墨汁日記

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出家

2006-04-02 21:46:35 | 駄目

 かって、この世に存在していた「卜部兼好」という青年は、下らない望みを捨てて生きる事を望んだ。
 何故なら、兼好が生きた現世があまりにクソくだらなかったからだろう。クソくだらない世の中にあわせて「望み」を抱いても、その「望み」じたいがクソだ。下らない世間に対して「望み」を抱く事じたいが、とてもクソ下らない。

 下らない世の中とはぜひとも絶縁したい。
 その、具体的な対処方法は「出家」である。

 出家は、今も昔も、自分の価値判断を宗教におまかせして、あとはお願いしますという「思考停止」の荒技だ。だからこそ、「南無阿弥陀仏(ブッダにおまかせします)」と平気で唱えられるのだが、兼好は違った。
 ブッダなんか信じきっちゃいないし、信じられない。

 それは、兼好の素地が、「神道」であったという事とも多少は関係しているのだろうが、そもそもの兼好の無駄に理屈っぽい性格が、信じきる強さを否定してしまうのだろう。

 でもだ。

 仏教しか「卜部兼好」の逃げ道はなかった。
 「死」は、兼好にとって救いではない。
 死後の世界なんか信じられないからだ。
 「魂」なんてものじたいを兼好は信じていなかった。
 見えない世界を語る連中がとてつもない馬鹿に見えたからだ。
 「望み」以外に望む物はない。
 「望み」消える時が「死」だ。

 兼好は迷いに迷ったあげくに、出家を選んだ。


徒然草 第六段 わが身

2006-04-02 19:38:24 | 駄目

 わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。
 前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな、族絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるは、わろき事なり」とぞ、世継ぎの翁の物語には言へる。聖徳太子の、観墓をかねて築かせ給ひける時も、「ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。

<口語訳>

 わが身が並々なからぬにも、まして、数ならずにも、子というものなくてありかな。
 前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな、一族絶える事を願いなされた。染殿大臣も、「子孫おられぬの良く御座いますぞ。末のおくれなさるのは、悪い事だ」と、世継ぎの翁の物語には言ってるぞ。聖徳太子が、観墓をかねて築かせなされる時も、「ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせずと思うのだ」と御座いましたとか。

<意訳>

 高貴なお方も、まして頭数にもならない方々も、子供なんかなくてありかも。
 前中書王に九条太政大臣、花園左大臣まで、みんな、一族が絶える事を願われていた。

 染殿大臣も、『世継ぎの翁の物語』で言っている。

「子孫は、いないのが良く御座いますぞ。末代が劣りますのは悪い事です」

 聖徳太子が、かねてより御墓を築かせた時も、こんなご様子だったとか。

「ここを切れ。そこも断て。子孫おらぬと思うのだ!」

<感想>

 前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、どれも兼好にとってはわりと身近な政治家だ。その「身近さ」をランク表示するなら、一昔前の田中角栄とか三木武夫クラス、せいぜい頑張って吉田茂クラスである。染殿大臣でやっと伊藤博文クラスか。
 ようするに、兼好法師は権威で塗り固めてでも、子供なんていらないと言い切りたかったらしい。
 そして、聖徳太子。
 聖徳太子は兼好の生きた時代においても、すでに歴史上のヒーローだったはず。ちなみに俺の歴史上のヒーローは織田信長。なかには大石内蔵助とか坂本龍馬とかいう人もいるだろう。
 歴史上のヒーローの名前を出してまで、兼好法師は子孫なんかいらないと言い切りたかったのだ。やや病気で、あたまおかしいよね。

 なんで、兼好は唐突に子供なんかいらないなど言い出したのだろう?

 もちろん兼好が「人類粛正」を願っていたとは思えないが、生殖行為、人間が生まれて増えていく事には、やや嫌悪を感じていたのではないだろうか。

 兼好の嫌悪という、やや暗黒でダークサイドな面に光をあててみよう。

 さて、兼好法師は第1段で、下級貴族の出世とか、坊主の出世なんてものをなにより嫌っていた。ちなみに兼好の親父は中流貴族。そして、兄弟の一人は坊主で大僧正まで出世した。もう一人は父と同じく中流貴族。
 第1段は、家族への嫌悪をあらわにしたものなのかもしれない。
 第2段は、かって仕えていたはずの天皇への嫌悪。
 第3段は、性欲への嫌悪と、かすかな讃歌。
 第4段は、仏への讃歌、また仏の教えへを理解しようとしない者への嫌悪。
 第5段は、安易に出家する者への嫌悪と戒め。
 第6段は、生殖への嫌悪。

 兼好は、なにもかも嫌いなのかもしれない。
 どうやら、自分自身、家族をも含めて、こんなもの全てなくなっちまえ! と思っていたのではないだろうか。
 でも、人間なんて普通に生きてりゃこんなもんだ。
 自分の望みが満たされない恵まれない環境の奴はみんなそう思う。

 「自分は何もかも嫌っている!」

 10代でこの事に気づければ、天才だ。
 20代で気づく奴は、まだみこみある。
 30代でやっと気づけりゃ、並の人間だ。

 兼好法師は、出家を思い立ち、やっと自分が、自分自身や家族まで含めて世界中すべてのなにもかもを嫌悪していた事に気がついた。そしてなんでと思う。
 答えなんかない。
 ありっこない。
 生きている事こそすばらしく尊いのだと教えられ、そう思って生きてきた。
 でも、そんなに生きるって素晴らしい事なの?

 生まれた以上はつきまとう「望み」がキーワードで『徒然草』は展開する。
 そして何を望み、何を手に入れようとも、いずれ「死」ぬ。

 「死」と「望み」が『徒然草』の主題で、つれづれていながら、その主題は最後まで変わりはない。 


吉田兼好

2006-04-02 09:58:41 | 駄目

 ところで、「卜部兼好(うらべ・かねよし)」って人をご存知であろうか?
 『徒然草』の作者「吉田兼好(よしだ・けんこう)」の本名である。

 兼好は、「卜部氏」という一族の出身だ。

 卜部氏の歴史は古く、古代より朝廷に仕えて卜占による吉凶判断をしてきた。平安時代に京都「吉田神社」に配属され、社務を勤め神祇をつかさどった。
 神や天皇に仕え、朝廷のために占いを行う。それが「神祇官」である卜部氏の仕事だ。
 兼好は、そんな卜部氏の一族である。

 吉田神社は、今でも京都大学のとなりにあって由緒ある立派な神社だ。
 この吉田神社を建てさせたのは、平安時代の貴族、藤原山蔭(ふじわら の やまかげ)卿という人。ちなみにこの人は四条流包丁式の創始者で、現代では料理の神様として祭られている。 
 吉田神社は、平安京の守護を願い、859年に藤原山蔭が春日大社の分社として勧請した。また、吉田神社は藤原氏の氏神でもあった。
 藤原氏という有力な貴族が氏神であり、春日大社の分社という由緒もある。力も格式もある神社だったのである。

 さて、卜部氏であるが、兼好が死んだ後の室町時代に「吉田兼煕(よしだ・かねひろ)」という人があらわれて「卜部」を「吉田」に改名した。
 吉田兼煕は、それまでの卜部家の身分の枠を超えて従三位まで出世した大人物で、その改名以来、吉田神社の社務職をつとめる家は「吉田」となったのである。
 吉田神社の吉田さん。
 分かりやすくて良い。

 だが、兼好の生きていた時代には「吉田」は「よ」の字も存在していなかった。あくまで「卜部」、それ以外に名乗る名字もなかった。

 話が変わるが、現代人は読む本が山ほどあるので、わざわざ選んでまで『徒然草』を読もうとはなかなか思わない。
 だが、江戸時代は現在と比べれば読む本が少なかった。そのためもあって江戸時代には『徒然草』は大変に良く読まれた。『徒然草』のパロディ本までホンマで出版されたぐらいだ。

 兼好を「吉田兼好」呼ばわりしだしたのは、どうやら江戸時代の人らしい。
 江戸の人々はお人好しでべらんべぇーで、やや考えが足りなく見える。

 吉田神社の吉田さんちの兼好という野郎が大昔に書いたのが『徒然草』っていう本だって言うじゃねぇかぃ。べらぼぉぅめぃ!
 みたいなかんじで、兼好はいっつの間にか「吉田兼好」になっちゃった。

 また話が変わるが、あなたは、あなたのお母さんに「人の身になって考えなさい!」と教育を受けただろうか?
 俺は受けた。
 
 では、すでに故人だが、兼好の身になって考えてみよう。

 とりあえず、あなたの名前が分からないので「キムラ・ミノル」という名前だと仮定してみよう。
 あなたは、キムラ・ミノルで生涯をつらぬき通した。キムラ・ミノル以外の本名はない。周囲の誰もが「キムラ・ミノル」を認知していた。
 ただ、出家したもんで「稔坊主(ねんぼうず)」なんて自称した事もあったが、でも、やはり自分は「キムラ・ミノル」である。
 それ以外はありえない。

 そんなキムラ・ミノルは、こっそり「マイ日記」をつれづれと書き連ねていた。
 その日記を晩年にまとめて編集して、だれか読みたいなら読めばいいじゃんというスタンスでほっぽり出して、やがて死んだ。

 ところが、その日記が100年後に大ブーム。
 猫もしゃくしもミミズだってオケラだって、こぞってキムラ・ミノルの「マイ日記」編集版を読みあさる。
 その時に問題となるのが、コレはダレが書いたんだ? という事である。

 なにしろ100年もたっているので、キムラ・ミノルの素性が良く分からない。
 ところが、キムラ・ミノルの一族は、キムラ・ミノルの死んだ後に、都合により「キムラ」から「ウチヤマ」に改名していた。

 あー。
 「ウチヤマ」さんちのご先祖の「ミノル」って奴がコレを書いたんだなと、世間は判断してあなたのことを「ウチヤマ・ミノル」と呼び出す。

 すでに死んでるとはいえ、キムラ・ミノなのにウチヤマ呼ばわりはどうだろう?

 なんで俺がウチヤマだよと突っ込みたくはならないだろうか?

 そんなで、俺は兼好のことを「吉田兼好」と呼ぶ事にためらいがある。