交錯」することに深い意義を認める。(251頁)
☆すなわちこの「ローマ」の時代は、一方で(い)「幸福」から言えば「絶対実在が否定されて自己になった」時代(「自己が絶対実在である」)であり、他方で(あ)「不幸」から言えば「自己が否定されて絶対実在のうちに解消する」時代(「絶対実在が自己である」)であり、かくてこの「ローマ」の時代は、「こういう相反した運動が行われた時代」だとヘーゲルは言う。(251頁)
《参考3-4》かくてこの「ローマ」の時代は、(い)「客体が主体化される」(「自己が絶対実在である」)と同時に、(あ)「主体が客体化される」(「絶対実在が自己である」)。かくて(い)「個別が普遍化される」(「自己が絶対実在である」)と同時に(あ)「普遍が個別化される」(「絶対実在が自己である」)ことによって、この「ローマ」の時代は、まさに「絶対精神」(※真に「自己」として意識された「絶対実在」)が顕現し、したがってまた「絶対実在が真に自己として意識されようとする時代」だとヘーゲルは考える。(251-252頁)
《参考3-5》かかる「ローマ」の時代の「時代精神」(※「絶対精神」が顕現し、したがってまた「絶対実在が真に自己として意識されようとする時代」)を地盤として「クリスト教」は誕生したのだから、「クリスト教」は(BB)「精神」 A「人倫」c「法的状態」の「現実精神」からして当然生まれるべくして生まれてきたものであり、この時代の(い)「幸福」と表裏一体をなす(あ)「不幸」も、「クリスト教が誕生するに際しての生みの苦しみであった」とヘーゲルは見ている。(252頁)

(59)-5 人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』の努力」を引き受けなくてはならぬということになる!
★もっとも「絶対精神」はここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、まだ「現実化」しておらず、すなわち「主体」とはなっておらず、「実体」として働くだけだ。(256頁)
☆しかし「実体」にうながされて、ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「国家社会にはやはり秩序があるべきだ」と感じ、したがって「権力が必要である」と感じる。(256頁)
☆またギリシア時代とは異なり、ここ(※「ローマ帝国」・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)では、人間は「個的自己」として存在するのだから((BB)「精神」Ac「法的状態」)、「財富の必要であること」も感じる。(256頁)

★そこで人間は一度自分の「個別存在」を離れ、それを疎んじて、「自分のそとにある『普遍的なもの』」になり、これを通じて「真の自己」になるというように、「自分を形成する努力」即ち「『教養』の努力」を引き受けなくてはならぬということになる。(256-257頁)
☆これが(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(古代ギリシャのポリス)に続く、Bという段階が「自己疎外的精神、教養」と題されるゆえんだ。(257頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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