海産物系と、感情系は、英語より日本語のほうが、しっくりくるよ。
「好きな人の事」ならなんでも知りたい。
これこそが愛である。すなわち欲望だ。
ところで、オタクの方々も「好きな事」の全てを知りたいと欲望する。鉄道オタクの方々や、昆虫マニアの方々が、「キハ」とか「ミヤマ」とか一般人には意味不明な事を口走るのも「愛」ゆえである。
愛という言葉は、中国から仏教用語として輸入された言葉である。日本には本来、「愛」という概念はなかった。
Love は 愛と、とりあえず日本語に訳されているが、キリスト教の言う Love と、仏教で言う 愛 は、本来まったく違う物だ。
仏教の語る「愛」は、愛欲である。愛は欲望なのだ、愛する物に執着することなのである。あんまり良い意味じゃない。
キリスト教の語る Love は、献身である。己の身を捨ててまで尽くす事が Love なのである。キリストは、我が身を十字架に張り付けらてまでして、他人に尽くせと語った。それが素晴らしいと思ったからであろう。
神の愛を、素直に日本語にするなら慈悲で、人から神への愛は献身である。人から人への愛は、恋とか親心だったりする。子が、親を愛するのは親しみだ。Love はそういう懐の深い言葉だ。
もし、もっと Love を日本語にしたいなら、「死ぬほど好き」なんであろう。
ところで、英語でタコは「デビル・フイッシュ」なのだ。
ヒトデは、スター・フイッシュだし、イカだってフイッシュ扱いだ。水の中にいる生き物はなんでも「おさかな」なのかよとつっこみたくならないか?もっと魚を食って賢くなろうぜ。DHCをもっと採ろうよと勧めたくはならないか?
そもそも、ファイヤーマンが、消防士なのが、まったく納得いかない。なんで火男が火消しなんだ。火男はひょっとこだろ。
だが、実はこんな事は、感受性や生活習慣の違いにすぎない。あんまり魚を食わなきゃ、イカもタコもサンマもメザシも、単なる海産物だ。
でも、毎日のように海産物を食べる感受性は、お魚とイカは違うだろと言いたくなる。
これこそが愛である。すなわち欲望だ。
ところで、オタクの方々も「好きな事」の全てを知りたいと欲望する。鉄道オタクの方々や、昆虫マニアの方々が、「キハ」とか「ミヤマ」とか一般人には意味不明な事を口走るのも「愛」ゆえである。
愛という言葉は、中国から仏教用語として輸入された言葉である。日本には本来、「愛」という概念はなかった。
Love は 愛と、とりあえず日本語に訳されているが、キリスト教の言う Love と、仏教で言う 愛 は、本来まったく違う物だ。
仏教の語る「愛」は、愛欲である。愛は欲望なのだ、愛する物に執着することなのである。あんまり良い意味じゃない。
キリスト教の語る Love は、献身である。己の身を捨ててまで尽くす事が Love なのである。キリストは、我が身を十字架に張り付けらてまでして、他人に尽くせと語った。それが素晴らしいと思ったからであろう。
神の愛を、素直に日本語にするなら慈悲で、人から神への愛は献身である。人から人への愛は、恋とか親心だったりする。子が、親を愛するのは親しみだ。Love はそういう懐の深い言葉だ。
もし、もっと Love を日本語にしたいなら、「死ぬほど好き」なんであろう。
ところで、英語でタコは「デビル・フイッシュ」なのだ。
ヒトデは、スター・フイッシュだし、イカだってフイッシュ扱いだ。水の中にいる生き物はなんでも「おさかな」なのかよとつっこみたくならないか?もっと魚を食って賢くなろうぜ。DHCをもっと採ろうよと勧めたくはならないか?
そもそも、ファイヤーマンが、消防士なのが、まったく納得いかない。なんで火男が火消しなんだ。火男はひょっとこだろ。
だが、実はこんな事は、感受性や生活習慣の違いにすぎない。あんまり魚を食わなきゃ、イカもタコもサンマもメザシも、単なる海産物だ。
でも、毎日のように海産物を食べる感受性は、お魚とイカは違うだろと言いたくなる。
一瞬である今の連続が生きるという事なら、死は今を感受できない状態にあるという事か。死は、夢もみないで寝ている状態に近いのかもしれない。今という時間の流れの断絶が死なのだろう。今朝、起きたらそんな事を考えてしまった。今まで死については具体的に考えずに、ただ死ぬのはいやだと嫌悪してきた。なのに、今朝起きたら突然に、死は夢もみないで寝ているのと同じ、ただ、もう起きないだけと感じてしまった。
今朝はくもり。
今朝はくもり。