墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

未来の奥様へ

2006-04-04 20:39:17 | 駄目
 俺が嫌いな食い物は、生のタマネギ。
 生のタマネギだけは煮ても焼いても食えるが、生は絶対無理。火を通せ!

 その次に嫌いな食い物は、生きてる食い物。
 おどり食いはまず無理、ましてや殺したて、まだ死にきっていなくて、動き回りつつ生暖かいイカのゲソに醤油たらして食うなんて俺には無理。ピクピク動く刺身なんか怖くて手がでない。食卓には完全に死にきったモノをあげろとマジで思う。

 貝も以外に怖い。
 サザエのむき身なんかグロテスクすぎてどうしようかと思う。

 三番目に嫌いのなのは、むくのに手間がかかる食い物。
 カニは嫌いだ、旨いけどむくのがメンドクサイ。むいてくれたら喜んで食う。
 果物もむくのが面倒だから嫌い。むいてさえくれれば何でも喜んで食う。

 四番目に嫌いなのは、鯉の佃煮。
 佃煮じたい旨い物じゃないが、鯉だか鮒だかの佃煮は別格で不味い。ドブ臭くて食えたものじゃない。

 五番目は、クリスマスケーキの上のサンタ。


すまん

2006-04-04 20:12:18 | 駄目
 何度も同じ文章を読ませてすまん。
 ところで、すまんの「す」はスマタの「す」。
 すまんの「ま」はマンコの「ま」。
 すまんの「ん」はウンコの「ん」。

 まとめると、スマタでマンコでウンコだ。
 気持ちがこもっていない。
 臭いのみがたちこめる。
 俺は、死んでも心の底から「すまん」と言わないぞ。
 いや、言えなかった。
 ごめんなさい。


吉田 兼好

2006-04-04 19:30:23 | 新訳 徒然草

 「卜部兼好(うらべ かねよし)」って誰だろうか?

 卜部兼好は、『徒然草』の作者である「吉田兼好(よしだ けんこう)」の本名である。

 兼好は、「卜部(うらべ)」という一族の出身だ。
 卜部氏の歴史は古く、古代より朝廷に仕えて、「卜占」という占いによって吉凶の判断をしてきた。朝廷のために占いを行う「神祇官」という官職が、卜部一族の任務だったのだ。
 平安時代には、京都の「吉田神社」に配属され、神社の社務を勤めつつ朝廷で神祇もつかさどったりした。

 吉田神社は、今でも京都大学のとなりにある由緒正しい立派な神社だ。
 この吉田神社を建てさせたのは、平安時代の貴族で、藤原山蔭(ふじわら の やまかげ)卿という人。ちなみに、この人は四条流包丁式の創始者で、現代では料理の神様として祭られている。 
 藤原山蔭は平安京の守護を願い、貞観元年(859年)奈良の春日大社の分社として京都に吉田神社を勧請した。
 また吉田神社は、平安京に住む藤原氏の氏神でもあった。
 藤原氏という有力な貴族の氏神であり、春日大社の分社という由緒もある。出来た当時から「力」と「格式」のある神社だった。

 ところで、兼好が死んだ後の室町時代。
 卜部家に「吉田兼煕(よしだ かねひろ)」という人があらわれた。この人は「卜部」という名字を「吉田」に改名してしまった。
 なんで改名したのかと言えば、室町幕府による「幕府 移転計画」のアオリである。
 アニメ『一休さん』の「将軍様」として、あるいは「金閣寺」の建設で有名な足利義満は、室町幕府の三代目将軍である。
 将軍 足利義満は、京都の「室町」に幕府を移す事にした。
 ちょうど、吉田兼煕の自宅も、その「室町」にあった。新勢力である幕府ともめるのは面倒だと思ったのか、あるいは新政権に恩を売っておこうと考えたのか、吉田兼煕はすんなりと室町の自宅を幕府に寄進した。

 ところで、吉田兼煕は、幕府に自宅の土地を譲り渡した時に、なんという名字を名乗っていたのだろうか。

 「室町」と名のっていたらしい。
 室町に住んでいたから、「室町」と名のった。

 「卜部」はどこにいったのよと言われれば、「卜部」は正式な名字で、わざわざ知らない人にまで、一族の由縁を示す本名を名乗る必要はない。正式な権威(朝廷)の前でなら、正式な名字を名のるが、ご近所の関係ない人にまで正式な名字を名のる必要はなかったのだ。
 だから、俺は「室町の兼煕」だよで、すませていた。

 でも、もう室町にゃ住んじゃいない。
 メンドクサイんで、吉田神社の神祇官だから、今日から俺は『吉田の兼煕』だということにしたらしい。
 「卜部」から、ダイレクトに「吉田」にしたわけじゃないのだ。
 だが、吉田兼煕は、それまでの卜部家の身分の枠を超えて、朝廷で正三位まで出世した人物である。彼の改名以来、吉田神社の社務職をつとめる家の家名は「卜部」から「吉田」と変更された。

 吉田神社の吉田さん。
 分かりやすくて良い。

 だが、兼好の生きていた時代には、まだ「吉田」という名字は「よ」の字も存在していなかった。
 あくまで「卜部」、それ以外に、兼好に名乗る名字はなかった。

 話が変わるが、現代人は読む本が山ほどあるので、わざわざ選んでまで『徒然草』なんて読もうとは思わない。
 だが江戸時代は、今に比べれば読む本が少なかった。そのためもあって江戸時代に『徒然草』は大変よく読まれた。『徒然草』のパロディ本までホンマで出版されたぐらいだ。

 兼好を「吉田兼好」呼ばわりしだしたのは、どうやら江戸時代の人らしい。
 江戸の人々はお人好しでべらんべぇーで、やや考えが足りなく見える。

「吉田神社の吉田さんちの兼好という野郎が大昔に書いたのが『徒然草』だっていうじゃねぇかぃ。べらぼぉぅめぃ!」

 みたいなかんじで、兼好はいつの間にか「吉田兼好」になっちゃった。

 また話が変わるが、あなたは、あなたのお母さんに「人の身になって考えなさい!」と教育を受けただろうか?

 俺は受けた。

 では、すでに故人だが、兼好の身になって考えてみよう。

 とりあえず、コレを読んでいるあなたの名前が分からないので「キムラ ミノル」という名前だと仮定してみよう。
 あなたは、キムラ ミノルで生涯をつらぬき通した。キムラ ミノル以外の本名はない。周囲の誰もが、あなたは「キムラ・ミノル」だと認知していた。
 そんなキムラ ミノルは、こっそり「マイ日記」を書き連ねていた。その日記を晩年にまとめて編集して、だれか読みたいなら読めばいいじゃんというスタンスでほっぽらかして、やがて死んだ。

 ところが、その「マイ日記」が100年後に大ブーム。
 猫もしゃくしも、ミミズだってオケラだってアメンボだって、こぞってキムラ ミノルの「マイ日記」の編集版を読みあさる。
 その時に問題となるのが、コレはダレが書いたの? という事である。

 なにしろ100年もたっているので、キムラ・ミノルの素性が良く分からなくなっている。
 ところが、キムラ・ミノルの一族は、キムラ・ミノルの死んだ後に、都合によって「キムラ」から「ウチヤマ」に改名していた。
 あー、「ウチヤマ」さんちのご先祖の「ミノル」って奴がコレを書いたんだな、じゃあコレを書いたのは「ウチヤマ ミノル」だと、勝手に100年後の人たちは判断して、あなたのことを「ウチヤマ ミノル」と呼び出す。
 すでに死んでるとはいえ、キムラ ミノルのはずなのに「ウチヤマ呼ばわり」はどうだろうか?
 もう、死んでるから関係ないかな?
 でも、草葉の陰から、なんで俺がウチヤマなんだよと突っ込みたくはならないだろうか。

 そんなワケで、俺は兼好のことを「吉田兼好」と呼ぶ事にためらいがある。


火曜の朝

2006-04-04 05:59:09 | 携帯から

今朝は晴れて雲ひとつない、昨日の強い風に雲はみんなどこかへ吹き飛ばされてしまったようだ。今はほとんど風もなく穏やかな朝。

しかし、昨日の風はひどかった。ドアと2階の窓から砂ぼこりが侵入して、店の床はすっかり茶色になった。後で空を見上げたら、北東全域の空が砂塵で赤っぽく染まっていた。