King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

ブラジルサントスNO2

2012年08月14日 11時13分50秒 | 珈琲
ブラジルサントスNO2を注文されることがまま
あります。

これは他店との指標にされる為らしいのですが、
それだけでもないようです。

もうひとつ、重要なのは当店では200g640円という
値段によることもあるようです。

味コメントとして当店では中庸という表現が使われ
ています。

他店では苦みのコーヒーと呼ばれていることが
多く、コロンビアがマイルド系でブラジルは苦み系
なのだそうです。

ナチュラル系のブラジルならやはり深煎りにしないと
と思いますが、他店では意外と浅めでかなり酸味強調
だといいます。

この点は、サンマリノとサントスNO2を飲み比べると
よく解ると思います。

注文を受けると焙煎をしないといけないのであまり
触れたくないのですが、どうゆう訳か味が劣るもの
をあえて飲んでみてそれを確認してみるという人も
いるから不思議です。

決してまずいというわけではないのですが、あえてがっかり
することもないのにと思うのです。

普段スーパーのコーヒーを飲んでいる人にはそれでも
かなりの衝撃になるのは間違いないです。

人により豆の膨らみを見るだけで幸せという人もいますので。
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『悪霊』読了

2012年08月14日 09時07分42秒 | 読書


この夏の読書タイムはこの悪霊でした。

『ライ麦畑でつかまえて』とかこの『悪霊』とかこれは人類の宝ですね。

どこから読んでも何か気持ちを掴まれてざわざわとした感じにさせる
のです。

ただ、この小説も発表当時は相当の問題小説だったことは予想できます。

よく言われる主題とする悪霊とは無政府主義者や無神論者などの社会に仇する
最新の思想ヨーロッパの思想にふれた若者の騒動に起因する社会的な波に
警告を発したもので、キリスト教的信仰を持った者が世の中を安定させ発展
させるというメッセージも登場人物や実名で批判される詩人など誰かを直接
批判していることで当時は誰のことか容易に解っただろうことも感じます。

そんな意味では、当時与えただろう社会的インパクトに思いをはせるのも
一興ですし、登場人物の行動原理に芸術を感じるのもいいかもしれません。

当時の社会としては、農奴解放など新しい世界の登場を期待し、待ち望む
人々の欲求が膨らみ、精神的世界にも新しいもの、芸術にも新規風を
のぞまれていたことで、抽象絵画からポップアートへ至る時代に
すでにデュシャンの「泉」や「なりたての未亡人」のような近代芸術の
発表はあったわけで、そこにキリスト教的信仰を持つ人の大切さを
いうというのはあまりにあたりまえのような諸々の芸術批判、文化批判、
政治や体制にも一言言っておいたということなのでしょうか。

しかし、この本は登場人物の独特のキャラクターと行動原理など
引き込まれる要素や語り口の妙など魅力があるのですが、ちゃんと
最初から構想されて組み立てられ練られて書かれたというより、
勢いのままに書かれた印象があり、最初ステバン先生の秘書的な
私という人物が話し手として物語が展開していますが、突如それ
が不鮮明になり、物語が滞ったと思えば新登場人物が突如現れ
新たな展開が膨らみ、誰が語っているのか、ステバンの後見的な
秘書もレポ的な語りから突如解説的な引いて俯瞰的な語りになった
りして読みづらいのです。

これは、聖書などでもおなじみの福音書の語りに似ています。

聖書書記者が語っていたと思えば突如違う人の主観が入ったり
とこれも狙ったことなのか聖書を意識したことなのか謎です。

この小説の元となったネチャーエフ事件という革命前夜の
事件もこの小説の五人組も阿Q正伝と同じで、当時名もない
人で似たようなものはいくらもあったと予測されます。

謎の地下組織に属し、本部からの指示に従い革命を模索し
檄文を撒いたり、集会に参加し革命に加担していると夢想する
現代に生きている雰囲気を求める若者は沢山いたことでしょう。

しかし、実際に組織された革命組織はなく革命を夢想する
だけだったというのは現実にも当時の若者風俗のようにあり
ふれたことだったのではないでしょうか。

それを防ぐ既存の貴族社会や地域社会や行政組織のトップの
人物像など痛切な当時の社会批判であり、古き良きものを
よしとすることのない作家の目も感じます。

私は江川卓氏の翻訳を読んだのですが、これがとても感じの
悪いもので、うんざりして本を投げ出したことが何度かあり
ました。

本当にリアルにというような適当な訳が噴出し、明治風の
美文調の訳が読みたいとは言いませんが妙に現代風に訳し
過ぎた感はあります。

その上、この小説ははっきり言ってやはり読みづらく、
登場人物もいきなり違う名前になっていたり、誰が誰なのか
よく解らなくなるようなところと、観念的な登場をするのは
何か演劇というか舞台登場の人物のような扱いなのです。

フュージカという登場人物は現物が出るのは一回なのですが、
この登場の仕方が演劇的であり、日本の落語や歌舞伎などの
中世劇にでてくる悪人とか悪の象徴と通じるものがあります。

聖書的な悪、悪魔のようで、これも聖書的な書き方を意識して
の登場なのか、本の主題の豚に入って死んでしまう悪霊とは
違うものとしてあえて対比的に出てくるのか非常に特長的です。

時に恋愛小説のようであり、文化芸術礼賛のようでいて、思想
は人を時に殺してしまうというロシアの正義と神についての推測
であり、饒舌な作家の手により登場事物が語って見せる世界は
実に多角的な時代予測であり、簡単にキリスト教的信仰にあれば
よしとするものではないように感じます。

こんな諸々を考え時間を過ごしあまりの暑さも忘れさせてくれた
この小説と過ごした時間に感謝します。
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