想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

凍てつく夜に

2009-02-07 12:18:19 | Weblog

 アルバム「帰らぬ兵士の夢」を聴いている。
 '80年くらいに発売されたLPレコードである。
 (発売元は音楽センター、プロデュース芳賀詔八郎)
 『このアルバムは、フランス・シャン・デュ・モンド社より、
 およそこの10年のあいだに発売されたシリーズ「世界の新しい
 歌手たち」の中から「ヨーロッパ編」として一枚のLPに再編成
 したものである。』(同アルバムライナーノーツより)とある。

 東京から走ってくる最中、真冬さなかなのに道路も田畑も陽の
 ぬくもりを含んでぼやけてみえた。晴天、空は青かった。
 しかし、わが家の森はあいかわらず、というかあたりまえに真冬の
 景色。山頂ふきんは雲に覆われ、雪がちらついていた。
 根雪の上に毎日降り注いだであろう新しい雪で、数日前の足跡は
 かき消され、静寂そのもの。気温は一段と低く夜には星が冴え冴え
 と見えた。

 こんな日にしか聴けない歌、こんな日に似合う歌が、このアルバム
には収められている。
 ヴィソツキをはじめあまり知られていない欧州の、反体制の、歌う
 詩人たちの声14曲。ひさしぶりにレコードケースから取り出して
 今また、時代がこの歌たちを求めるようめぐりきたのだと思う。

 反体制と一口に言ってしまえば、それは政治的スローガンのように
感じるだろうが、歌声はそんなに薄っぺらではない。
 だからこそ響く力があり、ソビエト時代のヴィソツキのように地下
 に隠されても次々に複製は人々の手にわたり広がっていった。
 日本では新井英一がオオカミ狩りというCDで本格的に歌っていて
 それはすばらしいが広く知られるにはいたっていない。
 多くの人々は重い歌より軽さとやさしさと、華やかさばかりの方を
 好むようだから。

 シャンソニエであるいはライブハウスで流行の歌のようにまるで恋歌
 のように歌われ、聴いているほうも阿呆面して赤ワインなぞはいった
 グラスを手にしている。それを「平和でよろしいこと」であると、
 言うべきか?同じ場に居続けるには忍耐がいる。
 胸にひびくものはなく、しまいには嘔吐を覚え、立ち去るだけだ。
 命の籠らない歌、それは言葉の羅列であって歌とは呼ばない。

 '03のフランス映画のワンシーンで、時はドイツ侵攻下のパリ。
 「ある者は砲撃の下にさらされて、ある者はいまこうしてワインを
 飲んでいる、同じ夜に。これをどう思うか?」という。
 片方は「それが人生、わたしはワインを飲んで、生きる力を得るのさ」
 それに対して主人公は「それでいいのか、わたしは眼を閉じたい。
 でも閉じきれないから半開きさ。そして行き交う人をそっと確かめる」
 と言う。彼はレジスタンスに協力して闘った映画人である。
 回顧録であるこの映画をわたしはそれほど真剣に観てはいなかったので、
 タイトルを失念してしまった。テーブルを囲んで語る三人の顔だけ
 眼にやきつき、その会話の意味は今この時代につきつけられていること
 のようにも思うのだった。

 米軍の戦車(空からではなく陸だ!)がイラク侵攻をいよいよ始めた時
 わたしはそれをCBSテレビの中継で観ていた。
 そのときと同じ、重苦しい胸の痛みを今だって解決していない。
 世界の理不尽さよりも、わたしにはわたし自身の居方が問題なのだ。
 おまえはそこで何をしている? という声がいつも聴こえる。

 参考までにこのアルバムに収録されている歌手名を記しておく。
 ロランティーノ(スペイン)
 コレット・マーニィ(フランス)
 ルイス・シリア(ポルトガル)
 クロード・ヴァンシ(フランス)
 ルイス・ヤッカ(スペイン・カタロニア)
 フランセスカ・ソルヴィル(フランス)
 フランシスコ・クルト(スペイン)
 ベニート・メルリーノ(イタリヤ・シシリー)
 エルンスト・ブッシュ(ドイツ)
 ウラジミール・ヴィソツキ(ソビエト)

 
 
 
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美味しい紅茶

2009-02-04 18:56:38 | Weblog
 友人と紅茶を飲んだ。
 仕事場の近くにパティスリータカギのティールームが
 あるので、そこで打ち合わせ。
 空いていたので長居をしたが、実りある時間だった。
 懸念していた件を相談し、結論だしてしまったので
 あとは実行あるのみ。

 友人曰く。
 「こうやって、ひとつづつ片付けると気持ちいいね」
 「うん、あとは実行だ、決めたからやれるよ、やろうぜ」
 となった。

 阿吽、というのは仏教用語で平たくいえば始まりと終わりを
 さす。転じれば阿と吽は対である。
 阿吽の呼吸。
 関係がこうなると、物事は早く進む。
 たとえ間違えても修正も転換もす早い。
 どこまでも阿吽は離れない。
 ここにもう一人が加わると、文殊の智恵であるので
 さらに加速する。

 なーんてご機嫌なうさこ、調子にのってんじゃないよ~。

            (※ふるごとじゅく更新しやしたぜ)
 
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1日30分‥浮遊する宇宙

2009-02-03 09:59:03 | Weblog
 瞑想、というと深呼吸して云々と知ったかぶりなことをたまに聞くけど
 ほんとに瞑想してんかい? みたいな~。

 で、只管打坐(しかんたざ)、座禅はどうかというと、こっちは永平寺に
 ツアーで行ったり他の禅寺でも真似事くらいはやらせてもらえるので
 いずれにしても、なんちゃって座禅なら誰でもできる環境にある。 

 なんちゃってじゃなく、ではちゃんと瞑想はどうか‥というとこれは
 難しいんである。
 ゆえに修行といえるわけで、カンタンなことが修行になるわけない。
 でも、それをカンタンにする方法をねずみ師に教えていただいた。
 早いはなしが受け売りですまんが‥‥ま、いつものことだが‥‥

 1日30分、ただ黙って座すのみ。
 そのあいだ、考えない。
 そのあいだ、全身これ耳となす。
 えー、ここで問題は考えないを考えるってことと、耳って何? ですね。

 耳、つまり聴く、です。
 何を? ではなく、ただ眼を閉じ、座し、思わず、聴く。
 聴こえるまで、聴く。
 観音とは、ひびきである、という話は前に書いたけど、ひびきを聴くってことよ。

 で、それがなんになるのか? という馬のツラに人参的な話をしますと、
 疲れきった現代人の前頭葉大脳が働くのをやめ、やめているあいだの30分間、
 自我やエゴは小休止しますね。
 つまり、その分長生きしますよー、というおいしい話です。

 修行はつらい、だがおいしい話ならば乗ってみようか、というのは
 わるくないと思うんだけど。
 そう軽く言われるとやる気がしない、そういうお方は人参など期待しないと
 思えばいいのですよ、ひたすら座しているだけの話です、1日30分、毎日。
 30分テレビを観ないで時間を作るとか、工夫して。
 ともかくやらないよりやってみれば、わかる。
 やらないと、始まらない。

 映画道元を観たり、高村薫の小説「新リア王」を読んで座禅なんてできないと
 めげちまった人も、もいちど人参につられてやってみると、いいかも~です。

 ちなみにうさこは20年前に始め、浮遊するラクチンを確認済みです。
 己がやっていないことは人に勧めない主義(やっていても事と次第では勧めないが)
 これが深い深い只管打坐、そして己の魂への入口です。
 魂に重力がないことを知り、また己がいかに重いかもわかります。

               ※ そろそろふるごとじゅくも、更新します。




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走れウサギ

2009-02-02 15:06:25 | Weblog
  
   走れウサギで知られたジョン・アップダイク氏が亡くなられた。
   享年76歳、同シリーズ四作目の「ウサギはお金持ち」でピューリッツァ賞を受賞した。
   うさことしては、このニュースに反応せずにはいられない。
   なぜならば、ウサギだからというわけではなく、風景と細部を切り取るように描く作法に
   感銘を受けるからである。 

 「an unlikely rabbit,but the breadth of white face, ‥‥」
 「うさぎと似てはいないけど、色白な顔の幅、青い瞳のさえた青さ、小さな鼻の下の唇を
  ふるわせて、吸いかけのタバコをくわえる様子などを見ると、あだ名の由来もかなり
  わかるような気がする。」(ラビット・ラン 走れウサギ 宮本陽吉訳より)

 アメリカ中産階級の普通の日々、ごく平均的な、どちらかといえばエリートではない(なかった)
 青年が主人公の物語だ。

 人が幸福とは何かを語るとき、あるいは悲しみを語ろうとするとき、それは何か既成の
 枠にはめられた、いうなれば定型の幸福、定型の悲しさ、ではないはずだ。
 にもかかわらず、人はどこかにその定型があるかのように錯覚し、あるはずのない定型と
 比較し比喩して表そうとする。
 幸せと不幸、喜びと悲しみはごく個人的なもので本人だけの体験であるが、だからといって
 それが他人にはとるにたらない、わかりようもないことではない。
 個人的なことが普遍的に共有されるとき、その奥にひそやかに真実があるからだろう。
 平凡を切り取って描ける力は、その真実を見抜く目にほかならない。

>

 わたしはいつからうさぎになったのか。
 去年の三月、想風亭のあるこの森の日々をブログに綴ろうとして生まれた。
 そして、うさぎの平凡なしかし一つしかない幸福を、しっかりと味わい
 それがまた誰かに伝わっていく幸福の共有をも知ることができた。
 うさぎで得た自由と特典なのだが、うさぎがたよりないことに変わりない。

 友人のIAN(イアン)君>がドキュメンタリーという手法で切り取った一人の女性の
 幸福と不幸、ビッキーとジェイクのバラード
 これもアップダイクが切り取った一つの風景と同じ意味で尊い作品ではないか
 と思う。観た人がそれぞれに感じ取ることだけれども、伝わる何かがあることは確か。
 現在日本語字幕編集中なので、完成したらぜひ多くの人に見ていただきたい。

  


  
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トドじゃありません

2009-02-01 00:08:23 | Weblog


  雪の上でごろんちょ、ごろんちょしているのは、トドみたいにみえる
  親分。耳の中に雪が入り、外耳炎になってはお医者通いするハメになる。
  このごろやっと、しなくなったなあと思っていたら、
  ちょっと目をはなすと、これだ。

  親分、あんたいくつになったんだい?

  オイラに歳は訊かねえでくだせえ、アネさん。

  あんたねえ、アネさんって、もうあたいより歳上のはずなんだけど、ね。

  そんな~、そんなアホ言っちゃいけませんぜ、アネさん。
  オイラは歳とらねえのが、取り柄ですぜ。
  若い方がいいって、いつも言ってるじゃありやせんか。

  そんなこと言わないよ!
  ほら、はやく立て! シット、ステイ! ベイビー!
   (と、大声でどなっています) 

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