墨汁日記

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兼好法師

2006-04-07 19:47:20 | 新訳 徒然草
「金もいらなきゃ、女もいらぬぅ~。
 私ゃ もすこし背が欲しい~」

 と歌うは「玉川カルテット」の二葉しげるである。
 持って生まれた変えようのないものや、育ちきっちまった我が身でさえ、変えられるものなら変えたいと望む。それが人間だ。
 だが、二葉しげるはプロなので、受けを狙って、ギャラが欲しくて、こんなことを歌っているのだ。客に受ける為なら、あと3センチぐらい背がちぢんだって二葉しげるにとっちゃ本望だろう。二葉しげるの真の望みは「観客から受ける事」なのである。

 このように、人間として生まれるとよけいな望みがたえない。

 あなたは、なにを望むのか?
 望みのない人間なんか生きられないぞ!
 
 スタンダードな望みには、3種類ある。
 ひとつは、生理的欲望。
 ふたつは、習慣的欲望。
 みっつは、社会的欲望。

 これ以外にも、もちろん歪んだりねじけたりしている望みは多数存在しているが、今日はスタンダードで標準的な望みについて語ろう。

 お腹がグルルとなっていけない差し込みが内蔵を襲う。
 駄目だ、今すぐに大便をタレたい!今すぐにだ!
 というのは、極めて生理的で個人的な望みであり、たとえ無人島のひとり暮らしであろうと人間であるかぎり避けて通れない「本能的」な望みだ。
 一人きりだろうと、生きてるかぎりは、おなかもすくしねむくもなる。食欲とか睡眠とか排泄なんて事は、生きているかぎりは避けられない。
 とゆーか生理的な欲求を無視して、避けて通っていたら死んでしまう。
 生きるということは、生命の自転車操業で、欲望を無視してペダルをこぐ足をとめたなら、すぐにパタンと死んでしまう。
 個人的な生理的欲望は、個人の生命を維持して故人にならない為の「生命維持装置」の役割すら果たす。死にたくないなら、なくしちゃならない欲望だ。これが、ひとつめの「生理的欲望」である。

 ふたつめの「習慣的欲望」とは、中毒とか依存症、ジャンキーの事である。
 タバコを吸わない人は、タバコなんかまったく必要ない。
 酒を飲まない人も、また酒を必要としない。
 摂取しなくても命に別状ない物をクセになって欲しがるのが「習慣的欲望」である。

 みっつめの「対人的欲望」であるが、世の中には、対人関係から生まれる望みは多い。自分一人なら、けっして思いつきもしなかったような事も、他人がいることによって望んでしまう。
 例えば、あなた一人きりなら、身長なんて関係ない。
 他に比べるものがないなら、あなたの身長が標準となる。
 標準ってことは、それで当然だって事だ。届かない物は届かないですむ。高い所の物を取りたいなら、棒を使うなり、台に乗るなりすればいいのだ。工夫ですむ問題で、工夫が思いつかないのなら、あきらめりゃいいだけだ。手の届かない高い木になっているブドウは酸っぱいのである。
 だが、そこに、あなたより身長が10センチほど高い人があらわれて、あなたには届かないブドウを軽々と収穫して行ったならどう思うだろうか?
 背が高くなりたいとは思わないだろうか?
 あなたより恵まれている人間と同等、あるいはそれ以上になりたいと思うのが、「対人的欲望」である。これは他人が存在しなければ生まれない望みだ。

 兼好は、このみっつめの「対人的欲望」をなくしてしまいたいと望んだ。
 なぜなら、兼好が生きた時代の、兼好が生きた社会が、兼好にはクソに思えたからだ。
 クソが標準の世界で、クソにあわせて、それなり、又はそれ以上を望んでも、大便の壁は絶対に超えられない。
 兼好は、大便の壁を越えたいと望んだ。
 俺は大便なんかじゃないと身をもって示したかった。だからこそ、出家した。

 オンリー・ワンと Smap は歌うけれど、アレはそういう意味だ。
 標準を、他人や世界に求めるかぎりは、あなたはジュッパヒトカラゲである。
 恵まれた坊や達に、あなたはあなたでたったひとつと言われて嬉しいのか? 癒されるのか?
 あなたは、あなたの所属する社会から逃げ出して一人きりなら王様だ。アレはそういう歌で、じつは兼好もソレを望んでいた、だからこそ出家した。


金曜の朝

2006-04-07 05:56:15 | 携帯から
今朝はくもり、風もなく少し暖かい。通勤の人達の中には、薄着の春らしい格好の人が見られるようになったが、まだこの時期の早朝は油断すると寒い。冷たい風なんか吹くと凍えるほどに寒い、おかげで俺は今だに真冬の装備で通勤している。だが、さすがにこれだと帰りは暑いので、帰る時はジャンバーの下に着込んできた服をリュックに詰め込んで帰る。荷物が重い、早く暖かくならないかな。