墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

この世

2006-04-23 21:33:26 | 駄目

 この世は、すでに存在している(存在していた)人間の利便にのみ都合良く出来ている。
 ようするに、この世の日常は最先端ではない。
 イケていないのは当然だ。
 この世は、あなたのお母さんやお父さんの、そのまたお母さんやお父さんに都合良いようにできている(つもり)。
 そもそも、この世は若者向けには本来できていない。若者なんて観賞用だ。

 この世は、過去からの連続の果てだ。
 過去の人々が望んだ社会がいまやっと実現されている。
 あなたが望む社会は、あなたが過去の人間と成り果てた末に実現するだろう。(かもしれない)

 この世にあなたの理想とする社会はない。
 だが、あなたの理想は未来には実現するかもしれない。
 望みをあきらめないかぎりきっとどこかで芽を出す。

 種をまいてもいきなり芽はでない。それと同じだ。


罪の重さ

2006-04-23 20:55:36 | 駄目
 深刻に考えて思った
 今年も確定申告をしていない。
 コレはフリーターな俺にとり、ほぼ「脱税」と変わりがないが、額は雀の涙だ。

 百円盗むのと、千円盗むのではどちらが罪が重いのか。どうやら千円らしい。盗む行為には変わりはないのに金額で罪の重さが決定される。
 また、スピード違反は1キロも100キロも、同じくスピード違反だ。これもスピード違反という行為自体には変わりはないのに、違反した速度で罪も違反金も変わる。

 盗む意思に、計画性を問題とするのなら、たしかに1円盗むより1000万盗む方が罪が重い。

 親の財布から、1円を抜き出してポケットに入れるのに準備はいらないが、1000万盗もうと考えると、準備も入れ物も逃走手段も必要となる。

 だけどさ、合法的に稼ぎだすにも準備は必要だ。
 1円稼ぎたいだけなら、地面だけ見て一日ほっつき歩いていれば、必ず拾えるはずだ。
 だが、1000万を稼ごうと思えば、当然に準備が必要となる。他人の助けも必要となるかもしれない。

 人は、だまって持っていかれると納得がいかないと感じる。
 だけど、ことわりつつそれなりの理由さえあれば、全財産から布団まで持って行かれても人は納得する。

 法律なんか人の感情の寄せ集めにすぎない。
 多くの人にとって気に入らない事を法律は罰するのだ。

 1キロのスピード違反も、1円の脱税も、100キロのスピード違反や、1000万の脱税と同じ罪であるはずなのに、量によって罪の重さが変わる。
 これは感情そのものだ。
 法律は感情で、年収200万足らずの俺は脱税しても、とりあえず罰せられない。


兼好御坊2

2006-04-23 20:09:06 | 駄目
 『兼好御坊』とはなんであろうか?
 なんだろう?
 もちろん「兼好御坊」と言ったって、野菜のゴボウとは無関係だ。泥も土もついていないし、ましてや「健康 ゴボウ」なんかではぜんぜんないから食べても健康にはならない。
 ゴボウでないなら、それではなにか?

 「兼好御坊」の「兼好」は、『徒然草』の作者である兼好の事。
 「兼好御坊」の「御」はおまえやごはんの「御」。相手を「御前様」とうやまって持ち上げている気持ちが「御」だ。
 「兼好御坊」の「坊」は、坊主の「坊」。
(ところで、本来の意味では「坊」は坊主の住む「住居」そのものをあらわす言葉であった。
 坊の主だから「坊主」なのだ。
 例えば、受付のカウンターに座っている中年の女性は「受付のおばちゃん」で、学食横の売店で販売のパートをしている中年の女性は「売店のおばちゃん」だ。
 「坊」じたいは、「なんとかアパート」とか「なんとかビル」などの、アパートとかビルに等しい言葉なんだけど、建物の名前で、その建物にいる人をあらわし示すのは、日本古来からの日本語の特徴だ。
 基本的な特徴は、現代語と変わらないけど、建物の名前なんか今と昔じゃ全く変わっているし、今にはない役割をはたす建造物も多い、そのへんがなんとなく古典を分かりにくくしてしまっているけど、古典も基本は日本語で、というか基本的には今の人間も昔の人も同じシステムの言語で会話し思考している。すなわち古典なんか、バージョンが違う同じ OS みたいなものだ。日本語がわかるなら古典なんか素直にスラスラ読めるはずで、スラスラ読めないならあなたの日本語能力が低いだけだろう)


兼好御坊はゴボウじゃない

2006-04-23 12:01:39 | 駄目
 シャレが、駄洒落がね、なんとなく好き。
 なんとなくね、ちょびっとだけだよ。
 シャレが全面肯定的に超大好きという程ではない。その証拠に、他人の下らない駄洒落は大嫌いで、むしろうざい。でも、自分が言うシャレは、多少つまんなくても OK なのだから、人間というか、俺はずいぶんと身勝手な生き物だ。

 そんなで、今回は『兼好御坊(けんこう ごぼう)』の話を書くワケなんだが、この話を書くにあたっての一番の注意事項は、つまんないシャレを書かないぞという事だ。
 ついつい気をゆるすと、つまんないシャレを書きたくなる。これは、俺だけではなくすべての日本人の民族的な特性というものだろう。
 例えば、「兼好御坊」と聞くと、つい
「兼好御坊と言っても、野菜のゴボウじゃないからね。ましてや『健康ゴボウ』なんかじゃないから」
 とか、書きたくなる。
 だが、とゆーよーな事を今回は絶対に書かないぞというのが、今回の注意事項なのである。もしかしたら、手をすべらせて書いてしまうかもしれないが、俺の本来の目的は『徒然草』の読解である。駄洒落を書きたくて、こんな事をやっているわけではない。主題に集中せよ。「兼好御坊」と聞いて、脳髄反射的に駄洒落を書くな。それが、今回の目標である。


ラブ・ロマンス

2006-04-23 10:14:35 | 駄目
 高校生の若い男女のラブ・ロマンス。

 男の子は、親からも世間からも「抑圧」されていた。
 男という性は危険すぎるからだ。成長した男は、なにをしでかすかわからない凶暴性と、素手で人を殺せる力を同時に持つ。
 男の子を、男にしてはならない。危険すぎるし、社会に適合できなくなる。
 親も世間も、彼に教育という抑圧を与えた。男ではなく、良い父、良い会社員、良い学生になるようにと。男という性は常に抑圧を受け、男の子自身も、自分の男を隠匿するようになった。

 女子は、親からも世間からも「矯正」されていた。
 女という性は、危険ではない。むしろ、子供を産み育てる為には、必要な性である。
 女の子は、女にならねばならない。だが、女の性を自由に扱いすぎると、子を捨てる母になりかねない。ある程度は良い母になるために矯正が必要だ。それは、男の子の抑圧にくらべれば、せいぜい矯正で、女の子は女としてのびやかに育った。

 彼と彼女は出会った。

 男の子は、自由に女として生きる女の子に惹かれた。自分も、彼女みたいに解放されてみたいと望んだ。彼は、自分が解放される事をずっと望んでいたのだ。
 彼女といれば、抑圧された自分の中のなにかを解放出来るかもしれない。

 彼と彼女はなんべんか話した。

 女の子の心には「彼氏」という言葉も浮かんだが、男の子の心の中には自分しかなかった。彼にとり、彼女は自分を引き上げてくれる存在でしかなかった。彼女の女の部分に触れて行く事によって、男の子の男も解放されはじめた。

 やがて女の子は、男の子の中に潜む男を見つけて、怖いと感じる。男という性が持つ凶暴さに気づいて身震いした。

 だから、彼女はもう会いたくないと言った。

 この時すでに、男の子の中の男は解放されかけていた。恐ろしい凶暴性、暴力そのものの男として。
 抑圧が強すぎた故の反発か、はたまた彼の中の男があまりに凶暴すぎたのか。男の子の中の男は暴走する。
 自分の意にかなわぬ女の子を憎いと思った。言う事を聞かないなら殺してやると瞬間的に思った。

 そして、彼は彼女を殺した。

 彼は、彼女の亡骸をその場に残して逃げ去った。
 どこまで逃げられるのだろう?