北西へ伸びる道に沿って奥へつづく敷地の中を歩くと、
もっとも奥の小川のへりに、紅く染まった木がありました。
最後の一本、まだあったのね!
ということで持っていたケータイで即撮りました。(14日)
紅葉(もみじ)というのは楓のことだと思いますが、
書物によれば、楓は。
カエデ科の落葉高木約26種。
はっぱが手のひら状で、紅く染まる。
なかには裂け目のない葉や紅葉しない種類もある。
イロハモミジ、ヤマモミジなどあるが、実はモミジと名のつく楓は
少ない。○○カエデが主流。
用途は細工物や器具、火鉢(古木は空洞になるから)など。
蘊蓄はさておき、完全燃焼のこの赤い色、しばらくため息です。
枝の下のほうはまだ色づきの途中で、黄色から紅へのグラデーションが
陽を受けて波打っています。
寒暖の差と、日中の光と、そして秋の雨。穏やかな陽ざしが少なくなる
日に、それまでの厳しい日を乗り越えた完全燃焼の姿を見せます。
翌日には低気圧で強くなった風に、おおかたの葉が舞い散り、数日後には
すっかり寂びた茶色に変わっていくのです。
木の立つ姿は、見事です。
だらだらと生きていない。
カエデの古語は「かえるで」、蛙の手の意味。
もみじとは、元々は葉が変色することをさす動詞でした。
「もみつ、もみつる」など。
楓がいちばんきれいに紅く染まるので、しだいにもみじと言えば
紅葉と漢字をあて、楓の別名となったのは平安期くらいから。
そしてまた秋の象徴として定着したようですね。
「もみじと楓は違うよね」と言う声がたまにあるけれども‥‥。
万葉集ではもみじに黄葉の字をあてていたなどとは、学校でも
教えていないですからね、しかたない。
「もみつ、もみぢ」ではなくて「もみじ」と書いてしまうと
色づくことをさしていう古語の意味がわからなくなり、
さらに一番色のキレイな楓にもみじを代表させ紅葉(もみじ)と
宛てたのです。
もみじは、秋に木の葉が色づくことという本来の意味ではなくなり
木の名前だと思われるようになったのです。
そこで、カエデとモミジは別だと思いがちで、
「紅葉狩り」に行き、楓をみてモミジ~キレイ~と言ってます。
カエデもキレイ~、と脇から声があるかもしれませんが。
日本語はだいたい、こんなかんじでおおざっぱ~に変わってきたし、
変わりつつあるね。
渋谷センター街でしゃがんだりタムロったりしてる人の言葉が
いまいち通じなくても、まったくわかんなくてもしょうがない。
日本語とは風景を読む言語、近頃の省略されてる若者語では
なにを見ても、キレイ~とか、ヤバ、とか繰り返すだけで
すこぶる簡単な感嘆。味けないことです。
表現したいことをいい足りないと、身体で求めたりぶつけたり
して感じるしかなくなるのです。
寡黙に感じることに耐えられる人は、稀なのですね。
この山の黄色(もみち)の下の花を我れ
はつはつに見て なほ恋ひにけり
(万葉集巻七)
紅葉狩りにきて、そこにいた若い女性にひとめ惚れ、忘れがたくて歌に
したのか、その場で詠んだのか、それとも妄想中か‥アヤシい歌なり。
ヤバ、ヤバって、真っ赤な完全燃焼の前で繰り返し言う彼女(彼)にも
歌こころは、あると思います。