想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

悲しみを知るとき

2012-03-20 23:01:00 | Weblog
(まんさく、この花を見るとあの方を思い出すなあ、冬を
越えて咲く花です)

自分が正しいのか間違っているのかは別として、とにかく
わたしわたしわたし、と無意識に思っている幼稚な時代を
経て少しづつ、わたしわたしの恥ずかしさを知っていく。
そして「わたしのまちがい」にも気づく。
他人と同じように自分にも正しくないことがあることも
思い当たるようになって、わたしだけが正しいという思い
にちょっとずつ「そうかな、はたして」という疑問符も
つくようになる。

そうしたことを重ねながら成長していくのだが、
正しさを知ったまだ若い日に、とかく正しくないことが
目につくようになる。他人がボロを出す、他人のアラ、
それが見えてしまう。見えれば言いたくもなり正したく
もなる。自己主張に過ぎないとは気づかないから、相手
を正している気になって、いい気になって、悪いことに
立ち向かおうとする。

簡単には落ちない「悪いこと」に立ち向かって一生懸命に
なって、でも負けてしまうことだってある。
いや、たいていは負けるのだ。負けてしまっても自分の
正しさが傷つくわけではない。正しい正しいという思いは
よけいに強くなって、その分、悔しさも倍増していく。
憎しみは、悪に対してではなく、悪を行った人に対してで
ある。正しいのに憎しみも同時に抱え込んで養っていく。
そのこと自体も正しさの中にとりこんでいく。

生きるとはヨロコビと残酷が隣り合わせだ。
悪は悪のまま、悪を正すことなどできないことをいつか
思い知らされる日が訪れる。
悪がこの世から消えてしまうことなどないことを。
善があるように、悪は同じ分量でありつづけることを。
正しさを選んだ「わたし」がほんとうは悪なのか善なのか
きめかねる迷路に彷徨い込んでしまう。

目の前にたちはだかる悪を知るとき、それは失う悲しみにも似て
力いっぱい正しさを主張する無邪気さの喪失。
黙りこむ。正しくあることは秘め、黙って、静かに歩く。
もう「わたしわたしわたし、わたしは正しい」と叫ばない。

折り合いをつける要領を世間に学びながら、けれど良心を失わぬ
よう、魂を売らぬよう、悲しむほうを引き受けるのだ。
それが最低限の、人である条件だと思うからである。

黙ったまま、悪にまみれたくはないと、懸命に心砕く夜。
朝を迎えても足取りは重い、けれど陽射しの温かさにふと気づく時
ああ、生きていると「わたし」を愛おしむことができる。
恵まれて生きていると、笑うこともできる。




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聖と春

2012-03-20 13:30:15 | 
山では春近し、と言いながらのなかなか春は遠い。
でも一日づつ風は温もりを増していき、努力などしていないのに
一日づつ歩んでいる気にさせてくれて、ありがたい四季の春だ。

古井由吉の「聖」を読む。
ほんものの聖ではなく、行き倒れ寸前の乞食をヒジリ様として
囲う村人と青年の話。物語を読む楽しみがなくなるので筋は
書かずにおこう。昭和51('76)年という時代を感じながらも、
いつの時代にもどんな国でもありそうな、普遍的な人間の話で
いかにもありそうな事なのだが、ありえない話でもあって、
その実、こういうことはあるんだよなあ、という小説である。

帰り道、山の端に沈む夕日をスマホのカメラで慌てて撮った。
よく似たような景色を背景に「聖」は描かれていた。
わたしは山里からさらに奥地へ、ほんものの聖の場所へと
帰っていく。
(いえ、わたしゃ聖じゃなくてただのうさこなんだが縁あって
いさせてもらってるわけで‥ほほほ、帰り道は急ぎ足です)
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