ところで、「卜部兼好(うらべ・かねよし)」って人をご存知であろうか?
『徒然草』の作者「吉田兼好(よしだ・けんこう)」の本名である。
兼好は、「卜部氏」という一族の出身だ。
卜部氏の歴史は古く、古代より朝廷に仕えて卜占による吉凶判断をしてきた。平安時代に京都「吉田神社」に配属され、社務を勤め神祇をつかさどった。
神や天皇に仕え、朝廷のために占いを行う。それが「神祇官」である卜部氏の仕事だ。
兼好は、そんな卜部氏の一族である。
吉田神社は、今でも京都大学のとなりにあって由緒ある立派な神社だ。
この吉田神社を建てさせたのは、平安時代の貴族、藤原山蔭(ふじわら の やまかげ)卿という人。ちなみにこの人は四条流包丁式の創始者で、現代では料理の神様として祭られている。
吉田神社は、平安京の守護を願い、859年に藤原山蔭が春日大社の分社として勧請した。また、吉田神社は藤原氏の氏神でもあった。
藤原氏という有力な貴族が氏神であり、春日大社の分社という由緒もある。力も格式もある神社だったのである。
さて、卜部氏であるが、兼好が死んだ後の室町時代に「吉田兼煕(よしだ・かねひろ)」という人があらわれて「卜部」を「吉田」に改名した。
吉田兼煕は、それまでの卜部家の身分の枠を超えて従三位まで出世した大人物で、その改名以来、吉田神社の社務職をつとめる家は「吉田」となったのである。
吉田神社の吉田さん。
分かりやすくて良い。
だが、兼好の生きていた時代には「吉田」は「よ」の字も存在していなかった。あくまで「卜部」、それ以外に名乗る名字もなかった。
話が変わるが、現代人は読む本が山ほどあるので、わざわざ選んでまで『徒然草』を読もうとはなかなか思わない。
だが、江戸時代は現在と比べれば読む本が少なかった。そのためもあって江戸時代には『徒然草』は大変に良く読まれた。『徒然草』のパロディ本までホンマで出版されたぐらいだ。
兼好を「吉田兼好」呼ばわりしだしたのは、どうやら江戸時代の人らしい。
江戸の人々はお人好しでべらんべぇーで、やや考えが足りなく見える。
吉田神社の吉田さんちの兼好という野郎が大昔に書いたのが『徒然草』っていう本だって言うじゃねぇかぃ。べらぼぉぅめぃ!
みたいなかんじで、兼好はいっつの間にか「吉田兼好」になっちゃった。
また話が変わるが、あなたは、あなたのお母さんに「人の身になって考えなさい!」と教育を受けただろうか?
俺は受けた。
では、すでに故人だが、兼好の身になって考えてみよう。
とりあえず、あなたの名前が分からないので「キムラ・ミノル」という名前だと仮定してみよう。
あなたは、キムラ・ミノルで生涯をつらぬき通した。キムラ・ミノル以外の本名はない。周囲の誰もが「キムラ・ミノル」を認知していた。
ただ、出家したもんで「稔坊主(ねんぼうず)」なんて自称した事もあったが、でも、やはり自分は「キムラ・ミノル」である。
それ以外はありえない。
そんなキムラ・ミノルは、こっそり「マイ日記」をつれづれと書き連ねていた。
その日記を晩年にまとめて編集して、だれか読みたいなら読めばいいじゃんというスタンスでほっぽり出して、やがて死んだ。
ところが、その日記が100年後に大ブーム。
猫もしゃくしもミミズだってオケラだって、こぞってキムラ・ミノルの「マイ日記」編集版を読みあさる。
その時に問題となるのが、コレはダレが書いたんだ? という事である。
なにしろ100年もたっているので、キムラ・ミノルの素性が良く分からない。
ところが、キムラ・ミノルの一族は、キムラ・ミノルの死んだ後に、都合により「キムラ」から「ウチヤマ」に改名していた。
あー。
「ウチヤマ」さんちのご先祖の「ミノル」って奴がコレを書いたんだなと、世間は判断してあなたのことを「ウチヤマ・ミノル」と呼び出す。
すでに死んでるとはいえ、キムラ・ミノなのにウチヤマ呼ばわりはどうだろう?
なんで俺がウチヤマだよと突っ込みたくはならないだろうか?
そんなで、俺は兼好のことを「吉田兼好」と呼ぶ事にためらいがある。