無能者と書いてならずものと読む。
夏目漱石の発案した当て字である。
三年前、文芸誌上で私小説作家廃業宣言なるを発表した
車谷長吉は、これを用いて先に自らを無能者と卑下してみせる。
文士、無能者の車谷氏は人の胸中の奥深い闇に潜む業を暴いてきた。
描かれた無能者は、むしろ地位も能もある人よりも
清々しい。
直木賞受賞作「赤目四十八瀧心中未遂」を映画で観た人は
わかりやすいし、原作を読めばさらに具合が悪くなるほど解って
しまうのではないだろうか。
さらさらと読み流すことはできない無能者の純潔がそこにある。
さてと、無能者でない紳士淑女の御方々は、ご承知おきのことですが
礼節、社会生活において最も必要で欠くべからざる事、
かつこれまた難しいことはない。
マナーとは違うからね。
なんとかの品格とかいうのを読んで
にわかに感化されても、それもまた違うだろうに。
無礼とそしられないように、
失礼しますと前置きをして、礼を欠く。
失礼しました、と言いながら頭を垂れる、何が礼かはさておいて。
そして感謝、人が生きるにおいて、これほど見えにくく
わかりにくいことはない。
ありがとうございます、と店員みたいに口癖になっている。
ありがたいのがナンなのか、いまさら考えなくなったのだろう。
とにかく言っておく、でなきゃ借りが借りのままになるらしい。
恩義を返したいというのならまだしも、
貸しならいいけど借りはいや。
ありがとうございます、は絶対的チャラの呪文のよう。
いっそ、ナンマイダナンマイダと言うほうがいいか。
口に出さなくとも思ってますからと言い、
感謝は物や言葉じゃないんだとシラを切りつづけて幾星霜。
それにしても会いづらいのは何とかしたい。
そういう葛藤は、感謝とどう関係あるのか思いも寄らない本末転倒。
礼と恩は果たして一つか?
受けた恩、それには礼で報いねばと、恩返しか。
恩義はないが、感謝するのが礼だと思っての礼節か。
カンタンにあまりにカンタンに
ありがたすぎる言葉の数々を、覚えなきゃよかったのである。
知らなければ使わないし、言葉はなくともこころは動く。
心は、はたらく。
心がはたらくから、人はあるいは言葉を探しもするのだ。
そうであれば言葉だけが先走り、言葉だけでスマしてしまうことも
なかっただろう。
いっそ忘れてしまいたい。
借りたことも受けた恩も。
なにもかも捨ててしまえば、悩まなくてもいい。
人の目が気になることもあるまいに。
無能者が独りそっと出直しを図ろうとしたからといって、
誰にも気づかれやしない。
空駆ける斑駒だけが観ている。
俗世の決めごとなど届かぬ、遥か遠いところから。